明史紀事本末甲申の殉難(甲申殉難)
崇禎十七年(1644年)三月十九日に李自成が京師を陥れ、帝が煤山で崩じたとき、これに殉じた人々を身分ごとに列挙する篇である。大学士の范景文、戸部尚書の倪元璐、左都御史の李邦華ら文臣に始まり、王家彦・孟兆祥・馬世奇・劉理順・呉麟徴・呉甘来ら侍郎・諭徳・給諫、王章・成徳・金鉉ら御史・郎中、さらに襄城伯の李国楨、新楽侯の劉文炳、駙馬の鞏永固ら勲戚、太監の王承恩に及ぶ。多くは一門・妻妾・僕婢まで従って死に、菜傭の湯之瓊や諸生の許琰のような庶人の殉死も記される。谷応泰は殉難者を死に方の類型ごとに数え上げ、亡国の終わりを正した烈しさを称えている。
年表(5件)
- 懐宗
- 崇禎十七年三月十九日丁未(京師陥落と殉難の始まり)1644年李自成が京師を陥れ帝が煤山で崩じて殉難が始まる
- 文臣の殉難(大学士・尚書・都御史)范景文・倪元璐・李邦華・施邦曜・凌義渠が相次いで自ら死ぬ
- 侍郎・諭徳・中允らの殉難王家彦・孟兆祥・馬世奇・劉理順・呉麟徴・周鳳翔・汪偉・呉甘来が家族とともに死ぬ
- 御史・寺丞・郎中らの殉難王章・陳良謨・趙譔・許直・成徳・金鉉らが縊れ、あるいは河に投じて死ぬ
- 勲戚・武臣・宦官らの殉難李国楨は帝の葬送ののち陵前で死に、劉文炳・鞏永固・王承恩らも殉じる
懐宗崇禎十七年(1644年)三月十九日丁未(京師陥落と殉難の始まり)
- 賊の李自成が京師を陥れ、帝は煤山で崩じた。
文臣の殉難(大学士・尚書・都御史)
- 大学士兼工部尚書の范景文が死んだ。初め賊が都城を犯すと、范景文は事の為すべからざるを知って「身は大臣たりながら疆場に従って少しも功伐を樹てえぬ。死んでも何の益があろう」と嘆じた。十八日の召対のときすでに食わぬこと三日、泣を飲んで入り告げ、声は続きえなかった。翌日、城が陥ちると闕を望んで再拝して自ら経れたが、家人が解いた。そこで詩二首を賦し、ひそかに竜泉巷の古井に赴いて死んだ。その妾もまた自ら経れた。
- 戸部尚書兼侍読学士の倪元璐は難を聞いて「国家ここに至って、臣は死んでも余りある責である」と言い、そこで衣冠して闕に向かい、北して天子に謝し、南して母に謝した。酒を索めて二友を招いて別れを為し、漢寿亭侯の像前に酬いてそこで繯に投じた。几案に題して「南都はなお為すべし。死は吾が分である。慎んで棺衾するなかれ。もって吾が痛みを志せ」と言い、そこで家人に詔して「もしただちに殮めようとするなら、必ず大行を殮めてから吾が屍を収めよ」と言い、そこで縊れ死んだ。三日の後、賊が突き入って見ると顔色は生けるがごとくで、賊は驚き避けて他に去った。一門で節に殉じた者は共に十三人であった。
- 左都御史の李邦華は難を聞いて「主辱められて臣は死ぬ。臣の分である。また何をか辞そう。ただ東宮のために一つの去路を導きえたなら、死んでもほぼ憾みなかろう。已んぬるかな。勢いは為すべからず」と嘆じた。そこで閣門に題して「堂々たる丈夫、聖賢を徒とす。忠孝の大節、死を矢って他に靡かず」と言い、そこで文丞相の祠に走り、再拝して祠中で自ら経れた。賊が至ってその冠帯して危坐するのを見、争って前んで執えようとして初めてその死を知り、驚き避けて去った。
- 左副都御史の施邦曜は変を聞いて慟哭し、几に詞を題して「半策も時難を匡すなきを愧じる。ただ微躯あって主恩に報ゆるのみ」と言い、そこで自ら縊れた。僕が解いて再び蘇ると、施邦曜は叱して「若、大義を知らば久しく我を留めて死なせぬな」と言い、そこでさらに薬を飲んで卒した。
- 大理寺卿の凌義渠は難を聞いて首を柱に触れ、血を流して面を破り、ことごとくその生平の著述および評隲した諸書を焚いた。緋を服し笏を正して闕を望んで拝し、また南に向かって拝し訖わって、書を遺してその父に上り「忠を尽くすはすなわち孝を尽くす所以であります。よく死ねばほぼ父を辱めますまい」と言った。そこで帛を繋ぎ、身を奮って吭を絶って死んだ。
侍郎・諭徳・中允らの殉難
- 協理京営兵部右侍郎の王家彦は、賊が都城を犯すと命を奉じて得勝門を守った。城が陥ちて王家彦は自ら城下に投じたが死なず、臂と足を折った。その僕が掖けて民舎に入れると自ら縊れ死んだ。賊が民舎を燔いてその一臂を焚き、僕がその遺骸を収めて帰った。
- 刑部右侍郎の孟兆祥は、賊が都城を犯すと命を奉じて正陽門を守り、賊が至って門下に死んだ。妻の何氏もまた死んだ。その子の進士の章明は父の屍を収め葬って亟かに帰り、その妻の王氏に別れて「吾は大人がひとり死なれるのに忍びぬ。吾は往って大人に従おう」と言った。妻は「爾が死ねば吾もまた死ぬ」と言った。章明は頭を地に蹌して「夫人に謝す。しかし夫人は先に死なれよ」と言い、そこでその家人をことごとく出させ、ただ一婢だけを側に留めた。章明は妻の縊れるのを視て筆を取って詩を作り、すでにまた壁に大書して「吾が夫婦の屍を侮る者があれば、吾は必ず厲鬼となって殺そう」と言った。妻の気が絶えると一つの扉を取ってその上に置いて緋服を加え、また一つの扉を取って妻の左に置き、また緋を服して自ら縊れ、婢に「吾が死せばまた扉上に置け」と囑してそこで死んだ。
- 左諭徳の馬世奇はこの日、まさに早食していたが変を聞いて「これは死ぬべきである」と言った。家人が「太夫人を奈何せん」と言うと、馬世奇は「正に太夫人を辱めるのを恐れるのみ」と言い、そこで書を作って母に別れた。侍妾の朱氏・李氏が盛服して前に出ると、馬世奇は「若ら、我を辞して去るのか」と言った。二妾は「主人が節を尽くされるなら、吾ら二人もまた節を尽くしたい」と言い、拝し辞し已わってともに室に入って自ら縊れた。馬世奇もまたそこで縊れたが、家人が救って再び蘇った。「聖駕はすでに南に幸されたと聞きます。従亡の計を為すべし」と告げたが、馬世奇は応じなかった。二妾のすでに死んだのを睹て笑って「若は年少にして、そこでよく死んだのか」と言った。そこで朝服して勅を捧げ、北面して再拝し、冠帯を取って庭で焚き、司経局の印を案上に置いて僕に「上がもし出で幸されたら、これを行在に上れ。否なればこれを吏部に投ぜよ」と囑した。また南に向かって母を拝し、端坐して帛を引き、力めて自ら縊れ死んだ。
- 左中允の劉理順は、賊が城に入ると壁に題して「仁を成し義を取るは孔孟の伝うるところ。文信これを践む。吾は何ぞ然らざらん」と言い、酒を酌んで自ら尽きた。その妻の万氏、妾の李氏および子の孝廉、ならびに婢僕十八人が闔門して縊れ死んだ。賊には河南の人が多く、その居に至って「これは吾が郷の杞県の劉状元である。郷に居て徳厚く、吾が軍は李将軍の令を奉じて公を護衛する。何ぞ遽かに死なれたのか」と言い、数百人が下拝し、涕を泣きながら去った。当時、臣が君に死に、妻が夫に死に、子が父に死に、僕が主に死んで、一家で難に殉じた者としては劉状元を最とすると言われた。
- 太常少卿の呉麟徴は命を奉じて西直門を守ったが、賊の勢いが急になると同じく守る者が相次いで避け去った。呉麟徴は友人に書を遺して「時事は決裂して一旦にしてここに至った。同官は身を潜めて害を遠ざけるが、某はただ命を致し志を遂げることを自ら矢うのみ」と言った。丁未、城が陥ちて徒歩で帰ると、賊はすでにその邸に拠っていたので、そこで道の左の三元祠に入った。当時、天子が蒙塵したと伝えられ、公に南に帰るよう勧める者があったが応じなかった。同官が来て賊に降ることを招いたので、怒って戸外に揮った。そこで自ら経れたが、家人が救って甦った。泣いて「明旦、祝孝廉が至るのを待って一たび訣されよ」と請い、呉麟徴は許した。
- これより先、祝孝廉の淵は劉宗周を奏保したことで逮えられて京師に留まっていた。淵が晨に至ると、呉麟徴は酒を酌んで慷慨として別れて言った。「我が登第のときより、隠士の劉宗周が文信国の零丁洋の詩の二語を壁に題したのを夢に見た。数は実にこれを為したのだ。いま老いた。山河は破砕し、死なずして何を為そう」。相対して泣が数行下った。そこで書を作って家人に訣して言った。「祖宗二百七十年の宗社が一旦にして失われた。身は諫垣に居りながら匡し救うところなく、法として服を褫がるべきである。殮めるときは角巾・青衫を用い、単衾で覆い、布席を籍けば足りる。茫々たる泉路、咽々たる寸心。予が目を瞑る所以のものは、またここに在らぬのである。罪臣呉麟徴、絶筆」。書き畢わって繯に投じて死んだ。淵が含殮を視てそこで去った。
- 右庶子の周鳳翔は、帝が崩じて梓宮が東華門外に暴露されると、赴いて哭し慟絶した。寓に帰って書を遺して父に訣し「男は今日、幸いにしてこの身を虧き辱めず、両大人に羞を貽しませんでした。吾が事は畢わりました。罔極の恩は報ゆるものなく、これを来生に矢います」と言い、また詩一首を作って「碧血、九泉に聖主に依り、白頭の二老、忠魂に哭す」の句があった。闕に向かって再拝して自ら縊れ、二妾が従ってともに死んだ。
- 簡討の汪偉は、これより先、賊が次第に都城に近づくのを聞いて友人に書を遺して「京師は単弱で、ただ戦えぬのみならず、また守れぬ。一死のほかに他の計なし」と言った。賊が闕を犯すに及んで、汪偉は㤞憏として累日、食わなかった。妻の耿氏は従容として「もし事に不測あらば、請う、君に従って共に死なん」と語った。丁未、城が陥ちて汪偉は呉給事の甘来の所に趨って同じく難に殉じることを約し、帰って妻の耿氏と酒を呼んで酌を命じた。汪偉は前人の語を壁に大書して「志は屈すべからず、身は降すべからず、夫婦、同じく死して節義双つながら成る」と言い、二つの繯を梁の間に為し、汪偉は右に就き、耿氏は左に就いた。すでにみな縊れたが、耿氏は再び揮って「止めよ、止めよ。顛沛に在りといえども夫婦の序は失うべからず」と言い、再び繯を解いて左右の序を正して死んだ。
- 戸科給事中の呉甘来は、賊が京師に薄ると、兄の礼部員外の泰来が寓に至り、甘来の手を執って泣いて「事勢ここに至る。奈何せん」と言った。甘来は「死あるのみ、二なきの義である」と言った。城が陥ちて聖駕が南に出たと伝え聞くと、甘来は「上は明にしてかつ決である。必ず軽々しくは出られまい」と言い、そこで疾く皇城に趨ったが入りえず、寓に返った。家人が飲食を進めたが却けた。甘来にひそかに遁れるよう勧める者があると、甘来は「いま兵を調え賊を殺しえぬのに、かえって苟くも全うして活を求めようとするのか」と言った。
- そこで書を作って後事をその兄弟に囑した。几上を簡べて疏の草があるのを見て「これを留めれば君の過ちを彰わすのを恐れる」と言い、火を取って焚いた。兄の子の家儀が奔り至って相与に慟哭すると「我は死なねば志を見わすものなく、汝の父は死ねば終養するものがない。古は兄弟が同じく難に遭えば必ずその一を存した。皇上がおられれば土木の袁彬、遜国の程済がみな為しうる。否なれば真人を白水に求め、斟鄩を有仍に起こす。これなら我は死すといえどもなお生きるのだ。努力してこれを免れよ」と言った。そこで冠帯して北に向かって拝すること五たび、南に向かって拝すること四たび、絶命の詩一首を賦し、佩帯を引いて自ら縊れ死んだ。
御史・寺丞・郎中らの殉難
- 監察御史の王章は、賊が京師を犯すと給事中の光時亨とともに城を巡って阜城門に至った。賊が堞に縁って上ると従う人は駭き走った。賊が刃を持って「降るか」と問うと、王章は叱して「降らぬ」と言った。賊が刃でその膝を築いて地に仆れ、そこで害に遇った。王章の子の之拭は後にまた閩で難に死に、甚だ烈しく王章と同じであった。
- 監察御史の陳良謨は変を聞いて痛飲し、詩を作り、梁に繯を為して自ら尽きようとした。妾の時氏に娠があったので、良謨は「吾は年五十を踰えて子なし。汝は幸いに娠がある。もし男を生めばもって陳氏の血食を延べよ。汝、必ず勉めよ」と言った。時氏は「主人が死なれれば、妾はまさに誰に依ろう。賊に一たび辱められるくらいなら、子なきに如かず。妾は先に死んで君の念を絶つことを請う」と言い、そこで入って繯に投じた。良謨は別に一繯を作って共に尽きた。
- 監察御史の陳純徳は、当時、北直の学校を提督して部を行き易水に至って士を試していたが、まだ竟わらぬうちに都城の賊警を聞いて、ただちに装を戒めて都に入った。数日ならずして城が陥ち、自ら縊れ死んだ。
- 四川道御史の趙譔は中城を巡視し、賊の諜を捕らえて殺した。城が陥ちて賊が趙譔を獲ると、趙譔は目を瞑って大罵し、賊は怒って白帽衚衕で殺した。
- 太僕寺丞の申佳胤は城の陥ちたのを聞いて井に投じて死んだ。
- 吏部員外郎の許直は、都城が陥ちたとき先帝が斉化門から出たと伝えられ、客が「天子が南巡されるなら、公らは宜しく蹕に扈って偕に行き、共に光復を図るべし」と勧め、許直は唯とした。すでにして門を出て一望して「この四面の干戈に当たって、駕はまさにいずこへ往かれよう」と言った。帝の崩を聞くに及んで号慟してほとんど絶えた。客が傍らから慰め解いて親の老い子の幼いことをもって動かそうとしたが、許直は「兄が在る。吾に憂いなし」と言った。この夜、書を為してその父に報せ、詩六章を作り、起って闕を拝し、すでにまた父を拝して、畢わって自ら縊れ死んだ。一手に縄の尾を持ち、一手を上に握って、神気は生けるがごとくであった。
- 兵部郎中の成徳は、賊の報が急になるとただちに同年の馬世奇に書を致して「主憂えて臣辱めらる。我らは匡し救いえず、禍いを貽してここに至った。ただ一死あって国に報ゆるのみ。君は常に忠孝を夙に禀けている。諒に同心あろう」と言った。帝が崩じて梓宮が東華門に暴露されるに及んで、成徳は鶏と酒で梓宮の前に哭奠した。賊が怒って刃を露わして脅したが、視て動かなかった。寓に帰って母の張氏の前に跪いて慟哭すると、母は「我はこれを知っている」と言った。室に入って自ら縊れ死に、妻の張氏もまた死んだ。一子は六歳で、成徳は撲ち殺し、然る後に自殺した。
- 兵部員外郎の金鉉は、賊が城を攻めるのが急になると母の章氏の前に跪いて「児は世々、国恩を受け、職は車駕に任ずる。城が破れれば義として必ず死ぬ。一つの僻地を得て母を蔵しうるなら、幸いに速やかに去られよ」と言った。母は「爾が国恩を受けたなら、我はひとり国恩を受けなかったか。事が急なら廡下の井が吾が死ぬ所である」と言った。金鉉は慟哭し、ただちに母を辞して事を視に往った。丁未、帰って御河橋に至って城の陥ちたのを聞き、金鉉は寓を望んで再拝し、ただちに御河に投じ入った。従う人が拯い救うと、金鉉はその臂を囓んで急ぎ深い処に赴いた。当時、河は浅かったので、首を俛せて泥濘に死んだ。家人が報せ至ると母の章氏もまた井に投じて死に、金鉉の妾の王氏もまた随って死んだ。その弟の諸生の錝は哭して「母が死なれた。我は必ず従い死ぬ。しかし母がまだ土に帰らぬうちは敢えて死なぬ」と言い、そこでその母を棺殮した。すでに葬って三日、また井に投じて死んだ。
- 光禄寺署丞の于騰蛟は冠帯して妻を呼び、妻もまた命服を衣てともに縊れ死んだ。
- 副兵馬使の姚成、中書舎人の宋天顕はみな自ら尽きた。
- 中書舎人の滕之所・阮文貴、経歴の張応選はみな御河に投じて死んだ。
- 儒士の張世禧と二子の懋賞・懋官は父子ともに自ら経れて死んだ。また菜傭の湯之瓊は先帝の梓宮の過ぎるのを見て慟哭し、石に触れて死んだ。
勲戚・武臣・宦官らの殉難
- 襄城伯の李国楨は、賊の李自成が帝・后の梓宮を東華門外に舁いで厰を設けたとき、過ぎる百官で進み視る者はなかったが、李国楨は泥首し幘を去り、踉蹌として奔り走って梓宮の前に跪いて大哭した。賊が李国楨を執えて自成に見えさせると、また大哭し、頭を階に触れて血が流れて面を被った。賊衆がこれを持つと、自成は好い語で李国楨を誘って降らせようとした。李国楨は「三事がある。爾が我に従えばただちに降ろう。一、祖宗の陵寝を発くべからず。一、須らく先帝を天子の礼で葬るべし。一、太子・二王を害するべからず」と言った。自成はことごとく諾して扶け出した。
- 賊は天子の礼で先帝を田貴妃の墓に藁葬した。ただ李国楨ひとりが斬衰・徒歩で葬に往った。陵に至って襄事が畢わると慟哭して詩数章を作り、そこで帝・后の前で自ら縊れ死んだ。
- 新楽侯の劉文炳は、賊が外城を破ると帝が召して駙馬の鞏永固とともにそれぞれ家下二十余人を率いて崇文門で囲みを突いて出ようとしたが得られず、そこで宮に回った。劉文炳は嘆じて「身は戚臣たり、義として辱めを受けず。国と難を同じくせざるべからず」と言った。その女弟は李に適いて年三十ならずして寡となっていた。劉文炳は召し帰した。城が陥ちると弟の左都督の文耀とともに一つの大井を択び、子孫の男女およびその妹十六人を駆ってことごとくその中に投じ、火を縦って賜第を焚き、火が燃えるとともに火に投じて死んだ。祖母の瀛国太夫人はすなわち帝の外祖母で、年九十余。もまた井に投じて死んだ。
- 駙馬都督の鞏永固は帝に従って囲みを突いて出ようとして得られず、家に帰ってその愛馬を殺し、その弓・刀・鎧・仗を焚いて、壁に大書して「世々、国恩を受く。身は辱めらるべからず」と言った。当時、楽安公主は先に薨じていた。黄縄で子女五人を柱に縛って、外に火を挙げるよう命じ、そこで自ら剄してこれに従った。
- 太傅・恵安伯の張慶臻は城の陥ちたのを聞いて、ことごとく財物を散じて親戚に与え、酒を置いて一家で聚まり飲み、薪を四囲に積んで全家、燔け死んだ。
- 宣城伯の衛時春は変を聞いて合家、井に赴いて死に、一人も存する者はなかった。
- 錦衣衛都指揮使の王国興は変を聞いて自ら縊れ死んだ。
- 錦衣衛指揮同知の李若珪は崇文門を守り、城が陥ちて絶命の詞を作り「死せり、すなわち今日の事たり。悲しいかな、何ぞ必ずしも後人の知らん」と言い、自ら縊れ死んだ。
- 錦衣衛千戸の高文采は宣武門を守り、城が陥ちて一家十七人がみな自殺し、屍は路に狼籍した。
- 順天府知事の陳貞達は自ら尽きた。
- 陽和衛経歴の毛維張は屈せず死んだ。
- 太監の王承恩は帝に煤山で従い、帝が崩じると王承恩は再拝して慟哭し、退いて亭下で自ら縊れ、大行と相い望んだ。
- 百戸の王某は、周鍾がその家に寓していた。百戸は周鍾に死ぬよう勧めたが、周鍾は応じず、門を出て降ろうとした。百戸が周鍾の帯を挽いて断つに至ったが、周鍾は聴かなかった。百戸は自ら経れた。
- 長洲の生員の許琰は京師の変を聞いて悲号して絶えんとし、遍体に「崇禎聖上」の四字を書し、粒を絶つこと七日にして死んだ。
史論(谷応泰曰)
- 聞くところ、君臣の大義は死あるも貳なく、忠孝の大節は死あるも隕ちず。それゆえ須漕が体を砕き、弘演が肝を納れ、蕩陰が矢を被り、侍中が血を濺いだ。気が激して輈を傾け、志が堅くて碧と化し、皜々として秋日・厳霜と潔を比べぬものはない。
- しかしながら君たる者に、あるいは智は菽麦に昏く恩は草芥に同じい者がある。東昏が斉にあって肉を屠り酒を沽ぎ、孫皓が呉に居て鋸を焼いて頂を截ったごとくである。しかも軹道に牲を牽いて末裔を存せんことを冀い、東堂に蜜を索めてなお余生を丐い、甚だしきは騎して劉聡の畋を導き、身は景陽の井に墜ちた。義は宗社を辱め形は囚縶に汚さぬものはない。それでも臣たる者はなお臂を奮って顧みず、難を蹈むこと帰るがごとくであった。辛賓の死は抱いて解かず、吉朗の亡は哭してますます詈った。
- ああ、主辱められて臣は死ぬ。逃れるところなきものである。ましてや愍帝は宵旰して朝に臨み、唏嘘して命を畢え、公主は胸を揕かれ、妃・后は並び縊れた。経を引いて社稷に死し、詔を遺して百姓を愛した。古より亡国の終わりを正すこと、これほど烈しい者はなかった。それゆえ鼎湖に弓が墜ちれば到る処に髯を攀じ、望帝の魂が帰れば自然に血を啼く。穆満の一軍がみな化し、田横の五百が従い死んだ美を伝えるといえども、身を殺して仁を成し、易に「命を致し志を遂ぐ」と称するのは、けだしまた過ぎたるものではない。
- その時を考えるに、闔門して同じく死んだ者は、中允の劉理順、新楽侯の劉文炳、恵安伯の張慶臻、宣城伯の衛時春、駙馬の鞏永固、金吾の高文采がこれである。父と子がともに死んだ者は、少司寇の孟兆祥、儒生の張世禧がこれである。母と妻子がともに死んだ者は、枢部郎の成徳・金鉉がこれである。妻妾が従い死んだ者は、大学士の范景文、左諭徳の馬世奇、簡討の汪偉、御史の陳良謨、勲丞の于騰蛟がこれである。独身で死を効した者は、大司農の倪元璐、中丞の施邦曜、廷尉の凌義渠、少司馬の王家彦、太常卿の呉麟徴、庶子の周鳳翔、給諫の呉甘来、御史の王章・陳純徳、吏部郎の許直、兵馬の姚成、中書の宋天顕・滕之所・阮文貴、百戸の王某、知事の陳貞達、経歴の張応選・毛維張がこれである。難を聞いて餓死した者は、長洲の諸生の許琰がこれである。
- およそこれら諸臣は、道術がもとより許すか、至性が勃発するかを論ずるまでもなく、位は三階に列なり栄は一命を邀えて、心を椎ち吭を扼して路を追って相従わぬ者はなかった。まことに衣帯に夙く銘じて馮生に固より少なく、宮車が晏駕して蓐蟻がいよいよ多かったのである。
- 袁景倩の父子が石頭に並び殲され、江万里の夫妻が止水に同じく趨り、甚だしきは一門が剣に伏し闔室が自ら焚いたごときは、祖宗の豢養の恩であるとはいえ、また愍帝の拊循の効でもある。
- 論者はまた「生きては誤国が多く、死んでもまだ君に酬いぬ」と言う。そもそも文山が門を開いたことが宋室に何の功があったろう。張巡が歯を嚼んでも睢陽は守られなかった。それなのに諸人はそこで刀筆の深文で箕尾の毅魄を詆る。血を含んで人に噴くのは、まさに自らその口を汚すのみである。
- また李国楨が斬衰して葬に送り陵前で命を絶ち、王承恩が煤山に扶服して亭下に雉経し、菜傭の湯之瓊に至るまで梓宮に慟哭して石に触れて死んだごときは、なんと節を尽くす者の多いことか。
- ああ、石窌・河西にことごとく吾が君の痛みがあり、風車・雲馬になお賊を殺す声を聞く。予はけだし愍帝の君臣を読んでその亡国の正しきを嘆ずる。日月と光を争うといえども可であろう。