明史紀事本末大同の叛卒(大同叛卒)
北辺の重鎮・大同で戍卒が二度にわたって叛いた顛末を、嘉靖三年(1524年)から嘉靖十三年(1534年)までのおよそ10年間にわたって記す。巡撫の張文錦が城外に五堡を築いて兵家を移そうとし、参将の賈鑑が笞で督したため郭鑑・柳忠らが乱を起こし、賈鑑と張文錦を殺した。巡撫の蔡天祐が撫諭と首悪の捕縛を重ねて郭疤子らを誅し、いったんは鎮まった。十二年には総兵の李瑾の苛酷な統制から再び叛乱が起こり、総制の劉源清が城を攻めて水を灌いだため叛卒は小王子を引き入れて大同を寇させた。劉源清が罷免され、代わった総制の張瓉と巡撫の樊継祖が兵を退け粟を発いて撫すると、馬昇らが首悪を献じて城は定まり、劉源清・郤永は逆に罪を問われた。
年表(7件)
- 世宗
- 嘉靖三年秋七月(五堡築城と最初の反乱)1524年五堡築城に反発した鎮卒が賈鑑と巡撫の張文錦を殺す
- 嘉靖三年八月〜九月(代王の避難と再度の騒乱)乱卒が知県の王文昌を殺して再び騒ぎ、代王は宣府へ避難する
- 嘉靖三年冬十一月(桂勇の捕縛と首悪の献上)桂勇が郭鑑・柳忠を斬るが郭疤子が報復し、乱卒は徐氈児ら四人を献ずる
- 嘉靖四年春二月(郭疤子の誅と大同の鎮静)1525年蔡天祐が郭疤子・胡雄ら四十人を斬って大同がようやく定まる
- 嘉靖十二年冬十月(李瑾の殺害と再度の叛乱)1533年濠の工事に苦しんだ戍卒が総兵の李瑾を殺し、劉源清が城を攻めて殺掠する
- 嘉靖十二年十一月〜十三年(1533〜)(攻城と小王子の来寇)1534年叛卒が小王子を誘って入寇させ、劉源清は水を決して城に灌ぐ
- 嘉靖十三年二月(劉源清の罷免と張瓉・樊継祖の鎮撫)張瓉・樊継祖の撫諭で馬昇らが首悪を献じ、劉源清と郤永が罪に問われる
世宗嘉靖三年(1524年)秋七月(五堡築城と最初の反乱)
- 大同の五堡の軍が叛いて巡撫の張文錦と参将の賈鑑を殺した。大同は古の雲中の地で、北は塞に距たり、地は平らかで広く、あまり険阻ではない。巡撫都御史の張文錦は鎮城の北九十里に五堡を築くことを議し、完成しようとしたとき、鎮の卒二千五百家を移して戍らせ、一堡に五百家ずつ置いて大同の藩籬にしようとした。
- 諸鎮の卒はひそかに語り合った。「城下を去ること二十里でさえ抄掠に苦しんで安らかな日がない。いま五堡は孤立して数百里も懸かっている。敵が至って誰が応援できよう。死んでも移りたくない」。張文錦に訴えたが、張文錦は許さず、厳しく令して急がせた。しかも遣わした董役参将の賈鑑は、風を望んで張文錦に申し出てその隊長を杖し、さらに罪した。
- 諸鎮の卒はついに変を起こした。郭鑑・柳忠および諸々の驍悍な者が乱を唱えて賈鑑を殺し、その屍を裂いた。二十二日のことである。そして塞下の焦山に嘯き集まった。張文錦は寇と連なるのを恐れて招撫し、入城させるとただちに首謀者を捜索して治めようとした。
- 二十七日、郭鑑・柳忠は諸卒を脅して大同府の門を焼き、獄囚を劫め、さらに都察院の門を焼いた。張文錦は倉卒に垣を越えて宗室の博野王のもとに逃げ隠れた。諸乱卒はその家を掠め、博野王を脅して張文錦を出させて殺し、やはりその屍を裂いた。
- そして府庫の兵仗を発き、ことごとく甲を着けて馳せ、鎮守の王某を殺そうとしたが果たさず、また総兵官の江桓を殺そうとしたが逃げられ、その家を掠めた。そこで故総兵官の朱振を獄から逮え出し、脅してこれを主宰させようとした。朱振は免れぬと知って告げた。「私は諸君と三事を約したい。宗室を犯すな、倉庫を掠めるな、火を放って人を殺すな。これに従えるなら可だが、従えぬなら死んでも与らぬ」。諸乱卒は「命のとおりに」と言った。衆はやや歛まり、そこで鎮巡の官を脅して奏を上げさせ、赦宥を乞うた。
嘉靖三年八月〜九月(代王の避難と再度の騒乱)
- 代王が出て宣府に居った。当時、廷議で兵部侍郎の李昆を遣わして勅を宣べて赦し諭させ、さらに太監の武忠を鎮守、都督の桂勇を総兵官とし、按察使の蔡天祐を巡撫に抜擢した。
- 先に撫臣が害に遇ってから諸乱卒は劫掠を恣にしていた。蔡天祐は着任すると武忠・桂勇と会して乱卒を集め、朝廷の恩威を宣べ諭し、反覆して開き諭した。諸乱卒は稽首して謝し、しばらく解散したが、みな恐れて安んじなかった。また姦盗が多く隙に乗じて乱れ、乱卒は居民を劫掠した。桂勇はやや兵を督して五十余人を打ち殺し、乱の首謀の郭鑑・柳忠を笞打って他は釈したが、人情は洶々として「必ず大同の人をみな殺しにする」と伝え合った。
- まもなく「京営および諸鎮の兵がすでに近くの地に駐まって大同を勦めようとしている」と妄りに報せる者があった。折しも戸部が進士の李枝を遣わして糧餉を転じて鎮に至らせた。諸乱卒は密旨だと思い、衆は夜に集まって李枝の門を撃って理由を訊ねた。李枝が門の隙間から公文書を出して示すと、ようやく信じた。
- 衆がすでに集まっていたとき、知県の王文昌がかつて巡撫に申し出て衆卒を誅そうとしたと言う者があり、そこで行って王文昌を捕らえて殺し、また火を放って居民百余家に延焼させた。乱は再び大いに起こった。
- 翌日、代府に逼り脅して「兵を請うたのだろう」と言い、かつ府に賄を索めた。代王は曲げて応じて解散させたが、王は陥害されるのを懼れて子弟数人を率いてひそかに出て宣府に居った。蔡天祐は委曲に撫諭したが定まらず、状を奏聞した。
- 九月、戸部侍郎の胡瓉、都督の魯綱に師を率いて大同の叛卒を討つよう命じた。制して「首悪を誅し、脅されて従った者は問わぬ」とした。
嘉靖三年冬十一月(桂勇の捕縛と首悪の献上)
- 大同の叛卒が総兵の桂勇を捕らえた。胡瓉は陽和に至り、ひそかに桂勇に檄して城中の兵を督して首悪を擒にするよう計らせ、文書は日に数十下った。そこで城中は大いに懼れ、衆が蔡天祐に自ら全うする道を求めた。蔡天祐は制を伝えて「兵が来るのはただ首悪を誅すためで、脅従は問わぬ。汝らは悪を助けねば良民であって無事だ」と諭した。それゆえ首悪の者が煽り惑わしても、衆の多くは従わなかった。
- 桂勇はそこで苗登ら諸将を率いて計って郭鑑・柳忠ら十一人を擒にし、みな斬った。郭鑑の父の郭疤子が胡雄・黄臣・徐氈児らを糾合して再び乱を唱えて報復し、諸乱卒を逼り脅してことごとく甲を着けさせ、城門を閉ざし、夜に桂勇の邸宅を囲んでその資を掠め、家人数人を殺し、屍を坊で磔にした。その肉を啖う者さえあった。そして桂勇を擁して葉総兵の宅に至った。
- 蔡天祐および太監の武忠が急ぎ馳せ至って諭し、反覆して譬え暁したので衆はまた少し定まり、桂勇は害に遇わずに済んだ。衆は蔡天祐のもとに詣でて泣いて訴え、兵を止めるよう求めた。蔡天祐は「汝らが自ら孽を作してここに至ったのだ。どうしようもない。いま首悪を擒にできれば、私が汝らのために取り次いでやろう。兵はなお止められるかもしれぬ」と言った。
- 諸乱卒はそこで再び徐氈児ら首悪四人を擒にして献じ、蔡天祐は斬ってその首を函めて胡瓉のもとに詣でさせた。郭疤子および諸首悪はみな逃げ隠れた。胡瓉はこれを聞いて兵を提げて西しようとしたが、城中の士人数十人がともに胡瓉のもとに詣でて師を緩めるよう請うたが聴かれなかった。
- 蔡天祐は疏して班師を請い、また書で胡瓉を止め、「首悪はすでに誅した。余党は釜中の魚にすぎず、処理しやすい」と言った。疏が上って胡瓉に旋師を命じた。
- 胡瓉が還ると、御史の蕭一中、給事中の鄭一鵬らが「胡瓉は叛を討って功なく、逆党を尽くし得ぬまま師を城に臨ませず帰って功賞を冒した。欺罔の罪を治め、別に大臣を遣わして兵を督して乱を討たれたい」と弾劾した。疏は寝かされて返答はなかった。ただ蔡天祐らに勅して余党を擒え捕らえ、なお脅従を宥して治めず、また使いを遣わして代王を諭し慰めて国に還らせた。
嘉靖四年(1525年)春二月(郭疤子の誅と大同の鎮静)
- 巡撫の蔡天祐が鎮城の兵民に諭してそれぞれ業に安んじさせ、劫めた軍器は自首させた。衆はやや寧んじた。
- 郭疤子・胡雄はひそかに入城したものの、ついに身の置き所がないと計り、再び余党数十人を誘い集めて、夜に総兵の王振の邸宅を焼いた。諸卒が奔って蔡天祐に告げると、蔡天祐は「明るくなったら治めよう」と言った。
- 翌日、諸卒を集めて朝廷が班師して城を屠らなかった意を諭し、かつ乱の理由を詰った。衆は「夜に乱を唱えた者はみな知っております。どうか諸門戸を閉ざして捜索してください」と言った。首悪の郭疤子・胡雄ら四十人を得て斬り、人はみな快とした。
- 事が聞こえて優詔で答え、差をつけて賞賜した。蔡天祐は厚く間諜に賚い、事に因って逆党を捕らえ誅すること数百人近くに及び、大同はようやく定まった。
- 数年して蔡天祐は兵部侍郎に遷ったが、言者が財を費やしたことを追論したので、ついに罷めて去った。枉げられたところが多かった。
- 張文錦の妻の李氏が疏を上って恤を請うと、上は怒って疏を抱いた者を捕らえて治めた。廷臣がしばしば言上したが許されなかった。江西巡撫の陳洪謨が「張文錦は辺圉の重臣として大患を滋らせた。まことに譴責すべきである。ただ事は朝廷にあり、誅戮するとしても可である。もし士卒に手を借り、これを慫慂すれば、臣は群小が口実として陵替の階を生ずることを恐れる。国家の紀綱に損なうところは小さくない」と疏した。書が奏されると上は厳しく責めた。万暦年間、張文錦に右都御史を贈り、荘愍と諡した。
嘉靖十二年(1533年)冬十月(李瑾の殺害と再度の叛乱)
- 大同の戍卒が叛いて総兵の李瑾を殺した。先に七月、套の部が河を渡って寇入しようとしたので、大同巡撫都御史の潘倣が奏聞した。兵部尚書の王憲は「総制の重臣を設けねばならぬ」と言い、兵部侍郎の劉源清を総制とし、都督の郤永を総兵として禦がせるよう請うた。
- 旧鎮大同総兵の李瑾は、天城の左に濠四十里を浚って突騎を遏めることを議し、劉源清は従って三日で事を終えるよう期した。李瑾はもとより厳しく士卒を馭して恩が少なく、劉源清の令を承けていよいよ捶楚を加えた。鎮の卒の季富の子・王宝らが乱を唱え、従う者は六、七十人。朱振を脅して指揮使を摂らせ、ついに李瑾を殺した。
- 還って巡撫の潘倣を囲むと、潘倣は垣を越えて逃げ隠れ、その符勅を失った。諸卒は捜し得た。潘倣は「鎮将が法を用いること苛刻で兵はみな変じました。捨て置いて問わぬよう請います」と奏した。劉源清は「たとえ兵がみな変じても法は廃せぬ」と言って討つことを請うた。
- 事が兵部に下って議されると、尚書の王憲は「兵は必ずしもみな変じたのではない。脅従は宥して治めず、渠魁は必ず殲すべきだ」と言い、璽書を降して総制・巡撫に機を見て撫し勦めるよう責めた。
- 潘倣は僉事の孫允中らを督して首悪十余人を計って擒にし、縛って献じた。当時、劉源清は陽和に駐まっており、大同の城中に榜示して「五堡の変で朝廷の処置は寛きに過ぎた。いま悪を熟させて王帥を戕った。天討の必ず加わるところである」と言った。五堡の遺孽は榜示を見てたちまち囁き合って安んじなかった。甲申の事を追及するのだと思ったのである。
- 孫允中は諸囚を檻に入れて軍門に詣で、帥を沮んで少し徐々に図るよう請い、「逆党はことごとく得られます。また五堡の事は朝廷がすでに処分しております。どうか言わぬように」と言った。劉源清は「甲申の役では胡公が兵を城に臨ませなかったために言者が紛々とした。私は前轍を襲うわけにいかぬ」と言った。
- そこで囚を御史の蘇祐に属して訊ねさせ、参将の趙剛らを遣わして甲士三百人を率いて乱党を捕らえさせた。潘倣は捕らえた名を検べたが、多くは賊を擒にして功があったために諸囚に仇まれ誣いられた者だったので、捕らえるのを止めさせた。功のない者八十余人であった。
- 晩になると諸鎮の卒はみな変じ、巷を拒んで入れなかった。劉源清は孫允中を城に入らせて意を諭し、翌日に甲を解いて王師を迎えるよう令した。夜になると城中はいよいよ騒ぎ、「兵が来て城を屠る」と言い、群がり起こって乱を為した。潘倣は孫允中および諸禆将に命じて二十余人を擒斬させ、残りは解散した。
- 劉源清は書を作って朱振を召した。朱振が至ると厳しく責め、朱振は薬を飲んで死んだ。翌日、劉源清の師が城下に至り、関を斬って入り、大いに殺掠を恣にした。城外には屍が横たわり枕を並べた。五堡の遺孽はついに変じ、悍く横暴で制しがたく、城門を閉ざして開かず、指揮の馬昇・楊麟を擁して渠帥とした。
- まもなく郤永の師も至って隊を整えて城に至ると、乱兵は門を開いて迎え敵し、参将一人を殺した。潘倣と孫允中が急ぎ馳せて諭したが、衆は「城外は屍が道を塞いでいる。まだ我らを騙すのか」と言った。反覆して諭しても聴かなかった。潘倣は孫允中と計り、「乱はもう遏められぬ」と言って、将士が功を貪って妄りに殺し、鎮兵を変に激した状を列ねて間道から上った。劉源清もまた巡撫の諸臣が逆卒に党して王師に抗するに至らせたと疏奏した。言官が潘倣を弾劾して罷めさせた。
- 劉源清が聚落駅に次したとき、孫允中が行って会い、将士が妄りに殺したのが原因だと言った。劉源清は「賊のために説くな」と言い、孫允中は懐仁に留まり居った。
- 当時、礼部侍郎の顧鼎臣・黄綰はみな用兵の非を言い、黄綰の言はとりわけ力めていて、輔臣の張孚敬の意に忤った。吏部は他事にかこつけて参政に謫して出したが、黄綰は発憤して上疏して自ら列べ、かつ用兵の失を指して言った。上は悟ってその官を復するよう命じた。
嘉靖十二年十一月〜十三年(1533〜1534年)(攻城と小王子の来寇)
- 十一月、兵部尚書の王憲は「大同の変は大いに兵を発して誅さねばならぬ」と言い、張孚敬がその議を主とした。そこで汪桓を総兵とし、参政の樊継祖を抜擢して大同巡撫とした。
- 樊継祖は陽和に至って劉源清と議し、大いに忤った。そこで上疏して「金牌を借り、単騎で入城して諭せば、たちどころに下せましょう。しかも賊は計に窮して北して胡に走り、貽す患いは小さくないことを恐れます」と請うた。疏が入っても返答はなかった。
- 劉源清は諸関に邏卒を設けて城中の章疏を遏め、また連疏で「宗室・諸文武がことごとくすでに賊に従った。実に天がこの城を棄てようとしているのだ」と奏した。兵部はその議を是とし、旨あって攻めるよう促した。劉源清は百道から城を攻め、郎中の李文芝、主事の楚書に城を穴って水を決して灌がせたが、諸叛卒は堅く守って下らなかった。
- 十三年春正月、小王子が大同の塞を寇した。初め大同の叛卒は城中を大いに掠めてひそかに漠北に出、小王子の数万人を誘い、大衆で入寇した。郤永が師を回して禦いだが利を失い、殺傷は甚だ多かった。城中の叛卒は鼓譟して呼応し、その渠長数十人が入城した。諸叛卒は代府を指して「兵が退いたらこれをもって謝そう」と言った。小王子は精兵を留めて相持し、余衆は渾源・応州・朔州・懐仁の諸郡邑を分かれ掠め、数か月して去った。羽檄が京師に達し、中外は洶々とした。
嘉靖十三年二月(劉源清の罷免と張瓉・樊継祖の鎮撫)
- 劉源清が罷めた。劉源清は北騎の猖獗を畏れ、重ねて総制を設けて分けて禦がせることを請い、自らは専ら攻城に当たろうとした。張孚敬が従うよう請うたが、上は夏言の議を納れて許さなかった。
- 御札を下して「叛卒が主将を殺したのは法として赦せぬ。しかし城を挙げてしたことではない。郤永と劉源清は功を貪って水を引いて城に灌いだ。大同は北門の鎖鑰である。劉源清は必ず城を破り人を誅そうとしている。衆に成功させて、どうやって興復させるのか。二臣の罪を鞫べ、別に大臣を遣わして禦がせ、ひそかに逆賊の魁を擒にすれば、師が老い財が匱しくなるのを免れよう」と言った。札が下って中外は初めて用兵が朝廷の意でないと知った。
- 劉源清はこれを聞いて城下に詣でて首悪を索めた。当時、郎中の詹栄、都指揮の紀振、遊撃の戴廉はみな賊中に陥っており、相い謀って「総制がまことに首悪を索めるなら、内応となることを謀るべきだ」と言った。指揮の馬昇は賊に擁戴されて威令が城中に行われていた。詹栄らが大義をもって激すると、馬昇は心を委ねた。そこで血をすすって盟い、鎮撫の王掌に出て樊継祖に告げさせた。樊継祖は深く奨め慰め、劉源清に告げた。
- 劉源清は表向き許しながら、人に城を穴たせ、詐って票を給して水を汲んで灌いだので、穴つ者が死んだ。馬昇は大いに憤り恨み、詹栄らに不利を為そうとしたので、事は止んだ。劉源清は為すべからずと知って病と称して解任を乞い、上は大いに怒って罷め斥けた。
- 戸部侍郎の張瓉を劉源清に代えて総制とした。張瓉は軍に入ると「城を攻めるな。私に請うところがある」と令し、騎を遣わして懐仁の孫允中を招いて議した。当時、孫允中はすでに弾劾されて落職していた。
- また、ひそかに使いを遣わして城中に諭し、主事の楚書に城下で兵を観させた。城中の者は陴に登って「我らは将を殺した者ではない。死を畏れて自ら全うしているだけです。どうか楚書を入れてください」と請うた。楚書はそこで入って慰め諭し、かつ「用兵は朝廷の意ではない」と言った。衆はみな闕を望んで万歳を呼んだ。楚書はさらに馬昇らを進めて朝廷の威徳を陳べ、禍福を暁して首悪を献じさせた。
- この夜、乱を唱えた黄鎮ら二十四級を斬って軍門に献じた。そこで樊継祖もまた馳せて入城して人心を鎮撫した。郤永はなお沮み撓めて「樊継祖が兵を伏せて内応している」と言い立て、衆は果たして夜に驚いたが、樊継祖が堅く臥して起きなかったので安んじた。
- 張瓉はさらに孫允中を入城させて宣諭させた。樊継祖は城中に榜諭し、大いに倉粟を発いて賑済し、少しずつ法で縄い、無頼で恣な者一、二人を撾殺して衆に示すと、衆はやや寧んじた。
- 張瓉はそこで馳せて城下に至り、諸路の兵を二舎の外に退け、諸将領が順に上って謁した。翌日、鼓吹を張り、御史の蘇祐とともに南門から入り、酒を置いて高らかに会し、将士に賞賜した。城中はようやく大いに定まり、小王子もこれを聞いて遠く遁れた。張瓉は還って上谷に居って遥かに制した。
- 事が聞こえて上は大いに悦び、璽書を降して礼部侍郎の黄綰を遣わし、功罪を核べて賞罰を定めさせた。郤永はなお沮んで事を敗ろうとしたので、黄綰はまず疏して郤永を罷めさせ、それから鎮に至った。御札と璽書を宣べ、宗室の傷残を慰め、骸骨を掩い、窮乏を賑わし、守臣に命じて遺悪を捕らえ誅し、誣罔を雪ぎ、変を激した由を核べ、欺蔽の罪を正し、諸将士の功賞を差別した。
- 疏が上って久しく、劉源清・郤永を徴して獄に下した。劉源清は籍を削られて去り、郤永は級を降されて功を立てて罪を贖わせた。潘倣・孫允中は原職に復して致仕させ、張瓉・樊継祖らはそれぞれ差をつけて賞賜された。
史論(谷応泰曰)
- 大同は南に太原を蔽い、西に楡林を阻み、東に上谷に連なる。屹然たる重鎮である。さらに一、二の賢明な将吏を得て、甘きを分かち少なきを絶ち、士卒をねぎらい、号令が厳明であれば、勇気は百倍する。李牧が郡を守れば匹馬も窺わず、郅都が辺にあれば幕庭は遠く徙った。これこそ外を攘う重寄であって、どうして内から潰える突然の患いがあろうか。
- ところが嘉靖三年、巡撫の張文錦は城を去ること百里に五堡を増築することを議し、堡ごとに戍を列ね、卒を移して実たそうとした。藩籬が固くなってこそ明堂は尊く、屏障が列んでこそ天府は重い。張文錦の策は謬りではない。ただ、車を出して新軍を遣り、采薇して還る戍をねぎらい、日ごろから撫循し、践更に法があり、信じさせてから労させるなら、誰が敢えて違おう。
- それなのに沢門に役を興して鞭箠で怨みを買った。秦の法で徒を送り期に後れればみな斬られた。かくて郭鑑・柳忠が一呼して乱を唱え、張文錦・賈鑑は屍を裂かれてともに亡んだ。ああ、楊炎が城を建てて涇原の兵が叛き、張弘靖が糧を刻んで盧竜の軍が反した。事勢が相い激するのは怪しむに足りない。
- このとき、まさに智勇の臣を択んで節鉞の重きを秉らせ、あるいは恩義が久しく敷かれ、あるいは雅量が日ごろから蓄えられた者に、渠魁の罪を声め、余りの醜を撫し輯めさせるべきだった。元振の党を収めて叛人を戮し、王郎の書を焼いて反側を安んじたようにすれば、戍卒が騒いでも一鼓で定められたであろう。
- ところが下には獷悍が多くて叛服が常ならず、上には方略が乏しくて勦撫ともに失した。ゆえに郭鑑・柳忠が首を授けると郭疤子がまた起こり、徐氈児が斃れると季富がまた興り、脱巾が相い尋いで、勢いは蝟の毛のようだった。これはもとより勦めるべきものではない。かといって、蔡天祐に泣き訴えながら王振の邸を焼き、胡雄を縛って献じながらまもなく李瑾を殺し、牙を磨いで相い向かい、狂犬のような有様である。これもまた撫すべきものではない。
- ついに劉源清が関を斬って大いに殺し、李文芝が水を決して城に灌ぐに至って、獣は険に走らず鹿は音を択ばぬ状となった。馬頴が厚く元海と結び、懐恩が外に吐蕃を誘ったように、河西を許して秦の師に賂し、金帛を指して回紇に酬いるがごとく、辺関の重い険はほとんど拱いて授けられるところだった。
- 幸いにも樊継祖が単騎で直ちに入り、張瓉が王師を退け、粟を発いて饑を賑わし、鼓吹して高らかに宴した。乱卒の憂危はこれによって釈けた。譬えれば郭子儀が河中に入って一府が騒がず、段秀実が軍門に入って衆がみな甲を解いたようなもので、他でもない、誠を開き公を布いて赤心を推しただけである。
- それなら乱が十年に延び、変が総じて七たび起こったのは、まことに豺豕の性が成って威恵の二つながら絀ったからではない。ただ上下が相い蒙って弓影の疑いが内に蓄えられ、恩信が著れず投杼の説が外で動いたからである。
- 恨むべきは、劉源清が勦を主張し、王憲が内でこれに和し、張孚敬が上でこれを持し、樊継祖の疏が入っても返答がなかったことだ。便宜こそ事を済すのに、ついに樊継祖は璽書を獲、劉源清は廷尉に繋がれた。奸臣が内にあって大将が功を立てられたのは、粛帝の心が開けたおかげである。