明史紀事本末大礼の議(大禮議)

興献王の子として藩邸から入って大統を継いだ世宗が、実父母の尊号をめぐって廷臣と争った顛末を、正徳十六年(1521年)の即位から穆宗隆慶元年(1567年)までのおよそ46年間にわたって記す。楊廷和・毛澄・汪俊ら多数派は漢の定陶王・宋の濮王の例に拠って孝宗を皇考とせよと主張し、張璁・桂萼・席書・方献夫・霍韜らは統と嗣は別だとして興献王を皇考とすべきだと説いた。世宗は張璁らを用いて興献帝から本生皇考、さらに皇考恭穆献皇帝へと称を進め、嘉靖三年には左順門に伏した二百余人を杖罰して十七人余りを死なせ、孝宗を皇伯考と改めた。世廟(のち献皇帝廟)が建てられ、嘉靖七年の明倫大典完成で楊廷和らの官が追奪され、十七年には睿宗の号を奉って太廟に祔された。谷応泰は張璁らに存統の功を認めつつ、大獄と厳嵩による禰を豊かにする結末を君臣ともに失したものと評している。

年表(22件)

武宗正徳十六年(1521年)夏四月(世宗の即位)

  • 世宗は興献王の子で憲宗の孫にあたる。憲宗には十人の皇子があり、長子が孝宗、次が興献王だった。弘治七年に興献王は安陸州へ就藩し、正徳二年秋八月に世宗が興邸で生まれた。やがて献王が没すると、世宗は勅を受けて国事を継ぎ、この年十五歳になっていた。
  • 武宗には子がなく、臨終の遺詔で「孝宗の実弟である興献王の長子・厚熜は聡明仁孝で、倫序からいって立てるべきである。祖訓の『兄終われば弟及ぶ』に従い、宗廟に告げ慈寿皇太后に請い、内外の文武群臣と協議のうえ、即日官を遣わして京に迎え、皇帝位を嗣がせよ」と定めた。
  • 三月、司礼監太監の韋霦、寿寧侯の張鶴齢、駙馬都尉の崔元、大学士の梁儲、礼部尚書の毛澄らが詔と金符を携えて安陸に至った。世宗は国門の外で詔を迎え、承運殿で読み上げさせ、符を受けて藩衛の朝賀を受けた。
  • 四月、興献王の園寝に別れを告げて安陸を発つ際、母の蔣妃は涙にむせんだ。母は「この行は重任を負うのだから軽々しく物を言うな」と諭し、世宗は「謹んで教えを受ける」と答えた。道中は藩衛の官校が有司に属さぬため沿道を騒がすことを恐れ、従官の駱安らに厳しく戒めさせ、諸王の供応を辞退し、有司の献上を退け、行殿の奢りを禁じた。
  • 礼部員外郎の楊応魁が礼儀の案を上り、東安門から入って文華殿に居し、百官が三たび箋を上って勧進し、令旨の許しを待って日を択んで即位するよう請うた。これは大学士の楊廷和が儀部郎中の余才に起草させたものだった。
  • 車駕が良郷に至って世宗はこの案を見、長史の袁宗皋に「遺詔は自分に皇帝位を嗣がせるとある。この案は何ごとか」と言った。京師に至って城外に止まり、楊廷和が礼部案どおりにと固請したが世宗は許さず、行殿で箋を受け、大明門から入って日中に即位し、翌年を嘉靖元年とした。正徳年間の冒濫の軍功や、監織・榷税に絡む弊政をことごとく改め、死罪以下の雑犯を減じた。

正徳十六年五月〜六月(崇祀の議のはじまり)

  • 官を遣わして母の興献妃を迎えさせ、礼官に興献王を崇祀する典礼を議させた。礼部尚書の毛澄が楊廷和に諮ると、廷和は漢の定陶王と宋の濮王の先例を示し、「これを根拠とせよ。異議を唱える者は奸諛であって誅すべきだ」と言った。
  • 当時、対を待って公車にあった挙人の張璁は、礼部侍郎の王瓉と同郷であり、王瓉に「帝が入って大統を継いだのは人の後嗣となったのではなく、漢の哀帝や宋の英宗とは類を異にする」と説いた。王瓉が同意して公言すると、楊廷和は言官に王瓉の別件の落度を並べさせ、南京礼部侍郎に出して侍読学士の汪俊を代わりに据えた。
  • 毛澄は公卿・台諫ら六十余人を集めて議し、「漢の成帝が定陶王を嗣とし、楚王の孫を定陶に後嗣として王祀を継がせたのを師丹は礼にかなうとした。いま上は入って大統を継いだのだから、益王の子・崇仁を興国の後嗣とし、崇号は宋の英宗の故事を襲って、孝宗を考、興献王とその妃を皇叔父母とすべきだ」と上った。祭告や上箋には姪と称し署名し、崇仁には興献王を考、益王を叔とさせるという。世宗は「父母は移し替えられるものか。再議せよ」と言った。
  • 楊廷和・蔣冕・毛紀らは、程頤の濮議こそ礼義の正を得ているとして採用を求め、興献の祀は当面崇仁に主らせ、後日は皇次子を興国の後嗣として崇仁を親藩に戻せば天理人情ともに失わない、と重ねて上った。毛澄・汪俊ら六十余人も同じ趣旨を繰り返した。世宗は聴かず、なお典礼を博く考えて至当を求めよと命じた。
  • 楊廷和はさらに「舜は瞽瞍を追崇せず、漢の世祖は南頓君を追崇しなかった。この二君に法を取れば聖徳に累はない」と説き、毛澄ら七十余人も「武宗が神器を陛下に授けたのだから父の道がある。昭穆が同じ以上、孝宗を世々の父として上は祖・曽・高と称するほかない。興献王に罔極の恩があっても、孝宗に対する呼称を用いることはできない」と、魏の明帝の詔文を録して上ったが、留め置かれて返答はなかった。御史の周宣、進士の屈儒・侯廷訓も礼官の趣旨どおり奏したが、世宗は終始従わなかった。
  • 六月、武宗実録の編修を命じ、なお礼官に追崇の大礼を集議させた。

正徳十六年七月(張璁の大礼疏)

  • 観政進士の張璁が大礼の疏を上った。その要旨は次のとおり。朝議が孝宗を皇考、興献王を皇叔父王、その妃を皇叔母とせよというのは、漢の定陶王・宋の濮王の故事に拘泥したにすぎない。哀帝・英宗はあらかじめ皇嗣に立てられて宮中で養われた、明らかに人の後嗣となった者だから、師丹や司馬光の論もその場では通用した。
  • しかし武宗はすでに孝宗を嗣いで十六年、崩御に臨んで廷臣は祖訓に従い遺詔を奉じて上を迎え大統を継がせた。遺詔はただ「興献王の長子、倫序として立つべし」と言うのみで、孝宗の後嗣とは明記していない。あらかじめ嗣に立てて宮中で養った例とは明らかに異なる。
  • 興献王を皇叔父と呼べば鬼神も疑わずにいまい。聖母を迎えて皇叔母と称すれば君臣の礼で見えることになり、子が母を臣とする道理はない。礼に長子は人の後嗣にならぬとあり、まして興献王には上ただ一人しか子がない。天下を得るために人の後となるのは、子が自ら父母を絶つ義のないことに反する。
  • ゆえに上が武宗の統を継ぎつつ実親を尊崇するのは可だが、孝宗を嗣いで実親を絶つのは不可である。大統を絶やせぬというなら、それは孝宗を継ぐのか武宗を継ぐのか。統と嗣は同じではなく、必ずしも父が死んで子が立つとは限らない。漢の文帝は恵帝の後を弟として継ぎ、宣帝は昭帝の後を兄の孫として継いだ。無理に実の父子の親を奪って別の父子の号を立てねば継統といえないのなら、高伯祖・皇伯考と称した例はみな統ではないことになってしまう。
  • そこで、京師に別に興献王の廟を立てて尊親の孝を尽くさせ、母は子によって貴くなる道理から尊号を父と同じくすれば、興献王は父たるを失わず、聖母も母たるを失わない、と結んだ。
  • 世宗は司礼監の官にこれを内閣へ送らせ、「この議は祖訓に遵い古礼に拠っている。汝らはどうして朕を誤らせるのか」と諭した。楊廷和は「書生が国体を知るものか」と言った。世宗は熟読して喜び、「この論が出た以上、吾が父子のことは必ず全うできる」と語った。
  • この日、世宗は文華殿で楊廷和・蔣冕・毛紀を召し、「至親は父母に及ぶものはない」と諭して手勅を授け、父を興献皇帝、母を興献皇后、祖母を康寿皇太后と尊ぶよう命じた。楊廷和は退いて「聖孝は天性から出るもので、臣らも礼を知らぬではない。後嗣として仕える者を父母とし、生みの親を伯叔父母とするのは、服を降すだけでなく名も異にするためである」と上言し、阿諛して旨に従うわけにはいかぬとして手勅を封じ返した。
  • 給事中の朱鳴陽・史于光ら、御史の王溱・盧瓊らも「興献王の尊号がなお裁定されないのは、陛下が張璁の説を顧みておられるからではないか」と奏し、統嗣は同じでないという説は会通の宜を得たものではなく、京師に興献王の廟を別に立てるのは不可だとした。魯の桓公・僖公の廟が焼けたとき孔子が陳にあって「桓・僖の廟であろう、正しくないからだ」と言った例を引き、いま京師に廟を立てれば朱熹のいう両廟の争いの嫌いがあり、後日には魯僖を閔公の上に躋らせた失に類するとして、張璁を斥け罰するよう請うた。

正徳十六年八月〜冬十月(聖母の入京と興献帝の称)

  • 毛澄らは従前の議を繰り返し、給事中や御史も原議に早く従うよう求めた。世宗は張璁を戒諭せよという言に従わなかった。
  • 九月、興献王妃が通州に至った。礼部は聖母は東安門から入るべきだと議したが世宗は従わず、大明左門とする再議も退け、中門から入って太廟に謁するよう自ら裁断した。朝議は「婦人に謁廟の礼はなく、太廟は婦人の入るべき所ではない」と騒然としたが、張璁は「天子といえども必ず母がある。どうして脇門から入れようか。古来、婦は三日にして廟見する。謁廟の礼がないとは何ごとか。九廟の礼には后も与かる。太廟に入るべきでないとは何ごとか」と反駁した。
  • 世宗は駕儀をもって聖母を迎えるよう命じた。礼部が王妃の儀仗を用いるよう請うと従わず、錦衣衛に母后の駕儀で赴かせ、所司に太后の法服を作らせて待った。
  • 聖母は通州で朝廷が孝宗を考としようとしていると聞き、「どうして我が子を人の子にできようか」と怒り、従官に「お前たちはすでに寵栄を極めているのに、献王の尊称はなぜまだ定まらないのか」と言って通州に留まり入らなかった。世宗はこれを聞いて涙が止まらず、慈聖皇太后に位を避けて母とともに帰りたいと願い出て、群臣は恐れおののいた。
  • 冬十月、世宗は内閣に「朕は祖宗の大業を受けて天下の君となったが、父の興献王には朕ただ一人しかない。それなのに緒を継ぐこともできず、徽称も得られないのでは、罔極の恩に対して心が安まらぬ。委曲を尽くして折衷し、孝情を申べさせよ」と諭した。楊廷和は「大礼は万世の綱常に関わり四方の観聴するところ、上は天理に順い下は人情に合ってこそ、祖宗列聖の心が安んじ、皇上の心も初めて安んじる」と答えた。
  • 張璁はさらに「或問」一巻を作って統と嗣の別、墓廟を尊崇する説を詳論した。吏部主事の彭沢がこれを写して内閣と礼官に示し、前議を改めるよう勧めたが従われず、張璁は自ら左順門に持参して上った。楊廷和は修撰の楊維璁らに阻ませたが果たせず、世宗はこれを見て留め置いた。
  • 楊廷和はやむを得ぬと見て、勅を草して礼部に下し、「慈寿皇太后の懿旨により、朕が大統を纉承した以上、本生父の興献王は興献帝、母は興献后と称し、憲廟の貴妃・邵氏は皇太后と称する。慈命を承って固く違うわけにはいかぬ」とした。世宗はこれに従った。廷和は母后の意に仮託して、廷議の意ではないことを示したのである。
  • 興献后が通州から到着し、大明中門から入った。世宗は闕内で迎えた。朝議により太廟には謁せず、奉先・奉慈の二殿に見えるにとどめた。
  • 兵部主事の霍韜が張璁に会って用いる意を示し、礼官の議は非であると上言した。同知の馬時中、国子監生の何淵、巡検の房濬らも張璁の議に同調し、世宗の心はいよいよ動いた。

正徳十六年十一月〜十二月(皇字加称をめぐる攻防)

  • 楊廷和が追崇の礼が成ったとして慈寿皇后と武宗皇后の尊号を擬上すると、世宗は司礼監を遣わし、邵太后と興献帝后にも尊号を擬上せよと命じた。廷和らは、翌年の大婚の礼が成って宮闈を慶し正位したのちにすべきだと反対した。
  • 雲南巡撫都御史の何孟春が興献王を考と称すべきでないと上言すると、楊廷和はその疏を見て何孟春を吏部侍郎に抜擢した。給事中の熊浹が「皇上は貴くも天子である。聖父聖母を諸王の礼で処するのが安らかであろうか。帝后と称し、興献を別廟に祀れば、大統の議も生みの恩も兼ね尽くせる」と上言すると、按察司僉事に出された。熊浹は大学士・費宏の同郷であり、費宏は廷和に自分が疑われるのを慮って出したのである。
  • 十二月、張璁を南京刑部主事に除した。先に世宗が大礼或問を礼部に下したとき、家居していた楊一清は吏部尚書の喬宇に「張生のこの論は聖人も改められまい。結局は従うことになろう」と書き送ったが、喬宇は聴かなかった。楊廷和は張璁を憎み、吏部に意を含めて南京の主事に除させた。尚書の石瑶は張璁に「慎まれよ。大礼の説は結局行われよう」と語り、楊廷和は「南官に応ぜず静かにしていよ。再び大礼を説いて我を難ずるな」と伝えさせた。張璁は不満のまま去った。
  • 都御史の林俊が致仕して家居していたところ、楊廷和が書を寄せて国是を定めるよう求めた。林俊は「孔子は過ちを観て仁を知るという。陛下の大礼が協わないのは孝に過ぎるためだ。司馬光も、秦漢以降に入継して生みの親を尊崇した者はみな当時に譏られ後世に笑われたと言っている。陛下の純徳をもって、どうしてそれを襲うに忍びようか」と上疏した。疏は留め置かれ、楊廷和は林俊を工部尚書に起こすよう奏し、林俊は固辞したが聴かれなかった。
  • 世宗が御札を下して興献帝后に「皇」の字を加えよと諭すと、楊廷和らは「漢の宣帝は孝昭を継いで史皇孫と王夫人に悼考・悼后と諡したにとどまり、光武は元帝を継いで鉅鹿・南頓君以上の廟を章陵に立てたにとどまり、いずれも追尊はしていない。いまの興献帝后の加称は前代に比べてすでに極まっている。さらに皇字を加えて慈寿・孝廟と並べるのは、後嗣となった相手を忘れて本生を重んじ、私恩に任せて大義を棄てるものだ」として辞職を願った。
  • 吏部尚書の喬宇らも「皇は正統の大義である。本生の親に皇字を加えれば正統と混じって区別がなくなる。天理に合わず人心も安んじない」と奏した。世宗は「慈寿皇太后の懿旨があり、いま婚礼を行うにあたって興献帝には皇号を加え、母は興献皇太后とせよという。朕は辞退できぬ。群臣はこの后命を承れ」と言った。廷和らは争えぬと見て揃って罷帰を求めたが返答はなかった。
  • 礼部尚書の毛澄、侍郎の賈詠・汪俊らも「帝后の上にさらに加えれば正統の親と区別がなくなり、郊廟に告げ天下に布くことができまい」と上言したが、世宗は聴かず、なお懿旨に遵って興献皇帝・興献皇太后と称せよと言った。給事中の朱鳴陽ら、御史の程昌ら、編修の陳沂ら百余人がそれぞれ加称の非を訴え、張璁を斥けるよう請うたが、聴かれなかった。

世宗嘉靖元年(1522年)春正月(清寧宮の火災と本生父母の称)

  • 郊祀を終えたばかりのとき清寧宮の小房が焼けた。楊廷和・蔣冕・毛紀・費宏は「火が起こって風が烈しいのは天意であろう。まして清寧の後殿に迫っている。興献帝后への加称に祖宗の神霊が悦ばぬところがあるのではないか」と上言した。
  • 給事中の鄧継曽は「五行では火は礼を主る。いまの礼は名が紊れ言が逆らい、陰が極まって災に変じた。廃礼の応と知れる」と言い、主事の高尚賢・鄭佐も相次いで「火災が他の宮ではなく清寧の後に起こり、他日ではなく郊祀の直後に起こった。変が理由なく生じようか」と上言した。世宗は読んで心を動かし、楊廷和らの議に従って孝宗を皇考、慈寿皇太后を聖母、興献帝后を本生父母とし、皇字はもはや加えないことにした。

嘉靖元年(席書・方献夫の建言と尊号の上進)

  • 湖広巡撫都御史の席書が上疏して言った。近ごろ廷議の大臣は宋の事に比するが、英宗が入嗣したのは仁宗が衮衣を著て在位中のことであり、皇上の入継は宮車が晏駕した後のことで、同一視するのは安らかでない。皇上が大業を継いだのは孝宗の統を継いだのではなく武宗の統を継いだのであり、武宗の統というより祖宗の統を継いだのである。皇上が武宗を承け継ぎつつ興献王の子であり続け、別に廟を立てて祀るという張璁・霍韜の議は迂遠ではない。
  • 礼は人情に本づく。皇上は天子として尊く、慈聖が臨まれる以上、尊称がなくては情において已みがたい。ゆえに生みの親を追って帝・后と称し慈闈を慰めたのである。いま年を越えて改元したのに尊号は上らず明詔も頒たれていないのは、擬議が定まらぬためではないか。よろしく皇考興献帝と号を定め、大内に別に廟を立て、太廟の時祭を終えるごとに天子の礼で祭るべきだ。廟祀を別にすれば大統は正しく昭穆は紊れず、殊称をもって隆くすれば至愛は篤く本支は沈まない。尊尊と親親は並び行われて相い悖らない。慈聖は皇母某后と称すべきで、興献の字を加えてはならない、と。
  • 吏部員外郎の方献夫もまた上疏して言った。陛下が二宗を継いだのは統を継いだので嗣を継いだのではない。興献が群廟と異なるのは帝と称して宗と称さぬ点にある。統を継ぐのは天下の公であり三王の道、嗣を継ぐのは一人の私であり後世の事である。興献が帝と称しうるのは陛下が天子だからであり、宗と称しえないのは実際に在位しなかったからだ。朝臣に宣示して議を改め、天下に布告し、孝宗を皇伯、興献帝を皇考と称し、別に廟を立てて祀るべきだ。そうしてこそ人情に合い名実にかなう、と。二つの疏はともに阻まれて上らなかった。
  • 三月、孝宗の太后に昭聖慈寿皇太后、武宗の皇后に荘粛皇后、聖祖母の邵氏に寿安皇太后の尊号を上り、本生父を興献帝、母を興国太后とした。先に司礼監が興献帝の冊文で朕は子と称すべきだと伝諭し、楊廷和らが不可とすると、孝子と称せよと重ねて伝諭した。廷和らは「冊文に長子とあれば本生の情は自ずと明らかだ」として正礼を行うよう請い、容れられた。
  • 官を安陸に遣わして興献帝の尊号を上らせ、司礼太監の温祥に礼儀を督させ、成国公の朱輔が冊宝を上り、礼部侍郎の賈詠が神主を題した。賈詠は楊廷和の意を承けて「興献帝神主」とだけ題し、考とも叔とも称さず、子の名も記さなかった。
  • 冬十一月、寿安皇太后が崩じた。楊廷和は哭臨一日、喪服十三日で除くと定め、文書を両京に移すのみで天下には詔しなかった。礼官が素服で西角門に御するよう請うと、世宗は「朕の哀慕は方に切である。にわかに請いに従うに忍びない」と言った。十二月、孝恵皇太后の尊諡を上った。群臣が服制は満ちたので吉典に移り奉天門で視事するよう奏すると、久しくして許したが、なお鐘鼓を鳴らさず鞭を鳴らさぬよう命じた。

嘉靖二年(1523年)(安陸廟の礼と桂萼の建言)

  • 春二月、太常卿の汪挙が「安陸の廟は太廟の儀にならって十二の籩豆を用いるべきだ」と上言し、容れられた。礼部が奉祀官の設置を請い、楽舞は軽々しく議しがたいと言うと、世宗は楊廷和に集議させた。礼部侍郎の賈詠が公侯九卿らと「正統と本生は義として差を設けるべきだ。八佾はすでに太廟に用いている以上、安陸の楽舞は少し減じて二統の嫌いを避けるべきだ」と上言したが、世宗は「なお八佾を用いよ」と言った。何孟春や給事中の張翀・黄臣・劉最、御史の唐僑・儀秦武ら、南京給事中の鄭慶雲らが力争したが返答はなかった。
  • 冬十一月、孝恵皇太后の神主を奉慈殿に奉り、官を遣わして安陸の廟に告げた。
  • 南京刑部主事の桂萼は日ごろ張璁と古礼を論じて議が合致しており、このとき大礼を上言し、併せて席書・方献夫の議草を献じた。その要旨は次のとおり。古の帝王は父に孝であったから天に明らかに仕え、母に孝であったから地を察して仕えた。父子の倫を廃して天地に仕え百神を主れた者があるとは聞かない。
  • いま礼官は皇上を人の後嗣となった者とし、末世の故事に強いて附会して武宗の統を滅ぼし興献の宗を奪おうとしている。孝宗には武宗という子がすでにあったのに、さらに後嗣を立てられようか。武宗が神器を皇上に授けた以上、その統を継がずにいられようか。挙朝の臣に諫め容れる者がないのは、張璁の建議が出世狙いと指弾されて以来、礼に達した士も軽々しく非を言えなくなったからだ。皇上が興国太后の側にありながら興献帝の祀られぬまま三年になるのに、臣子が平然と自ら是としてよいものか。
  • すみやかに明詔を発し、名を循って実を考え、孝宗を皇伯考、興献帝を皇考と称し、大内に別廟を立て、興国太后を聖母、武宗を皇兄と称すれば、天下の父子・君臣の分は定まる。朝議の謬りは弁ずるに足らぬが、彼らが拠るのは宋の濮王の議だけだ。宋臣の范純仁は英宗に「陛下は先に仁宗の詔を受け、みずから仁宗の子となることを許され、封爵もことごとく皇子の故事を用いられた」と告げており、入継の主とは事体が異なる。宋臣の論にも自ずと別がある。いま皇上は祖訓を奉じて大統を継いだので、はたして孝宗の詔を親しく承けてその子となったのか。皇上が人の後嗣ではなく入継の主であることは明らかだ、と。
  • 疏が上ると、世宗は「これは天理綱常に関わる。なお文武群臣を会して可否を集議せよ」と言った。

嘉靖三年(1524年)春正月〜二月(楊廷和の罷免と朝議の対立)

  • 春正月、楊廷和が罷めた。礼部尚書の汪俊が「公が去られたら誰が主宰するのか」と嘆いていたところ、主事の侯廷訓が宗法に拠って作った大礼弁が群臣に配られた。汪俊はこれを得て喜び、「この議に違う者は斬るべきだ」と言った。
  • 吏部尚書の喬宇が九卿を率いて「必ず孝宗を考としてこそ大宗が絶えない」と上言し、汪俊も公侯・卿佐・翰林・台諫を会して「祖訓の兄終弟及は同産をいう。皇上は武宗の実弟なのだから、当然孝宗を考、昭聖を母とすべきだ。前後の章奏で桂萼と議を同じくするのは張璁・霍韜・熊浹だけで、他は八十余疏・二百五十余人がみな部議どおりである。従うべきはどちらか明らかだ」と上言した。
  • 世宗は「さらに衆論を参して議せよ」と言った。給事中の張翀ら三十二人、御史の鄭本公ら三十一人がそれぞれ衆議に従うべしと力論すると、世宗は徒党を組んで政を乱すとして怒り、みな俸を奪った。修撰の唐皋も「後嗣となった相手を考として正統を別ち、生みの親を隆くして尊称を備えるべきだ」と言ったが、模稜として両可を持すると咎められ、やはり俸を奪われた。汪俊らはさらに議して、興献帝・興国太后にそれぞれ一字を加えて尊称を備えるにとどめよとしたが、返答はなかった。
  • このとき楚王の栄誠が儀賓の沈宝に託して疏を上り、代府長史の李錫、南京都察院経歴の黄綰、錦衣衛千戸の聶能遷もそれぞれ上疏し、その言は張璁の議と合った。世宗はいよいよ心を動かし、督賑侍郎の席書、南京刑部主事の桂萼・張璁を京に召して集議させ、郷里にいた霍韜も併せて召した。
  • 興国太后の千秋節に命婦がそれぞれ箋を上って賀し、宴と下賜は常より倍した。その月の晦日は昭聖皇太后の聖旦だったが、あらかじめ命婦の朝賀を免ずる旨が出た。朱淛と馬鳴衡が「朝賀を暫く免ずるのは平時なら差し支えないが、議礼が紛糾し人心が動揺しているさなかに罷めると伝えられれば、疑いを招かずにいない。この意が太后から出たのなら、必ず事に触れて抑えられた思いや存歿の感慨があってのことだろう。聖意から出たのなら、母子の至情は隆くなる一方であるべきで、どうして聖旦の佳節にこの盛礼を廃せようか」と上言した。世宗は怒って逮訊を命じ、侍郎の何孟春が救おうとしたが返答はなかった。
  • ついで陳逅・李本、刑部員外郎の林惟聡がそれぞれ「馬鳴衡・朱淛は太后の懿旨を知らずに論じたのであり、その本心は、議礼の初めに太后が朝賀を受けられないと、天下が陛下の心に偏るところがあると思い、讒佞の輩が隙に乗じて媚びを献ずるようになる、その禍は言うに堪えぬ、と恐れたのだ。いま詔獄に下して厳刑を加えれば、天下は陛下が宮闈のことで言官を罪したと思い、本生と正統の義に軽重があるのだと見なして、忠臣義士は口を閉ざして天下の事を議さなくなる」と抗言した。世宗は煩擾として怒り、併せて捕らえて拷訊した。大理卿の鄭岳が救おうとしたが返答はなかった。

嘉靖三年三月(本生皇考恭穆献皇帝の称と観徳殿)

  • 興献帝を本生皇考恭穆献皇帝、興国太后を本生母章聖皇太后と奉った。先に世宗が張璁らを召したとき、都御史の呉廷挙は張璁が来れば初説を変えぬことを恐れ、諸生や南京の大臣、耆徳旧臣にそれぞれ所見を陳べさせて採択に備えるよう請うた。張璁と桂萼はさらに上疏して統と嗣の弁を明らかにし、張璁は「いまの加称は皇か否かにあるのではなく、実は考とするか否かにある。ただ皇の一字を争うだけなら、執政は必ずこれで今日の議を塞ごうとするだろう。天下の義礼を知る者はなお議して已まぬはずだ」と言った。世宗はこれを嘉納した。
  • この日、世宗は平台に御して蔣冕・毛紀・費宏を召し、尊号の加上と室を建てる議を諭した。蔣冕は「臣らは陛下に堯舜たらんことを願い、漢の哀帝たらんことを願いません」と答えた。世宗が「堯舜の道は孝弟のみだ」と言うと、蔣冕らは答えられなかった。
  • 詔を草させて尊号を加上した。給事中の張翀、御史の朱実昌らが交々力諫すると、世宗は厳しく責め、礼部に勅して昭聖慈寿皇太后に昭聖康恵慈寿皇太后の尊号を加え、本生父の興献帝を本生皇考恭穆献皇帝、本生母の興国太后を本生母章聖皇太后と加称した。さらに「朕の本生父母にはすでに尊称がある。なお奉先殿の側に一室を別に立て、朕の追慕の情を尽くしたい」と言った。
  • 礼部尚書の汪俊は「皇上は大宗を奉じて入った以上、小宗を祭ることはできない。本生父のために大内に廟を立てるのは古来なかったことで、ただ漢の哀帝が共王のために京師に廟を立てたのを師丹は不可とした。安陸の廟を増飾して献皇帝の百世不遷の廟とし、他日興王に襲封する子孫が世々奉享し、陛下は歳時に官を遣わして祭祀させれば、至情を伸べるに足る」と議した。世宗は「朕が太廟を奉ずるのにどうして間越しよう。漢の哀帝とは違う。公論に協って至情を伸べるようにせよ」と言った。
  • 吏部尚書の喬宇らは「皇上は宗法の大小を洞察しておられればこそ、立廟の名を避けて『室を建てる』と言い、大内の名を避けて『奉先殿の側』と言われたのだ。これを推せば、大宗に専らであれば必ず小宗に降るということで、安陸の祭祀は改議に及ばない」と奏した。湛若水・石瑶・張翀・任洛・汪挙らも奏したが聴かれず、汪俊は辞任を求め、厳しく責められて罷めさせられた。
  • 戸部侍郎の胡瓉らが「大礼はすでに定まった。席書の督賑は江淮の民命に関わる。京に召す必要はない」と上言し、世宗はこれに従って張璁らにも来るなと止めさせた。だが張璁・桂萼はすでに鳳陽に着いており、邸報で尊号加称の勅を見て、重ねて上疏して両考の非を極論した。「臣は、本生の二字が決して皇上の御心から出た裁定ではなく、礼官の陰謀から出たものと知っている。皇上はそれを親しむ辞と思われたのだろうが、礼官はまさにこの二字を外す辞としたのだ。すみやかに二字を去ってこそ継統の義は明らかとなり、人心も信従する」と言った。疏が入ると、世宗はまた京に召すよう命じた。蔣冕は御前で「二人が来れば必ず撲殺してやる」と言ったが、世宗は取り合わず、人を遣わして急ぎ来させ、中旨を下して席書を礼部尚書とした。
  • 給事中の安磐らは「大礼の失は、霍韜・張璁が本生を考としようとしたことから邪説が起こり、桂萼が席書・方献夫の論を進めてから邪説がいよいよ張った。席書の新任を止め、桂萼らの奸罪を治めよ」と上言した。張漢卿らも席書の督賑の不手際で数万の民を死なせたと訴え、南京給事中の黄仁山らも「席書は巧詐邪佞で、議草を私蔵しながら自ら進めず、桂萼に代奏させて寵を干めた。張璁・桂萼が席書のもとを訪れるのは必ず夜半で、陰類の憸人であることは疑いない」と言った。南道御史の田麟らも「汪俊と席書は邪正が相反し、進退が宜しきを失っている。まして祖制では上卿はみな推挙して選任するのに、なぜ席書に限って内旨から出るのか」と言った。いずれも返答はなかった。
  • 礼部侍郎の呉一鵬らが侯伯・卿貳・翰林・台省を会して室を建てることの非を力説し、「臣らは祖訓に遵い礼経に本づき、師丹・程頤の論を守って主心を悟らせたい。しばらく建室を停め、なお安陸に廟し、歳時に官を遣わして奉祭し、他日皇子が多くなったら興王に襲封させて世々承享させたい」と言った。世宗は「朕は天命を承けて宗祀を奉じ聖母を孝養している。皇考の陵園は遠く安陸にある。卿らはそれで安らかなのか。いま党を同じくして執奏し、父子の倫を敗り君臣の義を傷つけ、朕の年少をあなどって綱常を軽んじている。奉先殿の西室をすみやかに修飾し、朕の歳時の急切の情を尽くさせよ」と言った。
  • 修撰の呂柟、編修の鄒守益がともに上疏して争うと、世宗は怒って鎮撫司に逮え拷訊させた。給事中の張翀・章僑、御史の張鵬翰らが交々救おうとしたが返答はなかった。獄が成って呂柟は解州判官、鄒守益は広徳州判官に謫された。
  • 内閣に昭聖皇太后と本生聖母章聖皇太后の冊文を撰させたとき、世宗は司礼官を遣わし、昭聖の冊内では嗣皇帝と称し、献皇帝の冊内では孝長子と称し、章聖の冊内では聖母と加称して長子と自称したいと伝えた。蔣冕らは不可と力説し、原文のまま封進した。世宗は献皇帝の冊内に「孝」の一字を加え、章聖の冊内から「本生母」の三字を去ろうとした。蔣冕らは「この字は宗廟の祝文にのみ用いる。長子と称して孝情は尽きているのに、さらに加えては正統に干る。しかも本生母の三字は勅諭で擬定したもので、軽々しく去りがたい」と重ねて上言し、御批を封じ返した。結局、原文どおり長子と称するにとどめ、章聖の冊内には「聖」の一字を加えた。
  • 世宗は奉天殿に御して賀を受け、詔を天下に布いた。詔は「朕は天命を膺けて皇兄武宗毅皇帝の大統を嗣承し、宗祀を奉じ、我が皇考孝宗敬皇帝の神謨聖政を継ぎ行う。聖母昭聖慈寿皇太后の擁翊の功は言い尽くしがたく、本生父母である興献帝・興国太后の鞠育の恩も報い尽くしがたい。尊称が極まらぬことを常に歉然としてきた」として、昭聖康恵慈寿皇太后、本生聖母章聖皇太后の尊号を上ったと述べた。
  • 張璁は東昌でこの詔書を読み、「執政はこのような欺瞞を平然と為すのか。両考を並べ称しては綱常が紊れる」と嘆じた。蔣冕は罷帰を求めたが、世宗は「朕はまさに倚任して治理を図ろうとしている。建室の礼儀は朕が自ら裁定する」と言った。蔣冕は「皇上が仁寿宮に詣でて聖母昭聖皇太后に尊号を加上されたのに、にわかに懿旨で命婦の入賀を免ずるとされた理由は臣らの知るところでない。また席書を礼部尚書とし、張璁・桂萼を京に召された。聖意の向かうところ、中外は疑わずにいない。前命を追って寝めるべきだ」と上言したが返答はなく、病と称して去ることを願い、世宗は許した。御史の王泮らが留任を疏請したが返答はなかった。

嘉靖三年五月〜六月(観徳殿と張璁らの召還)

  • 五月、奉先殿の西室を観徳殿とした。献皇帝の神主を安置しようとしたのである。礼部侍郎の呉一鵬・朱希周、郎中の江必東、員外郎の翁磐、主事の彭黯らは「献皇帝の神主は安陸の廟にあって神霊が依るところである。奉先殿の西室には奉慈殿の儀にならって神位を設け、時享に便ずればよい」と上言したが返答はなかった。
  • 司礼監太監の頼義、京山侯の崔元、侍郎の呉一鵬を安陸に遣わして神主を改題させ、冊宝を上って本生皇考恭穆献皇帝の尊号を奉り、京師に迎えさせた。呉一鵬らは「前代を歴考しても寝園から大内へ迎え入れた例はない。まして安陸は啓封の地であり、献皇帝の神主を軽々しく動かすべきでない。永く安陸に祀ってこそ本生の情は尽き、正統の義も得られる」と重ねて上言したが返答はなかった。
  • 霍韜は召しに赴くにあたり、重ねて二考の非を力弁した。鳳陽にいた席書も大礼考議を上り、「諸臣は講学が明らかでなく私意に固執している。この礼は廷臣や耆旧に自ら知る者があるはずだが、衆に逆らうのを憚っている。張璁・桂萼らは感激して不平を抱き、力めて群議を犯したので、挙朝が仇のように憎んでいる。まことに恐るべきことだ。臣は途窮まってなおこれを言う。九廟の神霊が言わせているのだ」と述べた。
  • 六月、張璁・桂萼が京に至り、同じく上疏して七事を条列し、両考の非を極論して、孝宗を伯とし興献を考とするのが正だとした。いずれも留め置かれた。鴻臚寺少卿の胡侍は「唐の睿宗は中宗を兄とすべきでなく、宋の太宗は藝祖を兄とすべきでなかった。兄と称すべきでないなら伯と称すべきでないのも明らかだ」と上言し、世宗は狂率として怒り、潞州判官に出した。
  • 張璁・桂萼が京師に着いたとき、廷臣は打ち据えようとして誰一人交わろうとしなかった。二人は病と称して出ず、数日後に退朝すると、待ち伏せを恐れて東華門を出て武定侯の郭勲の家に駆け込んだ。郭勲は喜んで内助を約した。台諫官が交々攻撃して席書ともども罪すべきだとし、十余の章が上ったがいずれも返答はなかった。給事中の張翀が群臣の弾章を取って刑部に発し、張璁らの罪を擬させようとすると、尚書の趙鑑は「許可の旨さえ得られればすぐ撲殺してやる」と私語した。世宗はこれを察知し、中旨を下して桂萼・張璁を翰林学士、方献夫を侍講学士とし、張翀・趙鑑を厳しく責めて罪した。三人はそれぞれ辞退の疏を上ったが許されなかった。
  • 吏部尚書の喬宇が「桂萼らは異説に偏執して人心を揺るがしている。罷黜されたい」と上言すると、世宗は怒って厳しく責め、喬宇は辞任を求めて許された。
  • 修撰の楊慎は楊廷和の子である。同官の姚淶、編修の許成名・崔桐、簡討の辺憲・金皋らを率いて「君子と小人は並び立たず、正論と邪説は並び行われない。臣らが執るのは程頤・朱熹の緒であり、桂萼らの言うのは冷褒・段猶の余流である。学術が同じでなければ議論も異なる。臣らは桂萼らと同列たるを恥じる」と上言し、俸を罷められた。給事中の李学曽ら、御史の吉棠らも争って、みな下獄あるいは外補となった。ついで南京尚書の楊旦・顔頤寿・沈冬魁・李克嗣・崔文奎、侍郎の陳鳳梧、都御史の鄒文盛・伍文定らも言上したが、みな厳しく責められた。
  • 員外の薛蕙が「為人後解」を著して張璁・桂萼の議を駁した。その要旨は「礼に後を立てるのは大宗を重んじるからであり、嫡子が後とならぬのは小宗を軽んじるからだ。人の後となる者はその子となる、というのは公羊の言だが実は儀礼と表裏をなす。すでにその子となった以上は父と称すべきで、なお伯叔父と呼べようか」というものだった。世宗は怒って詔獄に繋いだが、まもなく釈した。

嘉靖三年秋七月(左順門の伏闕と杖罰)

  • 張璁・桂萼は新任を拝すると、さらに十三事を列して上った。三代以前に立後の礼はないこと、祖訓にも立後はないこと、孔子が矍圃で射たとき人の後となった者を斥けたこと、武宗の遺詔が継嗣に言及していないこと、礼は本生父母を軽んじていること、祖訓に姪が天子を伯叔父と称すとあること、漢の宣帝と光武がともに父のために皇考廟を立てたこと、朱熹が定陶の事を礼を壊すものと論じたこと、古は遷国に主を載せたこと、祖訓に皇后は内を治め外事に干与しえぬとあること、皇上が寿安皇太后の三年の喪を失行したこと、新たに頒った詔令は必ず改めるべきこと、台諫の連名上疏は勢いに迫られたものであること——これらを挙げて礼官の欺罔の罪を条列した。疏は留め置かれ、何孟春が反論を作ると世宗は厳しく責めた。張璁・桂萼が重ねて辞職を願ったが許されず、就官した。
  • 世宗はその議を採り、しばしば司礼監官を内閣に遣わして毛紀らに冊文の「本生」の字を去るよう諭した。毛紀らが力めて不可としたので、まもなく世宗は平台に御して毛紀らを召し、「この礼は速やかに改めるべきだ。お前たちは君を無みし、朕をも父無き者にしようというのか」と責めた。毛紀らは恐れて退いた。百官を左順門に召して「本生聖母章聖皇太后を、いま尊号を改め定めて聖母章聖皇太后とする。四日後に恭しく冊宝を上る」と勅した。
  • 何孟春は退いて夜通し疏を草し、礼部侍郎の朱希周に「この礼が再び改まる以上、礼官こそ争うべきだ」と語った。そこで朱希周は郎中の余才・江必東らを率いて「皇上が孝宗を考、昭聖を母とされてすでに三年である。いま改め定める諭が突然中から出れば、明詔は空文となり天下に信を取れない」と上言した。何孟春は尚書の秦金、学士の豊熈らおよび翰林・寺部・台諫の諸臣とともに、本生の二字を削るべきでないと力争し、章は十三上ったがみな留め置かれて返答がなかった。
  • 世宗が朝を罷めて文華殿に斎居していたとき、金献民と徐文華が「諸疏が留め置かれた以上、必ず孝宗を伯考に改めるだろう。そうなれば太廟に考が無く、正統に隔たりができる」と唱えた。何孟春は「憲宗の朝、尚書の姚夔が百官を率いて文華門に伏し哭して慈懿皇太后の葬礼を争い、憲宗が聴き入れた。これが本朝の故事だ」と言い、楊慎は「国家が士を養って百五十年、節に仗り義に死ぬのはまさに今日だ」と言った。王元正・張翀らは金水橋の南で群臣を遮り留め、「万世の瞻仰はこの一挙にある。今日力争しない者があれば共に撃とう」と言った。何孟春・金献民・徐文華も重ねて号召した。
  • こうして秦金・趙鑑・趙璜・兪琳・朱希周・劉玉・王時中・張潤・汪挙・潘希曽・張九叙・呉琪・張瓉・陳霑・張縉・蘇民・余瓉・張仲賢・葛檜・袁宗儒ら二十三人、賈詠・豊熈・張璧・舒芬・楊継聡・姚淶・張衍慶・許成名・劉棟・張潮・崔桐・葉桂章・王三錫・余承勲・陸釴・王相・応良・金皋・林時・王思ら二十人、謝蕡・毛玉・曹懐・張嵩・王瑄らを含む十六人、余翺・葉竒・鄭本公・楊枢・劉頴・祁杲ら三十九人、余寛・党承志・劉天民・馬理・徐一鳴・劉勲・応大献・李舜臣・馬冕・彭沢・張鵾・洪伊ら十二人、黄待顕・唐昇・賈継之・楊昌・楊淮ら三十六人、余才・汪必東・張懐・翁磐・李文中・張澯・張鏜・豊坊・仵瑜・丁汝夔・臧応奎ら十二人、陶滋・賀縉・姚汝皋・劉淑相・葛潮ら二十人、相世芳・張峩・詹潮・胡璉・范禄ら二十七人、趙儒・葉寛・張子衷・汪登・劉璣ら十五人、毋徳純・蔣同仁・王瑋・劉道・陳大綱ら十二人が、みな左順門に赴いて跪伏した。中には「高皇帝、孝宗皇帝」と大呼する者もあった。
  • 世宗は司礼監に諭して退かせたが去らない。金献民が「輔臣こそ力争すべきだ」と言い、朱希周が内閣に赴いて毛紀に告げると、毛紀は石瑶とともに左順門に赴いて跪伏した。重ねて司礼太監を遣わして退かせても群臣は伏したまま起たず、辰の刻から午の刻に及んだ。
  • 世宗は怒り、司礼監に姓名を記録させ、首謀の豊熈・張翀・余寛・黄待顕・陶滋・相世芳・毋徳純ら八人を獄に繋いだ。楊慎と王元正は門を揺すって大いに哭き、一時に群臣はみな哭して声は闕廷を震わせた。世宗は大いに怒り、馬理ら百三十四人を逮繋し、何孟春ら二十一人、洪伊ら六十五人はひとまず待罪とさせた。
  • 翌日、聖母章聖皇太后の冊宝を上った。次いで錦衣衛が拘禁中の官について請うと、逮捕時に逃げ隠れた者も追捕され、待罪の者と併せて総勢二百二十人となった。世宗は責めて拷訊を命じ、豊熈ら八人を辺境の軍籍に編し、その他は四品以上は俸を奪い、五品以下は杖に処した。編修の王相ら百八十余人がそれぞれ杖を受け、王相・王思・裴紹宗・毛玉・胡瓊・張曰韜・楊淮・張燦・申良・臧応奎・牟瑜・余禎・安璽・殷承叙ら十九人は傷が元で相次いで死んだ。
  • 恭穆献皇帝の神主が安陸から到着した。世宗は闕内で迎え、奉先・奉慈の二殿に謁させたのち観徳殿に奉安し、冊宝を上って皇考恭穆献皇帝の尊号を奉り、もはや「本生」とは言わなくなった。この日、重ねて席書に来京を促した。
  • 南京祭酒の崔銑が災異にかこつけて「議礼の一事で、ある者は擯斥され、ある者は下獄した。聖朝の美事ではない」と陳言すると、世宗は悦ばず致仕させた。一方、かつて給事中として事を言って旨に忤い按察司僉事に出されていた陳洸は、「陛下は幾を察して決に至り、毅然として本生の二字を去られた。人心ある者はみな、これで初めて父子の恩が全うされたと言って感泣している。喬宇・夏良勝を罷めて邪説を息め、史道・于桂・曹嘉を復して正気を作されたい」と上言した。世宗は悦んで陳洸を給事中に復した。
  • 修撰の楊慎、編修の王元正、給事中の劉済・安磐・張漢卿、御史の張原・王時柯を詔獄に逮繋して再び扑ち、楊慎・王元正・劉済を辺境の戍に謫し、何孟春を南京工部に調し、毛紀を罷めた。
  • 南寧伯の毛良が「楊廷和は定策の功を求めて大礼を沮み撓め、陛下に天倫の正を失わせ追崇の典を廃させた」と上言し、千戸の聶能遷、百戸の陳紀、教諭の王价、録事の銭子威もそれぞれ議礼の差謬と更正の宜を論奏したが、いずれも留め置かれた。

嘉靖三年八月〜十二月(皇伯考への改称と大獄の余波)

  • 八月、席書が京に至り、孝宗を考とする名がまだ正されていないとして、留め置かれていた諸議をことごとく発し、礼部に集議させた。鄭岳・徐文華はなお「孝宗の祝享、昭聖の冊宝は奉じて久しい。軽々しく改めるべきでない」と力言し、厳しく責められた。憂に居て郷里にいた胡世寧も張璁らと合う意見を上言し、世宗はこれを嘉した。
  • 九月、孝宗敬皇帝を皇伯考、昭聖皇太后を皇伯母と改称した。集議のとき、汪偉・鄭岳・徐文華らはなお張璁らと可否を力弁していたが、武定侯の郭勲がにわかに「祖訓はかくのごとく、古礼もかくのごとくだ」と言い、張璁らは「人臣が君に仕えるには、その美に将順すべきだ」と言った。そこで席書・桂萼・張璁および方献夫が、公の張鶴齢、侯の郭勲・鸞らと六十四人で「三代の法では父が死ねば子が継ぎ、兄が終われば弟が及ぶ。人に二本はない。孝宗は伯であるから皇伯考、昭聖は伯母であるから皇伯母と称し、献皇帝の神主は別に禰室を立てて太廟に入れなければ、尊尊と親親は両ながら悖らない」と上言した。議は容れられ、こうして孝宗を皇伯考、昭聖を皇伯母と改称し、天地・宗廟に祭告して詔を天下に布いた。
  • 安陸の松陵はすでに顕陵と改称されていた。大礼が定まると、百戸の随全が顕陵の改遷を請うた。工部に下して議させると、尚書の趙璜らは「太祖は皇陵を遷さず、太宗は孝陵を遷さなかった。これを法とされたい」と上言した。世宗は礼臣に多官を会して集議させ、尚書の席書らが公侯九卿・諸廷臣とともに随全を罪するよう請うた。世宗は「先陵は遠く安陸にある。朕は瞻仰して哀切だ。再び議せよ」と言ったが、席書は張璁・桂萼らと「大事を挙げるには人心に順うべきだ。いま多官はみな、帝魄は軽々しく動かすべきでなく地霊は軽々しく洩らすべきでないと言っている。臣らは言を尽くさぬわけにいかない」と重ねて上言した。世宗は議を罷め、顕陵の祭は七陵と同じにせよと命じた。
  • 十二月、評事の韋商臣が上言した。臣は廷平として庶獄を職としている。今年七月に官を授かって以来、大礼のことで闕に伏し聖怒に触れ、大臣で改任された者は何孟春一人、辺境に編戍された者は学士の豊熈ら八人、杖を受けて死んだ者は編修の王思ら十七人。使臣に忤って逮繋された副使の劉秉鑑・知府の羅玉ら、織造の使臣に抗して逮繋された布政使の馬卿・知府の査仲道ら、失儀で下獄した御史の葉竒・主事の蔡乾ら五人、京堂官として属官に訐奏されて下獄した御史の任洛・副使の任忠ら二人。これらはみな国家の大獄で、上は天象に干り下は民俗を駭かせ、関わるところ甚だ大きい。臣は死を惜しまぬ。陛下は明断を奮って諸臣とその子孫の官を録し復されたい、と。疏が入ると外任に調された。江西巡撫都御史の陳洪謨も同じことを言ったが、留め置かれて返答はなかった。

嘉靖四年(1525年)(世室の議と世廟の造営)

  • 春三月、献皇帝実録の編修を詔した。
  • 夏四月、光禄寺丞の何淵が世室を立てて皇考を太廟に崇祀するよう請うた。世宗が礼部に集議させると、尚書の席書らは「王制に天子は七廟、三昭三穆とある。周は文王・武王に大功徳があったので世室を立て、后稷の廟とともに百世不遷とした。我が太祖は四親廟を立て、徳祖を北に居えたが、後に同堂異室に改めた。祧を議しては太祖を文の世室に、太宗を武の世室に擬した。いま献皇帝は藩王から帝号を追崇されたのであって、何淵がこれを太祖・太宗に比して太廟に世室を立てようとするのは甚だ根拠がない」と議し、返答はなかった。
  • 張璁・桂萼もともに不可とした。張璁は「臣が廷臣と抗論した初めから、献皇帝のために京師に廟を立てるべきだと言い、別に禰廟を立てて正統に干らぬようにと言ってきた。これは臣一人の私ではなく天下万世の公議である。いま何淵は献皇帝を自出の帝として周の文王・武王に比しており、不経も甚だしい。上は九廟の威霊に干り、下は四海の人心を駭かせる。昔、漢の哀帝は定陶共王を共皇と尊んで京師に廟を立て、孝元帝に比したので今に至るまで非とされている。いま何淵は献皇帝を太廟に入れよと請うが、武宗の上に序するのか下に序するのか。昔の人は『孝子の心は窮まりないが分には限りがある。為しうるのに為さぬのと、為しえぬのに為すのとは、ひとしく不孝だ』と言った。別に禰廟を立てるのは礼として為しうることだから、臣は死を冒して勧める。太廟に入れるのは礼として為しえぬことだから、臣は死を冒して止める」と言った。
  • 席書が群臣を会して重ねて争い、大学士の費宏・石瑶・賈詠、尚書の廖紀・秦金および九卿・台諫官もそれぞれ力争したが、いずれも返答はなかった。張璁・桂萼は席書に「観徳殿の規制が備わらぬので聖心が慊らぬのだろう。別に廟を立てて太廟に干らぬようにすべきだ」と言い、席書らは「皇城内に地を択んで別に禰廟を立て、太廟と並列させず、祭は翌日に行えば、尊尊と親親が両全となる」と議した。容れられた。
  • 六月、世廟を造営した。先に席書が廟議を上ったとき「親尽の期は孝廟と同じ」と述べた。世宗が理由を問うと、席書は「我が朝は徳祖を后稷に、太祖・太宗を文王・武王に比して、いずれも百世不遷とし、懿祖以下は世に随って祧する。献皇帝は孝宗と同世であるから、親尽も祧も同じになる」と答えた。世宗が「別廟で祖宗と序列しないのなら、他日祧するとき神主はどこに蔵するのか。どうして朕の世々享ける情を伸べられるのか。再議せよ」と言うと、席書は「神主は寝殿に蔵し、歳暮に出して祭ること太廟の議のごとくすべきだ」と上言した。
  • 世宗は「皇考は朕一人を生み、朕は入って大統を継いだ。いま特に廟を立てて世々遷さず、朕の孝思を伸べる」と言い、工部に太廟の左の環碧殿の傍らに地を相させて廟を立てさせた。前殿・後寝は太廟と同じだがやや制を減じ、路は闕左門から入るものとした。ついで廟名を世廟と定めた。礼科給事中の楊言らが世室を罷めるよう乞い、「祖宗は身に天下を有した大宗であり君である。献皇帝は旧く藩臣であった小宗であり臣である。臣を君と並べれば天下の大分が乱れ、小宗を大宗と並べれば天下の大統に干る。一つとして可なるものがない」と上疏したが聴かれなかった。
  • 十二月、席書が大礼集議を上った。世宗は藩府および中外の群臣に頒賜させ、なお各省に刊布して伝えさせた。

嘉靖五年(1526年)(観徳殿の移建と章聖皇太后の謁廟)

  • 夏六月、献皇帝実録が成った。
  • 秋七月、世宗は観徳殿が奉慈殿の後にあって地勢が狭迫だとして、奉先殿の左に改建しようとした。工部尚書の趙璜は「観徳殿を奉先殿の左に移せば必ず奉慈殿と対峙する。孝粛太皇太后は献皇帝の祖母、孝恵皇太后はまた聖母である。廟がその左に出ては神霊が安んじないおそれがある」と言い、席書も「世廟の造営で民は一年余り労した。ようやく成ったばかりで、力もまた節すべきだ」と言った。世宗は費宏らに「観徳殿を遷すことは奉慈殿とは関わりがない。卿らは先日の誤りを踏むな」と諭し、費宏らは礼部・工部に日を卜して営度させるよう請うた。給事中の張嵩・衛道、御史の郭希愈・陳察らがそれぞれ「災異が尋常でない。旧のままにして民力を寛にされたい」と上言したが返答はなかった。
  • 世廟が成り、世宗は観徳殿から献皇帝の神主を世廟に奉り、さらに武英殿から献皇帝の神位を観徳殿に迎えた。礼が成って群臣が表を上って賀し、世廟の楽章が撰された。
  • 九月、世宗は章聖皇太后を奉じて世廟に謁見した。先に世宗が輔臣に「聖母が世廟に謁したいと言われるが、どう思うか」と諭すと、費宏・楊一清は「国初の礼制では皇后は太廟に謁したが、永楽のとき奉先殿に謁するよう改められ、太廟に至った例はない」と答えた。世宗が張璁・桂萼に問うと、「唐の開元礼に皇后の廟見の儀がある。国初、皇后は太廟に謁し内外の命婦が陪侍した。永楽に奉先に謁するにとどめたのは、当時の礼官の考証の誤りであって祖制ではない。皇太后はまず太廟に見えて前礼の欠を補い、次いで世廟に謁して今礼を全うすべきだ」と答えた。
  • 費宏・楊一清は「張璁・桂萼の引く開元礼は法とすべきでない。国初は礼文が定まっていなかった。二臣が廟見を復そうとするのは祖宗の欠を顕わすもので不可だ」と言った。席書・劉龍は「高皇帝は古に準じて廟見の礼を大婚冊后の制としたが、施行に及ばず、改めて冊后は奉先殿に謁するにとどめると定めた。張璁・桂萼が引くのはみな大婚の礼である。いま世廟が落成したのは大祭の礼であって附会できない。章聖皇太后は神主を奉じた後、観徳殿に謁されれば祖宗の法守はいよいよ堅くなる」と言った。
  • 張璁・桂萼は「周の天子の宗廟の祭では、王は袞冕を服して入り東序に立ち、后は副禕を服して入り西序に立ち、九献ごとに各四拝する。天子と后がともに宗廟を承けるのである。皇上が毅然と挙行して古礼を復されるのは不可ではない」と言い、自ら儀注を作って上った。席書らは難じきれなかった。
  • 大学士の石瑶は「祖宗の家法では、后妃が入宮したのち理由なく再び出た例はない。太廟は尊厳で天子が対越する所であり、時享や祫祭でないかぎり軽々しく出入りしない。まして后妃においてをや。漢唐の末は事が古に師とせず、女禍がしばしば起こった。その患いは言い尽くせぬ。慮らずにいられようか」と上言し、世宗は怒って厳しく責めた。席書らは、聖母の謁廟には必ず上が同行して礼を主宰されたいと請い、容れられた。
  • 礼部が世廟の祭を太廟の翌日に用いると議したのに対し、太常寺は「太廟と観徳殿の時享は三日前に斎戒し二日前に牲を視る。翌日に祭れば斎戒と視牲の日がそれぞれ異なる。しかも歳暮の際には翌日に挙行しがたい」と言った。礼部が歳暮は暫定的に太廟と同日にするよう請うと、世宗は「みな同日を用い、順次挙行せよ」と言った。

嘉靖六年(1527年)(典礼纂要と世廟の楽舞)

  • 春正月、典礼全書の編修を諭した。張璁は纂要略二巻を作って進め、「この礼の失は今日に始まったのではなく、漢宋の諸臣から争われてきた。ゆえに皇上の改めるのは漢宋の諸君を改めるのであり、臣らの争うのは漢宋の諸臣と争うのである。昔、唐に開元礼、宋に開宝礼があったが、載せるところは儀文と制度だけだった。いまは通鑑の凡例にならって年月日を綱とし、大礼に関わる事は必ず書して聖裁を備載すべきだ」と上言し、要略に輯めて献じた。世宗は史館に付して纂述させた。
  • 費宏らが世廟の楽舞は文舞のみを堂に随わせると定めると、何淵が「世廟の楽舞は備わっていない」と上言した。礼部に下して集議させると、侍郎の劉龍らは旧のままがよいと議した。世宗が輔臣に再議を諭すと、大学士の楊一清・賈詠・翟鑾は「漢の高帝は武功で天下を定めたので武徳・文治の舞を奏したが、恵帝・文帝は武功を尚ばなかったので文治・昭徳のみを用いた。世廟に文舞のみを用いるのも同じ趣旨で、欠典ではない」と上言した。
  • 張璁だけは「王制に『祭には生者を用いる』とある。皇上は身が天子であり、献皇を天子の父として尊ぶ以上、天子の礼楽で祀るべきで、一つも欠かせない。しかも天子の八佾は六十四人、諸侯の六佾は三十六人である。本朝の太廟は文武の佾それぞれ八で計百二十八人、王国の宗廟は文武の佾それぞれ六で計七十二人。献皇は在藩のとき七十二人を用いていたのに、いま六十四人でよいのか。天子の父が天子の礼楽を享けられぬのでは、どうして四方に範を示し万世に法を垂れられよう」と上言し、世宗はこれに従った。

嘉靖七年(1528年)(明倫大典の完成と議礼諸臣の追奪)

  • 夏六月、明倫大典が成り、張璁に少傅兼太子太傅・吏部尚書・謹身殿大学士を加え、議礼の諸臣の官を追奪した。勅は次のように言う。大学士の楊廷和は誤って濮議を主張し、尚書の毛澄は経に拠り礼に拠って執ることができず、蔣冕・毛紀は転じて相い附和し、林俊は論を著して迎合し、喬宇は六卿の首として九卿らと交々章を上って妄執し、汪俊は継いで礼部にありながらなお邪議を注ぎ、吏部郎中の夏良勝は庶官を脅持して邪志を遂げようとし、何孟春は侍郎で吏部を掌りながら朝臣を鼓舞して闕に伏し喧呼させた。
  • 朕は甚だしくするのを欲しないので、しばらく軽く処する。楊廷和は罪の魁であり、定策の国老をもって自ら任じ、天子を門生と見なした。法としては市に僇すべきだが、特に寛宥して籍を削り民とする。毛澄と林俊はすでに病死しているので、それぞれ生前の官職を奪う。蔣冕・毛紀・喬宇・汪俊はすでに致仕しているので、それぞれ職を奪って閑住させる。何孟春は情犯が特に重く、夏良勝は禍を醸すこと独り深いので、ともに原籍に発して民とする。その他、両京の翰林・科道・部属および大小の衙門の各官で、名を連ねて上奏したものの、人に代署されて自らは与り聞かなかった者は、みな寛にして問わない。すでに法典に正され、あるいは編戍・為民とされた者も問わない。礼部はこれを承天門下に掲示し、在外の者にも自ら警省させよ、と。
  • 秋七月、皇考と聖母に尊号を加上し、皇考を恭睿淵仁寛穆純聖献皇帝、聖母を章聖慈仁皇太后として天下に詔告した。

嘉靖八年(1529年)十月

  • 朔日に日食があった。刑部員外郎の邵経邦が「詩の『十月之交』は良からぬ者を刺ったものだ。思うに陛下が議礼のゆえに張璁をしきりに用い、皇父が権を専らにして天変を招いたのであれば、議したところは公の礼ではないことになる。守ることもできれば変えることもでき、成すこともできれば毀つこともできる」と上言した。世宗はその疏の末に茅焦の語を引いていることに怒り、鎮海衛に謫して、楊慎らとともに永遠に赦さぬこととし、邵経邦は戍所で死んだ。

嘉靖十五年(1536年)冬十月〜十二月(世廟から献皇帝廟へ)

  • 世廟を献皇帝廟と改めた。世宗は礼部尚書の夏言に「朕は皇考の廟名がはなはだ安からぬと思う。太宗は百世不遷ゆえ世室と名づけた。皇考も太宗に敦く譲られるだろうから、別に議を擬すべきだ。しかも『世』の字は後世に宗号として用いられるかもしれない。いま皇考に施しても虚名を擁するだけだ。郭勲・李時と議せよ」と諭し、ついで「皇考の廟はただ献皇帝廟と称すれば、宗の称と別れて推尊の意が見える」と諭した。
  • そこで夏言は「礼では功徳ある者にのみ別に廟を立てて百世不遷とし、これを世室と名づける。周の文王・武王の世室がそれだ。皇考献皇帝は皇上を生んだ功が契や后稷に比すべきものだが、前には文皇がすでに太宗と称しており、義として尊んで譲るべきであり、後には聖帝が必ず世宗となるはずで、理として虚しく待つべきだ。いま献皇帝廟と欽定されれば、明祀は正しく公議も定まる」と上言し、世宗は従って、議したところを史館に付させた。
  • 十二月、九廟が成った。献皇帝廟は時祀を修めるにとどめ、禰を豊かにする嫌いを避けた。

嘉靖十七年(1538年)(明堂の配享と睿宗の称・祔廟)

  • 五月、明堂の秋饗の礼を集議した。先に皇考献皇帝は時祀を挙げるにとどまり太廟には祀られていなかった。そこで揚州府同知を致仕した豊坊が「孝は父を厳ぶより大なるはなく、父を厳ぶは天に配するより大なるはない。明堂を建て、皇考を尊んで宗とし、上帝に配すべきだ。また天下の郡邑にもそれぞれ明堂を立て、歳時に君上を祝拝して朝廷を尊び、位を釈宮に寄せて体統を褻さぬようにされたい」と上言した。礼部に下された。豊坊は豊熈の子である。
  • 尚書の厳嵩は「諸儒の礼論は一致しないが、臣の考えでは明堂も圜丘もともに天地に事えるものである。いま大祀殿は圜丘の北にあって、まさに古の方位に応じている。明堂の秋饗の礼はここで行えばよく、新たに建てる必要はない。侑饗の礼については、万物は秋に形を成すゆえ秋に明堂を祀って父を配すると伝えられ、漢の武帝から唐宋の諸君までみなそうしてきた。親を親しむを主としたのである。銭公輔・司馬光・孫抃・程朱の諸賢が論じたのは祖宗の功徳を主とするもので、功徳でいえば文皇を配すべきだが、親でいえば献皇を配すべきだ。ただ父を厳ぶ旨に照らせば、皇考をもって配せぬのは陛下として安からぬところがあろう。宗と称する礼については、帝が宗と称して太廟に祔されなかった例はない。臣は妄りに議して陛下に負くわけにいかない。聖明の裁択を仰ぐ」と上言した。
  • 世宗が夏言に示すと、夏言は敢えて議さなかった。世宗は「明堂の秋饗は奉天殿で行えばよい。皇考を配享して宗と称するのは情に過ぎるものではない。何が宜しくないというのか」と言い、重ねて集議を命じた。
  • 戸部侍郎の唐冑が疏を上って争い、「三代の礼は周に至って最も備わった。后稷を郊祀して天に配し、文王を明堂に宗祀して上帝に配した。成王が父を厳ぶの故をもって文王の配天の祭を廃して武王に移したとは聞かない。皇上が統を嗣がれた初め、廷臣が人の後となる説に固執したのに対し、力めて大倫を正したのは張孚敬・席書らの諸臣であった。何淵の建廟の議に対しても、陛下は『朕は天を奉じ祖に法る。どうして太廟に干ろうか』と答えられた。それがなぜ今日、豊坊に惑わされるのか。臣は明堂の礼が廃すべきでないとは思うが、大宗を配するのが礼にかなう。献皇帝は聖人を子に得られたのだから、宗と称し配を議するまでもなく、専廟の享を百世不遷とされている」と述べた。世宗は大いに怒って唐冑を錦衣獄に下し、除名して民とした。厳嵩は「秋饗が物を成す旨、父を厳んで天に配する文を考えるに、皇考の侑饗は周の道に合う」と上言し、世宗はこれを嘉納した。
  • 秋七月、皇考を太廟に祔することを議した。先に世宗は厳嵩の請により礼部に議を勅し、また厳嵩に「太宗の靖難の功は開創と同じである。祖と称して区別すべきだ」と諭した。厳嵩はそこで議を上り、「古は父子で昭穆を異にし、兄弟は世次を同じくした。殷には四君が一世として廟を同じくした例があり、父子でないからである。晋は十一室で六世、唐は十一室で九世だった。宋の真宗が太廟の礼を議させたとき、学士の宋湜は太祖・太宗を合祭して位を同じくすべしと議し、その後の禘祫図でも太祖・太宗を同じく昭位に居えた。いずれも古事として拠るべきものだ。皇考は孝宗の実弟であるから、皇考を孝宗の廟に奉ずべきだ。我が太祖が即位したとき、仁祖は布衣の身であっても必ず天子の祀を享けた。皇考だけが欠けていては聖心も安からぬはずだ」と述べた。
  • さらに「古礼では宗に定数がなく、祖は功ある者でなければ称しえない。漢で祖と称したのは二人、高祖と世祖光武で、光武は漢室を再造したので二祖の嫌いはなかった。我が文皇は鼎を定め危きを持した。功はこれより大なるものはない。祖と尊称されるのは聖見として宜しい」と言った。厳嵩の奏が出ると群臣は翕然として異議がなかった。このとき張孚敬は死んですでに六年になっていた。
  • 九月、太宗文皇帝を成祖、皇考献皇帝を睿宗と奉り、皇考を太廟に祔した。ついで玄極殿で上帝を大饗し、睿宗を配享させた。

嘉靖二十年(1541年)夏四月・二十四年秋七月(九廟の火災と再建)

  • 夏四月、九廟が焼けた。久しく晴れて雨がなかったが、この日の初昏に陰雨がにわかに至り、大雷と雹を伴った風が起こって、震えとともに火が仁廟から出た。烈風が煽ってたちまち神主を焼き、成祖の神主にも及んで焼け、さらに太祖と昭穆の群廟に及んだ。ただ献廟だけが独り残った。
  • 嘉靖二十四年秋七月、太廟が成り、詔を天下に布いた。

穆宗隆慶元年(1567年)春三月

  • 礼科左給事中の王治が上言した。献皇帝が廟に入って宗と称することには、今日なお議すべきところがある。献皇は天子の父として貴いとはいえ、実際に南面して天下に臨んだことはないのに、いま祖宗の諸帝と並列している。また親としては武宗の叔父だが、かつては武宗に北面していたのに、いま位を武宗の右に設けている。古典に照らして結局かなわない。ゆえに先帝も献皇帝の祔廟の後、世廟の享をなお設けて忘れなかった。これは先帝の心にも自ら安からぬところがあったからだ。
  • 臣の考えでは、献皇を太廟に祔しても千万年の後には遷されずにいない。世廟に専ら祀れば億万世に改まらない。陛下は廷臣に議させて至当を求め、献皇の霊を安んじ、先帝の大孝を光らせていただきたい、と。章は所司に下されたが、阻まれて行われなかった。

史論(谷応泰曰)

  • 孝宗は仁聖でありながら子孫が繁らず、武宗は遊興に耽って世継ぎを欠いた。二代続けての衰微は古今の至変である。このとき継嗣を重んじる者は私恩を重んじ、承統を重んじる者は大義を重んじた。世宗は臣として君を紹ぎ、弟として兄を承けた。孝宗の嗣が一代で絶えたのを、天下の臣民の誰が忍びえよう。すでに絶えた以上、忠臣義士にも続けようがなく、同気の近い者を求めて立てれば、統も嗣もそこにある。だからこそ武宗の遺詔は世廟(世宗)を子と見なそうとはしなかったのだ。
  • すでに武宗を兄と称しながら、併せて孝宗をも考としようとすれば、孝宗は孫がないのに却って子を得ることになり、義として誣いである。子と称すれば武宗に逼り二統の嫌いが生じ、理としても碍りがある。まして父子は至親であって、世代を隔て代を跨いで妄りに附属させられようか。定陶王や濮王のように、生きては寝膳を視、死しては斂含を視て、鞠養の恩があり早くに父子の分が定まっていた例とは、はるかに事情が異なる。
  • 孝宗を考としない以上、興献を考とするほかない。天下に父なき人があろうか。漢の宣帝は父を皇と称さなかったが考としなかったわけではなく、光武も父を皇と称さなかったが南頓君を考としなかったわけではない。興献を考とする以上、興献を皇とすべきである。天下に子が天子で父が列侯という例があろうか。兵を挙げて父に逆らったゆえに皇と称しえなかったのは、舜が瞽瞍を王とせず禹が鯀を王としなかったのと同じである。興献は聖を啓く胤を肇めたのだから、儼然として皇とするのは、周が王季を王とし文王を王としたのと同じだ。湯が商癸を王とせず、周が王季を王とし、光武が南頓を王とせず、世宗が興献を王としたのは、事を踵いで華を増し、礼が義から起こる、孝子の至りである。
  • 疑わしいとされたのは、興献を考とすれば孝宗が無きに帰する疑い、興献を皇とすれば武宗の上に躋らせる疑いであった。几に凭れて息を引き取り、迎えて入継させたのに、世宗を得てその嗣を延ばすどころか、かえって興献を召して統を乱すことになる——挙朝が沸騰し百官が号泣したのはこのためだ。
  • しかし太廟は統を承ける地であり、皇と称しても廟に入れなければ別がある。宗と称するのは統を継ぐ名であり、皇と称しても宗としなければやはり異なる。懿文太子も康皇帝とされ、英宗は郕王を斥けながらもなお景泰帝と称した。廟に入れなければ地が逼らず、宗と称さなければ名が嫌われない。親が近ければ尊び、親が尽きれば祧する。遥授の官や追贈の号のように、罔極の私情を曲げて体しつつ、朝廷の名器には関わらせない——それでよかったのだ。ところが世宗は天子として尊ばれながら父を王とせずにおくことを強い、興献は天子の父でありながらその子と臣を共にすることを強いられた。これは議礼の諸臣の過ちである。
  • また観徳殿で足りるはずが太廟に近づけて門を同じくしようとし、献皇帝で足りるはずが興献の号を削って徽号を加えようとし、太后を世廟に見えさせ、献皇の実録を著した。礼経に照らして折衷すれば、やはり倫を欠く。興国皇太后の聖旦には宴と下賜が加わり、昭聖皇太后の千秋にはにわかに朝賀免除が伝えられた。伝えるところが乖き異なり、存する者も歿した者も心を傷めた。結局、宗を加えず廟に入れず、徽称を減じ改葬を止めた点では、張璁・桂萼にも存統の功があったといえる。
  • 楊廷和らが闕に伏して号呼したのは、衣を牽き檻を折った古人の諫めより甚だしく、世宗の威を疾くして杖し戍らせたのは、ついに元祐の党人と同じ仕儀となった。大礼は成らぬうちに大獄が起こり、君臣ともに失した。君子はこれを譏る。しかも楊廷和は身後まで罰され、楊慎は謫所で死んだ。宋の濮議の諸臣がまもなく賜還を蒙ったのに比べ、興国の獄には金鶏の赦がなかった。これは世宗に同類を恵む仁が乏しく、張璁・桂萼らにも寛容の量がなかったということだ。
  • さらに豊坊が唱え厳嵩が和して、父を厳ぶの説から睿宗の号が興り、孝宗を進めては通宮の疑いを招き、武宗との間では新鬼を上に躋らせる嫌いを生んだ。明察をもって始まりながら禰を豊かにして終わったのである。思うに豊坊はまさに劉子政に対する劉歆であり、分宜(厳嵩)は実に議礼における李林甫であった。善く作る者が必ずしも善く成すとは限らない。惜しいことに、張孚敬にこれを見せられなかった。