南北史演義第十回 逃将軍が師を棄て虜の計にはまり、亡国の後に酒を勧め人の奴となる (逃將軍棄師中虜計 亡國後侑酒作人奴)

魏の夏都占領後

魏主燾は統萬城の壮麗さを見て「小国がこれほど民を疲弊させて滅びるのも道理」と嘆じ、財物を将士に分け与え、常山王素に守らせて自らは平城へ帰還する。夏の后妃・公主らは掖庭に入れられ、赫連勃勃の娘たちは魏主の後宮に召され、そのうち一人はのちに皇后に立てられる。

夏の残党討伐と赫連昌の捕縛

奚斤はなお夏の残党討伐を続けるが、疫病と糧秣不足で苦戦、夏主昌の反撃を受けて邱堆が敗れるなど苦境が続く。監軍侍御史安頡は奚斤の消極策を批判し、独断で伏兵を用いて夏主昌を捕虜とすることに成功する。魏主燾は昌を厚遇し妹を娶らせるが、群臣は異心を警戒した。

一方、赫連定(昌の弟)は平涼で自立し、伏兵で奚斤・娥清・劉拔らを捕らえる戦果を上げる。魏は柔然(大檀)の侵攻にも対処し、大檀を撃退して衰弱死させ、子の吳提は魏に和を請うた。

宋の北伐失敗

宋文帝は元嘉七年、到彦之・王仲德らに五万の兵を与えて河南奪回を図る。魏は崔浩の進言に従い一旦戦わずに黄河以北へ撤退、宋軍は滑台・洛陽・虎牢を無血で占領するが、王仲德は「魏の計略にはまっている」と警告した。案の定、冬になり魏は大挙南下、洛陽・虎牢は次々に陥落。到彦之は狼狽して船を焼き歩いて敗走、竺霊秀も敗走し、青兗の地は震撼した。長沙王義欣は彭城を死守する決意を示し、蕭承之は済南で空城の計により魏軍を退けた。

檀道濟が救援に向かうが、糧道を断たれ撤退を余儀なくされる中、追撃する魏軍を「唱籌量沙」(砂を米に見せかける計)と悠然たる態度で欺き、全軍を無事に引き上げさせた。滑台の朱修之は力戦の末に落城し捕虜となるが、のちに魏でも重んじられる。到彦之・王仲德・竺霊秀は敗戦の責を問われ処罰された。

赫連氏・西秦・夏の滅亡

赫連定はなおも西方経略を試み、西秦(乞伏氏)の暮末を降して虐殺するなど残虐を極めるが、吐谷渾の慕璝に急襲されて捕らえられ、魏に送られて処刑された。夏は三代二十六年で滅亡(詩:夏国滅亡の無常を詠む)。赫連昌も後に魏に叛いて西走し一族もろとも誅滅された。吐谷渾の阿豺が臨終に子らへ「一本の矢は折れるが束ねれば折れぬ」と諭す逸話(十九本の矢の教え)も語られる。

評語

宋文帝は檀道濟を用いず凡庸な将に北伐を任せて失敗を招いた。魏軍が一旦退いたのは誘いの計であったのに、宋の諸将はこれを見抜けなかった。檀道濟の唱籌量沙は退却の奇策として名高いが、退くことはできても攻め破ることはできず、中原はついに異民族の手に落ちたままとなった。赫連兄弟が捕虜となり、あるいは妾となり奴となったのは、父勃勃の残虐の報いと言うべきである。