南北史演義第七回 故主を弑し冤魂が命を索め、良将を喪い胡騎が横行する (弒故主冤魂索命 喪良將胡騎橫行)

宋の開国と論功行賞

宋主劉裕は父母を追尊し、亡弟道規を臨川王とし(義慶を嗣とする)、弟道憐を長沙王とした。長子義符を皇太子、次子義真を廬陵王、三子義隆を宜都王、四子義康を彭城王に封じ、徐羨之・謝晦・檀道濟らを要職に据えた。晋の旧臣の子孫は爵位を降格しつつも祭祀を存続させ、周辺諸国の君主にも将軍号を授け、内外はひとまず落ち着いた。

西涼の滅亡

西涼公李歆は北涼の沮渠蒙遜と敵対し、計略にかかって敗死、弟の李恂も敦煌で自刎して西涼は滅んだ。子の李重耳は北魏に亡命し、その五代後の子孫が唐の高祖李淵になるという後日談が挿入される。

晋恭帝(零陵王)の弑殺

劉裕は年老いて子が幼いことを憂え、晋の遺臣が旧主を担ぎ出す禍根を断とうと零陵王(晋恭帝)の毒殺を図る。命じられた張偉は「主君を弑してまで生きるは末代までの悪名」として自ら毒酒を飲んで死んだ。裕はなお諦めず、褚妃の兄弟褚秀之・褚淡之を使って零陵王の子を害し、永初二年秋、ついに兵士を送り込んで零陵王を布団で窒息死させた。褚淡之は事情を知りつつ喪を取り仕切り、宋朝は驚悼を装って厚く葬った。

劉裕の死

裕は徐羨之・傅亮・謝晦を重用し治世に努めたが、永初三年に病臥。回復後、謝晦の勧めで太子義符の遊興ぶりを危惧し、次男の廬陵王義真を後継候補として調べさせるが「才弁はあるが徳量に欠く」との評で外し、義真は鎮守へ出される。裕は病が重篤化する中で幻覚に悩まされ、太子に「檀道濟は武略あるも大志なし、徐羨之・傅亮は信頼できるが、謝晦は変を起こしうるので警戒せよ」と遺言し、徐羨之・傅亮・謝晦に後事を託して崩じた(在位二年余、六十七歳)。

劉裕の人物評

裕は倹約を旨とし奢侈を戒めた逸話が多く語られる一方、晋の二帝を弑した点で「名教の罪人」とも評される。太子義符が即位し、蕭太后・張太后らを尊び、傅亮・徐羨之・謝晦が輔政するが、義符は喪中も遊興にふけり諫言を聞かなかった。

宋魏の開戦(北魏側の来歴)

北魏の始祖拓跋珪から太宗拓跋嗣に至る経緯が語られる。魏は劉裕の死に乗じて南侵を決意、崔浩の諫めを退けて奚斤らに滑台・洛陽・虎牢方面への侵攻を命じる。晋の遺臣司馬楚之も魏に降り先導役となった。

河南争奪戦

宋の毛徳祖は虎牢を死守し、滑台・金墉・洛陽は次々に魏軍の手に落ちる。滑台の陽瓚は奮戦の末に戦死、東陽城の竺夔・桓苗は工夫を凝らして防戦し、暑さと疫病で魏軍が撤退するなど一進一退が続いた。毛徳祖は反間の計で魏将公孫表を失脚・誅殺に追い込むなど智勇を発揮するが、虎牢は二百日に及ぶ包囲でついに陥落し、徳祖自身は捕らえられて捕虜のまま没した(詩:忠節を尽くしながら援軍が来ず落城した無念を詠む)。

評語

子を教え導くべき父が、かえって旧主を弑して禍根を絶とうとするのは道理に反する。劉裕は年老い子が幼いことを理由に零陵王を弑したが、その子義符も愚かで教導されず弑逆を重ねる。悪因は必ず悪果を生む。北魏が喪に乗じて宋を侵したのも、元をたどれば劉裕自身が姚秦の喪に乗じた報いというべきで、司・兗・豫の三州を失い毛徳祖ら忠臣が殉じたのは深く嘆くべきことである。