南北史演義第十一回 氐帥を破り要郡を収め還し、司空を殺し自ら長城を壊す (破氐帥收還要郡 殺司空自壞長城)
仇池氐族の興亡と楊難当の背信
- 隴右の要害・仇池は氐族楊氏が代々拠っており、楊盛の死後は子の玄、さらに弟の難当が継いだ。難当は兄の遺児保宗を廃して自立し、都督・大将軍・武都王を称する。
- 保宗の妻姚氏が「幼君を立てるな」と難当を焚きつけたことが廃立の発端となった。
- 難当は赫連氏滅亡に乗じて上邽を取り、さらに漢中への侵攻の機をうかがう。
蕭承之らの漢中回復
- 梁州刺史甄法護の失政に乗じ楊難当が梁州を急襲、法護は逃走する。宋は蕭思話を刺史に任じ、司馬蕭承之(後の斉太祖の父)らを派遣。
- 蕭承之・蕭坦・裴方明らは黄金山・鉄城を破り、漢津の激戦でも氐兵を撃破。楊難当の子楊和の軍勢を焼き払い、漢中一帯を奪還する。
- 難当は宋に謝罪し、宋は蕭思話に漢中鎮守を命じる一方、甄法護は下獄の上自尽させられた。
北魏の文治と南北修好の動き
- 魏主拓跋燾は崔浩を司徒、長孫道生を司空に任じ、盧玄・崔綽ら名士を登用して律令を改定、登聞鼓を設けるなど文治に努める。
- 魏は宋へ和親を求めて使者を送るが、双方とも確答を避けつつも十余年の南北和好が保たれた。
隠逸の士たち
- 宋主義隆も人材登用を試みるが、権門の専横のため賢者は出仕を渋る。戴顒・宗炳・周続之ら隠士は召しに応じず、なかでも陶淵明(潜)は「五斗米のために腰を折らず」と辞官し、田園に隠棲したまま没した。
劉湛と殷景仁の暗闘
- 彭城王義康が実権を握るなか、劉湛は義康に取り入り、殷景仁を排除しようと画策。景仁は宋主の信任篤く、劉湛の讒言は効かない。
- 劉湛は刺客を放って景仁暗殺を謀るが露見し失敗。景仁は身の危険を避け宮中近くへ移る。
謝霊運の刑死
- 謝霊運は才を恃んで驕り、会稽太守孟顗との軋轢や地方官としての奔放な振る舞いから告発を重ねられる。抗命の詩を残したことも仇となり、ついに広州で処刑された。(詩:韓の滅亡に子房が奮起した故事を借りて忠義を訴えるもの)
檀道済の粛清
- 劉湛は「宋主重病の折、最も憂うべきは檀道済」と義康に説き、偽って入朝させて誅殺を謀る。道済の妻は凶事を予感し諫めるが、道済は応召する。
- 宋主の病がいったん癒えたのちも義康・劉湛は虚偽の詔をもって道済を捕らえ、「万里の長城を自ら壊すのか」の言葉を残して道済とその子ら、参軍薛彤らことごとく誅殺された。魏はこれを聞き「道済死せば呉人恐るるに足らず」と喜んだ。(詩:功臣を讒によって葬った顛末を悼む)
評語
蕭承之の活躍は後の蕭氏簒奪の萌芽として特筆される。劉湛は殷景仁との権力争いの末に義康を巻き込み自滅の道を歩んだ。謝霊運は才を恃んで人に凌がれ禍を招いたが、その罪は誅に値するほどではなかったと評する。檀道済の粛清は無実の功臣を讒言で葬った最たるもので、陶淵明が隠棲を貫いた生き方の方がかえって優れていたと結ぶ。