明史紀事本末甲申の変(甲申之變)

崇禎十七年(1644年)正月から三月までのわずか三か月で明が滅びた経緯を扱う。李自成が西安で順を建てて東進すると、大学士の李建泰が出師するが家郷の破れを聞いて畿内を逡巡し、山西では蔡懋徳・周遇吉らの死守もむなしく太原・寧武・大同が次々に陥ちた。宣府・居庸では守将や太監が迎え降り、朝廷では南遷の議も光時亨らに阻まれて決せず、助餉も集まらなかった。三月、外城・内城が太監曹化淳らの手で開かれ、崇禎帝は皇后・公主を処して万歳山で自ら縊れ、李自成が皇極殿に登った。

年表(5件)

懐宗崇禎十七年(1644年)春正月(凶兆と李建泰の出師)

  • 朔、大風が霾った。占に「風が乾から起これば暴兵・城破を主る」と言う。鳳陽が地震した。
  • 李自成が西安で王と称し、国号を僭して「順」と言い、元を「永昌」と改めた。賊は河東を掠め、河津・稷山・栄河・絳州の一路はともに陥ちた。自成は偽の牒を兵部に送って戦いを約し、三月十日に至ると言った。兵部が牒を持つ者を執えると、京師の人で涿州から還るとき旅籠で客が十金を与えて代わりに投じさせたのだった。詐りとして斬った。
  • 上は寇を憂え、朝に臨んで嘆いて「卿らは憂いを分かちえぬのか」と言った。大学士の李建泰が進んで言った。「主の憂いかくのごとくして、臣は敢えて力を竭くさぬわけにまいりません。臣は晋の人で、かなり寇中の事を知っております。臣は家財で軍を佐けたい。数か月の糧に資しえます。臣は兵を提げて西行することを請います」。また「進士の石嶐が単騎で陝に走ることを願っております。北は甘粛・寧夏の兵に連なり、外は羌部に連なり、忠勇を召し募り、義餉を輸すよう勧め、寇を勦めて功を立てる。否なるも内に西河を守って延安の吭を扼し、賊に東に渡らせぬようにできましょう」と言った。上は悦んで「卿がもし行くなら、朕はまさに古に倣って轂を推そう」と言った。上は石嶐を用いようとしたが、李建泰は「臣が西行するのを俟って酌んで用いましょう」と言った。
  • 癸丑の夜、星が月中に入った。占に「星が月中に入れば国破れ君亡ぶ」と言う。
  • 乙卯、上が大学士の李建泰に出師するよう命じ、将を遣わす礼を行った。駙馬都尉の万煒に特牲で太廟に告げるよう命じ、上は軒に臨んで廷で李建泰に節・剣を授けた。法駕を備え、蹕を警めて正陽門に御し、宴を賜って餞した。五府の掌印、侯伯、内閣、六部、都察院の掌印官および京営の総協に侍坐を命じ、鴻臚が礼を賛け、御史が儀を糾し、大漢将軍が侍衛し、宴を設けて楽を作した。上は親しく巵酒を賜って「先生の去るのは朕が親しく行くがごとし」と言った。李建泰は頓首して起ち行き、上は目送すること良や久しくして駕を返した。
  • この日、大風が沙を揚げた。占に「師を行るに利あらず」と言う。李建泰は肩輿に御して数武ならずして杆が折れ、識者はこれを憂えた。
  • 進士の凌駉に職方司主事を授けて輔臣に随わせ軍を監させた。李政修の罪を赦して輔臣の軍前に随わせて効用させた。郭中杰を副総兵として督輔中軍の旗鼓に充てた。西洋人の湯若望が随行して火攻・水利を修めた。
  • 進士の程源がひそかに監軍の凌駉に「この行、道を兼ねて太原に抵り三晋を収拾すればなお済いうる。もし三晋が失守すれば為すこと能わぬ」と言った。李建泰は都を出て、道に山西の烽火が甚だ急で家がまさに破れると聞き、そこで行を遅らせて日に三十里。師が涿州に次すると営兵で逃げ帰る者三千人。行いて広宗に至ると紳衿が城を守って納れず、攻めること三日で破り、郷紳の王佐を殺し、知県の張弘基を笞った。この日、ただちに兵を移して城を出た。
  • 初め李建泰は上の寵命を承け、家財が軍需を佐けうるのを恃んだ。すでに家の破れたのを聞いて進退に措を失い、畿内を逡巡するのみとなった。

二月(山西の全面崩壊)

  • 朔、上が平旦に朝を視ると、たちまち偽の封を得た。啓くとその詞は甚だ悖り、末に「三月望日を限って順天の会同館に至ろう。暫くこれを繳する」と言っていた。一時、相顧みて色を失い、朝が罷んでついに再び問わなかった。
  • 李自成が蒲州および汾州を陥れ、懐慶は守られなかった。福王は出奔して太妃と相い失い、そこで衛輝に至って潞王に依った。
  • 自成が太原に至った。太原には守るべき重兵なく、山西巡撫の蔡懋徳が牙下の驍将の牛勇・朱孔訓を遣わして出て戦わせた。朱孔訓は砲に傷つき、牛勇は陣に陥って死に、一軍はみな歿して、城中は気を奪われた。
  • 賊が檄を遠近に移して言った。「君は甚だしく暗いのではないが、孤立して煬蔽が恒に多く、臣はことごとく私を行い、党を比べて公忠は絶えて少ない。甚だしきは賄が宮府に通じて朝廷の威福は日ごとに移り、利は戚紳に入って閭左の脂膏はことごとく竭きた」。また「公侯はみな肉を食む紈袴でありながら腹心と倚られ、宦官はみな糠を齕む犬豚でありながらその耳目を借りられる。獄囚は纍々として士に報礼の心なく、征斂は重々として民に偕に亡ばんとの恨みがある」。人はこれを読んで多く腕を扼した。
  • 蔡懋徳は事の必ず支えられぬのを知って遺表を写し、監紀の賈士璋に間道から京師に奏させた。中軍の盛応時はこれを見て退き帰り、先にその妻子を殺して将に死んで敵すると誓った。初八日、風沙が大いに起こり、賊は風に乗じて夜に城に登った。蔡懋徳・盛応時は馬に策って敵に赴いて死に、趙布政・毛副使および府県の各官四十六員がみな死んだ。賊は城に屍とした。
  • 李自成が黎城に至り、他の将が臨晋を陥れた。

罪己の詔

  • 上が罪己の詔を下して言った。「朕が鴻緒を嗣ぎ守って十七年、深く上帝の陟降の威、祖宗の付託の重きを念じ、宵旦に兢み惕れて敢えて怠り荒むことはなかった。ところが災害はしきりに仍り、流氛は日ごとに熾んで、累世の豢養を忘れて廿載の凶残を肆にする。赦せばいよいよ驕り、撫すれば輒ち叛き、甚だしきはその煽惑を受けて頓に敵愾を忘れる者がある。
  • 朕は民の父母たりながら卵翼しえず、民は朕の赤子たりながら懐き保ちえず、坐して秦・豫を丘墟に、江・楚を腥穢にさせた。罪が朕の躬でなければ、誰がその責を任じよう。民を鋒鏑に罹らせ水火を蹈ませ、殣を壑に量り骸を積んで丘と成させたのは、みな朕の過ちである。民に芻を輸し粟を輓かせ、居ては送り行いては齎させ、賦を加えて藝なき征を多くし、予め徴して貸を称る苦しみを与えたのも、また朕の過ちである。民の室を懸磬のごとくし田をついに汙萊とし、烟火を望んでも門なく、冷風に号んで命を絶たせたのも、また朕の過ちである。民に日月凶を告げ旱潦しきりに至り、師旅の処るところ疫癘が殃いを為し、上は天地の和を干し下は室家の怨みを叢めさせたのも、また朕の過ちである。
  • 大臣に任じて法らず、小臣を用いて廉ならず、言官は首鼠して議は清からず、武将は驕懦にして功は奏せられぬに至っては、みな朕の撫馭が道を失い誠感がまだ孚せぬに由る。中夜に思うて跼蹐して地なし。
  • 朕は今より痛く創艾を加え、深く夙愆を省みる。要は人才を惜しんで元気を培い、旧制を守って煩囂を息め、忍びざるの政を行って人心を収め、額外の科を蠲めて民力を養うにある。罪廃の諸臣で公忠正直・廉潔幹才でなお用いるに堪える者は、文武を拘らず吏部・兵部が確かに核べて推し用いよ。草沢の豪傑の士で一郡一邑を恢復する者があれば分けて官を世襲させ、功は疆を開くに等しくせよ。陥没・脅従の流でも逆を舎てて正に反り、衆を率いて来り帰しうる者は罪を赦して功を立てることを許す。よく闖・献を擒にし斬りうる者にはなお通侯の賞を予えよう。
  • ああ、君に忠に国を愛するのは人に同じ心があり、恥を雪ぎ凶を除くのに誰か公憤なからん。なお祖宗の厚沢を懐い、底定の大功を助け成し、その愆を克つことを思え。歴く朕の意を告げる」。
  • 詔が下ったとき、賊の前鋒はすでに大安駅に至っており、京師の城守が議された。
  • 賊が忻州に至ると官民は迎え降り、そこで代州を攻めた。五台の官吏は迎え降ったが、総兵の周遇吉は代州を守り、奇を出して奮い撃ち、連戦すること十余日で賊一万余を殺した。賊が諸路の賊を合わせて進み攻めると、周遇吉は兵が少なく食が尽きて退いて寧武関を守った。
  • 賊が懐慶を陥れ、固関に抵り、道を分けて真定・保定に趨った。督輔の李建泰の兵は東光を過ぎたが士を戢めず、民が城を閉じて拒み守った。李建泰は怒って留まって攻めること三日で破った。
  • 上はここに至って初めて山西の全陥を聞き、諸王を跡ね訪ねるよう命じた。内官監を遣わして各鎮を制させた。太監の高起潜に寧遠・前屯鎮を、盧惟寧に天津・通徳・臨津を、方正化に真定・保定を、杜勲に宣府を、王夢弼に順徳・彰徳を、閻思印に大名・広平を、牛文柄に衛輝・懐慶を、楊茂林に大同を、李宗允に薊鎮中協を、張沢民に西協を監させた。兵部は各処の物力が継がぬのに事権が紛れ拏がって、かえって督撫に口実を藉させると言ったが、上は聴かなかった。
  • 真定の兵が叛いて賊に降った。知府の丘茂華は儆を聞いて先に家人を城外に遣わし、総督の徐標が丘茂華を執えて獄に下した。徐標の麾下の中軍が徐標の城に登って昼に守禦するのを伺い、徐標を城外に劫めて殺し、丘茂華を出した。丘茂華はそこで属県に檄して叛いて寇を待った。賊の数騎が城に入って帑籍を収めた。京に近い三百里は寂然として言う者がなかった。
  • 魏藻徳を礼部尚書・文淵閣大学士に進め、河道・屯練を総督させて天津に往かせ、方岳貢を戸部尚書兼兵部尚書・文淵閣大学士に進め、漕運・屯練を総督させて済寧に往かせた。魏藻徳は新銜を辞し、許された。「各官を出させてはなりません。出ればただちにひそかに遁れましょう」と言う者があり、そこでやめて魏藻徳らは遣わされなかった。
  • 詔して天下の兵を徴して勤王させ、府部の大臣にそれぞれ戦守の事宜を条陳させた。上は文華殿で候った。都察院左都御史の李邦華、少詹事の項煜、右庶子の李明睿がそれぞれ南遷および東宮に南京を監撫させることを言った。上は驟かに覧て怒ること甚だしく「諸臣が平日に言うところは何であったか。いま国家がここに至って、一人の忠臣義士も朝廷のために憂いを分かたず、謀るところはかくのごとくか。そもそも国君は社稷に死ぬ。これ古今の正である。朕の志はすでに定まった。再び多く言うな」と言った。
  • 吏科都給事中の呉麟徴が山海関外の寧遠・前屯の二城を棄て、呉三桂を徙して関に入れ近郊に屯宿させて京師を衛ることを請うたが、廷臣はみな地を棄てるのは策でないとして敢えてその議を主らなかった。
  • 前総督陝西の余応桂が奏した。「賊衆は百万と号します。天子が全力を注がねばなりません。天下の鎮将、河南の左良玉、関東の呉三桂ならびに高傑・唐通・周遇吉・黄得功・曹友義・馬科・張天禄・馬岱・劉沢清・土国宝・劉良佐・葛汝芝および副将の丘磊・恵登相・王光恩・孔希賢・金守亮らを合わせて調えて軍前に赴かせ、真定・保定の間で師を会し、督撫のほかに一人の督師を加え、史可法・王永吉のごとき人物に尚方を賜い、公侯の賞を懸けて鼓励すれば、ほぼ賊は滅ぼしえましょう」。
  • 大学士の陳演が休むことを乞い、許して金幣を賜った。初め上が秦の寇を憂えたとき陳演は慮るに足らずと言っていたが、ここに至って自ら安んじられずして去ることを求めたのである。

寧武関の死守

  • 寇が寧武関に薄り、檄を伝えて「五日で下らねば且つ屠る」と言った。総兵の周遇吉は力をことごとくして拒み守り、大砲で賊一万余人を撃った。たまたま火薬が尽き、「賊の勢いは重い。款すべきだ」と言う者があった。周遇吉は「戦うこと三日、賊を殺すことまさに万。若輩、何と怯なことか。よく勝てば一軍はことごとく忠義となる。万一支えられねば我を縛って献ぜよ。若輩は恙なくありえよう」と言った。
  • そこで門を開いて奮い撃ち、賊数千人を殺した。賊は懼れて退こうとしたが、賊のために策する者があって「我は衆く彼は寡ない。ただ主客を分別して十をもって一を撃てば勝たぬことはない。帽を去って識とすることを請う。帽を戴く者を見れば撃つ。逓いに出て戦えば二日ならずして殲しうる」と言った。賊は兵を引いて再び進み、迭いに戦って帽を脱いで自ら別ったので、我が兵は大敗した。周遇吉は室を闔じて自ら焚き、短刀を揮って力闘したが流矢を被り、牙兵もまさに尽きた。執えられて賊を罵り、賊は市で磔にした。そこで寧武を屠り、嬰穉も遺さなかった。
  • 李自成はすでに周遇吉を殺すと嘆じて「守将をことごとく周将軍のごとくさせたら、吾はどうしてここに至りえたろう」と言った。
  • 寇が大同を犯した。兵民はみな降ろうとし、城守を命じたが応じなかった。総兵の朱三楽は自ら刎ね、巡撫の衛景瑗、督理糧儲の戸部郎中の徐有声・朱家仕がともに死んだ。文学の李若葵は闔家九人が自ら縊れ、先に「一門完節」と題した。李自成は大同に入って六日、代府の宗室を殺すことほぼ尽くした。偽将の張天琳を留めて守らせたが、張天琳の殺僇は凶暴で、両月を閲して陽和の軍民が鎮城の軍民と約して内応し、張天琳を殺した。

二月己丑〜二月末(京師の防備と朝廷の混迷)

  • 二月己丑、部・院・厰・衛・司捕の各官に姦宄を譏察させ、保甲を申べ厳しくし、巷に邏卒を設け、夜行を禁じ、倉庫・草場を巡視させた。魏藻徳が自ら京を出て餉を議することを請うたが許されなかった。
  • 兵部尚書の張国維、庶吉士の史可程、進士の朱長治・陳川、諸生の張鑻を中左門に召した。張鑻が三策を言い、まず太子に監国させることを請い、次に耆臣を択んで輔けさせることを請うた。
  • 宣府が急を告げ、鎮朔将軍の王承胤に寇の向かうところを偵るよう命じた。
  • 庚寅、文武大臣・科道を中極殿に召して今日の方略を問うた。奏対した者はほぼ三十余人。門を守る員が乏しく、当今の急は科道を考選するに如くはないと言う者があったが、余りはみな練兵・加餉の習い聞いたことばかりだった。
  • この日、内監に九門を分け守らせ、出入りを稽べさせた。京城の武備は積み弛み、禁兵はみな南征しており、太倉は久しく罄きていた。ここに至って襄城伯の李国楨に提督城守を命じ、西直門を守らせた。各門は勲臣一人を卿、二人を亜とした。文武の各官に輸助するよう諭した。初め民兵を僉することが議されたが、魏藻徳は「民は賊を畏れる。一人が走れば大事は去ります」と言い、上は然りとして民が城に上るのを禁じた。
  • 辛卯、督師大学士の李建泰が上書して駕の南遷を請い、太子を奉じて先に行くことを願った。
  • 壬辰、上が平台で召し対え、閣臣に諭して「李建泰に朕に南遷を勧める疏がある。国君は社稷に死ぬ。朕はどこへ往こうか」と言った。大学士の范景文、左都御史の李邦華、少詹事の項煜が先に太子を奉じて江南に撫軍させることを請うたが、兵科給事中の光時亨が大声で「太子を奉じて南に往くのは、諸臣の意はいったい何を為そうというのか。唐の粛宗の霊武の故事を為そうというのか」と言い、范景文らはそこで敢えて言わなかった。上が再び戦守の策を問うと衆臣は黙然とした。上は嘆じて「朕は亡国の君にあらず、諸臣はことごとく亡国の臣のみ」と言い、そこで袖を払って起った。
  • 欽天監が帝星の下移を奏した。
  • 詔して総兵の呉三桂を平西伯、左良玉を寧南侯、唐通を定西伯、黄得功を靖南伯に封じ、勅・印を給した。劉沢清は実に一級を陞し、劉良佐・周遇吉・高傑・馬岳・馬科・姜宣・孔希貴・黄蜚・葛汝芝・高第・許定国・王承胤・劉芳名・李棲鳳・曹友義・杜允登・趙光遠・卜従吉・楊御蕃はそれぞれ署一級を陞した。督撫の馬士英・王永吉・黎玉田・李希沆は分別して応に実署を加えた。
  • 初めて寧遠を棄てて呉三桂・王永吉を徴し、兵を率いて入衛させ、また唐通・劉沢清を召して兵を率いて入衛させた。劉沢清は前に命じて鎮を彰徳に移させたが、臨清で掠を縦にして南に奔った。ただ唐通だけが八千人で入衛し、すでに太監の杜之秩とともに居庸を守った。
  • 賊が保定を犯した。大学士の李建泰はすでに病み、中軍の郭中傑が城を縋って賊に降り、兵は潰えた。賊が保定に入り、李建泰は執えられた。御史の金毓峒は西門を守っていたが、賊が執えて三皇廟に入れた。賊帥を見て金毓峒は拳を奮って賊帥を毆って仆し、井中に躍り入って死んだ。妻の王氏は自ら経れた。金毓峒の従子の振孫は武挙として行間で効力し、城に登って賊を射て多くは弦に応じて斃れた。城が陥ちて衆は戎衣を解いて自ら匿れたが、振孫は裲襠を王めて大呼して「我は御史の金毓峒の姪である」と言い、賊は支解した。金毓峒の子の罌の婦の陳氏は年十八、その祖母の張、母の楊、嫂の常とともに一時にことごとく井に投じた。張は孫を懐に抱いてともに下り、侍婢四人もまた従って下った。
  • 乙未、太監の馬思理に馳せて大同に赴き兵を督して援勦するよう命じた。

三月(宣府の降伏から京師の陥落まで)

  • 李自成は陽和に宿し、そこで長駆して宣府に向かった。宣府の叛将の白広恩が総兵の姜瓖に書を貽って降を約し、監視太監の杜勲は緋袍・八騶で郊に迎えること三十里。軍民は聚まり謀って籍々とした。巡撫の朱之馮が賞を懸けて軍を労い城を守らせようとしたが一人も応ずる者なく、三たび命じてもみな叩頭して「願わくは中丞、軍民の款を納れるに聴されよ」と言った。朱之馮はひとり行いて城を巡り、大砲を見て「汝曹、試みにこれを発せよ。数百人を殺しうる。賊が我を殺しても恨みはない」と言ったが、衆はまた応じなかった。朱之馮は已むを得ずそこで自ら起って火を燃やしたが、兵民が競ってその手を挽いた。朱之馮はそこで士卒の刀を奪って自ら刎ねた。宣府の軍民はともに賊に迎え降り、郷紳の張羅彦は自殺した。

助餉の議

  • 上が籍を按じて勲戚・大璫にその助餉を徴し、太監の徐高を遣わして嘉定伯の周奎に諭して倡えとした。周奎は「無し」と謝した。徐高は泣いて諭すこと再三したが、周奎は漫ろな詞で対えた。徐高は拂然として起って「外戚がかくのごとくでは国事は去った。多くの金が何の益になろう」と言った。周奎は万金を捐てることを奏したが、上は少しとしてその二万を勒した。周奎はひそかに皇后に書して助けを求め、后は勉めて五千金を応じ、周奎に私蓄でその額を足すよう令した。周奎は中宮の畀えた二千金を匿し、わずかに三千金を輸した。
  • 太監の王永祚・曹化淳は三万・五万を助けるに至った。王之心は最も富んでいたが、上が面と諭してもわずかに万金を献じた。諸内官はそれぞれ門に大書して「この房、急ぎ売る」と言い、さらに雑えて雕鏤・玩好の諸物を出して市に陳ねて售ることを求めた。後に賊が王之心を拷って十五万を追い、他の金銀・器玩もこれに称った。周奎は抄されて銀五十二万が見え、珍幣もまた数十万あった。
  • 魏藻徳は首めに百金を輸した。陳演はすでに放たれてまだ行かず、召し入れられて清苦を訴えた。百官が共に捐助を議し、勉め諭すこと再びに至った。最後に省ごとに額を限り、浙江は六千、山東は四千、先後して共に二十万。当時、上等は三万金と諭したがみな応ずるものなく、ただ太康伯の張国紀が二万余を輸したが及ばなかった。
  • また前三門の巨室にそれぞれ糧を輸して軍に給し、かつその妻孥を贍わせて内顧なからしめることが議されたが、諸巨室の多くが楽しまずしてやんだ。逆に従った官吏の多くはその心ではないとして、河南の北で俘とした偽官を赦して賊党を携かせることを請う者があった。
  • 丙申、大風が霾って昼が晦かった。司礼太監の王承恩に内外京城を提督させ、総督薊遼の王永吉に各鎮を節制させ、ともに便宜に事を行わせた。
  • 賊の警はいよいよ逼った。上に南遷を勧める者があると、上は怒って「卿らは平日、専ら門戸を営む。今日、死守して、また何をか言わん」と言い、兵部に諭して「都城の守備は余りがある。援兵は四方から集まる。期を刻んで寇を滅ぼすのに何の難きことがあろう。敢えて訛言して衆を惑わす者、および私に家眷を発して城を出す者があれば擒えて治めよ」と言った。
  • 庚子、上が召し対えたがただ兵餉を問うだけで、挙朝に人なきをもって常に泣を下した。廷臣の長策はただ門を閉じて出入りを止めるのみで、余りは一つの筹議もなかった。兵を外城に増せば内が闕け、内城に増せば外が闕けた。襄城伯の李国禎は事に在ってもまた敢えて王承恩に抗せなかった。
  • 辛丑、都門に営を分け、大砲を設けた。上がまた群臣を召し対えて禦寇の方略を問うたが、諸臣はみな嚄唶して対えられなかった。廷臣が兵部職方司員外の万元吉は兵を知ると挙げ、司馬に任じることを算った。
  • 九門を守る者に人ごとに百銭を給し、前太監の曹化淳を召して城を守りうるとした。
  • 南京の孝陵が夜に哭した。
  • 癸卯、風が晦かった。寇が柳溝から居庸関に抵った。柳溝を踰えれば天塹で百人で守りうるのに、ついに備えを設けなかった。総兵の唐通、太監の杜之秩は迎え降り、撫臣の何謙は偽って死んだと称してひそかに遁れ、総兵の馬岱は自らその妻子を殺して疾く山海関に走った。当時、京師以西の諸郡県は風を望んで瓦解し、将吏はあるいは降りあるいは遁れた。
  • 偽の権将軍が檄を京師に移して「十八日に幽州の会同館に至ろう。暫くこれを繳する」と言い、京師は大いに震えた。詔して三大営を斉化門の外に屯せしめた。
  • 甲辰、賊が昌平州を陥れ、諸軍はみな降った。総兵の李守鑅は賊を罵って屈せず、手ずから数人を格殺して人は執えられなかった。諸賊が囲むと、李守鑅は刀を抜いて自ら刎ねた。賊は十二陵の享殿を焚いた。儆が京師に伝わった。
  • これより先、上は寇の儆のいよいよ急なるを知って、呉麟徴の寧遠を徙すことを請う疏を下し、檄を飛ばして呉三桂に関に入るよう趨した。呉三桂は五十万の衆を徙して日に数十里を行き、この日に初めて関に及んだが、賊騎はすでに昌平を過ぎていた。太監の高起潜は関を棄てて西山に走り、賊は兵を分けて通州の糧儲を掠めた。
  • 上はまさに殿に御して考選の諸臣を召し、餉を裕にし人を安んずることを問うていた。滋陽知県の黄国琦が対え、中旨で給事中を授けた。余りは次を以て対えたがまだ半ばに及ばぬうちに秘封が入った。上は覧て色を変え、ただちに起って入った。諸臣は立って候つこと移刻、ともに退くよう命ぜられ、初めて昌平の失守であることを知った。
  • この夜、賊は沙河から進んでまっすぐ平則門を犯し、夜を竟えて焚き掠め、火光は天を燭らした。
  • 京師の内外の城堞はおよそ十五万四千有奇。京営の兵は疫し、その精鋭はまた太監が選び去っていた。陴に登るのは羸弱五、六万人と内閹数千人で、陴を守るのに充ちなかった。炊具なく市に飯を買って餐とし、餉は久しく闕いてわずかに人ごとに百銭を給されたので、体を解かぬ者はなかった。
  • しかも賊は中原を破ってから旋って秦・晋を収め、久しく畿輔の空虚を窺っていた。ひそかにその党を遣わして金銭・氈罽を輦ばせ、大賈を飾って都門に肆を列ねさせ、さらに姦党を遣わして貲を挟んで衙門の掾史に充てさせ、専ら陰事を刺らせたので、繊悉まで必ず知った。都中は日ごとに撥馬を遣わして探らせたが、賊党がただちに指し示して賊に告げ、賊は掠めて営に入れて厚く賄って結んだので、撥馬は多く賊に降り、一騎も還る者はなかった。
  • 数百騎が斉化門に至って平則門に迤って西した。営兵で近郊に屯する者が詰ると「陽和の兵で勤王する者だ」と言ったが、実はみな賊の候騎であった。当時、人心は洶々として、みな天子が南狩すると言った。内官数十騎が擁護して得勝門を出た。門を守るのはみな内官が政を為し、卿貳・勲戚は上りえなかった。
  • 乙巳の昧爽、西直門を開いて避難する者を納れた。内官が城上に坐し、令箭を下せば門はただちに啓き、敢えて詰め問う者はなかった。勲戚・大臣はただ坐視するのみであった。
  • 上が早朝に諸臣を召し対えて泣き、俛首して御案に十二字を書いて司礼監の王之心に示し、まもなく拭い去った。漏は下って已の刻、急足が城下を叩いて「遠塵が天を衝いた。寇は深い」と言った。城を守る内臣が騎に探らせると「哨騎です」と報せたので意にとめなかった。日がまさに午のころ、五、六十騎が弓を彎き矢を貫いて大呼して門を開けと言った。守卒が亟かに砲を発して二十騎を斃したが、難民の死者も数十人。門は初めて閉じた。
  • 須臾にして賊が大挙して至った。まさに盧溝橋を過ぎたと報せたところ、俄かに平則・彰義などの門を攻めていた。城外の三大営はみな潰え降り、火車・巨砲・蒺藜・鹿角はみな賊のものとなった。賊は砲を反して城を攻め、轟く声は地を震わせた。
  • 京軍は五月、餉なく、一時に駆って守らせても率いる者は多く至らなかった。一堵を一人が守っても諸臣に及ばぬ有様。まさに班に侍していたところ、襄城伯の李国楨が匹馬で闕下に馳せ、汗が浹って衣を霑した。内侍が呵して止めたが、李国楨は「今は何時か。君臣がただちに相見えることを求めても多くは得がたい」と言った。内臣が叩ると「守軍は命を用いぬ。一人を鞭てば一人が起き、また故のごとく臥す」と言った。
  • 上が召し入れ、そこで内臣にともに城を守るよう命じると譁いで「諸文武は何を為すのか。しかも言官が内操を止めた。我らの甲械はともに無い。奈何せん」と言った。ある者が「我輩は月に五十万を食む。死を効すのはもとより当然だ」と言い、そこで己巳の歳に派された数のごとくすることを請い、ともに城に乗ること数千人。上は中外の庫金二十万を括って軍を犒った。この日、細民に痛哭して金を輸す者があり、あるいは三百金、あるいは四百金。それぞれ錦衣衛千戸を授けた。
  • 丙午、寇が城を攻め、砲声は絶えず、流矢は雨のごとく集まった。仰いで守兵に語って「亟かに門を開け。否なれば且つ屠るぞ」と言った。守る者は懼れて空砲を外に向け、鉛子を実せず、ただ硝焔で鳴らすだけで、なお手を揮って賊に示した。賊がやや退くと砲はそこで発った。賊は居民を駆って木石を負って濠を填めさせ、急ぎ攻めた。我は万人敵の大砲を発したが誤って数十人を傷つけ、守る者は驚き潰えてことごとく城の陥ちたと伝え、闔城は号哭して奔り竄れた。
  • 賊は飛梯を駕して西直・平則・徳化の三門を攻め、勢いは甚だ危急であった。太常少卿の呉麟徴が土を累ねて西直門を填め、そこで単騎で西安門に馳せ入った。吏部侍郎の沈惟炳が門を守って「内守には宦寺がある。百官は入りえぬ。奈何せん」と言った。呉麟徴は門を排して入った。太監の王徳化が呉麟徴に「城を守る人が少ない。奈何せん。これを増益することを請う」と語った。呉麟徴が午門に至って大学士の魏藻徳に遇うと、止めて「兵部の調度は兵餉すでに足りている。公は何事を張皇するのか」と言った。魏藻徳はまさに閣を出ようとしており、「上はまさに休まれる。公はどこから入るのか」と言った。呉麟徴は涕を流して固く請い、時ならずして見えることを得たが、魏藻徳が挽いて出た。
  • この日、劉沢清を東平伯に封じた。当時、左諭徳の楊士聡、衛胤文が入直して、閣臣に左良玉・呉三桂はともに封ぜられたのに劉沢清が遺れており、かつ臨清は地が近くて虞るべきだと語った。閣が掲げて上り、封を得たのである。
  • 都察院左都御史の李邦華が正陽に至って城に登ろうとしたが、中貴が拒んだ。
  • 李自成が彰義門に対して座を設け、晋王・代王が左右に席地して坐り、太監の杜勲がその下に侍した。城上の人に呼んで「我を射るな。杜勲である。一人を縋り下ろして語らせよ」と言った。守る者が「一人を下ろして質としてから公は上られよ」と言うと、杜勲は「我、杜勲は畏るるところなし。何の質を為そう」と言った。提督太監の王承恩がこれを縋り上げてともに大内に入って見えた。賊の勢いの重いことを盛んに称え、「皇上、自ら計を為されよ」と言った。守陵太監の申芝秀もまた昌平から賊に降り、同じく縋り上げて入り見え、備さに賊が上を犯す不道の語を述べて遜位を請うた。上は怒って叱した。
  • 諸内臣が杜勲を留めることを請うたが、杜勲は「秦・晋の二王が質にある。反らねば二王が免れまい」と言い、そこで縦して出し、なお縋り下ろした。杜勲は守る璫の王則堯・褚憲章の輩に「吾が党の富貴は自在である」と語った。初め杜勲が難に殉じたと聞いて司礼監太監を贈り、錦衣衛指揮僉事に廕し、祠を立てていたが、ここに至って初めて杜勲がもとより賊に従って逆を為していたことを知った。
  • 兵部尚書の張縉彦が奏して「時勢はかくも危急でありますのに、臣はしばしば城閾に至って城上の守禦を覘おうとしても輒ち監視に抑え沮まれます。いま曹化淳・王化成が賊の杜勲を縋り上げて城に上らせたと聞きますが、何の意か未だ知らず、姦宄の不測あるを恐れます」と言った。章が上ると、上は手書して張縉彦を遣わして城に上って按べさせた。城に至ると内監が沮むこと故のごとくだったが、上の伝を示して初めて登った。
  • 杜勲はどこに在るかと問うと「昨暮に上り、今晨に下しました。すでに上聞しております。詰めるに容りません」と言った。また「なお秦・晋の二王が城下におります。また語を通じたい」と言うと、張縉彦は「秦・晋の二王がすでに寇に降ったのに、どうして上げられよう」と言った。曹化淳は衣を払って去った。そこで城上を閲すると守卒は寥々としていた。兵部侍郎の王家彦が痛哭して「賊の勢いかくのごとくして監視が営兵を李襄城の処に調え去りました。なお十の四があります」と言った。王家彦の守るところの両堵はわずかに一卒。語がまだ竟わらぬうちに城下の墻を坎つ音が急になり、太監の王承恩が砲でこれを撃って連ねて数人を斃した。曹化淳・王化成は酒を飲んで自若としていた。張縉彦は馳せて内閣に至り、同じく奏することを約したが、宮門に至って伝えて止められた。
  • 上が詔を下して親征し、駙馬都尉の鞏永固を召して家丁で太子を護って南行させることを謀った。対えて「臣らはどうして敢えて私に家丁を蓄えましょう。ただちにあってもどうして賊に当たるに足りましょう」と言い、そこでやめた。すでに王承恩を召して亟かに内員を飭めて親征に備えさせた。
  • 申の刻、彰義門が啓いた。けだし太監の曹化淳が城を献じて門を開いたのである。賊は殺掠を恣にし、前太学士の蔣徳璟は会館に宿していて創を被った。
  • 上が亟かに閣臣を召し入れて「卿らは外城の破れたのを知るか」と言った。「知りません」と言うと、上は「事は亟い。いま何の策を出そうか」と言った。ともに「陛下の福、自ら慮りなかるべし。もし利あらずんば臣らは巷戦して国に負かぬことを誓います」と言った。命じて退かせた。
  • この夕、上は寝ることができなかった。内城が陥ちて一人の閹が奔り告げると、上は「大営の兵はどこに在るか。李国楨はどこへ往ったか」と言った。答えて「大営の兵は散じました。皇上、宜しく急ぎ走られよ」と言い、その人はただちに出て、呼んでも応じなかった。
  • 上はただちに王承恩とともに南宮に幸し、万歳山に登って烽火の天を燭らすのを望み、徘徊すること時を踰えて乾清宮に回った。硃書して内閣に諭し、成国公の朱純臣に内外の諸軍事を提督させ、来って東宮を輔けさせるよう命じた。内臣が持って閣に至ったが、そこで酒を進めるよう命じ、連ねて数觥を沃いで嘆じて「我が民を苦しめたのみ」と言った。太子・永王・定王を外戚の周・田の二氏に分け送った。皇后に「大事は去った」と語り、それぞれ泣を下した。宮人が環り泣くと、上は揮い去ってそれぞれ計を為させた。皇后は頓首して「妾は陛下に事えること十有八年、ついに一語も聴かれず、今日あるに至りました」と言い、太子と二王を拊して慟むこと甚だしく、遣わし出した。后は自ら経れた。
  • 上は公主を召した。年十五。嘆じて「爾はどうして我が家に生まれたか」と言い、左袖で面を掩い、右に刀を揮って左臂を断ったが、殊せずして死んだ。手が慄えてやめた。袁貴妃に自ら経れるよう命じたが、繋が絶えて久しくして蘇った。上は剣を抜いてその肩を刃した。また御するところの妃嬪数人を刃した。
  • 王承恩を召して対い飲み、少頃して靴を易えて中南門を出た。手に三眼の鎗を持ち、内豎数十人に雑じり、みな騎って斧を持って東華門を出た。内監は城を守っていて内変があるかと疑い、矢石を施して相い向かった。当時、成国公の朱純臣が斉化門を守っていたので、その邸に至ったが閽人が辞した。上は太息して去り、安定門に走ったが、門は堅くて啓きえなかった。天がまさに曙けようとしていた。
  • 帝は前殿に御して鐘を鳴らして百官を集めたが一人も至る者はなかった。そこでなお南宮に回り、万歳山の寿皇亭に登って自ら経れた。亭は新たに成って内操を閲したところである。太監の王承恩は対い縊れた。上は髪を披いて藍衣を御し、左足は跣、右は朱履。衣の前に書いて言った。「朕は登極してより十七年、逆賊がまっすぐ京師に逼った。朕の薄徳・匪躬が上、天の咎を干したとはいえ、しかもみな諸臣が朕を誤ったのである。朕は死して面目なく祖宗に地下で見えよう。朕の冠冕を去り、髪で面を覆う。賊が朕の屍を分裂するに任す。百姓一人をも傷つけるな」。また一行を書いて「百官はともに東宮の行在に赴け」と言った。なお閣臣がすでに硃諭を得たと謂ったのである。ところが内官が硃諭を持って閣に至ったとき閣臣はすでに散じており、几上に置いて反ったので、文武の群臣に一人として知る者はなかった。

三月丁未(京師陥落と自成の入城)

  • 丁未の昧爽、天はたちまち雨、俄かに微かに雪。須臾にして城は陥ちた。賊は先に東直門に入り、門を守る御史の王章を殺した。守卒は蟻のごとく墜ち、兵部侍郎の張伯鯨は走って民舎に匿れた。賊騎は巷を塞いで大呼して民間に速やかに騾馬を献ぜよと言った。賊が象房橋を経ると、群象が哀しみ鳴いて涙を下すこと雨のごとくであった。内臣が前導した。兵部侍郎の王家彦は民舎で自ら経れた。
  • 大学士の魏藻徳らはまだ変を聞かず、なお単を伝えて金を醵していた。方岳貢・范景文はまさに伝導して西長安門に至ったが、亟かに還った。賊の千騎が正陽門に入り、矢を投げて人に持ち帰らせ、門を閉じさせて死を免れさせた。そこでみな門に「順民」と書した。
  • 太子は走って周奎の邸に詣でたが、周奎は臥してまだ起きず、門を叩いても入りえず、そこで走って内官の外舎に匿れた。
  • 上が出て南宮に至ったとき、人を懿安皇后の所に詣でさせて后に自裁を勧めたが、倉卒にして達しえなかった。両宮はすでに自ら尽きていた。宮人は号泣して出て走り、宮中は大いに乱れた。懿安皇后は青衣で頭を蒙って徒歩で成国公の邸に走り入った。
  • 尚衣監の何新が宮に入って長公主が肩を断たれて地に仆れているのを見、宮人とともに救って甦った。公主は「父皇が我に死を賜った。我はどうして敢えて偸生しよう」と言った。何新は「賊がすでにまさに入ろうとしております。公主がその辱めに遭うのを恐れます。しばらく国丈の府中に至ってこれを避けられよ」と言い、そこで負って出た。
  • 午の刻、李自成は氈笠・縹衣で烏駁馬に乗り、偽丞相の牛金星、尚書の宋企郊ら五騎が従った。当時、宮中は大いに乱れ、諸賊帥がその騎を率いてみな甲を擐き兵を執って先に入って宮を清めた。諸宮人が逸れ出たが賊に遇って再び入り、宮人の魏氏が大呼して「賊が大内に入った。我輩は必ず汚されるところとなろう。志ある者は早く計を為せ」と言い、そこで御河に躍り入って死んだ。頃の間、従い死んだ者は積むこと一、二百人。
  • 自成は西長安門から入り、弓を彎いて天を仰いで大笑し、手ずから一矢を発して坊の南偏に中てた。承天門に至って自成は顧盼して自得し、再び弓を彎いて門の榜を指して諸賊に語って「我が一矢がその『中』の字に中たれば必ず一統する」と言った。射て中たらず、『天』の字の下に中たり、自成は愕然とした。牛金星が趨り進んで「その下に中たったのは、まさに天下を中分すべきです」と言い、自成は喜んで弓を投じて笑った。
  • 司礼視印太監の王徳化は内員三百人で先に徳勝門に迎え、なお旧任に仍らせるよう令した。各監局の印官の迎えるのもまたこれと同じであった。そこで百余人を集め選び、余りはみな散じ去った。
  • 自成は宮に入って帝の所在を問い、大いに宮中を索めたが得られなかった。偽の尚璽卿の黎某が進んで「これは必ず民間に匿れております。重賞・厳誅でなければ得られません。今日の大事、忽せにすべからず」と言った。そこで令を下して帝を献ずる者には万金を賞し伯爵に封じ、匿す者は族を夷げるとした。
  • 自成は皇極殿に登って黼座に拠り、牛金星が檄して百官を召し、二十一日にともに朝に集まるよう期した。民間に「自成」などの字を諱むことを禁じた。
  • 自成は偽都督の劉宗敏らと数十騎で大内に入った。太監の杜之秩・曹化淳らが前導した。自成はその主に背いたことを責めてまさに斬るべしと言うと、杜之秩らは叩首して「天命を識ったゆえにここに至りました」と言い、自成は叱して去らせた。
  • 賊は宮嬪をそれぞれ三十人ずつ分け、牛金星・軍師の宋献策らもまたそれぞれ数人を分けた。宮人の費氏は年十六、眢井に投じたが賊が鈎で出した。その姿容を見て争って相い奪おうとしたので、費氏は紿いて「我は長公主である。若ら無礼なくば必ず汝の主に告げよう」と言った。群賊が擁して自成に見えさせ、自成は内官に審べさせたが然らずとして部校の羅賊に賞した。羅が携え出すと費氏はまた紿いて「我は実に天潢の胤である。義として苟合しがたい。ただ将軍が吉を択んで礼を成されよ。死生は命のままに」と言った。賊は喜んで酒を置いて歓を極めた。費氏は利刃を懐にして賊の酔うのを俟ってその喉を断ち、立ちどころに死んだ。そこで自ら刎ねた。自成は大いに驚き、収めて葬るよう令した。
  • 内臣が太子を献じた。自成は西宮に留めて宋王に封じたが、太子は屈しなかった。
  • 辛亥、先帝・后を改め殯した。梓宮二つを出し、丹漆で先帝を殯し、黝漆で先后を殯した。帝には翼善冠・衮玉・渗金の靴を加え、后の袍・帯もまたこれと同じであった。

史論(谷応泰曰)

  • そもそも稽えるに、愍帝は戊辰に即位し、李自成の諸賊はただちにこの歳に延安に起こった。禍いの本は相い尋いで、ともに始まったかのようである。これより後、愍帝は明けやらぬうちに衣を求め、兵を徴し餉を檄して、日々、賊を討つのを事としたが、自成の輩は蹶いてはまた振るい、鳥獣の散ずるがごとく、たちまち鳶烏の聚まるがごとくで、そこで民は労し板蕩、将は霣ちて妖氛となり、けだし十七年の久しきに至って、黄巣がまっすぐ関門に逼り、赤眉が大いに内地に入った。智者があっても、またどこに敵を謀り禦ぐところがあろうか。
  • 正旦の風霾、孝陵の夜哭、恒星の月に入るのと帝曜の下移のごときは、天変が見れたのである。咸陽で号を僭し、太原を略し拠り、居庸に突き入り、驟かに畿輔を窺ったのは、地の険を失ったのである。さらに勤王の徴された者は赴かず、罪己の詔を聞いた者は感ぜず、賈吏を輦下に飾って機務はことごとく輸され、撥馬を営中に誘って偵刺は実少なかったのは、人事が去ったのである。
  • この時に当たって、苟且に自ら救い、恥を忍んで存を図る策はただ三つだけであった。余応桂が真定・保定に師を会することを請い、呉麟徴が帥を徙して入衛させることを請い、范景文・李邦華が国を南都に遷すことを請うたのは、行いうるものであった。しかしながら発言は庭に盈ちて用いて集まらなかったのは、智が晩図に絀き、事が窘歩に乖いたからである。
  • 卒に北門の鎖鑰はことごとく貂閹に授けられ、東閣の鼎鐺はいたずらに肉食を聞くのみ。帑は瓊林の聚に乏しく、兵は祁父の呼に多く、禁門を奪っても啓かず、戚里に幸しても却け返された。この時、虞淵に日は墜ちて空しく戈を揮うことを想い、周鼎は天に移って誰が水に没しえよう。
  • けだし後宮の賜り尽くし、三王の出奔に至って、国は破れ家は亡び、すでに血は繍襪に飛び、生人の死別はまた腸を桓山に断つ。どうして乱世に渉って艱多く、皇家に生まれて不幸な者でなかろうか。
  • さらに哀しむべきは、内殿に巵を酌み、南宮に火を望み、生を殺して義を取り、むしろ青蓋の占に従い、髪を披いて繯に投じ、景陽の井に入らなかったことである。しかもなお「朕の屍は裂きうるも民命は残なうなかれ」と、恨みは幽泉に結んで言は衣帯に存した。語に「国君は社稷に死す」と言い、また「国を亡ぼしてもその終わりを正す」と言う。むべなるかな、蓐螻の御が誓って前駆せんと欲し、茇舎の大夫が地下に相従うたのも。
  • しかしながら禍いを致すには由るところがあり、衰えに因って極みに激る。かの周の業は幽・厲に衰えて褒姒にあるのではなく、漢の道は桓・霊に替って、どうして蜀郡に関わろう。ゆえに明が武皇に亡びなかったのは孝宗の蘊沢が厚かったからであり、明が愍帝に救いなかったのは熹廟の留毒が長かったからである。
  • そこで論者はまた「善を善しとし悪を悪しとしても郭公は乱を致した。人を知るは則ち哲、帝堯の難しとするところ」と言う。懐宗の遺詔もまた諸臣の誤国をもってした。理としてあるいは然りとしうるであろう。