明史紀事本末張献忠の乱(張獻忠之亂)

延安に起こった張献忠が、崇禎元年(1628年)から崇禎十七年(1644年)まで十七年にわたって陝西・河南・湖広・江西・四川を荒らした経緯を扱う。崇禎十一年(1638年)に熊文燦の招撫を受けて穀城に拠るが翌年再叛し、督師の楊嗣昌が討伐に当たった。左良玉の瑪瑙山の大捷でいったん精鋭を失いながら、崇禎十四年(1641年)に襄陽を襲って襄王を殺し、楊嗣昌は自ら縊れる。以後、廬州・武昌・長沙を陥れて「西王」を称し、湖南を制圧したのち崇禎十七年に蜀へ入って成都を陥れ、蜀の士民を大いに殺したが、まもなく病で死んだ。

年表(9件)

崇禎元年〜八年(1628〜1635年)(張献忠の挙兵と流転)

  • 崇禎元年、延安が饑え、谷府の民の王嘉運が乱を作した。延安の人の張献忠がこれに従った。献忠は陰謀にして智多く、賊中で「八大王」と号され、その部は最も強く、傍らの延安の諸郡邑を掠めた。
  • 四年、張献忠が衆二千人を率いて三辺総督の洪承疇に撫に就いた。
  • 五年、献忠は再び叛き、賊首の高迎祥・紫金梁らに随って転じて山西の諸郡県を寇した。
  • 七年、群賊は転じて河南を寇し、張献忠は信陽・鄧州を犯して応山に遁れ入った。洪承疇が諸将を率いて賊を河南に逐うと、献忠は西して商洛に奔り、盩厔・鄠県の間に遁れ、延安の賊の李自成とともに澄城を陥れ、平涼・邠州を寇し、まもなく群賊とともに潼関を出て嵩県・汝州を寇した。
  • 八年正月、諸賊がことごとく南陽・洛陽に集まった。張献忠は東に走って廬州・鳳陽・安慶を掠めた。三月、老回回とともに西して商州に走り、再び秦州に至った。
  • 十一月、献忠が群賊とともに潼関から出て閿郷・霊宝を犯し、東行した。庚申、総兵の祖寛が献忠を姑家廟で大いに破った。
  • 十二月、献忠が諸賊を合わせて廬州を囲み、道を分けて巣県・含山を陥れ、そこで和州を陥れて江に沿って下り、江浦を犯した。

崇禎九年〜十年(1636〜1637年)(滁州の敗北と楚への転進)

  • 九年正月、張献忠が群賊を合わせて滁州を囲んだが、総理の盧象昇が大いに破って賊は河南に竄れた。
  • 十年、群盗は久しく河南を擾して掠むべきものがなく、ことごとく楚に入って蘄州・黄州の間を寇した。官軍が献忠を黄岡で敗った。献忠は再び江北に入り、東して儀真に掠め至り、揚州が急を告げた。献忠はまもなく西に走って楚に入った。

崇禎十一年(1638年)(招撫と穀城の割拠)

  • 正月、総兵の左良玉・陳洪範が賊を鄖西で大いに破り、張献忠が降を請うた。初め献忠は良涿から噪いで盗となり、陳洪範が捕らえ獲たがその貌を異として釈した。それで旧恩を懐き、洪範に降を乞い、部下を率いて賊を殺して自ら効くことを請うた。総理の熊文燦が制を承けて撫した。
  • 献忠は家口を鄖西に置くことを請い、熊文燦が朝に請うと、詔してその罪を貸し功を立てて自ら贖わせた。献忠はそこで部曲数千を率いて白沙界山に居った。献忠は狡くて計が多く、群盗は毎回これを的とした。その降るや、自ら「鄖陽・襄陽・荊州・承天の数百里の内外に一人の賊もなくさせうる」と言った。熊文燦は毎回、曲げてその請いに狥ったので、いよいよ驕って法を奉ぜず、しばしば檄して従征させても応じなかった。
  • 献忠はさらに襄陽一郡を求めてその軍を屯させようとした。熊文燦が二万人分の餉を議すると、献忠は十万人分の餉を乞い、熊文燦は遷延して応じられなかった。
  • 十月、献忠は家口を穀城に寄せると声言して入り拠って守り、群盗を四郊に分屯させた。
  • 十一月、羅汝才もまた撫に就いた。熊文燦はその衆を房県・竹山の間に安んじ、民と壌を錯えて処らせた。遥かに献忠と声援を為し、民の禾を奪って食い、県官の法を奉じなかった。鄖陽・楚・偏沅の諸撫はみな憂いとしたが、熊文燦は剛にして愎、また新たに功があって驕り、みな聴かなかった。鄖陽・襄陽の人は惴々として禍いの至るのに日なきを恐れた。

崇禎十二年(1639年)(穀城の再叛と楊嗣昌の督師)

  • 五月、張献忠が穀城で叛いた。初め賊首の高迎祥がすでに誅せられ、李自成が川西に困められて群盗は勢いを失い、献忠は連ね敗れて精鋭がことごとく尽きた。それで初めて撫を乞うて誅を緩めたので、もとより降る意はなかった。穀城に拠るに及んでひそかに諸賊を勾って犄角と為し、そこで再び叛き去ることを思った。挙人の王秉貞がその謀主となった。ここに至ってついに穀城知県の阮之鈿を殺して叛き、羅汝才の九営が並び起こって応じた。献忠は御史の林鳴球を脅して襄陽で封を求める書を上らせようとしたが、林鳴球は従わず、そこで殺された。
  • 七月、熊文燦が諸将に檄して穀城に進兵させた。献忠は穀城を焚いて西に走り、羅汝才と合した。左良玉が賊を房県の西に追うと、賊は羅睺山に伏を設けた。左良玉の兵は隘を度って伏中に入り、賊が四方から囲んだ。囲みを突いて戦ったが敗績し、一軍はことごとく没して、左良玉はその符印を失い、わずかに残兵数百を収めて房県に走り回った。事が聞こえて熊文燦・左良玉はともに職を革められ賊を殺して自ら贖うこととなった。
  • 九月、大学士の楊嗣昌が督師して賊を討った。十月、襄陽に至って熊文燦を逮え、死に論じた。

崇禎十三年(1640年)(瑪瑙山の大捷と川中の追撃)

  • 二月、平賊将軍の左良玉が張献忠を太平県の瑪瑙山で大いに破り、首万級を斬った。献忠の精鋭はことごとく尽き、ただ驍騎千余だけが自ら随い、興山・帰州の山中に遁れ走り、まもなく塩井から興山・房県の界上に竄れた。
  • 左良玉は興安・平利の諸山に屯し、営を連ねること百里だったが、諸軍は山の険を憚って囲んで攻めなかった。賊は深い箐の中に伏し、山氓に重く賄って塩・芻・米・酪を市い、山中の人はこれに安んじ、かえって賊の耳目となってひそかに兵の情を賊に輸した。献忠はそれで夏を休み、散亡を収め、夷傷を養うことができ、群盗が往々にして帰して兵は再び振るった。当時、羅汝才・過天星の七股の賊はことごとく蜀に入った。
  • 六月、献忠は興山・房県から白羊山に走って巫山の隘に入り、川の兵が躡むと聞いていよいよ深い谷中に入り、旗鼓を掩い息めて転じて西に入り、往くところを知らなかった。都司の曹進功が兵を率いて山に入って偵ったが、一人も見ずして還った。
  • 七月、献忠がすでに西すると、羅汝才はしばしば官軍に敗られて勢いが孤となり、党を率いて走って献忠に合し、共に川西に渡ることを謀った。諸将の賀人竜・李国奇・張応元・汪雲鳳・張奏凱らが師を会して撃った。張応元・汪雲鳳は夔州の土地嶺に営して賀人竜の兵を待ったが、三たび檄しても至らなかった。
  • 初め督師の楊嗣昌は左良玉が跋扈して制しがたく、賀人竜がしばしば賊を破って功があるので、賀人竜を左良玉に代えて将印を佩びさせることを請うた。ところがまもなく左良玉の瑪瑙山の捷によって動かすべからずと度り、再び奏して左良玉に印を佩びさせること旧のごとくとし、別に賀人竜に総鎮の銜を加えて後命を須たせた。賀人竜は初め大将の拝を聞いて踴躍して三軍を動かしたが、寝んだと報せられてそこで怏々とした。左良玉はその故を知って意もまた恨んだ。
  • 献忠が興山・帰州に遁れ伏したとき、千余の残寇は尽くしうるところ、左良玉は印を奪われたのを慙じ、賀人竜は印を帰されたのに觖望して、そこで逡巡して再び深入りせず、献忠を再び熾んにさせた。みな楊嗣昌が両帥の心を失って寇を玩んだためである。
  • 賀人竜は開県に屯し、毎回、餉の乏しきを辞として兵を頓めて進まなかった。癸亥、賀人竜の兵は噪いで西に帰った。
  • 己巳、官軍が土地嶺で敗績した。当時、張応元・汪雲鳳の将いる楚の兵五千はみな新たに募って行陣を経ておらず、賀人竜の兵を待ったが久しく至らなかった。献忠は官軍に後継なきを知って鋭をことごとくして来り攻めた。張応元・汪雲鳳は鋭千人を簡んで摶戦し、晨から日中まで決しなかったが、賊が兵を分けて後山を繞って下り、突然、営中に入ると、営を守る新兵はみな譁いだ。賊が乗じて前後から囲みを合わせ、二将は兵を連ねて死戦した。張応元は流矢に中たったが奮い撃って囲みを突いて出、賊がまさに巴霧河を渡ろうとしていたので河上に馳せ赴き、砲を然やして緋を衣た賊帥一人を撃ち殺し、賊は渡りえなかった。汪雲鳳は苦戦して久しくして脱れたが、渇いて水を斗余飲み、臥して血が臆に凝って卒した。兵は多く潰え亡んだ。
  • 九月、献忠・汝才が大昌を陥れた。庚寅、夔城の山背に屯した。賊の行営の輜重・婦女は甚だ衆かったが、諸軍は多く観望して前まず、ただ賊の後を尾けるだけで、至るところの関隘の防兵は多く遠く遁れ、賊は長駆して直ちに過ぎた。二賊は兵を合わせて達州に趨り西に渡ることを謀った。丙午、賊が河を渡ってそこで巴西に入った。督師の楊嗣昌は監軍の万元吉に諸軍を監させて西行させ、賊の後を尾け撃たせた。
  • 十月壬戌、献忠・汝才が剣州を陥れた。甲子、剣閣を過ぎて広元に趨り、まっすぐ陽平関に走ったが、間道から別に百丈山に出て漢中に入ろうとした。総兵の趙光遠が陽平を守ること甚だ厳しく、賀人竜・李国奇が再び兵を整えて東したので、賊はそこで昭化を踰えて西川に走った。丙寅、川の兵が賊を剣州に追ったが敗績し、賊は四将を擒にして去った。官軍は綿州で転戦し、北を逐って城下に至ったが、賊は綿河を渡って西した。
  • 十一月庚戌、督師の監軍の万元吉が保寧で将士を大いに饗し、諸軍の進止が一つでないので大帥を立てて統べさせ、総兵の猛如虎を正総統、張応元を副総統とした。癸未、保寧を発して綿州に趨り、諸将は要害に分屯した。万元吉は諸軍を督して間道から射洪に趨り蓬渓を扼して待った。癸卯、賊は安岳に屯したが大兵のまさに至るを知って宵に遁れ内江に走った。乙巳、猛如虎が安岳に至って驍騎を選んで賊を逐った。万元吉と張応元は安岳の城下に屯して賊の帰路を遏めた。
  • 十二月己酉、賊が瀘州に走り、賀人竜らが兵をもって躡んだ。辛亥、賊が瀘州を陥れた。瀘州は三隅がみな陡絶して江に臨み、ただ立石站の一路だけが北に走りうる。賊がすでに絶地に走ったので、万元吉は大兵をもって南から老営を搗き、兵を旁らの塞・険要に伏せ、賊を北して永州に竄れさせて逆えて撃てばことごとく殲しうると謀った。乙卯、万元吉の兵が立石站に至ったが、賊営は先に移って南渓を渡っており、官軍は水を隔てて追ったが及ばなかった。癸亥、賊は成都を越えて漢川・徳陽に走り、再び綿河に至った。

崇禎十四年(1641年)(襄陽の襲取と楊嗣昌の死)

  • 正月丁丑、献忠・汝才が巴州に入った。己卯、達州に走った。甲申、賊が違河を渡って東し、新開に往って駅道を焚き燬き、人煙が断絶すること七百里であった。
  • 初め賊が南に竄れたとき、万元吉は間道から梓潼に出て帰路を扼して賊を待とうとしたが、楊嗣昌は諸軍に檄して賊を躡んで急ぎ追わせ、賊を遠く距てて他に逸らせることを許さなかった。諸将はみなことごとく瀘州に向かい、賊が折れて東に返ると帰路はことごとく空しくて再び遏めえなかった。賀人竜は広元に兵を頓めて進まなかった。
  • 己丑、猛如虎が諸将を率いて賊に開県で及んだ。日暮れて雨が作り、諸将はみな人馬の乏しきをもって明朝の戦いを請うたが、参将の劉士傑が「瀘州から賊を逐って馳騖すること四旬、わずかにこれに及んだ。ただ敵をこそ求めるのに、いま賊に遇って戦わず、敵を縦して賊を失えば、誰がその咎を執るのか。諸君のために先んじよう」と言って戈を揮って進み、猛如虎もまた親兵を率いて従った。劉士傑は奮勇して前んで賊陣に摶り、連ねてこれに勝った。
  • 献忠は高きに憑って望み、後軍に継ぎなく左軍がみな前んで却いて進まぬのを見て、精鋭で谷中を繞って官軍の後に出し、馳せ下った。左軍が先に潰え、劉士傑および遊撃の郭関、猛如虎の子の猛先捷はみな戦死し、前軍はすでに覆った。猛如虎は突き戦って囲みを潰えて出たが、馬・仗・軍符はことごとく失われた。賊は東して巫山・大昌に走った。監軍の万元吉は開県に赴いて残兵を収め召し、陣亡の諸将を祭って哀しみは三軍を動かした。楊嗣昌は雲陽にあって開県の失利を聞き、初めて諸将の帰路を扼する謀を用いなかったことを悔いた。
  • 初め賊が西して違河を渡ったとき、楊嗣昌はその必ず秦に入ると策して左良玉に興山・帰州から漢中に趣かせた。賊が東に走るに及んで、楊嗣昌は再び左良玉に檄して夷陵・夔州から進み勦めさせたが、使者は行くのを憚って中道で「平賊はすでに漢中に入りました」と返命した。すでにその言の售れぬのを慮って、さらに人を遣わして左良玉を紿いて「賊は漢中に向かった」と言わせた。左良玉が至らず、楊嗣昌の使いは十九たび返った。左良玉は「先に督師の令に依っていたら、どうして瑪瑙山の功を得られたろうか」と言い、そこで興山・房県の兵を撤して漢中に趨った。賊が夔門を下ったが一人として攔り截る者はなかった。賊はすでに巫山を度り、昼夜、疾く興山・房県の山中に走った。
  • 二月、献忠・汝才が当陽に走った。鄖撫の袁継咸が兵をことごとくして賊を房県・竹山に扼した。賊は宣城に走り、襄陽に備えなきを偵り、二十騎を簡んで符を持たせて偽って官兵とした。己酉の夜、城下に至って守る者が符を験べ、信じて関を啓いた。賊は入るとただちに刀を揮って大呼し門者を殺した。城中には先に賊百余が伏していてともに起こって応じ、火を縦つと光は天を燭らした。賊の大隊が疾く馳せ至って城中は大いに乱れ、門は洞開した。
  • 庚戌の昧爽、賊はことごとく城に入った。知府の王承曾は囲みを突いて走り、兵備副使の張克儉、推官の酈曰広が死んだ。賊は襄王府を焚いて襄王を執えた。献忠は王宮に拠って坐し、王を堂下に坐らせ、巵酒を勧めて「吾は楊嗣昌の頭を断ちたいが、嗣昌は遠く蜀に在る。いままさに王の頭を借りて、嗣昌が藩を陥れたことで法に伏させよう。王よ、この一杯の酒を尽くすに努められよ」と言い、そこで王を縛って殺し、屍を火中に投じた。福清王の常澄は逃れ免れ、ひそかに人を遣わして王の屍を索めたが、すでに燼となっており、わずかに顱骨数寸を拾って帰った。
  • 賊は宮眷ならびに貴陽王の常法を殺し、ことごとく宮女を掠め、銀十五万を発して饑民を賑わした。襄陽の守兵数千、軍資・器械は山と積まれ、ことごとく賊のものとなった。初め左良玉はしばしば賊を破ってその輜重を掠め、ことごとく許州に蓄えていたが献忠に襲い取られ、左良玉が鄖陽にあって家口・貲蓄を襄陽に厝いたのも、ここに至って再びことごとく献忠のものとなった。左良玉は聞いて鄖撫の袁継咸とともに兵を発して馳せ援けたが、すでに及ばなかった。
  • 癸丑、賊が江を渡って樊城を破った。己未、当陽・郟県を陥れた。乙丑、光州・新野を陥れた。
  • 三月丙子、督師大学士の楊嗣昌が軍中で自ら縊れた。当時、李自成がすでに河南を陥れて福王が害に遇い、楊嗣昌は連ねて二郡を失い両親藩を喪ったので免れぬと度って自ら尽きたのである。監軍の万元吉が行営を部署し、猛如虎に蘄州・黄州に駐まって献忠の東に逞しくするのを防がせた。上は襄陽の失陥によって左良玉が制に違い賊を避けたとして職を削り、罪を戴いて賊を平らげさせ、鄖撫の袁継咸を逮えて京に入れた。
  • 四月、献忠は襄陽を焚き掠めてすでに空しくし、左の兵が次第に逼ると聞いて、兵三万で応山を犯したが、知県の章日煇が撃ち却けた。北して随州に至り、汝寧を掠めた。県の難民が逸れ帰って、献忠の面に刀の瘢二つ・箭の創一つがあるのを見たと言った。方に群盗に乾糒を備えて半月の糧とさせて往って固始を攻め、光州を陥れ、次第に麻城に逼った。
  • 革・左の諸賊は皖・桐にあったが、献忠の東来を聞いて潜山・太湖から麻城に至って勾い合い、まさに江を渡ることを謀ろうとした。巡撫の宋一鶴が賊の諜を擒にしてその舟を焚いた。
  • 庚午、献忠・汝才が兵を合わせて随州を陥れ、知州の徐世淳が死んだ。戸を合わせて殺され、吏民は屠僇されて遺すところなく、血は流れて溝澮を成した。
  • 六月、左良玉が献忠を南陽の西山で敗った。献忠は西に走って汝才と兵を合わせて南陽を攻め、昼夜、城を穴ったが、知府の顔日愉が力めて拒んだ。賊は去って信陽を陥れ、左の兵の旗幟を獲て、群盗にこれを襲って泌陽に入らせて陥れた。癸亥、随州に走った。
  • 七月丁丑、献忠が鄖陽を囲んだが、鄖の兵が禦いで殺傷が多かった。己卯、献忠は宵に遁れた。
  • 総兵の黄得功の麾下の兵が叛いて西に走り、献忠に投じた。献忠は鄖西を陥れた。
  • 羅汝才が献忠に忤って北に走り、李自成に合した。左良玉が鄧州で破り、再び淅川で破った。
  • 辛卯、鄖の兵が献忠と戦って敗績した。献忠は擒にした鄖の兵を人ごとに一手を断って縦し帰らせ、官軍を辱めた。督師の丁啓睿と左良玉はともに南陽に屯して兵を頓めて進まなかった。献忠はすでに鄖西を抜いて馬騾・器甲を搶い獲ること甚だ盛んで、群盗が蟻のごとく附いて衆は数十万に至った。献忠はしばしば勝って驕った。
  • 八月、東して信陽を掠めた。左良玉の営には降将が多く、家が鄖陽・襄陽にあって多く献忠に殺し掠められていたので、人々は賊に死を致すことを思った。左良玉はそこで南陽から兵を引いて献忠を信陽に逆え撃ち、その首将の沙賊を斬って大いに破り、その馬一万余を奪って衆数万を降した。献忠は重創を負い、服を易えて夜に遁れ山中に竄れ入った。左良玉の軍声は大いに振るい、降り附く者は日ごとに衆く、諸将を遣わして道を分けて窮め捜させた。
  • 戊午、献忠が余衆数千を収めて反って鄖陽に向かって走ったが、驟かに官軍に遇って戦わずして潰え、馬騾二千を棄てた。なお衆二千があって南陽に趨ったが、創を負って馳せられず、その婦豎を保って日に三十里を行き、部曲は日ごとに逃げること十に六、七、わずかに数百人が随っただけだった。辛未、左良玉が鄖から北に発したが、献忠はすでに南陽を過ぎており、追ったが及ばなかった。監軍御史の汪承詔が将士の観望・縦賊を弾劾した。
  • 羅汝才はすでに北して李自成に合していた。李自成は河南・洛陽に踞して衆五十万を有し、献忠の衆は散じて且つ尽きたので、九月、汝才によって自成に奔った。初め献忠と自成はともに延安の西に起こり、狡詐をもって相い雄長を争った。襄陽を陥れて楊嗣昌が縊れ死んでから、自ら威名は遠く自成の右に出ると思っていたが、敗れて来り帰るときはわずかに数百騎を従えるのみ。自成はまさに強く、屈しさせようとしたが献忠は下らなかった。自成は怒って殺そうとしたが、汝才が知ってひそかに良馬五百騎を選んで献忠に資し、他に徙るよう令した。献忠はそこで夜を尽くして東に馳せ、回・革の諸賊と合して霍山に入り、険を扼して拒み守った。督師の丁啓濬が兵をもって商城に赴き、まもなく北行して李賊を討ったので、献忠は山中で逸れることを得た。
  • 十月、張献忠が六営の賊を合わせて再び出て舒城を攻めた。

崇禎十五年(1642年)(廬州の陥落と潜山の大敗)

  • 二月乙卯、張献忠が亳州を陥れた。亳州の官吏は先にすでに城を棄てて走っており、賊は兵を按じて城に入った。
  • 三月、献忠が回・革の諸賊を合わせて再び舒城を攻めた。四月壬寅、舒城が陥ちた。当時、舒城には令がなく、参将の孔庭訓が兵千人をもって編修の胡守恒とともに民を率いて共に守ること七か月を閲した。孔廷訓が賊に降り、賊を勾って城を攻めた。胡守恒は舒の人に倡えて死守し、賊は洞車で城を穴って穿った所が数か処あったが、胡守恒は軍民を督して補い塞いだ。賊が書を射て降を脅すと、胡守恒はその書を城上で燔いた。三日を越えて城は陥ち、賊は胡守恒を執えてその腹を刃し、数十創を被って死んだ。献忠は舒城に屯して「得勝州」と改め、降将の孔廷訓に霍山を攻めさせた。
  • 河南の賊の袁時中が兵をもって献忠に会した。乙巳、献忠が諸賊を合わせて六安を陥れた。
  • 五月甲戌、張献忠が廬州を襲い破った。これより先、献忠は英山・霍山の遊民を遣わして陽に貿易する者としてひそかに廬州城に入らせていた。たまたま督学御史が士を較べに郡に至ったので、献忠は賊数百を遣わして書巻を負い青衿を衣て諸生の応試する者に雑じらせ、城中に旅寓させた。甲戌の夜、漏三下、献忠は甲を捲いて疾く馳せて郡に入り、城中の賊が火を縦って応じ、城は陥ちた。学使者および備兵副使の蔡如蘅はともに走り、知府の鄭履祥が死んだ。廬州は城池が高く深く、賊はしばしば攻めても克てなかったが、ここに至って一夕にして陥ちた。献忠は兵を斂めて退き巣湖に屯し、含山・巣県を掠めた。
  • 六月辛亥、献忠が廬江を襲い陥れ、焚き僇して一空とし、兵を舒城に還した。
  • 八月辛丑、献忠が三軍に分かれ、一軍は六安に上り、一軍は廬州に趨り、一軍は廬江・三河に往って双橋の巨舟二百艘を掠め、再び巣湖で舟艦を大いに治めて水師を習わせ、そこで群賊を大会して水陸五十六営を合わせて皖口に集めた。
  • 壬子、献忠が再び六安を陥れ、州民をことごとく一臂を断ち、男は左、女は右とした。総兵の黄得功・劉良佐の兵が六安を救い夾山嶺に営したが、再戦して敗績し、黄得功は定遠に帰った。献忠は再び六安を陥れ、黄得功・劉良佐の兵を挫き、江を渡って南京に入ることを謀り、そこで号を僭し元を改め、偽の宝を刻み、自ら宮した男子を選んで偽の総兵以下の官に署した。
  • 九月、黄得功が再び大兵をもって逐った。己卯、賊はことごとく潜山に走り、賊将の一堵墻に殿を命じて山上に営し、歩騎九十哨、営を分けて四つとし、前は大溝に阻まれ後は山険を枕にして持久の計とした。黄得功・劉良佐は甲を捲いて疾く趨り、夜半に山の後に縁って噪いで升った。賊は驚き起きて措を失い、しかも前は大溝に阻まれて列を成しえなかった。官軍が奮い撃つと、賊は崖を踰え澗を跳んで四方に潰えた。六十里を追い奔って首万余を斬った。献忠は囲みを潰えて走り、一堵墻は林中に伏したが焚き殺され、屍を填めて渓壑に溢れ、臭いは百里に達した。馬騾数万を奪い、賊の腹心・謀士・婦豎はともに尽きた。
  • 十月丙午、劉良佐が再び献忠を安慶で破り、馬騾五千を奪い、難民一万余を救い回した。献忠は兵を引いて西して蘄水に走った。
  • 十一月、献忠が西して楚に入り、劉良佐は師を淮安に旋らせ、黄得功は師を定遠に旋らせた。
  • 十二月、献忠が再び東に去って桐城を陥れて屠った。初め献忠が西に遁れると、諸軍はともに袁時中を潁で勦めていたので、献忠は虚に乗じて突き出た。丙戌、無為州を陥れ、そこで黄梅を陥れた。壬辰、太湖を陥れた。

崇禎十六年(1643年)(武昌の陥落と湖南制圧)

  • 正月辛酉、張献忠が二百人で夜襲して蘄州を陥れた。翌日、薦紳・孝廉・文学にそれぞれ冠帯して東門から入り西門から出させ、ことごとく斬った。そこで蘄州を屠り、婦女を留めて城を毀たせ、少しでも力めねばただちに殺した。守道の仁和の人・許文岐を執えた。献忠はかつて杭州に販って許文岐を識っており、かなり礼遇したが、許文岐が陰に賊を図ることを謀ったので殺された。
  • 当時、楚の兵はことごとく左良玉に随って東下しており、蘄州・黄州一帯はただ土兵三百人が蘄水を守るのみ。献忠は虚に乗じて充ち斥けた。三月丁酉、蘄水を陥れて屠った。
  • 甲寅、左良玉が兵を引いて池口から西上して安慶に屯した。
  • 丙辰、献忠が蘄水から疾く馳せて黄州に至り、大霧に乗じて城を攻めた。黎明に城は陥ち、副使の樊維城を執えて降らせようとしたが、賊を罵って屈しなかったので、賊が刺して胸を洞して死んだ。献忠は府に拠って自ら「西王」と称した。麻城の諸生の周文江が乱を倡えて迎え降り、献忠は大いに喜んで偽に周文江を知州に授けた。賊はまもなく羅田を陥れた。
  • 五月、総兵の方国安が兵七千を率いて蘄州を扼した。献忠は西して武昌に向かった。武昌の武備は積み弛み、闖・献が交々江漢を窺うので、当時、兵を募って城を守ることが議されたが、庫蔵は空しく絀しかった。楚王には積金百万があり、三司・長史が金数十万を貸して軍を贍わすことを乞うたが、王は応じなかった。大学士の賀逢聖は家居して義を倡え、貲を捐てて兵を募り、僉ら土着を募るべきだと謂った。たまたま承天・徳安の潰兵がともに下ってきたので、楚王はことごとくこれを募って軍鋒とし、長史の徐学顔に領させて「楚府兵」と号した。
  • 献忠は江に沿って上り、師をことごとくして漢陽を破り、江に臨んで渡ろうとした。武昌は大いに震え、江上の兵を撤して城を嬰って守ることが議された。参将の崔文栄は「城を守るは江を守るに如かず、江を守るは漢を守るに如かず。磨盤・煤炭の諸洲は浅くて馬腹を過ぎぬ。これを縦して飛び渡らせ、城を嬰って坐して困るのは策ではない」と言ったが、議者は従わなかった。賊は果たして煤炭洲から渡ってまっすぐ城下に逼った。崔文栄が禦いで小しく斬獲があった。賊が武勝門を攻めると崔文栄は諸軍を率いて拒み、殺傷が多かった。
  • 壬戌、楚府の新募の兵が賊の内応となって門を開いて賊を迎えた。崔文栄は馬を躍らせ矛を持って大呼し、賊三人を殺したが、賊が矛を攢めて刺し、腋を洞して死んだ。大学士の賀逢聖は崔文栄とともに武勝門を守っていたが、城が陥ちると家に帰り、衣冠して北に向かって再拝し、巨舟にその家を載せて墩子湖に出、中流に至って舟を鑿った。全家で溺れた者は十二人。賀逢聖の屍は沈むこと百七十日で壊れず、十一月壬子に初めて出して葬った。長史の徐学顔は賊と格闘し、左臂を断たれても右手に刀を持って仆れず、賊は支解した。
  • 楚の宗室には賊に従う者が多かった。賊は楚王を執え、宮中の積金百余万をことごとく取り、輦で数百車に載せても尽きなかった。楚の人はこれをもってみな王の愚かさを憾んだ。賊は箯輿で王を籠めて西湖に沈め、士民数万を屠僇して屍を江に投じ、なお余った数万人は縦して城を出させ、鉄騎で囲んで蹙めた。江中は浮屍が江を蔽って下り、武昌の魚はほとんど食えなかった。その遺民数百は多く手足を刖り断たれ目鼻を鑿り毀たれて、一つも全き形の者はなかった。
  • 献忠はそこで楚王府に拠り、僭して武昌を「京城」と称し、偽に六部・五府を設け、「西王之宝」を鋳、科を開いて士を取り、殿試で三十人を取って進士とし、郡県の官を授けた。
  • 初め李自成の兵が漢陽に臨んだが克てず、献忠が取ったと聞いて自成は怒り、遠近に榜示して「よく献忠を擒にして献じうる者には千金を賞す」と言った。武昌を取ったと聞くに及んで、再び人を遣わして賀って「老回回はすでに降り、曹・革・左はみな殺された。行く行くは汝に及ぼう」と言った。献忠は書を得て懼れ、多く金宝を賫して自成に使いを報せたが、自成はその使いを留め、献忠はこれを恨んだ。
  • 六月丙戌、平賊将軍の左良玉に専ら張献忠を勦めて師を老いさせ餉を糜らすなと諭した。
  • 七月辛亥、方国安が左営副将の徐懋徳・馬士秀らと歩騎二万を合わせて蘄州から上り、夜に賊を大冶で撃って首千級を斬った。前鋒がすでに勝つと、左鎮の諸軍が並び進んだ。献忠は聞いて、戊午、四人の賊帥に武昌を守らせ、金口に浮橋を為し、衆をことごとくして西に渡り、舟師を湖中に屯して岳州に向かうことを謀った。
  • 八月丙寅、方国安らが兵を黄州に進めて偽知府を斬った。癸亥、諸将が進んで陽邏堡に次し、武昌を距たること三舎。監紀の知県の呉敏師が蘄州・黄州の四十八寨の義勇数万人を聯絡して師と会した。総兵の常安国が舟師で先に進み、金沙州で転戦して賊の舟百艘を奪った。賊騎は反って走り、城下の諸舟を焚いて城を嬰って自ら保った。常安国らは退いて漢口に屯した。
  • 丙寅、諸軍が斉しく武昌を圧して軍した。賊が出て戦って大敗し、退き入ると官軍が逐ってそこで城に入った。賊は門を開いて西に走り、諸将は兵を縦して屠僇すること万を計り、そこで漢陽ならびに諸属県を復した。
  • 張献忠が咸寧・蒲圻を陥れ、岳州を距たること二百里。沅撫の李乾徳、総兵の孔希貴が兵二万で城陵磯を守り、ことごとく岳州の居民を他に移し避けさせ、軍士に詐って居民として門を開いて賊を迎えさせた。賊が城に入ると伏が発して賊はことごとく殲され、四人の賊を留めて一耳を割いて箭を貫き、縦し回して賊を辱めた。献忠は怒って兵を益して進み攻めた。李乾徳は虚しく営塁を立て、道傍の林中に旗幟を植え、大砲を伏せてその上に薪を積んだ。賊が火をもって攻めると積薪に延焼し、砲が大いに発って賊数百を殺した。賊はいよいよ怒って水陸から並び進んだ。李乾徳は戦艦を飾って中流から賊営に向かい、矢石の及びうるところを度ってただちに止まって進まなかった。賊が連弩で射ること良や久しく、李乾徳は賊の矢と砲がまさに尽きるのを度って水陸から奮い撃って大いに破り、三戦三捷した。献忠はそこで衆二十万をことごとくして岳州を囲み、百道からともに攻めた。力が屈して城は陥ち、李乾徳・孔希貴はともに長沙に走った。
  • 戊辰、賊の前鋒が湘陰に至った。湘陰の民はともに城を空しくして走った。献忠は軍を二つに分け、一軍は長沙に下り、一軍は荊州に上った。献忠は北に渡ろうとして洞庭湖の神に卜したが吉ならず、三たび卜しても神はついに許さなかった。庚辰、献忠は舟を湘潭に斂めること数千艘、まさに北に渡ろうとしたが、たちまち大風が起こって舟百余を覆し、溺死する者数千人。そこで再び岳州に還り、掠めた婦女をことごとく殺して屍を江中に投じ、その舟を焚いた。火は四十里に延び、江水は夜に明るくて昼のごとくであった。そこで陸行して長沙に向かった。
  • 甲申、城下に至った。長沙の人民は先にすでに走り、李乾徳は吉王・恵王を奉じて衡州に走った。丙戌、長沙が陥ちた。総兵の尹先民・何一徳が賊に降り、巡撫の王聚奎は単騎で江夏に走り、推官の蔡道憲が死んだ。
  • これより先、武昌が陥ちると王聚奎は南して長沙に奔った。蔡道憲は還って岳州に屯することを請い、「岳と長沙は唇歯であります。力を併せて岳を守れば長沙は保ちえ、衡州・永州も虞れなくなります」と謂った。王聚奎は岳に屯すること数日でなお南に徙り、万人を駆って長沙に入れ、過ぎるところは泥のごとく、惨たらしさは賊より甚だしく、まもなく遁れて湘潭に入った。
  • 賊が城下に至って推官を呼び「吾が軍中はみな爾の名を知る。速やかに降れ。自ら苦しむな」と言うと、蔡道憲は強弩を挽いて射た。献忠は怒って攻めること三日三夜で城は陥ち、蔡道憲を執えて百計、降を誘ったが屈しなかったので磔にした。健卒の林国俊ら九人は追い侍って去らず、賊が蔡道憲に降を勧めたとき、林国俊は「もし吾が主が降りうるなら、我らもまた去っていた。今日には至るまい」と言った。賊が「爾の主が降らねば爾もまた生きえぬ」と言うと、林国俊は「もし我らが生を願うなら、また去っていた。今日には至るまい」と言った。賊はともに殺した。うち四卒が奮然として「しばらく旦夕を延べて主の骸を葬ってから刃を受けたい」と願い、賊は義として許した。そこで四卒は衣を解いて骸を裹み、南郭に葬り、畢わって四卒は自ら経れて死んだ。
  • 献忠はすでに長沙を陥れると偽官を設立し、偽の榜を大書して遠近に檄を馳せた。降った賊将の尹先民・何一徳が前駆となって江西を進み取ることを願い、献忠は悦んで偽に世襲の伯に封じた。
  • 庚寅、賊が衡州を襲い陥れ、桂王および吉・恵の二王は永州に走った。九月、献忠は桂王府の殿材を拆いで長沙に至らせ宮殿を構造し、兵を遣わして南して三王を永州に追った。湖南を巡按する御史の劉熙祚が水師を督して禦ぎ、兵を遣わして三王を護って南行させて広西に入らせ、自らは永州に入って死守した。姦人が内応して門を開いて賊を迎え、劉熙祚は賊に執えられた。賊は脅して降らせようとしたが屈せず、永陽駅中に囚えた。劉熙祚は目を閉じて食を絶ち、絶命の詞を壁に題した。賊が再三、降を諭し、白刃を臨ませたが、劉熙祚は大罵してやまず、ついに害に遇った。これで全楚はみな陥ちた。
  • 戊戌、官軍が岳州に入った。初め献忠は岳州を陥れて偽官を置いて守らせ、ことごとく群賊を率いて南して地を略していたので、官軍が進んで復し、偽官はともに誅に伏した。
  • 献忠は衡州に屯して再び軍を三つに分け、一軍は永州に往き、一軍は広西の全州に入り、一軍は江西の袁州を犯した。献忠は長沙を陥れて科を開いて士を取った。
  • 丙辰、賊の前鋒が袁州に至った。献忠が萍郷に至ると知県は城を棄てて走り、萍郷の士民は牛と酒で遠く迎え、賊の路に相い属いた。戊子、賊は萍郷を陥れ、ことごとく公廨・屋廬を焚いてその城を空しくした。献忠は長沙に帰り、兵を分けて佼県・分宜を狥えた。
  • 十月甲子、賊が万載を陥れた。これで瑞州・安福・臨江・新喩・分宜の人はともに空しくなった。
  • 献忠が別将を遣わして連州に趨らせた。南贛兵備副使の王孫蘭は韶州に駐まっていたが兵は百に満たず、聞いて遽かに自ら経れ、知府は城を踰えて遁れ、韶の民はことごとく逃げた。
  • 袁州が賊に迎え降り、賊は袁州を陥れた。左良玉が副総兵の呉学礼に袁州を援けさせ、分宜に次した。甲戌、進んで袁州を囲むと偽将の丘仰寰が拒み守った。都司の高山が身を奮って先登し、賊二千四百を斬り、馬六百を奪い、丘仰寰を擒にして斬り、そこで袁州を復した。
  • 当時、江西の袁州・吉安・臨江の人民は多く山谷に徙っていたが、官兵が淫殺して三郡の民を俘として献じたので、所在に屯し結んで官軍を拒んだ。江西巡撫の郭都賢が檄して兵を撤して九江に回らせ、土着を招いて三郡を戍らせた。官兵がすでに撤すると賊は長沙から突然、吉安に至った。丁丑、備兵副使の岳虞巒がまさに軍を郊で閲していると、俄かに賊の至るのを報せ、みな潰えて岳虞巒は走った。戊寅、吉安が陥ち、諸県が同日に陥ちた。賊は偽官を設け、吉安を「親安府」、廬陵を「順民県」と改めた。賊将の張其在が偽の檄を発して袁州に馳せ下すと、兵民はみな城を傾けて先に竄れ、賊は再び袁州に入った。
  • 献忠は長沙にあって兵を増して九営とした。四営はみな老卒、五営はみな新附である。左良玉は馬進忠ら諸将に兵を袁州に馳せ赴かせ、馬士秀は歩兵で臨湘・岳州に上り、恵登相に襄陽を規復させ、劉洪起に南陽を規復させた。
  • 乙酉、献忠が賊将の馬賜を遣わして臨湘に下って米と釜を取らせた。方国安が兵を遣わして蒲圻に進み扼した。
  • 十一月壬辰、江督の呂大器の兵が吉安を復した。
  • 癸巳、献忠が四人の賊将を遣わして岳州に下らせ、江に沿って伏を設け、軽舟を㲼港に蔵し、巨艦に輜重を載せて流れに順って下らせた。副将の王世泰・楊文富が兵三千で邀え撃つと、賊は流れに逆らって陽に走って官軍を誘った。官軍は利を争って流れを泝って上り、ことごとくその資を奪って舟に入れたが、舟は重くて速く行けなかった。賊の軽舟が四方に出て囲み、岸を夾んで賊兵が邀え撃ち、官軍は殺され溺れる者が算えられなかった。方国安ら諸将が兵を合わせて救い、わずかに楊文富・王世泰を奪い回したが、師二千、舟二百艘を喪った。岳州の軍民は城を空しくして走り、賊は疾く趨って再び陥れた。
  • 壬寅、詔して承天太監の何志孔に左良玉の軍を労わせ、楚を恢復した功によって左良玉に少師を加え、一子に蔭し、吏士はそれぞれ秩を陞し、各軍に大いに賚した。詔して左良玉に鎮を武昌に移させた。左良玉は馬士秀に長沙に趨って賊の後を搗かせ、馬進忠らに袁州・吉安に趨ってその前を迎え撃たせた。
  • 甲寅、馬士秀らが臨湘を復し、賊は岳州に奔った。諸将が岳州まで追うと、賊将の混天竜が歩騎数千で南岸を拒み、軽舟数十で流れに順って下って官軍を邀えた。馬士秀は軍を三分し、殿後の者に南岸の賊に交々射させ、風に乗ってまっすぐ上って賊の舟の後を繞ってかえって撃った。賊は大敗してことごとくその舟を奪われ、南岸の賊は疾く城に入った。馬士秀は諸軍を麾いて岸に登り、四面から城に乗って鱗次に入った。賊は門を突いて再び長沙に走った。首四千余級を斬り、そこで岳州を復した。
  • 乙卯、馬進忠らが兵を分宜に進めると賊はことごとく袁州に竄れた。丙辰、進んで袁州に趨ると賊は門を開いて西に走り、諸軍が三十里を逐って袁州を復し、ことごとく諸偽官を誅し、首三千級を斬り、賊の馬二百・弓矢数万を奪った。
  • 十二月、張献忠が兵を遣わして建昌を陥れ、また撫州・南豊を陥れた。
  • 献忠が人を遣わして老回回に好を通じた。当時、老回回は李自成のために荊州に拠っていた。献忠は旧好を修めて兵を合わせた。李自成がすでに関に入ると、献忠はいよいよ荊州・岳州の間に横となった。
  • 丁亥、献忠の前鋒の艾四が転戦して蒲圻に至り、馬進忠が禦いだが再戦して敗績した。

崇禎十七年(1644年)(入蜀と四川の惨禍)

  • 正月、張献忠が岳陽から江を渡り、虚しく偽官を江南に設けて大隊はともに江北に往き、そこで長沙を棄てた。三江口に浮橋を造り、一軍で荊州を過ぎ、ことごとく舟楫を棄てて歩騎数十万で夔州に入った。
  • 二月、方国安・馬進忠が長沙を復した。左良玉が兵を遣わして賊を沙陽に追った。
  • 六月、張献忠が涪州・瀘州を陥れた。蜀王が急を告げ、南都に師を済うことを請うた。左良玉の兵は徳安に屯した。献忠は流れに順って仏図関を陥れ、そこで重慶を囲んだ。力をことごとくして拒み守ったが四日で陥ち、瑞王は闔宮が難に遭い、旧撫の陳士奇が死んだ。賊は重慶を屠り、丁壮一万余を取って耳鼻を刳り一手を断って各州県に駆り狥え、兵が至って下らねばこれをもって令とした。ただ王府の官吏を殺して府庫を封じて待ちさえすれば秋毫も犯さぬとしたので、これによって至るところ官民は自ら乱れ、破竹のごとく下らぬものはなかった。
  • 八月、張献忠が進んで成都を陥れた。蜀王は闔宮が難に遭い、巡撫の竜文光ならびに道府の各官はみな死んだ。献忠は全蜀の紳士を大いに索めて成都に至らせ、みな殺した。まもなく榜を懸けて士を試すと、諸生は遠近から争い赴いたが、献忠は兵で囲んで数千人を撃ち殺した。みな筆を挟み策を握って死に、蜀中の士類はともに尽きた。再び蜀の民を大いに殺し、全蜀数千里は蕭条として絶えて人跡がなかった。
  • 当時、中原は故が多く、諸将は西を顧みる暇がなく、献忠はそこで両川を奄有した。李自成が敗れると、さらに兵を発して漢中を攻めて陥れた。献忠は逡巡して自ら守り、敢えて出なかった。まもなく献忠は病で蜀中に死んだ。

史論(谷応泰曰)

  • 昔、『周書』に越の人は死を畏れぬのを閔れむとあり、三輔は縦横として斧を持って出るに至り、鄭は萑苻の警を苦しみ、楚は僕区の法を定めた。草竊・姦宄は古より患いとされてきた。しかし秦から晋・豫を寇し、豫から楚・蜀に入り、転じて江右を掠め、旋って粤西を犯し、二十余年の間、肝を取って膳に益し、血を流して渠を成し、里落は蕭条、宗社は顛覆するに至ったのは、張献忠ほど甚だしい者はいなかった。
  • 考えるに献忠と李自成は飢えによって乱を煽り、ともに延安に起こった。孫恩がまさに叛くと盧循がただちに興り、王仙芝がすでに起こると黄巣が来り附いたごとく、悪を同じくして相い済すこと矢を連ねるがごとくである。天が人の国に禍いしてこの孽があったにすぎない。
  • そのとき渠魁を掩い捕らえ余党を賑わし恤めば、張京兆の鼓を鳴らすを用い、汲長孺の粟を発するを兼ねて、平定・安集はひとりの長吏の事であったろう。それなのにどうして原を燎いて撲ちえず、蔓を滋らせて図りがたく、嘯き聚まって群を為し、傍らの郡邑を抄うに至ったのか。楊大が作って湖湘はことごとく陥ち、黄巾が起こって山左は平らがず、天子に西を顧みる憂いを、蒼生に喋血の患いをもたらした。その乱の源を揆るに、誰がその咎を執るのであろうか。
  • しかし献忠に他の技巧はなく、ただ陰謀にして智多く、暴豪で殺を嗜んだだけで、乗ずべき敝れは正に自ら少なくなかった。賊師がしばしば挫けたときはその弱きを擒にしうる。賊気がまさに張るときはその驕りを掩いうる。賊党が内に携くときはその釁を間しうる。
  • 仮に左良玉の太平の捷で精鋭がことごとく尽きたとき、黄得功の潜山の捷で屍が溝壑を填めたとき、ただちに勝ちに乗じて奔を追い逸れ去らせなかったなら――子儀が新店を克って東京を収め、懐光が河陽を克って朝義を滅ぼしたごとく――。ゆえに「その弱きは擒にしうる」と言う。
  • また襄陽が初めて陥ちて献忠が横恣したとき、六安が再び下って献忠が元を改めたとき、もし敗を転じて功と為し彼の不意に出たなら――元済の気が盛んなのに李愬が淮蔡を夜襲し、潁川がまさに陥ちたのに長源が范陽を規り取ったごとく――。ゆえに「その驕りは掩いうる」と言う。
  • また南陽の敗で自成が謀を蓄えて図り、漢陽の取で自成が金を懸けて購ったとき、もし諜を用い奇を出して両虎を自ら闘わせたなら――呂布が袁術に交わりを疎んじ、慶緒が思明に首を授けたごとく――。ゆえに「その釁は間しうる」と言う。
  • ところが諸臣の計はここから出ず、天が与えても取らず、地の険を坐して失い、遠くは漢川を棄て近くは江夏を防ぎ、わずかに石站に屯したときすでに南渓を渡られた。万元吉は才が崔浩に同じながらその用を竟えず、李乾徳・孔希貴は智が淮陰に埒しながら勢い絀して走り、賀逢聖・蔡道憲は忠が睢陽に比しながら力尽きて死んだ。歳月が遷延して四分五裂し、師は老い財は匱しくなるに至って、天下の大勢は去ったのである。
  • しかし私は思う。元和の討賊は全く裴度に倚り、建興の恢復はひとり武侯に任せた。ところが楊嗣昌は白面の書生で将略に嫺わず、寇氛は剽鋭で、郗曇の疾に移るのではないにせよ、大藩が蹂躙されて孟昶の薬を仰いだのと同じであった。義を引いて自ら裁したのは愧じなしとは言えようが、張応元・劉士傑はなお発蹤に昧く、猛如虎・賀人竜はついに駕馭を乖いた。これを次律の陳濤の敗、中軍の石頭の䘐に譬えれば、法として悪を取ったのもまた辞しえぬところである。
  • 論者はまた「献忠はなお蜀に拠っただけだが、闖は闕を犯した。法によって誅を行うなら等を減ずるに薄い」と言う。しかし知らぬのだ。献の乱以来、材賦は呉・楚に絀き、士馬は荊州・襄陽に斃れ、民命は中野に塗れた。それゆえに瓦解土崩して一蹶で壊れたのである。譬えれば人の死ぬがごとく、献がその手を縶いで後に闖がその心を刺し、献がその胸を揕いて後に闖がその吭を扼した。ならば献と闖はその罪はただ均しい。窮奇・檮杌をまた九品で差次しうるであろうか。