南北史演義第十六回 永安宮で魏主が殺され、含章殿で宋帝が弑される (永安宮魏主被戕 含章殿宋帝遇弒)
崔浩の獄
- 崔浩は魏主拓跋燾の勅により史官として国史を編纂し、事実をありのまま記した。閔湛・郗標の勧めに乗って石碑に刻んで公示したため、北魏皇室の善悪を包み隠さず示す形となり、讒言を招いて投獄される。
- 太子晃は師である中書侍郎高允を救おうとするが、高允は自分も編纂に深く関わったと正直に答え、かえって魏主の怒りを和らげる結果となった。魏主は高允の誠実さを評価して罪を免じ、崔浩とその一族・僚属百二十八人を誅殺する詔を高允に書かせようとしたが、高允は筆を執らず「浩の罪は死に値しない」と諫めた。最終的に崔浩とその一族のみが処刑され、他の連座者は妻子を除いて本人のみの処刑にとどまった。
- 後に太子晃は宦官宗愛と不仲になり、宗愛の讒言で東宮の官属が多数処刑される事件が起き、晃はそれを苦にして病没する。魏主は後に晃の無実を知って悲しみ、景穆太子と追諡し、その子濬を寵愛した。
宗愛の弑逆と皇孫濬の即位
- 罪を悟られることを恐れた宗愛は、酒に酔って寝ていた魏主燾を弑逆する。群臣は事後に発見して騒然となる。
- 後継をめぐり群臣の意見が割れる中、宗愛は独断で南安王余を擁立し、対立候補と目されたトウ平王翰や、擁立に反対した尚書らを謀殺して南安王を即位させる。
- 南安王余の下で宗愛は大司馬大将軍太師などの要職を独占し専横を極めるが、余が牽制を加え始めると、宗愛は再び余を暗殺する。
- 羽林郎中劉尼・尚書源賀・陸麗らが密かに結束し、皇孫濬(わずか十三歳)を迎え入れて即位させ、宗愛・賈周らを捕らえて誅殺し夷三族とする。濬は景穆太子晃を皇帝と追尊し、乳母常氏を皇太后に立て、功臣らを封じて国事を安定させた。
宋の巫蠱事件
- 宋では太子劭と始興王濬が、女巫厳道育の妖術を信じ、巫蠱の術で宋主義隆を呪詛する秘密工作を行っていた。東陽公主の侍女王鸚鵡が絡んだ痴情のもつれから侍従陳天与が殺害され、それを知った陳慶国が密告し、事件が露見する。
- 宋主は劭・濬の書簡や含章殿前に埋められた呪いの玉人を証拠として摑むが、女巫厳道育は逃亡して見つからず、王鸚鵡のみが投獄される。宋主は激怒しつつも実子への情から処罰を見送った。
宋主義隆の弑逆
- 翌年、厳道育が始興王濬のもとに匿われていたことが発覚し、宋主は激怒して太子劭・濬を厳しく追及する構えを見せる。追い詰められた劭は側近と共謀し、偽の詔書で東宮の兵を動かして深夜に宮中へ乱入させる。
- 太子劭配下の張超之らは含章殿で徐湛之と密談中の宋主を襲い、宋主義隆は斬殺される(享年四十七)。(詩:讒言と閨閫の乱れが禍の始まりであったと嘆く)
- 徐湛之が逃げようとするところで回は終わる。
評語
同じ一年のうちに北朝も南朝も君主が弑逆されたことを著者は嘆く。北魏では宗愛が二君を弑してなお朝臣の多くが討伐に動かず、無名の劉尼・陸麗らがようやく事を成した点を皮肉り、宋では実子による弑逆という前代未聞の事態を、宋主が優柔不断であったための当然の帰結と評する。江湛・徐湛之ら執政の大臣も私心から事態を悪化させ、自らも命を落としたことを、私を公に転じられなかった報いとして総括している。