明史紀事本末李福達の獄(李福達之獄)
妖人の李福達をめぐる冤獄と、それに乗じた政争を、嘉靖五年(1526年)から四十五年(1566年)までの41年間にわたって扱う。白社の妖術で乱を起こした李福達は張寅と名を変えて太原衛指揮に潜り込み、焼煉の術で武定侯の郭勲に出入りしていたが、仇の薛良に告発され、御史の馬録が窮治して磔に論じ、併せて郭勲を逆賊に党したと弾劾した。郭勲は張璁・桂萼らと結んで「議礼の諸臣を陥れる陰謀だ」と世宗に信じ込ませ、張璁・桂萼・方献夫が刑部・都察院・大理寺を摂って再審し、馬録を拷問して誣服させて李福達を釈した。顔頤寿ら法司の大臣から給事中・御史まで詔獄に下されて獄死者十余人、毒を流された者は四十余人に及び、張璁らは「欽明大獄録」を編んで頒示した。四十五年、四川の蔡伯貫の乱から李福達の孫の李同が捕らえられて素性が露見し、龐尚鵬の上言によって郭勲の官爵は追奪され、馬録らが叙録されてようやく冤が明らかになった。
年表(6件)
- 世宗
- 嘉靖五年秋七月(李福達の露見と告発)1526年張寅と名を変えていた李福達が薛良に告発され、巡撫の畢昭だけが獄を覆す
- 嘉靖五年(馬録の再審と郭勲の介入)御史の馬録が再審して謀反に擬し、請託した郭勲を弾劾して手書を上る
- 嘉靖五年冬十一月(磔刑の裁定と郭勲の反撃)聶賢らが磔に当たると覆奏するが、郭勲は張璁・桂萼と謀って議礼の讐だと蜚語を作る
- 嘉靖五年(会鞫と帝の疑い)九卿の会鞫でも磔と奏請されるが、世宗は疑いを深めて唐枢を民に黜ける
- 嘉靖六年(馬録の逮捕と大獄)1527年張璁ら三人が再鞫して馬録を誣服させ李福達を釈し、顔頤寿以下四十余人が獄死・謫戍される
- 嘉靖四十五年(李同の獄と冤の判明)1566年蔡伯貫の乱から李福達の孫の李同が露見し、龐尚鵬の請で郭勲の官爵が追奪される
世宗嘉靖五年(1526年)秋七月(李福達の露見と告発)
- 妖人の李福達が死罪に坐した。李福達は山西代州崞県の人で、一名を午という。初め妖賊の王良の謀反事件に連座して山丹衛に戍られたが、逃げ帰って名を五と改め、陝西の洛川県に隠れ住んだ。叔父の李越とともに白社の妖術を唱えて弥勒仏教とし、愚民を誘って数千人を嘯き集め、鄜州・洛川の諸処を大いに掠め、殺掠は数知れなかった。まもなく官兵が追い勦めて李越とその党の何蛮漢らを捕らえて誅した。
- 李福達は逃げおおせ、徐溝県に籍を占め、姓名を張寅と変え、県中の大姓に賄って同宗とし、宗譜を編み立てて世人の耳目を塗り塞いだ。さらに多額の資を携えて京に入り、匠籍に潜り込み、粟を輸して山西太原衛の指揮となった。その子の大仁・大仁・大礼はみな匠役に補された。焼煉の術によって武定侯の郭勲のもとに往来し、後にまた同戈鎮に赴いた。
- その仇の薛良がこれを告発した。李福達は懼れて京に逃げ入り、官司はその二子を捕らえて拘留した。李福達は窮して自ら獄に詣でて申し開きをした。前後して鞫訊した代州知州の杜蕙・胡偉、これを証言した李景全らが獄を具えて布政司に上り、李璋、按察司の徐文華らがさらに巡按御史の張英に上ったが、いずれも訊問どおりであった。
- ただ巡撫の畢昭だけは、李福達は果たして張寅であって仇家に誣いられたのだとして、その獄を覆し、居民の戚広らを証人として薛良の罪に坐した。獄が終わらぬうちに畢昭は侍養を乞うて去った。
嘉靖五年(馬録の再審と郭勲の介入)
- 折しも御史の馬録が山西を按じて再びこれを窮め治め、爰書を伝えるに前の訊問どおりであった。郭勲は書を遺して馬録に赦免を囑したが、馬録は従わず、李福達を謀反として妻子連座に擬し、章を飛ばして郭勲が逆賊に党したと弾劾し、併せてその手書を上った。
- 帝はこれを都察院に下した。席書もまた郭勲を助けて李福達に地を為した。大理寺評事の杜鸞が上言して郭勲および席書を弾劾し、二人をまず国法に正し、次いで多官に李福達の罪を集議させるよう乞うたが、返答はなかった。
- 都察院が覆奏して「李福達の罪状は、山西の撫按官に命じて獄を移し、三司を会して鞫らせるべきだ」と言った。先に御史の馬録は徐溝の郷紳である給事中の常泰に問い合わせ、常泰は「張寅が李福達であることに疑いはない」と答えた。また讞獄郎中の劉仕に問い合わせたところ、劉仕は鄜州の人で、その言は常泰と同じだった。馬録はさらに檄して鄜州・洛川の父老で李福達を知る者を取って弁別させたが、みな真の李福達だと言った。
- そこで布政使の李璋、按察使の李珏、僉事の章綸、都指揮使の馬豸に檄して雑え鞫らせた。李福達は対簿しても異なる言葉はなく、爰書に附して馬録に上った。
- 馬録は巡撫都御史の江潮と会して上言した。李福達は衆数千を聚めて殺した人は巨万。踪を潜め形を匿したとはいえ罪跡は次第に露れ、姓氏を変え易えても悪しき相貌は前のままである。極刑に論じてもなお余りある罪だ。武定侯の郭勲は匪人と結納し、憚りなく請託した。妖賊の反状は必ずしも明らかに知らなかったとしても、術客が私に干めるのを避け拒まなかったのだから、やはり法に当てて懲艾を薄く示すべきだ、と。章はまた都察院に下された。
嘉靖五年冬十一月(磔刑の裁定と郭勲の反撃)
- 左都御史の聶賢らが覆奏して「李福達の逆跡は昭らかで灼らかである。律として磔死に当たる」と言い、帝は従って獄に錮して決を待たせた。そこで郭勲を詰責して自ら罪を輸すよう命じた。郭勲は懼れて恩を乞い、そのついでに李福達のために弁じた。帝は不問に付した。
- 郭勲はまた李福達の子の大仁に具奏して父の冤を雪ぐよう求めさせた。章は聶賢と原訊の御史・高世魁に下されたが、郭勲の指図と知ってその議を寝かせて奏した。郭勲は大仁に「もし解けなければ、お前たちはしばらく亡命して群戮を踏むな」と言った。
- そこで給事中の劉璂・程輅・王科・沈漢・秦祐・鄭自璧、御史の高世魁・鄭一鵬、南京御史の姚鳴鳳・潘壮・戚雄がそれぞれ、郭勲が逆賊と交通して明らかに賄賂を受けたこと、李福達がすでに誅に伏すべき以上、郭勲に赦すべき理はないことを弾劾した。
- 給事中の常泰もまた「郭勲は罪を輸すと名づけながら実は李福達に代わって理を求めている。知情として論ずるのに何の言い分があろう。郭勲は李福達のために間に居って画策し、大仁らに事が急なら亡命させた。故縦として論ずるのに何の言い分があろう」と上言した。給事中の張逵らもまた「およそ謀反大逆は上刑に服すべきで、知情故縦もまた重典に従うべきだ。いま郭勲は書を移して謝し託して叛逆を党護した。軽く貸すべきでない」と上言した。聶賢もまた郭勲は連坐に当たると奏した。帝は従わなかった。
- 郭勲もしきりに自ら訴え、「議礼のために衆の怒りに触れたのだ」と言った。帝はこれを信じた。まもなく錦衣千戸の載偉に命じて李福達の獄詞および囚の佐証を取り移し、鎮撫司に下して羈留させ、会鞫を待たせた。
- 給事中の常泰・秦祐、御史の任孚・邵豳、郎中の劉仕がさらに交々章を上って郭勲を弾劾し、江潮・馬録もなお疏を会して「李福達は枉げられていない。律のとおり問われたい」と極言した。
- そこで郭勲は張璁・桂萼らと合わせ謀って蜚語を作り、「廷臣が内外で交結し、事に借りて郭勲を陥れ、次第に議礼の諸臣にまで及んで志を逞しくして自ら快とするものだ」と言った。帝は深くその説を信じたが、外廷は知らなかった。
嘉靖五年(会鞫と帝の疑い)
- 帝は速やかに李福達を京に取って鞫問するよう命じた。刑部尚書の顔頤寿、侍郎の王啓・劉玉、左都御史の聶賢、副都御史の張閏・劉文荘、大理寺卿の湯沐、少卿の徐文華・顧佖、寺丞の毛伯温・汪淵および錦衣衛鎮撫司の各官が京畿道で李福達を会鞫したが、対簿に異なる言葉はなく、磔に論ずるよう奏請した。
- 帝は従わず、九卿・大臣を会して闕廷で鞫らせた。当時、告発者の薛良と衆証の李景全らがともに李福達を指したので、李福達は語に詰まった。畢昭が薛良の誣を証すために引いたのは戚広である。訊ねると「私は先に吏に就いて訊ねられていない。どうしてこの言があろう」と言った。顔頤寿らがその詞を上ると、上の心はいよいよ疑い、斎祀が終わったら朕が親しく臨んで鞫問すると命じた。
- 大学士の楊一清が「庶獄で聖慮を煩わすに足るものはありません。なお諸勘官に属して会訊させられたい」と上言した。刑部主事の唐枢は「李福達の罪状は甚だ明らかで、死に擬しても枉げてはいない」と言った。上は怒って民に黜けた。顔頤寿らは懼れ、前後の讞詞を雑え引いて疑獄と指した。帝は顔頤寿らを厳しく責めた。
嘉靖六年(1527年)(馬録の逮捕と大獄)
- 夏四月、錦衣官の劉泰らを遣わして馬録を逮えて京に赴かせ、鎮撫司の獄に下して鞫問を待たせ、なお原勘の各官の李璋・李珏・章綸・馬豸を京に詣でさせてただちに訊ねさせた。
- 顔頤寿が上言して「李福達の反状は甚だ明らかで、法として軽々しく縦しがたい。まして彼は神姦の妖術で人心を蠱惑している。臣らがもし一を執りえず、あるいは縦し捨てて、他日また洛川の禍いが起これば、臣は斧質に伏しても欺罔の罪を償えません」と言った。帝は怒り、「顔頤寿は邦刑を司る職にありながら姦に朋して誣いを恣にしている」と言い、罪を戴いて事に当たらせた。
- 顔頤寿らが重ねて会訊を請い、容れられた。そこで馬録を出して李福達と対鞫させたが、情に反する所はなかった。顔頤寿らが重ねて上に請うと、帝は顔頤寿らが朋比して上を罔いていると言い、顔頤寿および侍郎の劉玉・王啓、左都御史の聶賢、副都御史の劉文荘、大理寺卿の湯沐、少卿の徐文華・顧佖を詔獄に逮繋した。その原鞫の郎中・御史・寺正などの官もみな逮繋して罪を待たせた。
- 八月、帝は桂萼に刑部の事、張璁に都察院、方献夫に大理寺を摂らせて雑え治めさせた。太僕卿の汪玄錫と光禄少卿の余才が、たまたま「李福達の獄はすでに実情を得ている。どうして更にこれほど事を多くするのか」と語り合った。偵らせていた者が張璁らに告げ、奏聞した。帝は汪玄錫・余才を詔獄に逮繋して併せて拷掠するよう命じた。
- 大学士の賈詠は馬録とともに河南の人で、馬録が逮えられると書を遺して慰めた。鎮撫司が奏聞し、さらに都御史の張仲賢、工部侍郎の閔稭、大理寺丞の汪淵、御史の張英の私書を捜し得て上った。責状して賈詠は罪を引いて致仕して去り、張仲賢らは逮えられた。
- 九月、張璁・桂萼・方献夫は帝意に迎合し、馬録らを闕廷で再び鞫って榜掠を備え尽くした。馬録は五毒に耐えかね、私を挟んでことさら人を罪に陥れたと誣服した。張璁らが奏聞し、そこで李福達を釈した。
- 帝は馬録を怒って死に坐そうとしたが、張璁が取りなして免れ、戍に論じて南丹衛に編伍させ、子孫まで及ぼした。帝は群臣がみな抗疏して郭勲を弾劾したのは姦に朋して正を陥れるものだとして、給事中の劉璂・常泰・張逵・程輅・王科・沈漢・秦祐・鄭一鵬ら、御史の姚鳴鳳・潘壮・高世魁・戚雄ら、刑部郎中の劉仕、大理評事の杜鸞らを詔獄に逮繋し、箠楚と獄舎で死んだ者は十余人、その他は辺に戍せられ籍を削られ、毒を流されたのは四十余人に及んだ。
- 大理少卿の徐文華・顧佖を辺に謫戍した。初め顔頤寿らは逮治されて五毒を備え嘗め、聞く者は惨と思った。やがてみな官を奪われて罷め帰ったが、ただ徐文華と顧佖だけが辺戍に論ぜられた。二人はともに張璁らと大礼を廷争した者である。江潮・李璋・李珏・章綸・馬豸らはみな官を奪われ、韓良相およびその佐証はみな遣送に論ぜられた。
- 張璁らは自ら平反の功があるとして「欽明大獄録」を編んで内外の諸臣に頒示し、顔頤寿らの欺罔を明らかにするよう請い、容れられた。
嘉靖四十五年(1566年)(李同の獄と冤の判明)
- 四川の妖寇の蔡伯貫が反し、まもなく擒にされた。鞫ってみると、山西の李同を師としていた。四川の撫按官が山西に文書を移して李同を捕らえて獄に下すと、自ら「李午の孫、大礼の子である」と吐いた。代々、白社の妖教を習い、唐の裔と偽称して、まさに出て世を馭すべきだと言って民を惑わし乱を唱えていた。「大獄録」の姓名と異なるところはなかった。撫按官は李同を斬に論じ、旨を奉じて誅した。
- 都御史の龐尚鵬が上言した。李同の獄によって李福達の罪はいよいよ明らかになった。当時、縉紳に毒を流したのは四十余人に及ぶ。衣冠の禍いは烈しかったというべきだ。郭勲は代々、国の恩を受けながら逆寇に党して縉紳を陥れ、枢要の人はみな頤で指し気で使われた。ここに至るとは。万一ひそかに異謀を蓄えて人々が命を聴けば、その禍いは言うに忍びない。郭勲らの官爵を追奪して鑑戒を垂れ、馬録らには特に優遇を加えて忠良の気を伸ばされたい、と。穆宗は従った。当時、事に死に謫戍された者がみな叙録を得たことによって、この獄はようやく明らかになった。
史論(谷応泰曰)
- 永嘉(張璁)・安仁(桂萼)のこの挙は、はたして冤獄を平らかにするものだったろうか。やはり武定(郭勲)に党して諸台諫を讐としたにすぎない。
- 大礼を議していたとき、礼官はかつて郭勲を要して連署で永嘉を攻めたことがあった。郭勲は後に永嘉にひそかに「私はかつて汪俊に、この事は関わるところ甚だ大きいので折中すべきで偏執してはならぬと言った。汪俊は私と力めて弁じ、大いに詬って止み、結局私の名を疏中に署した。私の意ではない」と語った。永嘉は信じてその語を大典の中に収め、かつ「郭勲はついにこれによって衆の怒りを構えた」と言った。
- 後に献皇帝を考とするかを再び議したとき、徐文華らが張璁と力めて弁じたが、郭勲はにわかに「祖訓はかくのごとく、古礼もかくのごとくだ。張璁らの言は当たっている。さらに何を議するのか」と言った。そこで張璁らは郭勲とともに議を上り、献皇を考とし孝宗を伯とすることになった。郭勲はいよいよ永嘉に悦ばれた。遊言が一たび唱えられて宸聴を鼓し惑わすと、帝もまた郭勲を心膂の臣とした。
- 李福達の獄が起こって台諫の諸臣が力めて郭勲を攻め、必ず連坐に置こうとした。これこそ反覆して追い讞べ、必ず翻して釈してからやめた理由である。永嘉らがこれを主導した以上、必ず永嘉らが成し遂げる。李福達のためではなく武定のためだったのだ。武定が伸びれば諸臣の竄削は顧みるに足りぬというわけである。ひどいものだ、永嘉の挙は。
- それなら台諫にはまったく過ちがなかったのか。武定が李福達を庇ったのは罪がもとよりあるが、必ず連坐させようとしたのは行き過ぎだ。李福達が乱を為していたとき、武定がその謀に与ったろうか。李福達が方術で見え、郭勲もまた方術をもって遇したにすぎない。どうして先日の叛賊と知りえたろう。事が露れてから請託したのはよくないが、陳白をけしかけたかどうかは、その果たしてあったかどうか分からない。ゆえに李福達の獄が定まった後にその請託の罪を治めれば足りたはずだ。なぜ必ず連坐させようとしたのか。
- まして知情・蔵匿・故縦の律は、もとより郭勲の事と似ていないのに、必ずこれを引いて縄い、重典に置こうとした。これこそ翻釈の紛々を激成した理由である。李福達の獄は先にすでに監決の命を奉じていた。かりに当時の諸臣が少しでも寛緩を存し、李福達が誅に伏した後に群がって武定を攻めていたら、郭勲は百口をもってしても弁解できず、再び李福達を鞫って自ら地を為そうとしても得られたであろうか。
- 惜しいことに、諸臣の慮りはここに及ばず、法司の大臣や藩司・臬司の諸司までがみなその禍いに罹った。悲しいことである。