明史紀事本末鄭芝竜、招撫を受ける(鄭芝龍受撫)

福建の海寇であった鄭芝龍が、明朝の招撫を受けて官軍の将となり、やがて顕貴に至るまでを扱う。天啓七年(1627年)に閩の沿海を犯した芝龍は、泉州知府の王猷らの進言で招撫の対象となり、崇禎元年(1628年)に巡撫の熊文燦に降った。以後は同じ海寇であった李魁奇・劉香老を討って功を立て、崇禎十三年(1640年)には署総兵を加えられ、海の利で朝廷の要人と交わって大いに顕れる。崇禎十七年(1644年)には一族の鄭鴻逵が南贛・鎮江を守るが清兵の南下に潰え、芝龍自身も降った。谷応泰は芝龍を終始「両端を持した」人物と論じている。

年表(8件)

熹宗天啓七年(1627年)六月(鄭芝龍の海上進出と最初の招撫)

  • 海寇の鄭芝龍らが閩山・銅山・中左などの処を犯した。鄭芝龍は泉州南安県石井巡司の人である。父の紹祖は泉州の庫吏で、蔡善継が泉州太守だったとき、府治の後衙は庫と一街を隔てて相い望んでいた。芝龍は十歳のころ、戯れに石を投げて誤って蔡善継の額に中てた。蔡善継は捕らえて治めたが、その姿容の秀麗なのを見て「法としては責めるべきだが」と笑って赦した。
  • 数年せずして芝龍は弟の芝虎とともに海島に流れ入り、顔振泉の党の中で盗となった。のち振泉が死んで衆盗は統べるところがなく、一人を推し択んで長としようとしたが定まらず、そこで共に天に禱った。米一斛を貯えて剣を米中に挿し、それぞれ剣に当たって拝し、拝して剣が躍り動いた者を天の授けるところとする。芝龍の番になって再拝すると剣が地に躍り出たので、衆はみな異として推して魁とした。海上を縦横し、官兵は抗しえなかった。
  • そこで初めて招撫が議された。蔡善継がかつて芝龍に恩があったので泉州道に量り移し、書をもって招いた。芝龍は恩に感じて降ることを約した。ところが蔡善継が降を受ける日、㦸門に坐して芝龍兄弟に囚の姿で自ら縛って命を請わせた。芝龍はもとより蔡善継を徳としていたので意を屈して下ったが、芝虎の一軍はみな譁いでついに叛き去った。
  • 六年春、そこで海島に拠って商粟を截った。閩中は大いに饑え、海を望んでも米が至らなかったので、食を求める者の多くが往って投じた。七月、商民の船を劫めて勢いは次第に大きくなり、その党は広東海豊の嵌頭村を攻めて巣穴とすることを謀った。

天啓六年(1626年)十二月〜七年(招撫の意を示す戦い)

  • 芝龍はそこで閩に入って漳浦の白鎮に泊まった。六年十二月のことである。巡撫の朱一馮が都司の洪先春を遣わして舟師を率いて撃たせ、把総の許心素・陳文廉を策応とした。鏖戦すること一日、勝負はまだ決しなかったが、たまたま海潮が夜に生じて許心素・陳文廉の船は漂泊して道を失った。賊は暗く度って山に上り、詐って郷兵として洪先春の後に出た。洪先春は腹背に敵を受けてついに大敗し、身に数刃を被った。
  • しかし芝龍にはもとより撫を求める意があり、わずかに我が兵に達しようとして、そこで洪先春を舎いて追わず、盧遊撃を獲ても殺さなかった。また旧鎮から進んで中左所に至り、督帥の兪咨皋が戦い敗れるとこれを縦して走らせた。中左の人が城門を開いて殺さぬことを求めると、芝龍は麾下を約束してついに侵し擾さなかった。
  • 警報が泉州に至った。知府の王猷はその詳しい事情を知って「芝龍の勢いはかくのごとくでありながら、追わず、殺さず、焚き掠めぬのは、罪に帰する萌しがあるようだ。いま勦めても俄かに滅ぼしがたく、撫はあるいは行いうる。人を遣わして往き諭し、舟を海外に退かせ、なお功を立てて罪を贖うことを許し、功のある日には爵秩を優くするに如かない」と言った。興泉道の鄧良知は従い、人を遣わして意を諭した。

愍帝崇禎元年(1628年)(兪咨皋の下獄と芝龍の帰順)

  • 春正月、工科給事の顔継祖が福建総兵の兪咨皋を弾劾して獄に下した。初め巡撫の朱欽相が海寇の楊六・楊七らを招撫し、鄭芝龍は内地に返ることを求めたが、楊六がその金を紿り取って通じなかったので、そこで海上に流れ劫めたのである。
  • 顔継祖が上言した。「海盗の鄭芝龍は泉に生長し、徒を聚めること数万、富を劫めて貧に施し、民は官を畏れずして盗を畏れます。総兵の兪咨皋の招撫の議は実に賊の囊を飽かせるものであります。旧撫の朱欽相はその海盗の楊六・楊七を収めて用と為すのに聴きましたが、そもそも寇を撫した後は原籍に散じるべきなのに、兪咨皋は海で招いて海に置きました。今日、撫を受けて明日は寇と為ります。昨年の中左所の変では楊六・楊七は杳として踪なく、兪咨皋は初めて舌を縮めて辞なきに至りました。ゆえに閩帥は去らざるべからざるものであります」。疏が入って兪咨皋は逮えられ理に下された。
  • 三月、漳州・泉州の人が海に販ることを禁じた。芝龍は福建・浙江の海上で掠を縦にした。
  • 六月、兵部が海盗の鄭芝龍を招くことを議した。九月、鄭芝龍が巡撫の熊文燦に降った。工科給事の顔継祖が「芝龍がすでに降ったからには、その報効を責めるべきです」と言い、従われた。

崇禎二年(1629年)(李魁奇の誅と広東での失利)

  • 春二月、海盗の李魁奇が誅に伏した。李魁奇はもと鄭芝龍と同党だったが、芝龍が忌んで粤中で撃ち斬った。
  • 夏四月、広東副総兵の陳廷対が鄭芝龍と約して盗を勦めたが、芝龍は戦って利あらず、閩に帰った。数日せずして寇が大挙して至り、中左所の近港を犯し、芝龍はまた敗れた。寇は夜に中左所に薄った。

崇禎四年(1631年)正月(平台での海寇の議)

  • 上が廷臣および各省の監司を平台に召し、福建布政使の呉𤾉・陸之祺に海寇の備禦はどうかと問うた。呉𤾉は「海寇は陸寇と同じでありません。ゆえに権に撫しました。ただ官兵が撫に狃れて安んじ、賊もまた撫によっていよいよ恣となり、数年、息まぬに至りました」と答えた。
  • 上が「先に李魁奇を撫したのに、なぜまた殺したのか」と問うと、呉𤾉は「魁奇は鄭芝龍の比ではありません。撫しても終に我が用と為りません。いま鍾斌は撫されておりますが、これもまた反側して保つべからざる者であります」と答えた。
  • 上が実の計はどこにあるかと問うと、陸之祺は「海上の官兵が死力を出すことを肯んじ、有司が郷兵を団練し、多く火器を設けて守るをもって戦と為せば、勦めるのは難くありません」と答えた。
  • 上が巡撫の熊文燦について問うと、呉𤾉は「文燦は才も胆もともに優れておりますが、ただ賊を視ること太だ易しとします。ゆえに前に吉了の敗がありました」と答えた。陸之祺は「鍾斌と鄭芝龍は勢い両立しません。七月の間、鍾斌が福州を擾すと、撫臣が計って泉州に往くよう誘いました。先に聞くところでは、撫臣は芝龍とともに賊を討ってその兄を僇し、賊は遁れ去ったとのことです」と答えた。
  • 広東布政使の陸問礼に問うと、「広東の海寇はみな福建から至ります。舟は大きくて火器が多く、兵船は近づきがたい。ただ海門を守って登陸させねば害となりません」と答えた。

崇禎五年〜七年(1632〜1634年)(劉香老の跳梁)

  • 五年冬十一月、海盗の劉香老が福建の小埕を犯し、遊撃の鄭芝龍が撃ち走らせた。
  • 六年夏六月、海盗の劉香老が長楽を犯した。
  • 七年夏四月、海盗の劉香老が海豊を犯した。十二月、両広を総督する熊文燦が、道将が賊を信じて自ら陥ったことを奏した。当時、熊文燦は守道の洪雲蒸、巡道の康承祖、参将の夏之本・張一傑に謝道山へ往って劉香老を招かせたが、執えられたのである。上は「賊の渠が撫を受けるからには自らその輸誠を聴くべきである。どうして舟に登って往き撫する理があろう。備えを弛めて寇を長じ、なお未だ知らずと称する。督臣の節制は何事であるか」として、巡按御史に確かめ覈べて聞かせるよう命じ、すでに熊文燦に罪を戴いて自ら効くよう令した。

崇禎八年(1635年)(劉香老の滅亡)

  • 夏四月、福建遊撃の鄭芝龍が粤の兵と合わせて劉香老を田尾の遠洋で撃った。劉香老は兵備道の洪雲蒸を脅して船を出て兵を止めさせようとしたが、洪雲蒸は大呼して「我は死を矢って国に報いる。急ぎ撃て。失するな」と言い、ついに害に遇った。劉香老は勢い蹙まって自ら焚き溺れて死んだ。康承祖・夏之木・張一傑は脱れ帰った。
  • 八月、劉香老の家属六十余人、部属千余人が黄華に至って温処参軍に降った。

崇禎十三年〜十七年(1640〜1644年)(芝龍の顕貴と鄭鴻逵)

  • 十三年秋八月、福建参将の鄭芝龍に署総兵を加えた。芝龍はすでに劉香老を俘としてから海氛はかなり息み、また海の利で朝の貴顕に交通して、次第に大いに顕れた。
  • 十六年冬十一月、南贛の兵三千を設けて副総兵の鄭鴻逵にこれを統べさせた。
  • 十七年春正月、前兵科都給事中の曾応遴が副総兵の鄭鴻逵を緩急に用いうると薦め、詔して南贛の兵二千を益し、鄭鴻逵に鎮守を命じた。年を踰えて鄭鴻逵は舟師で鎮江を守ったが、我が清兵が南下すると潰えて帰り、鄭芝龍は降った。

史論(谷応泰曰)

  • 海上の亡頼な姦民が多く相い聚まって盗となり、擅にして討たれぬ日が久しかった。思うに魚塩・蜃蛤・商舶の往来する間で剽掠する者は千金を累ね、利あれば潮に乗って上下し、利あらねば島中に嘯き聚まって、儼然として夜郎・扶余のごとく自ら大とし、東南の辺徼はいよいよ騒然としてこれに苦しんだ。
  • 泉州の人の鄭芝龍は庫を筦る者の子で、年まだ弱冠ならずして海寇の顔振泉に掠われた。振泉は芝龍の状貌を愛して寵があり、振泉が死ぬと衆が推して魁とした。しかし芝龍はとりわけ智数が饒く桀黠で、両端を持することを喜んだ。ほかに絶えて殊なるところはない。
  • 外洋を侵し暴したとき、金を楊六に輸し、追うのを洪先春に緩めさせた。黄巾がまだ曹公に破られぬうちに、赤眉が光武に降を約したようなもの。その両端を持したことの一つである。
  • 内地で撫を受けるに及んでは、私闘では李魁奇に勇であり、公戦では陳廷対に怯であった。陳余を泜水に殺し、匡術を石頭に縦したようなもの。その両端を持したことの二つである。
  • また閩越に兵を擁して外藩を援け立て、定策の功は高く、闔門は玉を横たえたが、そうしながら陰かに首鼠を懐いて百計、軍を沮んだ。滹沱ですでに兵を合わせぬのに、どうして東呉を遽かに下しえよう。異人を居いて奇貨と為し、澶淵を孤注と為す。その両端を持したことの三つである。
  • また関門がすでに下ると甲を釈いて入って臣とし、京師に第を居て海上に招揺したが、かつて麟閣の功なく、ただ遼東の豕に比べられただけであった。隗囂は侍子を出して身は外に返り、延之は台に在って子はさらに兵を挙げた。その両端を持したことの四つである。
  • そもそも奉先(呂布)の天は去就の軽脱にあった。ゆえに建陽に依れば建陽に背き、董卓に依れば董卓に背いた。牢之(劉牢之)の敗は天性の反覆にあった。ゆえに道子に附けば道子に反き、元顕に附けば元顕に反いた。
  • いま芝龍は盗賊の雄をもって遨遊の智を挟み、しかも鷹の眼は化さず狼の心はすでに成って、身は樊籠の中に在りながら志は江湖の上に存した。一旦の緩急に信じうるであろうか。
  • しかし私はまた怪しむ。崇禎の初め、芝龍がすでに撫されると鋭意して金を行い、織皮・丹珀は賈胡から来、明珠・文犀に至ってはみな両を兼ねた。それゆえ薦剡はしきりに上り、爵秩はしばしば貤され、坐して海王を論じて数郡を奄有した。人はただ元亀・象歯がみな淮から来るのを知って、宝玉・大弓がもと魯から竊まれたのを知らぬ。もし盗泉の水を却けえたなら、君子の器を奪うには至らなかったであろう。説は孔子の康子に対えたものにある。