明史紀事本末河套回復の議(議復河套)

黄河に三面を囲まれた沃地・河套が北方諸部に占拠され、明がその回復を議し続けて果たせなかった経緯を、天順六年(1462年)から嘉靖二十七年(1548年)までのおよそ86年間にわたって記す。瑪拉噶・阿勒楚爾らが河套に入って以来、成化年間には楊琚・李賢が搜套を建議し、王越が紅塩池を襲って一時は患いを弭めたが、朱永・趙輔らの大挙は実らなかった。正徳初めに楊一清が東勝・受降城の回復を説いたものの、劉瑾に忤って退けられた。嘉靖二十五年、三辺総督の曽銑が八議・十八事と営陣の図を上げて復套を主張し、世宗も嘉して銀三十万両を与えたが、大学士の夏言と対立する厳嵩が辺釁を開いたと讒し、曽銑は市に棄てられ夏言も斬られた。以後、河套の回復を議する者はいなくなった。

年表(10件)

英宗天順六年(1462年)春正月(河套への侵入の始まり)

  • 瑪拉噶らが河套に入った。このころ保喇は次第に衰え、その大部の瑪拉噶・阿勒楚爾と少師の孟克が保喇と仇殺し合って托蘇を立てて汗とした。托蘇はもと小王子の従兄である。こうして瑪拉噶・阿勒楚爾・博勒呼の三部が初めて河套に入ったが、水草を争って互いに譲らず、深く入って寇することはできなかった。時に人を遣わして馬を貢し、かなり諾延の諸衛と通じて塞下を擾した。
  • 河套は周囲の三面を黄河に阻まれ、土は肥え饒かで耕桑に適し、陝西の楡林堡に密接している。東は山西の偏頭関に至り、西は寧夏鎮に至って、東西およそ二千里。南は辺墻に至り、北は黄河に至って、遠い所は八、九百里、近い所は二、三百里。すなわち周の朔方、秦の河南の地、漢の定襄郡であり、赫連勃勃や趙元昊が拠って国とした所である。唐の三受降城は河套の北、黄河の外にあり、元の東勝州は受降城の東にあった。
  • 国初、諸部は河外に遁れて漠北に居り、延綏は無事であった。正統以後、王驥らの兵が甘粛に次して号令を申し明らかにし、河套は寧んじたが、時には河を渡ることもあった。続いて守将の都督・王順が初めて楡林城を築き、沿辺一帯に営堡・墩台を創り、累ねて増して二十四か所に至り、毎年、延安・綏徳・慶陽の三衛の官軍を調えて分けて戍らせ、河南・陝西の客兵がこれを助け、営を列ね糧を積んで要衝を遏めた。景泰の初め、延慶を犯したが敢えて深入りしなかった。
  • このとき阿勒楚爾が辺境の人を掠めて嚮導としたので、河套の所在を知り、時ならず出没して、ついに辺境の門庭の害となった。

憲宗成化元年〜四年(1465〜1468年)(搜套の議の起こり)

  • 成化元年冬十月、瑪拉噶が陝西を寇し、都御史の項忠および彰武伯の楊信が禦いで遁れ去らせた。
  • 二年春三月、延綏紀功兵部郎中の楊琚が奏した。河套の寇はしばしば辺患となっている。近ごろ百戸の朱長年、年七十余の者があり、幼少から河套に熟れ遊んで、自ら臣に語った。套内は地が広く田は肥え、また塩池・海子があり、葭州などの民の多くは墩の外で耕して食っている、と。
  • 正統年間、寧夏副総兵の黄鑑が奏して、偏頭関・東勝関、黄河西岸の一顆樹という地から楡溝・蘇黙図・六鎮沙河海子・山火石脳児・鹻石海子・回回墓・紅塩池・百眼井・甜水井・黄河溝を経て寧夏の黒山嘴・馬営などの処まで、共に十三城堡・七十三墩台を立てようとした。東西七百余里、実に偏頭関・寧夏と相接し、ただ一つの黄河を隔てるのみである。当時の議者は地が平漫で拠りがたいとして已めた。その後、総兵官の石亨がまた延綏一帯の営堡を移して直道にしようと奏した。まことに万世の防辺の長策である、と。
  • 帝は「楊琚の奏する堡を移して辺を防ぐことは証拠が具わっており、その言は理がある。兵部はただちに官を会して議し処して聞かせよ」と言った。
  • 六月、大学士の李賢らが奏した。河套は延綏と境を接し、もとより敵人の巣穴ではない。いま瑪拉噶がその中に居処して出没が定まらぬ。かりに辺を安んじようとするなら、必ず大挙してこそ可である。兵部に官を会して博く議させ、兵を進めて捜し勦めさせられたい。その総制の将官と出兵の事宜はみな予め処して画策されたい。また秋の禾がまさに熟し、彼らは必ず入って掠める。延綏・鄜州・慶陽・環県一帯には武将一人を推選し、歩騎の精兵一万を統べて守禦させれば、備えがあって患いはなかろう、と。
  • そこで兵部尚書の王復が孫継宗らと集議し、「大同総兵の楊信はもと延綏を鎮め、地の利をよく知っている。京に召し還して面と向かって成算を授けるべきだ。陝西・寧夏・延綏・甘州・涼州・大同・宣府の鎮巡の諸官にも勅して兵備を整え飭め、期を待って調発させるべきだ」と言った。帝は擬したところを允し、楊信を召し還して修武伯の沈煜を代わりとし、陝西巡撫の項忠、太監の裴当、総兵の楊信に勅して協同して河套を征し勦めさせた。
  • 三年春正月、瑪拉噶が通貢を乞うた。制して「約なくして和を請うのは謀である。各辺に謹んで備えさせよ」と言った。瑪拉噶は貢を得られず、河を渡って東して大同を侵した。廷議で楊信の兵は少なくて制するに足りぬとされ、そこで撫寧伯の朱永を大将軍として京兵を率いて赴かせ、都督の劉聚・鮑政をその副とした。折しも瑪拉噶が再び書を上って貢を求めたので許した。
  • 二月、瑪拉噶が大同の界に入ったので、帝はもと調えた大同・宣府・偏頭関などの処の搜套の官軍を、なお各城に留めて守禦させるよう命じた。
  • 四年春二月、竒木嘉色稜が阿勒楚爾を殺してその衆を併せ、元の遺孽の瑪勒図と結んで河套に入った。

成化六年〜九年(1470〜1473年)(王越の紅塩池襲撃)

  • 六年、博勒呼らが河套に拠って辺境の人は大いに擾された。そこで都御史の王越に勅して関中の軍務を総べさせ、河套を捜して東勝を復することを議させた。
  • 王越らが奏した。河套は水草が甘く肥えて駐屯しやすい。腹裏の地は道路が曠く遠く守禦しがたい。陝西の博勒呼・竒木嘉色稜らは醜類を糾い率いて套に居り、分かれて掠め、出入すること数年。我が師に阻まれたことはあっても、まだ挫かれたことがなく、ついに退こうとしない。近ごろは我が河曲に拠り、我が延綏・寧夏を擾し、深く我が平涼・鞏昌・固原に入り、近ごろはまた我が大同を覘い、我が万全に逼っている。廷臣に共に議させ、爵位が崇重で威望が日ごろから著れた者一人を得て諸軍を統制させ、赴いて大挙を図られたい、と。
  • 朝廷はその議に従い、武定侯の趙輔を総兵官として各路の軍馬を総制して河套を捜させたが、まもなく病により還り、ついに再び挙げなかった。
  • 七年春二月、朱永が河套の寇がまだ退かぬことについて戦守の二策を議した。事が兵部に下ると、白圭らは「馬はまさに痩せ損なわれ、供餉も足らず、勢いとして進み勦めがたい。諸将に命じて慎んで守禦し万全を図られたい」と言い、帝は従った。吏部右侍郎の葉盛に命じて河套を行き視させた。
  • 当時、兵を増し険を設ける議があり、あるいは大挙して河外に駆り出し、河沿いに城堡を築いて東勝に至り、民を移してその中で耕し守らせるよう請う者もあった。葉盛は赴いて上言し、「河套を捜し東勝を復するのは軽々しく議すべきでない。ただ兵を増して険を守ることこそ遠図とすべきです」と言い、帝は従った。
  • 九年秋九月、瑪勒図と博勒呼が並んで韋州を寇した。総督の王越はその老弱がことごとく紅塩池に巣を営んでいるのを偵知し、取れると判断して、総兵の許寧、遊撃の周玉らとともに軽騎を率いて昼夜に三百余里を馳せて襲撃し、三百余級を擒斬し、雑畜・器械を甚だ多く獲て、その廬帳をことごとく焼いて還った。
  • 河套に拠られて以来、深く入って人畜を殺掠されぬ年はなく、数千百万に及んだ。辺将は兵を擁しながら敢えて咎めず、遺された老弱を捕らえ、あるいは平民を殺して功として上り、陞賞を冒した。三たび大将の朱永・趙輔・劉聚を遣わして出師させたが、これも辺将の旧習に倣うことが多かった。それによっていよいよ横暴となり、内地はまさに危うくなった。廷臣は日々搜套を議し、兵八万を聚めて資儲を糜すこと数知れなかったが、師はついに出なかった。このとき捷を得て、賊は内で妻子を失い、相い伴って悲泣して河を渡り北に去ったので、患いはやや弭んだ。

孝宗弘治年間(1495〜1500年)(再びの住牧)

  • 弘治八年、北の部が再び衆を擁して河套に入って住牧した。
  • 十三年冬十二月、和碩が河套に入った。和碩らは河を渡って東し、焦家坪・娘娘灘・羊圏子などが要衝となった。その要は偏頭関と三受降城にある。受降城とは、唐が築いて河外で寇を禦いだものである。中城は南に朔方に直面し、西城は南に霊武に直面し、東城は南に楡林に直面して、それぞれ相い距たること四百余里。
  • 花馬池は要地である。成化以前は患いが河西にあり、套に拠っては河東がその衝となった。花馬池はその中に居る。都御史の徐廷璋・楊一清・王瓊が新たに城を獲て力を効すことは甚だ堅かった。花馬池から西の興武営まで一百二十里、さらに西の横城堡まで一百四十里。一面の砂漠で、寇の路は墻を折るのがかなり容易であり、霊州・韋州に入って環県・慶陽を掠め、平涼・固原を犯すには、清水営・鉄柱泉・小塩池一帯が捷径となる。大広武から河を渡って下れば霊州・韋州に至るのもまた容易である。

武宗正德元年(1506年)春正月(楊一清の建議)

  • 総制三辺の楊一清が上言した。受降城は三面の険に拠って千里の蔽いに当たる。正統以来、受降を捨てて東勝を衛ってすでに一面の険を失い、さらに東勝を輟めて延綏に就いたので、一面の地で千余里の衝を遮ることになった。こうして河套の沃壌を寇の甌脱とし、その中に巣くわせ、外の険をことごとく失って、かえって南の河を備えることになった。これが陝西の辺患が相い尋いで解けぬ理由である。
  • いま再び東勝を守り、河に因って固めとし、東は大同に接し西は寧夏に接するようにすれば、河套千里の地は我が耕牧に帰し、屯田を数百里開いて内からの運輸を省けるので、陝西はなお肩を息められましょう、と。
  • また六事を上った。一に定辺営の東の辺墻を修築すること、二に寧遠の基辺の西北の堡を修復すること、三に花馬池および興武営の衛所を増設すること、四に霊州の上達を防禦すること、五に韋州の官軍を整え飭めること、六に黒山・鎮遠関の墩台を増し修めること。多くは機宜に中った。帝はその奏を可とし、期を刻んで績を奏させたが、劉瑾に忤って休を乞い、工事もまた罷めて、わずかに四十余里を築いた。だがそれも屹然たる巨大な障壁であった。
  • 初め弘治の末、朝廷は清明で諸大臣は協和して心を尽くして国を体とし、経久の計を為した。それゆえ河套を復する議があった。折しも孝宗が崩じ、劉瑾が政を専らにするに及んで楊一清もまた罪を得て去り、ついに敢えて河套に言い及ぶ者がなくなった。我が辺は日ごとに減り、敵は日ごとに進んだ。

世宗嘉靖元年(1522年)(諸部の勢力図)

  • 套の騎二万が井児堡から墻を撤して入り、固原・平涼・涇州に至って指揮の揚洪、千戸の劉瑞を殺した。
  • 先に正徳年間、小王子に三子があり、長を阿爾婁、次を阿珠、次を蒙古勒章といった。太師の額布勒が阿爾婁を殺して河西に遁れ入った。西海に寇があるのは額布勒に始まる。阿爾婁の二子は長を伯竒、次を克們といい、みな幼かった。阿珠が小王子と称したがまもなく死に、衆は伯竒を立てて伊克汗と称した。
  • 伊克汗の大営は五つ。浩沁察哈爾といい、昭阿爾・布勒噶爾・克実克騰・巴哩巴可の五万人。伯竒は中に居って屯牧し、五営がこれを環った。
  • また東には喀提・哈哈・額特の三部があり、喀提部は営三、その渠は莽果王。哈哈部は営三、その渠は孟克保喇。額特部は営一、その渠は昆都徳哷。三部で共に六万人、沙漠の東偏に居って諾延と隣となった。
  • 西には永実卜・阿爾托蘇・蒙古勒章の三部があった。永実卜部は営十で、阿克蘇・哈喇沁・薩納勒・保喇・達爾罕・実保沁・巴勒鄂特・鴻和爾丹・納木珍・哈爾布奈曼といい、もと額布勒に属した。額布勒が西海に遁れ去ってから分散して幾ばくもなく、ただ哈喇の一営だけがわずかに全うした。阿爾托蘇部は営七で、もとやはり額布勒に属したが、後に済農に従って四営に合し、博果斯・烏遜・鄂噶薩納・達蘭といい、七万ばかり。蒙古勒章部は営八で、もと和碩に属したが、後に諳達に従って六営に合し、多羅・図們輝和爾・烏紳・巴約・烏嚕・図古勒といい、三部の衆は四万ばかり。
  • 済農と諳達はみな河套に出入りし、阿珠の子で、諸種の中で独り強く、時に延綏・寧夏・宣府・大同を寇した。
  • 南には哈喇沁・海蘭の二部があり、哈喇沁部は営一、渠は巴達喇喀納、衆は三万ばかり。海蘭部は営一、渠は実喇台吉、衆は二万ばかり。宣府・大同の寨外に居った。
  • 北には烏梁海の営一があり、もと小王子の北部だったが、隙によって叛き去り、今に至るまで攻め合っている。さらに西は衛喇特で五万人ばかり。代々、土魯番と讐であった。諸部は水草を逐って遷徙して定まらぬが、営にはみな分地があって互いに乱れなかった。
  • 十二月、固原・環衛の間を寇し、殺傷は万を数えた。

嘉靖十七年〜二十四年(1538〜1545年)(復套の建議)

  • 十七年冬十一月、山西巡按御史の何賛が疏して「河套は吉囊の拠るところで、外は西海に連なり内は大同と構えている。急ぎ勦め除くべきだ。その策は二つ。一に計をもって破ること、二に勢いをもって走らせること。その要は撫臣を久しく任じて成効を責め、屯法を興復して辺儲を裕かにすることにある」と言った。議は寝かされて行われなかった。
  • 二十四年春正月、山西巡按御史の陳豪が疏して言った。北寇は三たび山西を犯して殺傷は百万。常の寇として目してはならぬ。帑金六百万を費やしながら戦守に尺寸の功もない。諸臣は建議して動もすれば屯守と称するが、賊衆が内に侵すとき諸々の隘口を由らず、みな猿のように絶壁を攀じ蟻のように懸崖に附くことを知らない。辺垣もまた恃むに足りない。
  • まして諸鎮の烽卒はみな寇を媒介して日々を生計としており、多くは針や刀を嚢に入れ、偵る者に遇えば賄って殺さぬよう求め、彼我に言葉を訳して互いに和同し、深く入るのを待って初めて燧を挙げ砲を発し、堠を降ろして転じ走る。一日一処のことではない。しかも近ごろの寇には我が民の亡命者が多く彼らの向導となっている。ゆえに連年、時ならず突然に至り、険を冒して深く入ることが旧道を履むがごとくである。廷臣に下して万全の策を集議させ、必ず戦うことを期して套の地をことごとく復されたい。そうすれば内擾の患いを弭め、辺境に憂いはなくなりましょう、と。章は兵部に下されて議行された。

嘉靖二十五年〜二十六年(1546〜1547年)(曽銑の復套策)

  • 二十五年秋八月、套の騎三万余が入って延安府を犯し、三原・涇陽に至って人畜を殺掠すること数知れなかった。総督三辺侍郎の曽銑が河套の回復を請い、条を八議に分けた。一に廟謨を定める、二に綱紀を立てる、三に機宜を審らかにする、四に将材を選ぶ、五に賢能に任ずる、六に芻餉を足す、七に賞罰を明らかにする、八に長技を修める。計一万余言、指し拠るところは明らかで詳しかった。兵部に下して議行させた。
  • 冬十二月、総督の曽銑、巡撫の謝蘭・張問行らが奏した。延綏は套の寇と密接して隣となっている。定辺営から黄甫川まで、連年の入寇はおおむねこの道による。急ぎ修繕すべきである。地を分け工を定めて順次修め挙げ、安辺営から東の竜州堡まで計四百四十余里を中段とし、双山堡から東の黄甫川まで計五百九十余里を下段とし、毎年一段を修めて三年で竣工することとし、宣府・大同・山西の故事のごとく帑銀を発せられたい、と。
  • 疏が部に下って議されると、曽銑はさらに言った。套の賊を除かねば中国の禍いは測りがたい。いまの計としては、練兵六万人を用い、山東の鎗手二千を加え、矢石を多く備え、毎年、秋と夏の交わるころ五十日の糧を携えて水陸ともに進み、その無備に乗じて直ちに巣穴を衝くべきだ。材官が驟り発し、砲火が雷のごとく撃てば彼らは支えられぬ。毎年これを行い、出るたびに励めば、彼らは勢いとして必ず折れて遁れ、套を出るのに後れを取ることを恐れよう。
  • その遠く出るのを待って、祖宗の故疆に因って河を併せて塞とし、墩隍を修築し、衛所を建て置き、戍卒を処分し、屯政を講求すれば、全陝の転輸を省き、中国の形勢を壮んにできる。これこそ中興の大烈である。陛下は聖心から断じて速やかに大計を定められたい。
  • そもそも臣がまさに辺を築くことを議しながらまた套を復することを議するのは、辺を築くのは数十年の計にすぎぬからである。套を復すれば兇残を駆り斥け、河に臨んで陣を作れる。国家万年久遠の計である。ただ陛下の裁を仰ぐ、と。
  • 疏が兵部に下って議されると、「辺を築くのも套を復するのもともに容易でないが、比べれば套を復するのがなお難い。そもそも数万の衆を率い五十日の糧を持って、険しく遠く艱阻の域に深入りし、数十年盤踞した兵を駆るのは、言うほど容易でない。ゆえに墻を修め辺を築くほうが計として完く、成功も期しうる。ただ延綏一帯は地勢が延び漫として、土は砂と鹹に雑じり、居民は隔たり遠く、最も荒涼である。かりに一千五百里の地を三年の功で責め成そうとしても、容易には集まるまい。たとえ成っても守りがたい。なお曽銑らに命じて計議して聞かせるのがよい」とした。
  • 帝は言った。寇が河套に拠って中国の患いとなって久しい。連年、関隘は横に荼毒を被り、朕は宵旰にこれを念じてきたが、辺臣で憂いを分かつ者がなかった。いま曽銑が復套の謀を倡えたのは、まことに壮んな猷である。本兵はどうして久しくして初めて覆奏し、ついに定見がないのか。曽銑に諸辺臣とさらに悉心して図り議し、必ず長い算を求めさせよ。もし辺境千里が砂漠で宣府・大同と地が異なるなら、ただ要害だけ修築すればよい。兵部は銀三十万両を曽銑に発し、辺を修め兵を餉い器を造るのを便宜に調度させ、明年の防禦の計に備えさせよ、と。

嘉靖二十六年(1547年)(曽銑の出塞と復套方略)

  • 夏五月、総督の曽銑が塞を出て套の部を襲って勝った。初め春のころ曽銑は兵を督して塞を出て掩撃したが敗れて還り、報告しなかった。このとき再び襲うと寇は覚った。曽銑は鋭卒を捜し選んで督して戦い、二十六人を馘斬し、一人を生け捕った。托克托和は矢石に斃れ、死んだ者は甚だ多かった。馬・牛・駱駝九百五十、械器八百五十三を獲て捷を聞かせた。敵は帳を移して次第に北し、時に軽騎で出て掠めた。曽銑がまた諸軍を督して駆ると、ついに遠く遁れて敢えて塞に近づかなかった。
  • 曽銑は捷を聞かせた後、さらに諸臣の功罪を列べて上った。帝は、套の寇が連年、無人の境を蹈むように深入りして大いに国威を損なっていたところ、曽銑が兵を率いて塞を出て擒斬の功があったとして、俸を増し、白金・紵幣を差をつけて賜るよう命じた。
  • 十一月、総督の曽銑が陝西巡撫の謝蘭、延綏巡撫の楊守謙、寧夏巡撫の王邦瑞および三鎮の総兵と会して復套の方略を議し、十八事を条列した。曰く、河套の恢復、辺墻の修築、将材の選択、士卒の選練、馬・驢の買補、進兵の機宜、糧餉の転運、賞罰の申明、舟車の兼備、火器の多置、降を招き間を用いること、時勢の審度、河套の防守、営田の儲蓄、および職守を明らかにすること、訛言を息めること、文法を寛くすること、孽畜を処すること。
  • また営陣の八図を上った。曰く、立営総図および遇敵駐戦図・選鋒車戦図・騎兵迎戦図・歩兵摶戦図・行営進攻図・変営長駆図・獲功収兵図。帝は覧て嘉した。
  • 奏が兵部尚書の王以旂に下り、廷臣を会して集議させると、「曽銑の先後の章疏はいずれも施行しうる」と言った。帝は「寇が河套に拠って国家の患いとなり、朕は宵旰を軫めること年あるも、事に任ずる臣がないのを念じてきた。いま曽銑が前後に上った方略を、卿らはすでに詳らかに酌んだのだから、多官を会同して忠を協せ謀を抒べ、廊清を図れ。その定策を聞かせよ」と言った。

嘉靖二十七年(1548年)春正月(夏言の罷免と曽銑の刑死)

  • 大学士の夏言が罷めた。初め河套の議は夏言が力めて主張していた。厳嵩は夏言に憾みを積み、かつその首輔の地位を躐えようとしていた。そこで災異にかこつけて缺失を疏陳し、「曽銑が辺を開いて釁を啓き、国の大計を誤らせた。夏言は表裏に雷同して国事を淆し乱した。罪すべきだ」と言った。ついに夏言を罷め、曽銑を逮えて京に詣でさせ、兵部尚書の王以旂を出して軍務を総督させた。廷臣が罪を議し、およそ復套を議した者はことごとく俸を奪われ、併せて言官も罰されて廷杖に差があった。こうして復套の事はことごとく停止された。
  • 折しも諳達が氷を蹈んで河を越えて套に入り、まさに延綏・寧夏を犯そうと謀って声勢は甚だ張った。延綏巡撫の楊守謙が奏聞すると、厳嵩は上の怒りを激し、「諳達が衆を合わせて套に入ったのは、みな曽銑が辺を開いて釁を啓いたためだ」と言った。そこで兵部侍郎の万鎮らが曽銑の上を罔いて功を貪った罪を参劾した。甘粛総兵の咸寧侯・仇鸞は初め曽銑に弾劾されて京に逮えられていたが、やはり疏を上って曽銑を訐発した。厳嵩がこれを主として、曽銑を市に棄てた。
  • 曽銑には機略があった。初め御史として遼東を巡按したとき、遼陽・広寧・撫順で兵変が起こったが、曽銑はひそかに方略をめぐらせて首悪をことごとく捕らえて誅し、全遼は大いに定まり、時論は才ありとした。西の師を視るに及んで復套の議を倡え、夏言は辺功を好んだので力めて主持した。当時、敵勢はまさに熾んで我が兵は積弱だった。曽銑の疏が部に下って議されて久しく覆奏がなく、上もまた危ぶみ疑って、ひそかに厳嵩に訊ねた。厳嵩はもとより夏言と相容れず、これによって夏言と曽銑を陥れようとした。曽銑はついに死に論ぜられた。家に余った資はなく、妻子は狼狽して遠く徙った。
  • 後の九月、再び宣府を寇した。上は「寇は夏言・曽銑が河套を収めようとしたゆえに報復してここに至ったのだ」と言い、ついに併せて夏言を斬った。天下はともにこれを冤とした。夏言・曽銑が死んでから、ついに一人として河套を復することを議する者はなくなった。

史論(谷応泰曰)

  • 辺備で争うところは二つある。地勢が坦らかで広ければ敵騎は四方から入り、列ね守っても足りず、追い哨するのも及びがたい。蘇子のいう「大梁は四戦の衝」、汪立信のいう「長江は随処に入りうる」がこれである。地が険阨であれば、山谷や林薄が寒く嶮しくて耕せず、砂と鹹で水に乏しい。耿弇が「五渓は水が険しく、糧を縋って食う」と言い、馬文升が「西域の道は旱いて雪によって泉とする」と言ったのがこれである。
  • 河套は三面が河に憑み、戈を荷って守禦すれば険は長城を超え、地はまた肥え饒かで耕桑して自ら給せる。それなら河套に屯し守れば毎年、租税数十万を省き、障塞の卒も十余万。東は偏頭に距たり西は寧夏に抵る二千里の中で、昼に旌旗を欠き夜に鼓柝を稀にすることができよう。周が朔方に城き、漢が河西を開いたのは、由って来るところがある。
  • 辺備が久しく虚しく、敵を縦して深入りさせ、畜牧が久しくなれば、楽しんで去ることを思わなくなる。蒿に伏す雉は再び鷹を畏れず、穴を噬む鼠は再び猫を畏れない。しかも辺将は坐視して癰を養い、敢えて深入りしなかった。
  • 憲宗のとき楊琚が十三城堡・七十四墩台を建てることを請い、李文達(李賢)もまた中枢から力めて賛けた。ところが三たび帥に剣を授けても、あるいは輿に病んで徴し還され、あるいは遷延して出なかった。ただ王越が紅塩池に深入りしてその廬帳を焼き器甲を劫め、賊は妻子を喪い失って顔を見合わせて慟哭したが、大師が続かなかった。虎牢の一関はついに楚の有となり、河西の数郡は折れて秦の臣となった。
  • 武宗のとき楊一清がまた受降を力めて図ることを請うたが、たちまち璫の劉瑾によって位を去った。そもそも唐休璟や張仁願でさえ黄河の外に険を争って受降を扼したのに、今の人は河套の内に兵を歛めてわずかに延綏を守り、門を開いて寇を延き、堂奥で勝ちを角い、三方から敵を被った。秦晋は騒然として、世宗の世には延安・涇陽までが蹂躙に供された。
  • 曽銑は毅然として行うことを請い、数万の衆をもって五十日の糧を持し、水陸を星のごとく馳せ、矢と砲を電のごとく発し、積聚を焼き、馬牛を駆り掠め、往来出没して年中に安らかな時をなくそうとした。食の道が窮まれば項王も鴻溝の約を践もうとし、将士が帰るを思えば関羽も荊州の潰えを救えない。
  • 世宗はしばしば璽書を降し、特に文綺を頒ち、図を展べて嘉し嘆じ、期を刻んで廓清せよと言い、夏言もまた力めて曽銑の議を主とし、枢臣もみな先後に奏行した。譬えれば趙充国がすでに孝宣を得ながらさらに魏相を煩わせ、魏尚がすでに文帝に逢いながらさらに馮唐に遇ったようなもの。君臣将相の千載一時である。
  • ところが急ぎ大臣を殺して星変に当て、まず渠帥を誅して兵端に謝した。檀道済が誅せられて長城が自ずと壊れ、子玉が死んで晋の毒が亡んだ。私が惜しむのは、禍を反して福とするのは石を転ずるより難いのに、成を化して敗とするのは輪を転ずるより速いことだ。九重の廟算はたちまち智でたちまち愚、幕府の平章はたちまち功でたちまち罪。匣中の剣はついに曹彬を斬り、将を拝する壇は併せて相国を収めた。世宗の英察とはどのようなものだったのか。