南北史演義第六回 秦の地を失い世子が逃げ帰り、晋の祚を移し宋武帝が簒位する (失秦土劉世子逃歸 移晉祚宋武帝篡位)

劉穆之の死と関中経営の危うさ

司馬休之・魯宗之・韓延之ら後秦に亡命していた者たちは、秦が晋に滅ぼされると北魏に流れて仕えた。劉裕はこれを捕らえられず断念する。晋朝は瑯琊王司馬徳文らを洛陽の五陵に詣でさせ、劉裕には相国・宋公の位と九錫の礼を授けようとしたが、裕は一旦辞退し、さらに王への進爵も辞退の姿勢を見せた。裕は西北平定をなお志していたが、腹心の劉穆之が急死したとの報に激しく動揺する。穆之は裕の留守を一手に支え、九錫の話が自分を通さず進められたことを恥じて病を得て世を去ったという。

裕は関中の守りに次男・劉義真(わずか十三歳)を安西将軍として残し、王修・王鎮惡・沈田子・毛徳祖・傅弘之らに補佐させ、自らは東へ帰還した。関中の父老は裕の帰還を涙ながらに引き止めたが、裕は義真らに後を託して去った。

関中の内紛と王鎮惡の非業の死

沈田子は以前より王鎮惡の武功を妬み、裕に讒言していたが容れられなかった。折しも夏(赫連勃勃)が秦滅亡・裕東帰の隙をついて関中侵攻を開始し、田子・傅弘之は敗退して退いた。王鎮惡は救援に赴くが、田子は鎮惡が南人皆殺しを企て関中を私するとの流言を放ち、密談と偽って鎮惡を誘い出し、配下に殺害させた。田子はさらに劉裕の命と偽って「鎮惡誅殺」を触れ回ったが、王修はこれを見破り田子を捕らえて斬った。その後、毛修之らが夏軍を退けている。

劉義真の逃亡と関中喪失

裕は王鎮惡の死を悼み追贈するが、まもなく関中で大乱の急報が届く。義真は若く近臣を寵愛して財を乱費し、王修が抑制したため恨みを買い、側近は「王修も謀反の徒」と讒言。義真はついに王修を殺させてしまい、人心は動揺、夏軍が乗じて侵攻、長安周辺は次々と夏の手に落ちた。裕は蒯恩を派遣して義真を呼び戻させ、朱齢石を新たな雍州刺史として関中に向かわせる。

義真は財宝・美女を大量に運ばせながら緩慢に東帰し、夏の追撃を受けて傅弘之・蒯恩は捕らえられて殺され、毛修之も捕虜となった。義真自身は草むらに隠れ九死に一生を得て、参軍段宏に救われて脱出した。朱齢石・朱超石兄弟も捕らえられて殺され、傅弘之は屈服を拒んで凍死させられた。赫連勃勃は長安を制圧し関中を領有する。

劉裕は義真の無事を知り出兵を思いとどまり、以後は関中奪回よりも自らの帝位への道を進める。相国・宋公の栄爵を正式に受け、九錫の礼も受領し、世子義符ほか一族・重臣に要職を配して晋朝と並び立つほどの体制を整えた(孔靖のみ辞退)。

晋朝簒奪への布石

裕は讖文に「昌明の後なお二帝あり」とあることを気にかけ、晋の命運がなお一代残ると見て、中書侍郎王韶之に密命を与え宮中工作を進めさせた。瑯琊王司馬徳文は安帝の身を案じ厳重に警戒していたが、安帝が病で外邸に移った隙に、王韶之の指図で内侍が安帝を絞殺した。

晋の滅亡と宋の建国

韶之らは安帝暴崩と偽って遺詔を発し、司馬徳文(晋恭帝)を即位させた。恭帝は形だけの帝位にとどまり、劉裕は宋王に進封され十郡を加増、冕旒・天子の旌旗・金根車など帝者の礼を受けるまでになった。

禅譲の完成

裕は六十五歳になり、篡位を急ぐが自ら言い出しかね、宴席で「爵位を返上し故郷へ帰りたい」とほのめかす。群臣は真意を測りかねたが、傅亮だけがその意を悟り、都に戻って禅譲工作を主導した。傅亮は詔草を用意し恭帝に迫り、恭帝は「桓玄の乱以来、劉裕に助けられ延命した晋の命運、禅位もまた甘んじて受ける」として自ら禅譲の詔を書いた。璽綬は謝澹・劉宣範を通じて劉裕に送られ、裕は形だけ辞譲した後、南郊で天地を祭って即位、晋恭帝を零陵王に降格して秣陵に移した(詩:亡国の主が秣陵の地に葬られる無常を詠む)。

評語

劉裕が幼い子らを各地の鎮守に配したのは、一族分封と将吏牽制の二つの狙いによるが、幼子では守土の任に堪えず、関中を得てすぐ失う結果を招いた。晋に対しては初め謙譲を装い、後に簒弒を実行するというその狡猾さは曹操・司馬懿父子にも勝るとも劣らない。晋がこのように国を得て、このように国を失うのは天道の応報というべきである。