明史紀事本末庚戌の変(庚戌之變)
嘉靖二十九年(1550年)の一年間、モンゴルの諳達(アルタン)が大同から古北口を破って京師の郊外まで侵入した事件を扱う。総兵の張達・林椿が戦死したのち、厳世蕃に賄って宣大総兵となった仇鸞は逆に諳達に賄って寇を他鎮へ移させ、その結果として敵は薊州から京畿へ長駆した。京師は戒厳となり、王忬が通州を守り、徐階・趙貞吉が貢市の要求への対応を論じたが、諸鎮十余万の兵は一戦もせず、兵部尚書の丁汝夔と侍郎の楊守謙が棄市された。諳達は掠奪を満載して古北口から塞外へ去り、戦後は仇鸞が戎政府を握って専権し、王邦瑞は落職した。
年表(8件)
- 嘉靖二十九年夏六月(張達・林椿の戦死)1550年諳達が大同に伏兵を設け総兵張達と副帥林椿を討ち取る
- 嘉靖二十九年八月(仇鸞の賄和と古北口の突破)仇鸞が諳達に賄って寇を東へ移させ敵が古北口を破る
- 嘉靖二十九年八月(王忬の急報と京師の戒厳)王忬が通州で防ぎ急を告げ京師が戒厳に入る
- 嘉靖二十九年八月(仇鸞の入援と諸鎮の集結)仇鸞が大同兵を率い入援し大将軍として七鎮五万を統べる
- 嘉靖二十九年八月(諳達の京郊蹂躙と貢市の要求)諳達が京郊を掠め入貢を求め徐階が計をもって款じるよう説く
- 嘉靖二十九年八月(帝の親臨と諸臣の逮捕)帝が奉天殿に出て責め丁汝夔と楊守謙が棄市される
- 嘉靖二十九年八月〜九月(諳達の撤退と昌平の敗)諳達が西して昌平で仇鸞軍を破り古北口から塞を出る
- 嘉靖二十九年九月〜十一月(戦後の措置と仇鸞の専権)三大営を戎政府に改めて仇鸞が理め王邦瑞が落職する
嘉靖二十九年(1550年)夏六月(張達・林椿の戦死)
- 諳達が大同の境を寇し、墻を潰して入った。精兵をことごとく溝壑の中に伏せ、老弱の百騎を往来させて餌とした。偵騎はこれを信じて総兵の張達に報せた。張達は日ごろから果敢鋭利で敢えて突き入る性で、大将のもとに至って軽んじ、兵を合わせようとしたが、兵がまだ合わぬうちに麾下を率いて馳せ撃った。伏兵が起こって張達を幾重にも囲み、馬が躓いてついに殺された。
- 副帥の林椿は張達が囲まれたと聞き、馬に鎧も着けずに馳せて救おうとしたが果たせず、やはり死んだ。張達も林椿もみな驍勇で戦に長けていた。諳達は二将の首を得るとたちまち引き去った。
- 事が聞こえて総督侍郎の郭宗皋、巡撫都御史の陳耀を逮えて獄に下し、陳耀は杖されて死に、郭宗皋は遼左に謫戍された。張達に左都督、林椿に都督同知を贈り、祠を立てて春秋に祀るよう賜った。
嘉靖二十九年八月(仇鸞の賄和と古北口の突破)
- 諳達が薊州の塞に入った。初め張達が敗れて没すると、翁万達を起復して郭宗皋に代えて総督とし、趙錦を陳耀に代えて巡撫とし、仇鸞を宣大総兵とした。翁万達は家居していてまだ至らなかったので、侍郎の蘇佑にその事を摂らせた。蘇佑は鎮に至るとただちに疏を上って兵と食を増すよう請うたが返答がなく、そのうちに諳達と狼台吉が再び衆を擁して大同を窺った。
- 初め仇鸞は廃に坐して京師の邸に居ったが、厳世蕃に賄って総兵宣大を得ていた。このとき惶懼して策がなかった。下働きの時義・侯栄という者が仇鸞に「主よ、憂えなさるな。私が主のために解いてみせましょう」と説き、そこで仇鸞のために重い賄いを持って諳達に賄い、寇を他の塞に移して大同を犯さぬようにさせた。諳達は貨幣を受けて箭と纛を贈って信とし、盟を結んで東に去った。
- 諜者がさらに「敵中の言では、宣府の東、遼左の西を寇そうとしている」と告げた。兵部尚書の丁汝夔は、帝が警報を厭うと思ってすべては奏聞せず、ただ薊州の撫・鎮に厳しく備えるよう申し飭めただけだった。やがて警報がいよいよ甚だしくなり、そこで諸辺の兵一万二千騎、京営の兵二万四千騎を発して宣府・薊州の諸関隘に分布させた。だが辺兵は符験を取って会合を期しながらすぐには至らず、京兵はことごとく市井の傭人や下働きの子だった。識者はその必ず敗れることを知った。
- 秋八月乙亥、諳達が部下を率いて古北口に至り、数千騎で墻を攻めた。都御史の王汝孝は衆をことごとく出し、火砲・矢石を下して攻めた。諳達は偽って兵を督して薊の師を繋ぎ止め、別に精騎を遣わして間道の黄榆溝から墻を潰して師の後方に出させた。京兵は大いに驚いて潰え、争って甲や馬を棄てて山林に竄れた。
- 寇はそこで懐柔・順義を大いに殺掠し、吏士は数知れず、長駆して内地に入った。
嘉靖二十九年八月(王忬の急報と京師の戒厳)
- 順天巡按御史の王忬は報を聞き、兵が弱くて禦げる者がないと計り、夜に疏を草して言った。敵兵は慓悍で風雨のごとく、しかも古北口は京師を距たること七舎にすぎず、漫らに広がって衛戍も瞭望もない。神京と陵寝が万一にも蕩き揺れれば、事は小さくない。速やかに廷臣を集めて戦守の策を議されたい、と。
- そして自ら出て通州に駐まり、吏民を召して武器を給して約束を聴かせ、漕舟を収めて潞河の西に艤し、敵に用いられぬようにした。ちょうど終えたところで夜半に敵兵が果たして至り、河の東二十里の孤山・汝口の諸処に営した。王忬はまた疏を作り、城から縋って使いを京師に来させて援けを請うた。
- 京師は震恐し、急ぎ諸営の兵を集めて城を守らせた。少壮な者はすでにみな辺に出ており、堠が敗れて喪われ、わずか四、五万人しか残らず、その半ばは老弱、さらに半ばは総兵・提督・太監の家に役されて伍に帰らせられなかった。倉卒に武庫から甲仗を索めたが、武庫の閹人はまた例を援いて代価を要求し、時を移して発せず、久しく軍を為せなかった。
- 丁汝夔が奏聞すると、帝は大いに驚き、吏部左侍郎の王邦瑞、定西侯の蔣傅に九門を提督させ、文武の大臣各十三人に一門ずつ守らせた。また別に都御史の商大節を遣わして科道官を督して民間の材力ある者、蒼頭、義軍を四万近く募り、坊甲・保伍とともに諸門の睥睨の間に分け置き、天下の武試に応じた者千余人を集めて諸大臣に分け従わせて策応させ、諸鎮の兵に檄して勤王させた。
- 当時、寇騎は通州に逼ること数日、水に阻まれてまだ渡れなかった。王忬は日夜、城に乗って守ったが支えられず、しきりに急を告げた。詔して都御史の王儀を遣わして援けさせた。
嘉靖二十九年八月(仇鸞の入援と諸鎮の集結)
- 己卯、咸寧侯の仇鸞が勤王の檄を得て大同の兵二万を率いて入援した。先に寇が東に行ったとき、時義・侯栄は仇鸞に「賊の騎が東しました。公は自ら入援を請うべきです。功と為すことができ、しかも上として天子に結ばれます」と言った。仇鸞は悦び、ただちに偽って「臣は賊が東して薊鎮を犯すのを偵知しました。まことに京師が震驚するのを恐れます。便宜をもって応援し、あるいは賊に随って搏戦し、あるいは径ちに居庸に趨って防守したい」と奏した。
- 帝は壮として、居庸関に留駐し、警を聞いて入援するよう詔した。そして諳達は果たして薊鎮から古北口を攻めて入り京師を犯した。帝はいよいよ仇鸞を信じて入援を詔した。仇鸞は副総兵の徐珏、遊撃の張騰らと兵を率いて馳せ至り、通州河の西に陣した。帝は大いに喜んだ。
- このとき保定都御史の楊守謙が五千騎で至り、延綏副将の朱楫が三千騎で至って、人心はやや安んじた。やがて河間・宣府・山西・遼陽の諸将がそれぞれ兵をもって前後に至り、総じて七鎮五万余人となった。帝は内心やや強くなったと思い、それぞれ璽書を賜って褒め奨め、金帛を与えて賊を躡ませ、咸寧侯の仇鸞を大将軍に拝し、諸道の兵をことごとく属させた。襲衣・玉帯・上尊および千金を賜り、また封記を賜って「朕が重んずるのはただ卿一人である。密啓の奏進を得る」と記した。
- 楊守謙を兵部左侍郎として各路の戎務を総督させ京師を衛らせ、都督の陸炳に皇城の諸門を提督させて不虞を譏察させ、都御史の商大節に五城の巡察を督させて内釁を防がせた。太子太保礼部尚書の徐階が奏して、故参将の戴綸・欧陽安らで繋がれていた者を釈し、軍に従って自ら効させた。
- 京営の諸将を分け遣わして城の内外の各巷陌の間に営させたが、京営の兵は日ごろ敵を見たことがなく、駆り出しても敢えて前進しなかった。城外および近地の居民が擁して入り、連日連夜絶えず、多くは血まみれで至った。都督の陸炳が太倉の米を出して値を減じて流徙する老弱を済うよう請い、いずれも許された。
- 当時、変が倉卒に起こって諸務は備わらず、勤王の師はそれぞれ軽騎で馳せ至って糒糧を齎していなかった。制が下って師を犒う牛と酒の諸費もみな出所が分からず、戸部の文書が往復して二、三百の軍士がようやく数個の餅を得るありさま。庾を開いて粟を発しても、嚢も釜も甑もみな入用のものがなかったので、士卒は飢え疲れた。都督の陸炳が「戸部の臣が軍興の予定を計り損ね、糧餽が支えられず、士に餓死する者が多い」と言った。帝は怒って尚書の李士翺以下の諸官の職を奪い、罪を戴いて事に当たらせた。
嘉靖二十九年八月(諳達の京郊蹂躙と貢市の要求)
- 諳達の兵は白河から東渡し、潞水を西北に行って村落の居民を大いに掠め、廬舎を焼くこと日夜絶えなかった。郊外の民は傷を扶けて門下に集まったが、門は閉ざされて入れず、号び痛む声は西内まで徹した。帝は開いて納れるよう命じた。
- この日、諳達は婦女を掠め、演武堂の上で大いに飲み、遊騎が六門の外を往返した。仇鸞は勤王の諸兵を率いながら敢えて撃たず、しばしば時義・侯栄を遣わして通じ、貢市を許して自ら安んじようとした。
- 辛亥、東直門に至り、御廐の内の八人を捕らえて去った。殺さずに縛って諳達に見えさせると、諳達は氈帳の中に踞坐して「お前たちは帰って天子に見えたら、よく私のために書を届けよ」と言い、自ら解いて送り帰した。
- 帝に見えて書を開くと、多くは驕慢な語で入貢を求めるものだった。
- 壬午、帝は大学士の厳嵩・李本、尚書の徐階を西苑に召し、書を出して示して「どう応ずるか」と言った。厳嵩は「これは礼部の事です」と言った。徐階は「事は臣にあるとはいえ、ただ上が主られるべきです」と言った。帝は「まさに商議すべきだ」と言った。
- 徐階は「寇は近郊に兵を駐め、我が戦守の策は一つもありません。権に許して款じるべきです。ただ将来の要求が飽くことなきを恐れます」と言った。帝は「もし社稷に利あらば、皮幣も珠玉も惜しむところではない」と言った。徐階は「皮幣・珠玉に止まるなら可ですが、万一、従いえぬことがあれば、どうなさいますか」と言った。帝は竦然として「卿は遠慮ありというべきだ」と言った。
- 徐階はそこで計をもって款じることを請い、「その書はみな漢文で信じがたく、しかも城に臨んで貢を脅す礼はありません。大辺の外に退き出させ、別に使いを遣わして番文を齎させ、大同の守臣を通じて奏事させれば従いうる、とすべきです。その往返の間に四方の援兵はみな至りましょう。我が戦守にも備えができます」と言った。帝は「卿の言は是である」と言い、出て廷臣を集めて議させた。
- 日が午になって群臣が悉く集まると、徐階は諳達の書を出して「三千人で入貢したいという。許せば兵を緩め、否なら兵を益して京師を破るという」と言った。群臣は互いに顔を見合わせて敢えて発言せず、そこで筆と紙を配ってそれぞれ所見を書かせ、上裁を奏請することにした。
- 国子司業の趙貞吉が抗言して言った。これは問うまでもない。問えば奸邪の臣が必ず和を説いて進み出よう。万一、貢を許せば彼らは必ず入城する。三千の衆は烏蛮駅の中には容れられまい。しかも彼らが恣に深入りして内外から挟撃すれば、どうやって禦ぐのか。宮闕を震驚させはすまいか。駆り遂うことに務めず、その恐喝を畏れて迫られて許すのは、城下の盟と何が違うか、と。
- 検討の毛起は「時事は甚だ棘い。しばらく許して塞を出させ、その後に拒むべきだ」と言った。趙貞吉は力めて毛起を叱り、群臣もみな難色を示したので、奏はやめとなった。
- この夕、火光が天を照らし、徳勝門・安定門の北の人家はみな焼けた。上は西内にあって大いに震え懼れ、中官が少しずつ趙貞吉の語を伝えるのを聞いて、馳せて使いを遣わして召し入れて対せしめ、筆と紙を給して言いたいところを疏させた。
- 趙貞吉は上言した。陛下は奉天門に御して詔を下して自ら罪し、故都督の周尚文の功を追い奨めて辺帥を励まし、給事中の沈束を獄から釈して言路を開き、損軍の令を軽くし賞功の格を重くし、文武の百司を飭めてともに城守に当たらせ、官を遣わして諸営の兵に宣諭して力戦させられたい。しかも士が力戦せぬのは主将が首功を冒すことが多いからです。いま首功一つに即座に金百を与えれば、金十万も捐てぬうちに賊は尽きましょう、と。
- 帝は壮として、趙貞吉を左春坊左諭徳兼河南道監察御史に抜擢し、詔を称して五万金を齎して行営の将士に宣諭させた。
- 通政使の樊深が禦寇の七事を条陳し、その中で「仇鸞が一戦したとも聞かない。士が命を用いぬのでなければ、主将が寇を養って功を要めているのだ。ひそかに近侍を遣わして状を詰められたい」と言った。書が奏されると上は大いに怒って民に黜けた。
嘉靖二十九年八月(帝の親臨と諸臣の逮捕)
- 癸未、寇が鞏華城から諸陵を犯し、転じて西山・良郷を掠め、西の保定までみな震えた。当時、帝は久しく朝を視ず、吏部尚書の夏邦謨が「人情は洶々としている。上が自ら正朝に御して廷臣に見えぬのでは、天下の望みを塞ぎ威武を振るうに足りぬ」と疏し、許された。
- この日、文武の大臣は服を具えて闕下に命を待った。晡の時になって帝はようやく出て奉天殿に御し、勅を降して諸大臣を厳しく責め、宮に還った。群臣は午門に就いて跪いて勅の宣べられるのを聴き、みな惴え慄いて処分があるかと思った。散じるころには門はまさに閂を下ろすところだった。
- そこで勅して官校を遣わし、通州を駐守する都御史の王儀、薊遼を巡撫する都御史の王汝孝および薊州総兵の羅希韓を逮えて京に詣でさせただちに訊ねさせた。まもなく王儀が至って下獄し、畏れ懼れて戦わなかったとして籍を削られて去った。王汝孝は道が塞がって逮捕は及ばなかった。
- 初め王儀が通州に至ったとき、営兵に城外に屯戍するよう命じ、自らは閣を閉じて城中に臥した。折しも仇鸞が兵を率いて至って敵がやや却くと、仇鸞の兵は諸村落に食を掠めに行った。王儀は兵を発して捕らえて獄に下し、死んだ者が十数人あった。仇鸞の兵は大いに騒いで王儀を甘心しようとした。当時、巡厫御史がその状を上り、帝は恐れてこれを逮治したのである。まもなく巡按御史の王忬を僉都御史として王儀に代えて通州を守らせた。
- 甲午、兵部尚書の丁汝夔および左侍郎の楊守謙を捕らえて詔獄に下した。
- 初め寇が通州に逼ったとき、丁汝夔は警を聞いて手を束ねて措く所を知らず、敵の虚実を哨するために募った者を遣わした。だが城を出て十数里も行かぬうちに、道で傷を扶ける者に遇えばたちまち奔り還って、妄りに「某所で敵を見た」と言った。城中はたちまち震えたが、やがて言は信じられなくなった。丁汝夔は罰を加えず、また他の卒を募って偵らせたが同じことだった。城中はしばしば震えた。
- 成国公の朱希忠が京営の兵を理めていたが、多くが役に占められて行伍が足りず、兵が少ないのを見られて罪を得るのを恐れ、東西に調べ動かして掩飾の計とした。士は疲れて息めず、多くは憤りの言を出したが、誰が調えているのか分からず、争って丁汝夔を罵り、魚肉にしようとした。その語がやや禁中に聞こえた。
- 当時、宣府・延綏・遼陽・山西の援兵がことごとく集まったが、廩餉が給しきれず、兵は飢えて怨望した。仇鸞の大同の軍はとりわけ規律がなく、往々にして髻を推して村落を劫掠した。時に捕らえられると、あるいは自ら「遼陽の軍だ」と偽った。遼陽の軍とは諾延の諸部である。先に「賊中の言では遼陽が実に我を導いて来た」と伝える者があったので、京師では「遼陽の軍が叛いた」という訛言が流れた。
- 仇鸞はまさに寵遇を受けており、大同の掠奪者を捕らえても有司は敢えて理に置かず、必ず奏聞した。帝は「大同の軍が真っ先に入援したのだ。掠めるのも飢え疲れから出たことだ」と言い、仇鸞に付して自ら処させた。仇鸞はまた置いて聞かなかった。丁汝夔はやむなく大同の軍を捕らえるなと令し、大同の軍はいよいよ憚りなく、民は賊より甚だしく苦しんだ。大同の軍が自ら遼陽と偽ったので民間はこれを知らず、「丁汝夔は山東の人だから、同郷のよしみで遼陽の叛軍を庇っている」と言うようになった。
- 寇が城下に迫ると丁汝夔はいよいよ惶急し、師を喪うのを恐れて諸将に軽々しく戦うなと令した。諸軍はもとより恇え怯れて戦おうとしなかったが、みな「丁汝夔が禁じたので発せぬのだ」と言い訳した。民間はいよいよ罪を丁汝夔に帰した。
- 仇鸞は機略に長け、大学士の厳嵩に謀った。厳嵩は「辺で敗れれば隠せるが、郊で敗れれば隠せぬ。飽けば将に自ら去る。ただ壁を堅くするのが上策だ」と言った。仇鸞はしばしば兵を率いて賊を撃ちに行ったと称したが、賊は実は城下におり、遠く郊坰の外に屯して敢えて城に近づかなかったので、城中は仇鸞が撃ったかどうか知らなかった。仇鸞は死んだ賊の首六級を得、馬十余を奪って、詐って戦って得たと言った。楊守謙は命を被って城下に屯したが、やはり兵が少ないので敢えて一度も賊を撃たなかった。
- 帝はこれを聞いて、いよいよ仇鸞は遠く出て敵を禦いでいるが、楊守謙は畏れ懦くて出師せぬと思い、丁汝夔ともども厳しく責めた。諸中貴の園墅が城外にあってやはり多く残し毀たれたので、争って帝の前に泣き訴えて「楊守謙・丁汝夔は賊に二心がある」と言った。帝はこのとき高い所から城外の火を望んで、すでに心中で治兵の者どもを憤っていたので、これを聞いていよいよ怒りを奮い、「一大臣を誅さねば懲らしめるものがない」と言った。
- そこで王汝孝を捕らえて詔獄に下して廷訊し、使いを軍前から遣わして楊守謙を逮え入れて法司に議罪させて聞かせた。王邦瑞に兵部を摂らせ、艾希淳に代わって楊守謙の兵を将いさせた。
- そこで刑部侍郎の彭黯、左都御史の屠喬、大理寺少卿の沈良才らが丁汝夔・楊守謙の罪は斬に当たると論じたが、爰書が冗長で速やかに録し終えられなかった。帝は斎宮に坐して獄の完成を促したが得られず、彭黯らが比周して免れさせようとしていると言って、みな獄に逮繋し、それぞれ差をつけて廷杖した。丁汝夔・楊守謙はともに棄市され、その妻は三千里の外に流され、子は鉄嶺衛に戍られた。
- 左諭徳の趙貞吉を荔蒲県典史に謫した。初め趙貞吉は廷議が罷んだあと、盛んな気で西苑の直房に厳嵩を謁したが、厳嵩は会わなかった。趙貞吉は怒って門番を叱った。通政の趙文華が趨り入って顧みて「公はもうよろしい。天下の事は徐々に議すべきだ」と言うと、趙貞吉は怒って「権門の犬が何を知って天下の事を言うか」と言った。厳嵩は聞いて大いに恨んだ。
- そこで偽って趙貞吉を薦めて城を出させ、銀を齎して軍を労わせた。ちょうど北騎が充ち溢れ、徴発が慌ただしく、戸部・工部の官はみな罪を得て犒銀は時に発せられず、諸軍は城外に分屯していた。趙貞吉は民の車を借りて銀を仇鸞のもとに致したが、仇鸞は受けなかった。敵騎はすでにやや遠のいており、趙貞吉は策なく、勅を齎して城外を巡り、あまねく諸営に給して還り復命した。厳嵩は趙貞吉を狂誕といい、その周尚文・沈束を申し理したことを追論して非とし、下獄させて杖九十を加え、この謫があった。
嘉靖二十九年八月〜九月(諳達の撤退と昌平の敗)
- 己卯、諳達が引いて西した。前後に掠めた男女・裸畜・金帛・財物にすでに満足し、捆載して去った。西して白羊口を奪って塞を出ようとし、余衆を京師の外に留めて疑兵とした。諸道の兵はことごとく大将軍に属し、総じて十余万騎あったが、相見て敢えて前に出て一矢も発しなかった。
- 諳達が白羊口に至ると守将が険を扼して禦ぎ、出られなかった。牛羊や婦女をやや棄て、また衆を擁して東南に行き、昌平の北に至った。にわかに仇鸞の兵と遭遇し、仇鸞は不意を突かれて倉卒にほとんど軍を為せず、敵が騎を縦して陣を蹂って入り、千余人を殺傷し、あやうく仇鸞を捕らえるところだった。禆将の戴綸・徐仁が力めて救ってようやく身だけ免れた。そこで平民の首を取り替えて上り、自ら功とした。
- 寇騎はついに長駆して天寿山に至った。総兵の趙国忠が紅門の前に陣を列ねて入らせず、道を奪って潮河川に循い、古北口の旧道から出た。京師の戒厳は解けた。
- 九月辛卯朔、諳達が衆をことごとく率いて塞を出た。甚だ疲れており、また輜重に顧み恋々として軍を為せなかった。諸将はもとより怯れており、加えて白羊の敗があっていよいよ敢えて逼らず、徐ろにその後に尾いて石匣城および張家口・古北口などの口外に至って還った。
- その前後に敵を禦いで功があった者は、大同遊撃の王禄が懐来で戦って十七級を斬り、馬十二匹を獲、山西遊撃が昌平で戦って男女二百四十二人を奪い還し、都督の仇鸞が海店で戦って四人を生け捕った。まもなく仇鸞は功八十余級を報じて捷を聞かせた。帝は優詔で仇鸞を慰め、太保を加えて金幣を賜った。
嘉靖二十九年九月〜十一月(戦後の措置と仇鸞の専権)
- 戸部侍郎の駱顆を遣わして寇を被った諸郡県を賑撫し、骸を掩い胔を埋め、瘡痍を慰め集めさせた。
- 京営提督太監の高忠、成国公の朱希忠、遂安伯の陳鏸を罷め、十二団営を改めて三大営とした。五軍・神枢・神機といい、三営を総べて戎政府と称し、咸寧侯の仇鸞に入って理めさせ、印章を作ってその任を重くし、王邦瑞に戎政を協理させて仇鸞の副とした。
- 王邦瑞が兵部主事二人、給事中・御史各一人を用いるよう奏したが、議論が多く仇鸞と忤った。主事の申燧はさらに法を持して屈しようとせず、京営の弊政を疏して釐革を乞うた。仇鸞は怒ってひそかに申燧を陥れて外に補させ、そのうえで京営に給事中・御史を用いるのは不便だと言ってみな革めさせた。
- 薊遼総督の大臣を置き、薊州・保定・遼東の三鎮を隷させた。孫禬を兵部侍郎に改めて薊遼を総督させたが、まもなく何棟を代わりとした。
- 冬十月、諸道の兵を募って京師に入って衛らせた。山東・山西・河南の諸府は毎年、京師に集まって練り備え、秋の防に当たり、秋の後にまた散じ去るのを常とし、践更の卒の例のごとくした。また各辺鎮の鋭卒を選んで入って京師を衛らせ、京営の将に辺兵を分けて練らせた。咸寧侯の仇鸞の請に従ったのである。
- 兵部が覆奏して「二鎮は京師の門戸である。寇を禦ぐのに門戸で禦がず、堂奥の間で格闘するのでは、危うくないものは稀だ」と言った。帝は聴かず、ただ二鎮の卒を徴発に与らせぬこととした。そこで各辺から共に六万八千余人を選んで京師に上番させ、京営の兵と雑えて練った。塞上に警があっても辺将は徴集できず、京師にいる辺兵は辺の責を負わず、恣に搾り取って自ら営むので、人々は危うんだ。
- 仇鸞が「宣府・大同の間に師を駐めて兵甲を整え飭め、冬の月を待って大挙し、華夏の気を紓めたい。そのうえで班師して入り衛って秋の防に備えたい」と請うた。帝は嘉して兵部に官を会して集議させた。兵部左侍郎の史道、戸部尚書の孫応奎、工部尚書の胡松らが「諳達は順を犯して深く郊圻に入り、陵寝を震驚させ、元元を荼毒した。罪は赦さぬところである。皇上は深く大計を懐いて問罪の師を興そうとされ、しかも仇鸞のように敵に愾り侮りを禦ぐ者が身をもってその事に任じている。臣らの僉議はみな仇鸞の議どおりである。いま士馬を整斉するのは臣・史道らの職、軍餉を予め儲えるのは臣・孫応奎らの職、器械を利くし精しくするのは臣・胡松らの職である」と議を上った。帝は悦んで従った。
- 十一月、仇鸞が三輔の重臣を易え置くことを請い、大同総兵の徐珏を易州に駐め、徐仁を代えて大同を守らせ、宣府・薊鎮の総兵の李鳳鳴・成勲は互いにその地を易えるようにと言った。帝は兵部に従うよう命じた。
- そこで王邦瑞が上言した。予奪は朝廷の大権、命将は天子の重柄である。祖宗のときは総兵の正副官は兵部が府部の大臣を会同して集議し、一人を上るごとに恭しく裁定を候った。慎重にしてその漸を防ぎ杜ぎ、臣下が敢えて専らにしないことを示したのである。いま仇鸞が名を坐して四将を更易するように擬すれば、九辺で兵柄を握る者に、目を属し心を向けて妄りに覬覦を生ずる者が出ないでしょうか。皇上は聖明で賢帥に心を推されるのですから、何が不可というわけでもありませんが、臣の愚考では、国家の典制に関わるところは軽くありません。聖人の挙動は万世の則となります。臣は本兵に罪を待つ身として、敢えて言わずにはいられません、と。
- 帝は言った。戎政は初めて修まり、忠賢に託したのだ。まして朕には密咨がある。仇鸞が権を専らにしたのではない。汝ら兵部が事に随って忠を効せば、用いて当たらぬことはなく、更易を待たぬ。まして朕の心を労させるとは。一籌も発せぬうちに毀ち攻める。国を謀る忠がこのようなものか、と。
- さらに廷臣に諭して「昔、我が太祖は兵柄を多く諸大将に委任したが、謗る者はなかった。王邦瑞は敵が退いてから加擢を受けなかったゆえにこの言を為したのだ。これは翟鵬が上を怨んだのと同じだ。そもそも格を破って事を挙げて忠を尽くす者を容れられぬのなら、もし敵が再び至れば、丁汝夔の誤国に倣うつもりか」と言った。王邦瑞は諭を聞いて措く所を知らなかった。
- 仇鸞は諸鎮の兵を帥いて宣府・大同を出、巣を衝くと言い立てながら久しく撃たず、やっと少し塞近くに出て夜に敵営を襲い、老弱数級を斬って還った。仇鸞は自ら功なきを弾劾したが、上は問わなかった。そこでさらに広く兵と糧を集めて明年に大挙して北征することを請い、戸部に使いを遣わして南都および各省の布政司の貯積をことごとく括り、かつ歴年の逋賦を督させるよう命じた。
- 当時、仇鸞は寵を恃んで威福を作し、上る疏はすでに内から批して行い、兵部に下して議させなかった。王邦瑞がしばしば疏して弁じたが、仇鸞が排擠してついに落職して去った。礼部尚書の徐階が「北征の事は成功しがたく、しかも後患は測りがたい」と極言したので、議はやや寝んだ。
史論(谷応泰曰)
- 明の制では、内に京営を立て、外に辺戍を列ねた。辺卒は要害に屯し守って神京を蕃衛し、京営は王室を羽翼して中夏を填め撫する。事あれば互いに徴調せず、事なくとも訓習を忘れぬ。制は甚だ周かった。
- ところが嘉靖のとき、坐営の大帥は半ばが勲臣から出て、耳で貴くなり、書を括り読んで奢を語り、加えて宦官が閫を制し、魚朝恩が軍を観るがごとくであった。戎伍の貔貅は侯門の下働きに入り、羽林の組練は中貴の蒼頭に参じ、遊手の市人は寸刃も操れぬのに身を兵籍に厠して濫りに数丁を食んだ。こうして京営の一制はほとんど贅旒に等しくなった。
- 庚戌の事では、辺兵を主どったのは仇鸞、京兵を主どったのは丁汝夔である。逆賊の仇鸞は私に諳達と盟い、路に賄って兵を避けた。鄭が牛をひそかに犒って秦を伐つ謀を用い、晋が馬を陳に入れてゆえに虞に道を借りた。韋弦や荀息が果たしてこのようであったろうか。
- 丁汝夔は柔弱で選ばれ、もとより兵を知らなかった。にわかに辺警を聞いて禁卒をことごとく遣わし、倉皇として道に就かせて適従を知らせず、敵騎はすでに内地を蹂躙した。王師は外で潼関に潰え、烽火は内で甘泉に達した。しかる後に虎旅を空の営に索め、兵仗を武庫に求める。楚の軍は戦わずしてみな蟲沙と化し、晋国の先声はいよいよ風鶴に揺れた。檄を伝えて召し募って義軍と名づけ、市人を編み列ねて城堡に駆る。京営はここに至ってなお問いうるものか。
- 辺軍が九門に雲集し、敵騎が都下に長駆したのだから、まさに四面から合撃して隻輪も返さぬようにすべきだった。ところが李懐光が便橋に兵を屯して進まず、宏淵が霊璧で清涼に扇を揺らしたごとくである。楚の兵はみな冠軍に属し、邯鄲はもっぱら晋鄙を恃んだ。長戟は施さず、長鎩は刺さず、辺軍もまたここに至った。国家の武備はまことに恃むべきものがなかった。
- そこでようやく自ら午門に御して百官を召し問うた。時に樊噲はなく、わずかに終軍のような者がいただけである。急ぎ陳平の金を散じ、自ら周亜夫の塁を叩く。宋義は堅く河を渡らず、魏将は虚名で趙を救う。ただ速やかに丁公を斬り、まず元振を除くべきだった。それなのに楊守謙には兵がないのに戦わせ、仇鸞は戦わずして俘を陳べた。賞は元凶に加わり、戮は名なき者に出た。当時、諳達は実に中国を志すところがなく、掠を恣にして帰ったにすぎない。さもなくば、幸いなら奉天・梁州の変、そうでなければ晋の愍帝・宋の欽宗のごとくになったであろう。
- 前車がすでに覆ったのに後の軫がまさに進む。丁汝夔は京兵を出して辺を防ぎ、仇鸞は辺卒を召して京を実たした。揚水の卒に対して圻父は卒を召したがゆえに誅されるべきであり、涇陽の兵に対して徳宗はまた未雨の算を失った。罪を殛し功に酬いて、国是はまったく非となった。頭を焦がしてから突を曲げるのでは、人の謀は両ながら誤りである。
- ああ、すでに澶淵の賀もないのに、なお衛青・霍去病の功を思う。表を上って出師しようとした仇鸞は、誰を欺こうとしたのか。百官はその詐りを明らかに知りながら、謬って陳請して上の譴めを逭れようとした。思うに世宗が悪んだのは直言であって、必ずしもその忠を問わず、喜んだのは殺戮であって、必ずしもその当を問わなかった。朝に直言があれば明を損ない、朝に殺戮があれば武を損なう。
- 究めれば、厳嵩はもと賄で敗れて褫ぐべく、仇鸞はすでに家居して職を失っていた。それを強いて将相の位を与えて乱賊の名を成させ、身は誅せられ族は滅んで世の指さし笑うところとなった。ゆえに私は言う。厳嵩・仇鸞もまた死ぬべき道理はなかった。その死は、世宗が殺したのである。