明史紀事本末祀典を改め定める(更定祀典)
明の世宗(嘉靖帝)が大礼議に続いて国家祭祀の制度を全面的に改めた経過を、嘉靖九年(1530年)から穆宗隆慶元年(1567年)までの38年間にわたって扱う。給事中の夏言が天地の合祀を非として郊祀の分祭を請うたのを世宗が喜んで容れ、霍韜ら合祀論者を退けて南北東西の四郊を建て、圜丘・方澤・朝日・夕月の礼を復した。大学士の張璁は程敏政らの旧議を採って孔子の祀典を改め、大成至聖文宣王の王号を廃して至聖先師孔子と改称し、塑像を撤して木主に易え、公伯寮・荀況・王弼・杜預ら十三人の従祀を罷めた。太廟でも太祖の南向位を正して徳祖を祧し、古の廟制に倣って九廟を分建したが、嘉靖二十年に九廟が焼け、二十四年に同堂異室の旧制に復した。谷応泰は一代の典を備えたものと評しつつ、皇初祖の虚位を設けた点を古に泥んだ誣いと難じている。
年表(16件)
- 世宗
- 嘉靖九年二月(郊祀の分祭を請う)1530年夏言が天地の合祀を非として郊祀の分祭を請い、世宗が喜んで賞賜する
- 嘉靖九年夏四月(郊祀典礼の集議)霍韜が分祀に反対して獄に下され、群臣の集議を経て分祀に定まる
- 嘉靖九年五月〜秋七月(四郊の造営と帝王廟)圜丘・方丘・朝日壇・夕月壇の四郊を建て、帝王廟を京師に立てる
- 嘉靖九年冬十月(孔子祀典の改定)孔子を至聖先師と改称し、像を撤して木主とし従祀の諸賢を釐正する
- 嘉靖九年十二月(南郊の初祭と祈嗣)世宗が初めて圜丘に祀って太祖を配し、次いで聖嗣を祈る礼を行う
- 嘉靖十年春正月(太廟の南向位を正す)1531年太祖を中央南向に奉って特享を始め、徳祖を祧殿に退ける
- 嘉靖十年春(祈穀・禘祭・大雩の議)大祀殿で祈穀し、夏言の議に従って皇初祖の虚位に太祖を配する大禘を定める
- 嘉靖十年二月〜八月(朝日・大神殿・北郊・夕月)東郊の朝日、方澤の地祀、西郊の夕月を初めて行い、大神殿を建てる
- 嘉靖十一年夏四月(九廟造営の議)1532年夏言が地勢の狭さを説くも世宗は古制を採り、旧廟を撤して都宮を改建する
- 嘉靖十三年(釈奠と南京太廟の火災)1534年世宗が太学を視て釈奠し、南京の太廟が焼けて再建されない
- 嘉靖十四年二月(九廟の建立と廟号)1535年夏言の議で太宗を文祖世室とし、仁宗以下を三昭三穆に配して九廟を建てる
- 嘉靖十五年(祀儀の完成と禁中の仏像撤去)1536年祀儀の纂修が成り、禁中の仏像を鋳潰して慈慶・慈寧の二宮を建てる
- 嘉靖十七年(成祖・睿宗の称と皇天上帝)1538年太宗を成祖、献皇帝を睿宗と奉り、昊天上帝を皇天上帝と改称する
- 嘉靖二十年夏四月1541年辛酉の日に九廟が焼ける
- 嘉靖二十四年(元世祖廟の撤去と太廟の再建)1545年元の世祖の廟祀を撤し、太廟が成って同堂異室の制に復する
- 穆宗
- 隆慶元年1567年礼官の議により祈穀と大享の礼を罷め、四郊のみ旧に留める
世宗嘉靖九年(1530年)二月(郊祀の分祭を請う)
- 給事中の夏言が郊祀の改定を請うた。洪武の初め、中書省臣の李善長らが郊社宗廟の議を進め、天地を南北の郊に分けて祭ることとした。冬至には昊天上帝を圜丘に祀り、大明・夜明・星辰・太歳を従わせ、夏至には地を方澤に祀り、五嶽・五鎮・四海・四瀆を従わせた。徳祖以下の四代はそれぞれ廟を立てて南向させ、四時の孟月と歳除の計五度享した。孟春には各廟で特祭し、孟夏・孟秋・孟冬・歳除には高祖の廟で合祭した。社稷は春秋二仲月の上戊日に祀った。太祖はこれに従ったが、十年行ううちに水旱が時ならず災異が多かったので、太祖は「天地は父母のようなものだ。文に泥んで情が安んじないのでは礼とはいえぬ」と言い、冬至に天地を奉天殿で合祀することにした。歴朝これを踏襲した。
- そこで夏言は「古は天を圜丘に祀り地を方澤に祭った。南郊に兆すのは陽に就く義、北郊に瘞めるのは陰に即く象で、いずれも天地の性に順い陰陽の位を審らかにするためである。どうして棟宇を高く建てて人の道になぞらえることがあろうか。一祖二宗の配享や諸壇の従祀を、二至ではなく孟春に行うのも、古礼に照らせばみな弁ずべきところがある」と上言し、程頤・朱熹の論を引いて合祀の不経を論駁した。
- 疏が入ったとき、世宗はちょうど大礼の件で群臣に怒っており、大いに改めようとしていたので、これを得て甚だ喜び、夏言に四品の服と織幣を賜ってその忠を旌した。
嘉靖九年夏四月(郊祀典礼の集議)
- 夏言の疏が容れられたのを詹事の霍韜が嫉み、「郊を分けるのは朝政を紊し祖制を乱すものだ」と上言したが、世宗は問わなかった。霍韜はさらに書を夏言に送り、祖宗の定制は変えられぬこと、周礼は王莽の偽書であること、宋儒の議論はみな寝言であることを言い立て、「東西郊の説がここから起これば、九廟もまた改められることになろう」と述べた。夏言は章を飛ばしてその書ごと上呈し、世宗は怒って霍韜を獄に下した。
- 中允の廖道南は、周礼・漢志・唐六典など諸書を雑引して、本朝の郊廟の礼はみな議すべきものであることを明らかにした。その要旨はこうである。太祖は初年に圜丘を鍾山の南、方丘を鍾山の北に建てて天地を分祀したが、十年に至り、斎居中の陰雨の応に感じ、京房の災異の説を見て、旧址を壇として合祀するよう命じた。前の分祀は万世帝王の道を酌んで礼を太始に本づけたものであり、後の合祀は一時の災異の応に感じて礼を人情に縁らせたものである。太宗が遷都したとき、古制を復すべきだと建白する者はなかった。「礼楽は百年にして後に興る」とはまことである。
- 宗廟の制については、国初に四親廟を立て、徳祖を中に居え、懿祖・熙祖・仁祖を左右に分けて次いだので、昭穆に定位があり禘祫に定時があった。商周の七廟九廟と揆を一にする。ところが洪武九年十月に太廟を改建し、漢人の同堂異室の制に倣った。時享・歳祫には累朝の衣冠を神座に設けて祀り、こうして功臣の配享が始まった。古の聖王の尊尊親親の道ではあるまい。
- 周礼の大宗伯には日を東郊に兆し月を西郊に兆すとあり、我が聖祖にも朝日・夕月の礼があった。挙げられたものを敢えて廃すべきではない。しかも今の大祀殿はまさに古の明堂の制に倣っている。聖祖の初制に法り、圜丘を南郊に兆して天を祀り、方丘を北郊に兆して地を祀り、聖祖を尊んで配享させ、周人が后稷を尊んだ意に法るべきだ。そのうえで太祖・太宗を大祀殿に宗祀し、周人が文王を明堂に宗祀した礼に法り、大明を東郊に兆し夜明を西郊に兆して、周人の朝日夕月の礼に法るべきだ。太廟には大禘の祭を増し、太祖の南向の位を正し、功臣を両廡に移せば、尊尊に差があり親親に等があって、古典が復される、と。
- 疏は礼臣に下されて議された。賛善の蔡昂、修撰の倫以訓・姚淶、祭酒の許詔、学士の張潮、編修の欧陽徳、給事中の陳侃・趙廷瑞、御史の陳講・譚纉はみな合祀が宜しいとし、なかでも姚淶の言は切実だった。
- 夏言は重ねて疏を上って祀享の議を明らかにし、「周人は后稷を郊で天に配し、文王を明堂で上帝に配した。文王を尊びながら敢えて天に配さなかったのは后稷を避けたのである。いまは太祖を奉じて圜丘で天に配するのが太祖を尊ぶ所以であり、太宗を奉じて大祀殿で上帝に配するのが太宗を尊ぶ所以である」と述べた。
- そこで再び群臣を会して集議した。右都御史の汪鋐、編修の程文徳、給事中の孫応奎、御史の李循義ら八十二人はみな分祀を主張した。大学士の張璁、董玘、聞淵ら八十四人も分祀を主張しつつ、成憲は軽々しく改められず、時勢からいって新たに造作すべきでないとした。尚書の李瓉、編修の王教、給事中の魏良弼、御史の傅炯、行人の秦鰲・柯喬ら二十六人も分祀を主張したが、山川壇を方丘に充てようとした。尚書の方献夫・李承勲、詹事の霍韜・魏校、編修の徐階、郎中の李黙・王道ら二百六人はみな合祀を主張したが、分祀を非とはしなかった。英国公の張崙ら百九十八人は可否を示さなかった。
- 世宗が再議を命じると、張璁は五経および諸史の郊祀に関する記述を雑引し、合祀の非と分祀の是を条析して「郊祀考議」と名づけて上った。また太祖・太宗を分けて配するのは当を得ないと疏で述べた。世宗はその郊議を然りとしたが、疏の言には返答しなかった。尚書の方献夫、詹事の霍韜も先に合祀を主張したのは非であったと上言し、世宗は問わず、まもなく霍韜の職を復した。
嘉靖九年五月〜秋七月(四郊の造営と帝王廟)
- 五月、初めて四郊を建てた。群臣の議が上ると、世宗は「分祀こそまことに是である」と言い、圜丘を南郊に建てその北を皇穹宇とし、方丘を北郊に建てその南を皇祗室とし、朝日壇を東郊に、夕月壇を西郊に作らせた。
- 秋七月、姚広孝の太廟配享を罷め、大興隆寺に祀を移した。礼部尚書の李時の請に従ったものである。
- 歴代帝王の南郊従祀および南京の廟祭を罷め、帝王廟を京師に立てるよう命じた。
- 初めて文華殿に聖師の祭を立てた。皇帝として伏羲氏・神農氏・軒轅氏、帝師として陶唐氏・有虞氏、王師として夏の禹王・商の湯王・周の文王と武王を南向に奉り、左に先聖の周公、右に先師の孔子を東西向に置いた。毎年春秋の開講には、前日に皇帝が皮弁服で拝跪して奠礼を行うこととした。
嘉靖九年冬十月(孔子祀典の改定)
- 孔子の祀典を正し、木主に改め、従祀の諸賢を釐正した。洪武の初め、司業の宋濂が孔子廟堂の議を上っていた。その要旨はこうである。世の礼を言う者はみな孔子から出ているのに、礼をもって孔子を祀らないのは褻れた祀りである。古は主人が西向し几筵は西にあった。漢の章帝が魯に幸して孔子を祠ったときも西向して再拝した。開元礼では先聖は東向、先師は南向、三献官は西向で、なお古意があった。いま開元二十七年の制を襲って神を南面に遷したのは、神道が右を尚ぶ意ではない。
- 古は木主で神を棲ませ、天子・諸侯の廟にはみな主があり、大夫は束帛、士は茅を結んで菆とし、像を設ける事はなかった。いま開元八年の制によって土を摶ねて像を作るのは、神として明らかにする義を失っている。古は鬯を灌ぎ蕭を焫いて陰陽に神を求めたが、いま熏薌で代えるのは簡略にすぎる。古は郊廟の祭饗にみな庭燎を設けて厳敬を示したが、いま炬を秉つのをこれに当てるのは冒瀆ではないか。
- 古の道では、徳ある者に教えさせ、死ねば楽祖として瞽宗に祭り、これを先師と称した。漢の礼における高堂生、楽における制氏、詩における毛氏、書における伏生のようなものだ。およそ学を始め立てる者は必ず先聖・先師に釈奠する。その師でなければ学ばず、その学でなければ祭らない。開元礼では国学で先聖孔子を祀り顔子ら七十二賢を配し、諸州では顔子のみを配した。ところがいま、性悪を説いた荀況、王莽に仕えた揚雄、老荘を宗とした王弼、細行を忽せにした賈逵、短喪を建てた杜預、世家に附いた馬融までがその中に厠っている。何の説によるものか分からない。
- 古は学を立てて倫を明らかにした。子は斉聖であっても父に先んじて食さない。いま顔回・曽参・孔伋が堂上に坐して饗け、その父たちは廡間に列して食する。何の説か分からない。古は士が師に見えるとき菜を贄としたので、初めて入学する者は必ず釈菜して先師を礼した。学官の時祭はみな釈奠であったのに、いま専ら春秋にのみ用いるのは誤りだ。釈奠には楽があって声がなく、釈菜には楽がない。二つの釈の軽重は楽の有無による。いま漢魏の律で作った大成楽を襲用しているが、これは先儒のいう乱世の音である。よいものだろうか。
- 古の釈奠・釈菜は名義は存するが儀注は考えようがない。開元礼は儀礼の饋食篇に彷彿として節文が詳しい。いわゆる三献のあと各々福を飲むのは、尸が主人・主婦および賓に酢する義である。いまその煩を憚って初献だけがこれを行っている。よいものだろうか。そのほか廟制の不適切、冕服の無章、器用の雅俗混淆、昇降の左右の誤りなど、僕を更えても数え尽くせない。
- 昔、建安の熊氏は伏羲を道統の宗とし、神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武を次いで列し、皋陶・伊尹・太公・周公および稷・契・夷・益・傅説・箕子はみな天子公卿の師範であるから天子の学に秩祀すべきだとした。孔子は実に祖述と憲章の任を兼ねているのだから、通祀として天子から下々まで及ぼすべきである。その言のとおりなら道統はいよいよ尊く、三皇は医師に沈まず、太公は武夫に辱められずに済む。昔、周は四代の学を立て、学ごとに先聖があった。虞庠は舜、夏学は禹、殷学は湯、東膠は文王とし、さらに当時その徳業を左右に賛成した者を先師として配享させた。これが天子が学を立てる法である、と。
- 太祖はこれを喜ばず、宋濂を安遠知県に謫したので、結局用いられなかった。天順年間、林鶚が蘇州を知ったとき、蘇州の学廟の像が年久しく剥落したので修飾を加えようという者があった。林鶚は「塑像は古のものではない。我が太祖は太学で木主に改められた。壊れていない像でさえ毀つべきなのに、幸い壊れたのだから木主に易えて何の差し支えがあろう」と言った。聖像を毀つのを疑う者があると、林鶚は「これは土だ。どうして聖賢であろうか。孔子は仏教が中国に入る前に生まれた。像なるものを知るはずがない」と言い、従祀の諸賢も併せてみな木主に易えた。ただ他の郡県は旧のままだった。
- このとき世宗は祀典の議を纂修するにあたり、大学士の張璁に「およそ雲雨風雷の祀から先聖先師の祀典まで、みな順次纂入せよ」と諭した。張璁は「孔子の祀典は唐宋以来その正を得たものがない。臣は謹んで今昔の儒臣の議を採って上る。聖明の垂覧を仰ぎ、百世永く遵う典としたい」と奏し、次の各項を挙げた。
諡号について
- 漢の平帝元年に初めて孔子を褒成宣尼公と追諡し、唐の玄宗が文宣王と追諡し、元の武宗が大成至聖文宣王と加えた。元の姚燧は「孔子が卒したとき哀公が誄したのを子貢は非礼とした。平帝が初めて封諡したのは、蓋し新莽がその奸を飾ったものだ」と言った。
- 国初の大学士・呉沈の「孔子封王弁」は「後世の礼には甚だ似ていて実は非なるものがある。春秋では列国が王を僭すれば黜けた。夫子は人臣であり、生前に王爵がなかったのに、死んで諡してよいものか。書に『天が下民を降し、これに君を作り師を作る』とある。師とは君が臣としえぬ者である。だから『天子に詔して北面せず』といい、師を尊ぶのである。王爵の貴さをもって師と称するより隆くするのは、習俗の見にすぎない」と述べた。
- 布政の夏寅は「唐の玄宗は開元にすでに老子を玄元皇帝と尊び、太公を武成王と尊んだのだから、孔子の追諡を欠くわけにいかなかったのだ。李林甫の不学無術の謬制を万世の法とできようか」と言った。祭酒の丘濬は「漢の平帝が孔子を宣尼公と追諡して以来、開元に『文』を加えた。文とは天を経とし地を緯とするものだ。だが『宣』は諡法の美とはいえ聖善周聞にすぎず、聖人の軽重となるに足りない」と言い、また「古来、諡号に喩え言いを用いた例はない。大成の語は孟子から出ており、成とは楽の一終わりである。これを至聖文宣王の上に加えるのは聖徳に対して意味をなさない」と言った。
章服について
- 唐の玄宗は開元年間、文宣王と追諡するにあたり、王者の袞冕の服を出して着せた。宋の真宗は祥符年間に先聖の冕服と桓圭を上公の礼に従わせ、冕は九旒、服は九章とした。徽宗は崇寧年間に初めて冕を十二旒とするよう詔し、袞服は九章とした。金の世宗は大定年間、大成殿の聖像の冠を十二旒、服を十二章とした。
- 朱熹は「宣聖の像を設けるのは古のことではない」と言った。洪武年間、南京の太学を創建したときは神主のみで像を設けなかった。いま国子監に像を設けているのは元の旧に従ったものである。丘濬は「塑像の設は仏教が中国に入って始まった。李元瓘が顔子が立侍していたと言っているので、唐より前にすでにあったのだろう。ああ、姚燧が『北史では泥人・銅人を造る者は一門誅されるとある』と言うように、泥人はもとより聖人を祀る法ではない。後世それを踏襲して、長短肥痩が郡ごと県ごとに異なるのは、神として明らかにする道ではない」と言った。
籩豆・楽舞について
- 唐の開元年間、先聖の祀に楽は九宮、舞は八佾を用いるよう詔した。宋の徽宗は大観年間に礼器一副を賜り、内訳は籩十に幂を全備し、豆十に蓋を全備した。本朝の成化十三年、礼部尚書の周洪謨の議によって六佾を八佾に増し、籩豆を十二に加えるよう詔した。
- 祭酒の章懋および夏寅はいずれもこれを非とし、「十二籩豆と八佾は太学でのみ行える。天子が自ら祭るからだ。郡県までみな行えば祭礼が僭になる。孔子は魯が王を僭する礼を観ようとしなかった。どうして自ら非礼の祀りを踏もうか」と言った。
配享について
- 唐の貞観年間に初めて顔回を配享させるよう詔し、曽参と孔伋はともに宋の咸淳年間に配享、孟軻は元豊年間に配享された。宋の洪邁は「唐以来、顔淵から子夏までを十哲として廟堂の上に坐して祀り、その後、顔子を配享に昇らせると曽子を堂に進めて子夏の次に居えた。しかし顔子の父の顔路、曽子の父の曽点は廡下の従祀の列にある。子は斉聖でも父に先んじて食さぬのに、どうして安んじられよう」と言った。
- 熊禾は「別に一室を設け、斉国公の叔梁紇を中に南面させ、杞国公の顔無繇、萊蕪侯の曽点、泗水侯の孔鯉、邾国公の孟孫氏を西向に侑食させるべきだ」と言った。弘治のとき謝鐸・程敏政もともにこれを是とし、程敏政はさらに程子の父の程珦、朱子の父の朱松も加えるよう請うた。程珦は王安石の新法に附かず、朱松は秦檜の和議に附かず、その歴官と行いは述べるに足るというのである。
従祀について
- 程敏政の疏に言う。唐の貞観年間に初めて左丘明ら二十七人を孔子廟庭に従祀させ、併せて馬融らにも及んだ。だが歴代の正史を考えるに、馬融は初め鄧隲の召に応じて秘書となり、南郡太守を歴たが貪濁で免ぜられ、髠して朔方に徙され、また梁冀のために奏を草して李固を殺し、西第頌を作ってこれを美化した。
- 劉向は初め賦を献じて進み、神仙方術を誦えるのを喜び、かつて黄金は作れると上言して鋳作したが験がなく、吏に下されて死罪に当たった。その著した洪範五行伝は陰陽術家の小技に流れた。賈逵は頌を献じて郎となり、図讖に附会して顕達し、小節を修めなかった。左道で正を乱す人である。
- 王弼と何晏は清談を唱え、註した易は専ら老荘を祖とした。范甯は晋室の乱を追究して「王弼・何晏の罪は桀紂より深い」とした。何休には春秋解詁一書があるだけで、周を黜けて魯を王とし、また風角などの書を註して孝経・論語と並べた。異端邪説の流である。
- 戴聖は九江太守として不法が多く、何武に弾劾されて免ぜられた。博士となると朝廷で何武を毀った。その子が賓客とともに盗を働いて繋獄されると、何武は平心をもって決して死を免れさせたが、戴聖はまた何武を誣告した。王粛は魏に仕えて蘭陵侯に封ぜられながら、娘を司馬昭に嫁がせ、また司馬師のために策を画して文欽・毋丘倹を計り、その悪を助けた。杜預は襄陽を守って洛中の貴要にしばしば贈遺し、呉を伐つときには癭を斫るという議によって江陵の人をことごとく殺した。吏としては不廉、将としては不義である。
- これらの人はみな罷黜すべきだが、議者は「遺経を守って相次いで授受した」と言う。臣はそうは思わない。遺経を守ったといえるのは、春秋における左丘明・公羊高・穀梁赤、書における伏勝・孔安国、詩における毛萇、儀礼における高堂生、礼記における后蒼、周礼における杜子春であって、馬融らは訓詁と章句の解釈にすぎない。鄭衆・盧植・鄭玄・服虔・范甯の五人は過ちはないようだが、その行いは聖門を窺うに及ばず、その著述も聖学を明らかにするに及ばない。
- 臣は戴聖ら八人の祀を罷め、鄭衆ら五人はその郷で祀ることを乞う。后蒼は漢初に礼を説くこと数万言、后氏曲台礼と号され、礼記はこれによって伝わったのだから、封爵を加えて左丘明らと並べられたい。
- 孔子の弟子として家語に見えるのは顔回以下六十六人だが、司馬遷の史記の載せるところは公伯寮・秦冉・顔何の三人が多く、文翁の成都廟の尽くすところは蘧瑗・林放・申棖の三人が多い。臣が宋の邢昺の論語註疏を考えるに、申棖は孔子の弟子で、家語では申続、史記では申党とあるが、実は同一人である。いま朝廷の従祀では申棖を文登侯に封じて東廡に置き、申党を淄川侯に封じて西廡に置いている。まったく意味をなさない。
- しかも公伯寮は聖門の害虫であり、孔子は蘧瑗を「夫子」と称している。家語・史記のいずれも林放は弟子の列にない。秦冉・顔何も字画の相近い誤りであろう。臣は申棖と申党の位号はどちらか一つを存し、公伯寮ら五人はその祀を罷め、蘧瑗と林放はそれぞれその郷で祀るべきだと思う。
- また洪武年間、行人司副の楊砥が揚雄を黜けて董仲舒を進めるよう請い、高皇帝はその言を納れて行った。だが荀況と揚雄は実に伯仲であり、況は性を悪とし礼を偽とし、子思・孟子を天下を乱す者としたのだから、況も併せて黜けるべきである。なお議すべきは隋の王通と宋の胡瑗である。先儒は王通を経を僭したとし、胡瑗も論著が少ないとする。だが程子は「王通は徳を隠した君子だ。その粋なるところはおそらく荀・揚の及ぶところでない」と言い、朱子の小学書も胡瑗の事を備載して「秦漢以来、師道の立つこと胡瑗に過ぎる者はない」としている。封爵を加えて学官に従祀させるべきだ、と。
- 張璁は「程敏政の奏はおおむね正論で採るべきものが多いが、弘治の初め礼官が沮んで行われなかった。同時に謝鐸は楊時の祀を請い呉澄を罷めるよう求め、挙人の桂萼も蔡元定の祀を請うた。律呂・大衍の諸書はいずれも性理に功があり、またその子に皇極範数を授けたからで、これも衆論の公である。さらに欧陽脩の著した本論には道を翼ける功がある。蘇軾は『漢以来、道術は孔子から出ず、五百余年して韓愈を得、愈の後三百余年して欧陽子を得た』と言った。韓愈がすでに従祀されている以上、欧陽脩を欠けようか」と述べた。
- 疏が入ると、世宗は礼部に翰林の諸臣を会して議させた。編修の徐階は「天子が孔子を王として祀ることは襲うこと久しい。一日にして王でなくなれば、衆人は愚昧ゆえに妄りに臆度し、陛下が孔子の王爵を奪ったと思うだろう。惑いやすく暁しがたい。しかも天子は像をもって孔子を祀り、袞冕の章服は顒然として王の格式である。かりに王号を去れば勢い撤し毀たねばならない。人を愛する者はその杖や履までも珍惜すると聞く。まして先聖の遺像においてをや。国家が孔子を廟祀するにあたり、宮墻の制は天子より一等下るが、楽舞と籩豆は天子と同じである。いまの八佾・十籩はなお諸侯の礼だ。かりに王号を去れば司寇の旧に復し、宮を殺ぎ楽を減じて礼文に応ぜねばならず、太祖の初制を妨げるおそれがある」と上言した。世宗は疏を見て不快とし、徐階を延平府推官に出した。
- 世宗は自ら「正孔子祀典説」を著して群臣に頒賜し、張璁も「孔子祀典或問」を作って上った。世宗はこれを嘉し、衆議はここに定まった。
- こうして大成至聖文宣王を至聖先師孔子と改め、配享の四子はなお復聖・宗聖・述聖・亜聖と称し、従祀の弟子は先賢、左丘明以下は先儒と称することとし、公・侯・伯の爵をみな罷め、像を撤して主を題して祀ることにした。申棖と申党の二人は棖を存して党を去り、公伯寮・秦冉・顔何・荀況・戴聖・劉向・賈逵・馬融・何休・王粛・王弼・杜預・呉澄の十三人を罷めた。林放・蘧瑗・鄭玄・盧植・鄭衆・服虔・范甯はその郷で祀り、后蒼・王通・胡瑗・欧陽脩を進め、さらに行人の薛侃の議によって陸九淵を併せ進めて従祀させた。別に啓聖公の叔梁紇を祀り、顔無繇・曽点・孔鯉・孟孫氏・程珦・朱松・蔡元定を従祀させた。大成殿を先師廟と改称した。
嘉靖九年十二月(南郊の初祭と祈嗣)
- 己酉、初めて南郊で事を行った。先に世宗は圜丘の祀器として金炉・玉爵・錦幕・圭璧および鐘・磬・賁鼓などの楽器を製させ、成ると文華殿に陳べて大学士の張璁を召して閲覧させた。この日、世宗は自ら圜丘に祀り、太祖を西向に配し、それぞれ騂犢一頭を用い、璧を用いて三献九奏、楽舞は八佾とした。従祀四壇では大明・夜明に各々騂牛一頭、恒星・五曜・群星および雲師・雨師・風師・雷師に各々牛一・羊一・豕一を用いた。翌日、詔を天下に布き、庶官に恩賜を頒ち、小民に寛恤を布いた。
- 大学士の張璁が言った。先ごろ生員の李時颺が疏で郊祇の礼を挙げて聖嗣を祈るよう請うた。古、后稷の生まれるにあたっては禖に祈り、孔子の生まれるにあたっても尼山に祷った。大雅の既酔の詩に「公尸が嘉告して言う、君子よ万年、なんじに祚胤を賜わん」といい、「なんじに女士を釐い、孫子をもって従わん」という。公尸の告げるところはみな祖考の福を賜うものである。臣は、いま淑女を慎重に選ぶこのときにあたり、広く嗣続を求める誠を太廟と世廟に告げ、祖考の祜を祈って聖母の心を慰められたい、と。世宗はその請を嘉し、十二月二十四日を択んで礼を行い、夏言を祈嗣醮壇の監礼使に充てた。
嘉靖十年(1531年)春正月(太廟の南向位を正す)
- 乙未、太廟に特享し、太祖の南向位を正した。初め太祖は四親廟を立て、徳祖・懿祖・熙祖・仁祖を宮を同じくし廟を異にして各々南向させ、孟春に群廟で特享し、三時にはそれぞれ徳祖の廟で祭って昭穆の序を用いた。後に太廟を同堂異室に改建してからも各々南向とし、四孟と歳除にはみな中室で祭り、なお初めのように昭穆を序して特享の礼を罷めた。
- 英宗が升祔して九室が備わり、憲宗を祔するとき礼官の議によって懿祖を祧し、孝宗を祔して熙祖を祧し、武宗を祔して仁祖を祧した。ただ徳祖のみ祧さなかった。時享では太祖・太宗以下はみな東西向であった。
- このとき世宗は張孚敬に諭して言った。朕は今春の享から太祖を中に居え、太宗以下は各々一室に居えて特享の礼を行い、三時にはなお群廟を太祖の室に聚め、昭穆相い向かわせて時祫の礼を行い、季冬の中旬には併せて太廟に享し、親王・功臣を両廡に配食させて太祖当代の制を存したい。歳暮の節祭は奉先殿で行い、世廟はただ四時の享のみとし、歳暮は崇先殿で祭れば、祭義は明らかで万世に行える。邪論に惑わされるな。すぐに李時と会して議を上り、あるいは夏言に諮って助けさせよ、と。張孚敬は諭のとおり唯々として議を上り、世宗は従った。
- そこで祠官に命じ、廟中に帟を設けて九廟の形にし、太祖を南向に奉り、群宗を順次遷して室に就かせ、各々南向させて特享を始めた。徳祖は祧殿に退けられ、もはや時享に与らなくなった。
嘉靖十年春(祈穀・禘祭・大雩の議)
- 大祀殿で祈穀した。初め世宗は孟春の上辛に大祀殿で祈穀を行い、皇天上帝を祭って騂犢一・蒼玉一を用い、三献九奏、楽舞八佾とし、太祖・太宗を配享させた。夏言は「二郊には太祖を配し、祈穀には太宗を配すべきだ」と建議したが、張孚敬は不可として留め置き下さなかった。夏言が重ねて疏請すると、世宗は群臣が君に違い礼に悖ると言って厳しく責め、祈穀には太祖・太宗を並び配し、二郊には専ら太祖を奉ずるよう命じた。まもなく啓蟄に祈穀を始めた。
- 禘祭・大雩・秋報の諸礼を議するよう命じた。世宗は太祖の位向を正したので、古の禘祭を復そうとして輔臣と礼官に集議させ、ついで大雩・秋報の諸礼も併せて問い、五品官も議に与らせた。
- 侍読学士の夏言が上言した。天子にのみ禘があるから、始祖の廟を立てれば世系の考えうる者は十世でもなお立てようとする。しかしそれなら何を始祖の自出の帝として始祖の廟に祀るのか。我が祖宗が天下を有してより徳祖を始祖とし、百六十余年、太廟の祭を尊享してきた。いままた大祫を定めて群廟の主を統べることになった。それなら王者の禘祭で、さらに祖徳を尊べようか。身が始祖でありながらまた始祖の自出でもあるというのは、おそらくそのような礼はない。
- 三代より下って、どうしても夏商が黄帝・帝嚳を禘したようにしようとすれば考えようがない。強いてその人を求め、唐の李氏が老聃を祖としたようにするのは、孝子慈孫の忍びうるところではない。臣は、先祖の虚位を設けて太祖を配享させるのがよいと思う。太祖は初めて天下を有したのだから実に始祖である、と。
- 疏が入ると世宗は深く然りとした。当時、中允の廖道南は「皇姓は顓頊の後だから顓頊を禘すべきだ」と上言した。大学士の張孚敬は「虚位を言うのは幻に失し、顓頊を言うのは誣に失する。徳祖を禘するのが当を得ている」と言い、李承勲らもみな然りとしたが、夏言は重ねて抗疏してその非を折った。世宗は結局夏言の議に従い、丙年・辛年の孟夏に太廟で大禘の礼を行うと定めた。祭の前日には中書官に太廟で神牌を書かせ、「皇初始帝」の神を南向、太祖の配位を西向とした。
- 世宗はまた奉天殿で秋報の礼を行い、中陛で大雩の礼を行おうとした。夏言は「秋報は大祀殿で行い文皇帝を配すべきで、大雩は郊兆の傍らに壇を作り、孟夏の後に雩祭すべきだ」と言った。世宗は「孟春の上辛にすでに祈穀の礼を行っている。春夏の雨と晴れが時にかなえば雩祭は代摂させ、そうでなければ躬ら祀る。秋報の礼はしばらく寝めて挙げない」と言った。
嘉靖十年二月〜八月(朝日・大神殿・北郊・夕月)
- 二月庚辰、初めて朝日を行った。この日は春分で、初めて東郊で朝日の礼を行い、太牢一を用い玉を用いて三献、楽七奏、舞八佾とした。
- 三月、南郊に大神殿を建てた。初め南郊は屋を撤して壇として祭り、上帝の神牌を圜丘の上に奉り、太祖を配していたが、祭が終わると神牌の蔵所が分からなかった。世宗は大神殿を建てて蔵させることにした。
- 世宗はまた、旧存の斎宮が圜丘の北にあって圜丘を踞して見下ろす形になると考え、丘の東南に改建しようとした。夏言は「先の大神殿の造営は陛下が誠を竭くして天に事えるものであり、この制は可としてよい。しかし斎宮を圜丘の傍らに改め起こすのは、古人の地を掃いて祭る意に協わないようだ。しかも秦漢以来、室を営んだ例はない。誠を質にして天を尊び、自ら封樹せずに謙恭の意を明らかにする。ゆえに大次の設だけが古典に合う。陛下は先日あれほど精詳に考拠されたのに、今たまたま思い至らぬのではないか。斎宮の造営を寝めて太霊に応えられたい」と言い、世宗は可とした。
- そこで土穀祗と先蚕の壇を西苑に建てた。初め皇后が北郊で親蚕する議は夏言が首唱したものだった。このとき世宗は張孚敬・李時を西苑に召して地を相させ土穀壇を建てさせ、併せて先蚕壇を神寿宮の側に建て、北郊の蚕室を毀った。
- 五月壬子、初めて北郊で事を行った。この日は夏至で、世宗は方澤に地を祀り、騂牛一・黄琮一を用い、三献九奏、楽舞八佾とし、太祖を西向に配して騂牛一を用いた。従祀の四壇は、五嶽および基運・翊聖・神烈山を一、五鎮および天寿・紀徳山を一、四海・四瀆を二とし、各々太牢一を用いた。
- 八月癸未、初めて西郊で夕月を祭った。東郊の朝日の祭と同様であった。
嘉靖十一年(1532年)夏四月(九廟造営の議)
- 初めて九廟を営んだ。世宗は文華殿の東室に御して大学士の李時・翟鑾、礼部尚書の夏言を召し、古の七廟の制を復することを議した。太廟の寝と祧はいずれも旧のまま撤さず、ただ地を測って群廟を分建する件が決せぬまま退いた。
- 廖道南が九廟の造営を請う疏を上り、併せて「大祀礼成感雪賦」と、御札で三たびその名に及んだことを献じた。世宗は喜んで礼臣に議させた。
- 夏言が上言した。昔、唐虞は五廟、夏后もこれに因り、殷周はともに七廟だったが、祭法・王制と劉歆の宗説はまた各々異なる。朱熹の古今廟制は王制を引き、天子七廟は外に都宮を為し内に昭穆を叙するという。漢は古を考えず、諸帝が廟を異にし地を異にして、都宮に合わず昭穆を叙さなかった。明帝は倹に遵い自ら抑え、別に廟を作るなと遺命したので、同堂異室の制ができた。魏晋唐宋はみなそうである。我が太祖は初め四親廟を立てて近古に始まったが、後に太廟を改建してまた明帝の制を用いた。
- 皇上は祀典を大いに釐正されたが、廟制についてはなお疑いを容れ、翰札に示して論を召されたことしばしばである。ただ太廟は南は宮墻に近く、東は世廟に邇く、西は前廟に阻まれ、地勢に限りがある。垣外の隙地は数十丈に満たない。古制どおり六廟を列すれば、その地をことごとく開いても容れきれない。規制をやや減ずれば、太廟は嵬然として群廟は湫隘となり、義において安からぬ。かりに廟が成っても、皇上が冠冕佩玉して迂曲の途を循り、群廟を遍く回って奠献するには日も足りない。
- 議者は群廟は代理させられると言うが、皇上の仁孝誠敬をもって、年中の祭を挙げながら太祖に対越するだけで群廟に一度も至らぬということがあろうか。丘濬は「日を間てて一廟ずつ祭り、十四日で遍くすべきだ」と言うが、これは根拠なく強いて説を為したものである。馬端臨は「後世が礼を失ったのは廟制だけではない。漢儒以来の講究は詳明でないことはなかったが、ついに古に復せなかったのは昭穆が定めがたいからだ。昭穆は父子が世を継いでこそ成り立ち、兄弟が相い及べば紊れる。だから東都以来の同堂異室も、ことごとく非とすべきではない」と言っている、と。
- 世宗は「朕は天地百神の祀典をみな釐正した。ひとり太廟の礼だけ古に復せずにいてよいものか。いま太廟の堂と寝はいずれも定制があるので更に移す必要はない。その昭穆の廟次については、官を会して地勢を相度し奏聞せよ」と言った。夏言は恐懼して謝罪し、まず太廟の傍らに詣でて地勢を量り定め、方位を審らかに度って報告したいと請い、世宗は従った。
- そこで旧廟を撤して新宮を改建した。太祖を中に居え、昭穆各三廟とし、成祖の廟は六廟の上に置いた。諸廟を合わせて都宮とし、廟ごとに殿があり、殿の後に寝があって神主を蔵した。太廟の寝の後には別に祧寝があって祧主を蔵した。太廟の門と殿はみな南向、群廟の門は東西相向かい、内門・殿・寝はみな南向とした。
嘉靖十三年(1534年)(釈奠と南京太廟の火災)
- 三月、世宗が太学を視て先師に釈奠した。孔子を先師と改称したので、皮弁服を着けて謁拝し、特牲を用い帛を奠じて釈奠の礼を行い、楽は三奏、文舞は八佾とした。従祀および啓聖への分奠には酒と脯を用いた。終わって学を視て諸生を進め、経を横たえて講義させ、なお本を敦くし実を尚び、いたずらに辞章を事とするなと諭した。
- 六月、南京の太廟が焼けた。夏言は「京師の宗廟がまさに古に復そうとするとき、南京の太廟がにわかに回禄に罹った。陛下が徳を建てる意と、聖祖が後を啓く霊とを、昭々たる表に黙会せずにはいられません」と上言した。世宗は喜んですみやかに新廟を起こさせた。南京の太廟は再建されず、遺址に周囲の垣を築き、時祀は南京の奉先殿に併せ入れた。鎬京・洛邑の遺意を失ったというべきである。
嘉靖十四年(1535年)二月(九廟の建立と廟号)
- 初めて九廟を建てた。先に夏言が七廟の額を定めるよう請い、「陛下が古の廟制を復して太祖の南向位を正された以上、太廟の名実は周の典にかなう。太宗は功徳が隆赫で、特に百世不遷の廟を建てられたのだから、文祖世室と称して三昭の上に置くべきだ。仁宗・宣宗をそれぞれ昭穆の第一廟、英宗・憲宗を昭穆の第二廟、孝宗・武宗を昭穆の第三廟とすれば、万世不刊の制である」と述べ、世宗は従った。
嘉靖十五年(1536年)(祀儀の完成と禁中の仏像撤去)
- 二月、祀儀の纂修が成った。天地・日月・神祗・帝王・社稷および禘祫・先師・先農の諸祀をことごとく分類して書とし、巻頭に祀壇の図制と宸諭・詩歌を冠し、中に礼儀・礼器・楽舞・楽章を書し、末に諸王の表箋と群臣の疏頌を附した。侍読学士の廖道南は禋頌九章を撰して献じた。
- 五月、慈慶宮・慈寧宮を建て、禁中の仏像を撤去した。当時、世宗は禁中の釈殿を除き、その地に慈慶・慈寧の二宮を建てようとして廷臣に議させ、みな可とした。世宗はただちに撤去を命じ、李時・夏言を召して視察させた。大善殿には金を鋳た仏像が千百を下らずあり、みな鋳潰させた。その几案に懸けた鍍金の函にはなお多くの仏骨・仏牙などが蔵されており、夏言は退いて疏を上り、焼いて埋めるよう力請した。世宗は従い、禁中の邪穢はほぼ払い尽くされた。
- 六月、姜嫄と后稷を武功に祀るよう勅した。
- 十一月、天下の臣民が始祖を祀ってよいと詔した。夏言が程頤の議に拠って請うたものである。
- 十二月、九廟が成り、天下に詔した。世宗は五年に一度の禘で皇初祖を太廟に祀って太祖を配し、立春ごとに祖宗を群廟に特享し、三時には太廟に合享し、季冬には太廟で大祫し、皇考献皇帝はただ時祀を挙げるにとどめると定めた。
嘉靖十七年(1538年)(成祖・睿宗の称と皇天上帝)
- 秋九月、太宗文皇帝を成祖、皇考献皇帝を睿宗と奉り、上帝に配した。
- 十一月、大号を天に薦め、昊天上帝の称を皇天上帝と改めた。
嘉靖二十年(1541年)夏四月
- 辛酉、九廟が焼けた。
嘉靖二十四年(1545年)(元世祖廟の撤去と太廟の再建)
- 夏六月、元の世祖の廟祀およびその侑饗である木黎華ら五人を撤去した。給事中の陳裴の議に従ったものである。
- 秋七月、太廟が成り、同堂異室の制に復した。
穆宗隆慶元年(1567年)
- 礼官が「先農の祭はすなわち祈穀の遺意である。いま二つの祀りを並べて仲春に行うのは煩数に過ぎる。祈穀を罷めて先農壇で事を行うべきだ。大享の礼も罷めるべきだ」と言い、詔して可とした。ただ四郊は旧のままとした。
史論(谷応泰曰)
- 漢の制は古に近かったが礼制は欠けていた。唐は李聃を祖とし、宋は霊応を祀った。礼官が衰えるほど、誣いと褻れは目立った。明初、宋濂ら諸臣が戦陣の間に礼を講じてかなり釐正したが、高祖は簡易を好んで採択せず、礼楽はやはり百年の後に興るものかと思わせた。後世は旧例を謹守し、学士大夫も敢えて論じ難じなかった。
- 世宗は大礼議以来、慨然として制作を更定する思いを抱き、諸臣も紛々と祀事を論じた。嘉靖九年二月に郊社の礼を議し、冬十月に孔子の礼を議し、十一月に南郊で事を行い、十年正月に太廟に享して祧礼を議し、二月に祈穀して禘を議し朝日の礼を行い土穀・先蚕の壇を建て、五月に北郊で事を行い、八月に夕月の礼を行い、十三年四月に太学を視て釈奠の礼を行い、十四年二月に九廟を建て、十七年五月に明堂秋饗の礼を議し、九月に献皇帝を祔して睿宗と加え上帝に配祀させた。ああ、盛んなことである。
- 至尊は天地より大なるはなく、至親は祖宗より大なるはなく、天下を教えるのは孔子より大なるはなく、天下を養うのは土穀より大なるはない。天地を尊ぶゆえに郊社があり、郊壇を南に社壇を北にするのはその気に本づく。日月・風雷・山海・嶽瀆が随うのはその類に従う。太祖を配するのは受命を明らかにする。秋にまた玄極殿で饗するのはその功に報い、秋に太宗を配するのは成功を告げる。晩年に睿宗に易えたのは私に昵んだのである。
- 祖宗を親しむゆえに太廟がある。太廟は七、太祖と三昭三穆である。文の世室が一つあって別に成祖を祀るのは、祧するに忍びないからだ。立春に特享し三時に合享するのは時祭に勤めるため、季冬の大祫は渙を萃めるため、五年に一度の禘で皇初祖の主を設けて太祖に配するのは本を追い遠きに報いるためだ。しかし徳祖はすでに祧された。禘は徳祖を用いるべきであった。皇初祖の位を虚しく設けたのは、古に泥んで誣いたものである。徳祖を群帝のように黜けたのは、高帝に嫌ったからだ。
- 天下を教えるゆえに孔子を祀る。孔子の加封は漢の平帝に始まった。王が帝に拝するのはすでに僭であり、先師と称するのが礼である。廟祀に像を設けるのは唐の開元に始まった。その褻れは甚だしい。木主に易えるのが礼である。八佾・十二の豆籩は宋の徽宗に始まった。祭に生禄を用いるゆえ太学はこれに従い、郡国は等を減ずるのが礼である。帝が釈奠して舞に六佾を用いるのはすでに謬りだ。四聖と七十二賢を従祀しながら、曽点・顔路が廡下に退いて食し、子が父に先んじて食していたのを、啓聖に改め附したのが礼である。申党を刪り、公伯寮ら十三人を黜け、蘧瑗ら七人を改め、后蒼ら五人を進めたのは、考証が明々として僭せず瀆さぬ礼である。
- 天下を養うゆえに土穀を祀る。大祀殿で祈穀するのは人の道を用いるものだ。太祖・太宗を配するのは天下を有した主だからである。蚕室を西苑に遷したのは内禁を申しめるためだが、土穀壇まで遷したのはその類ではない。
- 世宗は典聞を採り稽え、禋祀を精しく思い、群心を進退させ、美を斟酌して備えた。ほぼ一代の典といえ、十世の後まで知りうるゆえんである。