明史紀事本末世宗、道教を崇める(世宗崇道教)
明の世宗(嘉靖帝)が道教にのめり込み、斎醮と丹薬に国政を傾けた四十五年間を、嘉靖元年(1522年)から四十五年(1566年)の崩御までにわたって扱う。即位当初は妖僧の斉瑞竹を処分し京師の淫祠を取り壊したが、まもなく太監の崔文の誘いで宮中に醮を建てるようになり、道士の邵元節を致一真人として礼部尚書まで加え、その死後は陶仲文を秉一真人・少師に進めて三孤を兼ねさせた。段朝用の黄白の術や王金・胡大順らの偽造した瑞徴・仙方が相次いで献じられ、世宗は西内に籠もって玄修に専念し、厳嵩の専権を招いた。楊最・楊爵・海瑞らが諫めていずれも詔獄に下されたが、遺詔では長生を過度に求めて奸人に惑わされたと自ら悔い、穆宗が即位すると海瑞は釈され、王金・陶倣らは死罪に論ぜられた。
年表(15件)
- 嘉靖元年(即位当初の淫祠取り締まり)1522年妖僧の斉瑞竹を処分し京師の淫祠を壊すが、やがて寺観を興し始める
- 嘉靖二年(斎醮の濫行と諫止)1523年太監の崔文が禱祀で世宗を誘い、鄭一鵬の諫言で斎祀が一時停まる
- 嘉靖五年〜十一年(1526〜)(真人の任命と祈嗣の醮)1532年邵元節を真人とし欽安殿に祈嗣の醮を建て、諫めた楊名を辺境に謫す
- 嘉靖十三年〜十四年(1534〜)1535年大興隆寺が焼け、夏言の覆奏で僧録司を移し還俗を許す
- 嘉靖十五年(邵元節の栄達と仏殿の撤去)1536年皇嗣誕生の功で邵元節に礼部尚書を加え、禁中の仏殿を除く
- 嘉靖十七年〜十八年(1538〜)(張彦頨と邵元節の死、陶仲文の登場)1539年邵元節が死に陶仲文が代わって高士となり、諫めた楊最が獄死する
- 嘉靖十九年〜二十年(1540〜)(段朝用・陶仲文と楊爵の諫)1541年段朝用が黄白の術で寵を得、陶仲文が真人となり、諫めた楊爵が詔獄に下る
- 嘉靖二十二年〜二十四年(1543〜)1545年段朝用が死罪に論ぜられ、宮婢の楊金英らの弑逆が誅に伏す
- 嘉靖二十五年〜三十一年(1546〜)(陶仲文の封爵と鎮虜法壇)1552年陶仲文が恭誠伯に封ぜられ、鎮虜法壇の霊験を信じていよいよ敬い事える
- 嘉靖三十三年〜三十五年(1554〜)(玄文の撰進と徽王の廃)1556年諸臣に西内で玄文を撰させ、徽王の載埨を廃して自らに道号を上る
- 嘉靖三十六年〜三十九年(1557〜)(瑞祥の献上と陶仲文の死)1560年胡宗憲らが紫芝・白鹿を競って献じ、秉一真人の陶仲文が死ぬ
- 嘉靖四十年〜四十一年(1561〜)(仙術の探索と厳嵩の失脚)1562年御史を分遣して仙術を訪ね求め、藍道行の箕の言を機に厳嵩が免ぜられる
- 嘉靖四十二年〜四十三年(1563〜)1564年厳嵩が祈鶴の文検を上り、妖人の李応乾らが誅に伏す
- 嘉靖四十四年(丹薬の害と海瑞の直諫)1565年王金らの燥熱な金石の薬で世宗が病み、海瑞が玄修の非を直諫して鎮撫に下る
- 嘉靖四十五年(世宗の崩御と方士の処断)1566年世宗が乾清宮で崩じ、穆宗が海瑞を釈して王金・陶倣らを死罪に論ずる
嘉靖元年(1522年)(即位当初の淫祠取り締まり)
- 春三月、大能仁寺の妖僧・斉瑞竹の財資と玄明宮の仏像を没収して簿録し、仏像を毀って金屑一千余を掻き取り、ことごとく商人に給して旧債の償いに充てた。斉瑞竹は正徳年間に玉璽の書と金印を賜り、下賜は数え切れぬほどだったが、このとき工部侍郎の趙璜の言に従って処分された。礼部郎中の屠塤は檄を発して京師の諸淫祠をあまねく調べ、ことごとく取り壊した。
- 七月、世宗は次第に寺観を興して諸教を崇奉するようになった。汪珊が「十漸」を疏で挙げ、その第三に「不経の淫らな寺観を復する議は、当初これを罷めた意に背く」と言った。章は所司に下された。
嘉靖二年(1523年)(斎醮の濫行と諫止)
- 夏四月、暖殿太監の崔文が禱祀をもって世宗を誘い、乾清宮ほか各所に醮を建てて連日連夜絶えなかった。また内監十余人に宮中で経教を習わせ、下賜は計り知れなかった。大学士の楊廷和、九卿の喬宇らは僧道を遠ざけ斎醮を停めるよう疏請し、給事中の周瑯・張嵩・張汝安・張盤らも交々崔文を弾劾して重典に処すよう乞うたが、いずれも返答はなかった。
- 閏四月、斎祀を停めた。給事中の鄭一鵬が上言して言った。臣が光禄を巡って見るに、正徳十六年以来、宮中は常膳のほかに取るところが少なかった。ところが近ごろ禱祀がしきりに興って費用が次第に広がり、乾清・坤寧の諸宮にそれぞれ斎醮を建て、西天厰・西番厰・漢経厰に及び、五花宮・西暖閣・東次閣にまでそれぞれある。連日連夜のこともあれば、隔日に一度、一日に二度ということもある。経筵はみな虚設となって用をなさない。太平の業を傷つけ天下の望みを失うこと、これより甚だしいものはない。
- 臣の思うに、この術を挟む者はみな魏彬・張鋭の余党であろう。かつて先帝を欺いて生民を塗炭に陥れ、海内を虚耗させた。先帝はすでに誤られたのに、陛下がどうして再び誤られてよいものか。すみやかに誅し遠ざけられたい。願わくは西天厰を宝訓厰と改めて祖宗の御製諸書を貯え、西番厰を古訓厰と改めて五経・子史の諸書を貯え、漢経厰を聴納厰と改めて諸臣の奏疏を貯え、内臣の謹み畏れる者を選んでその鍵を司らせ、陛下が経筵の暇にその中で遊息されれば、寿はどうして堯舜に及ばず、治はどうして唐虞に及ばぬことがあろうか、と。世宗は「天時が飢饉である。斎祀はしばらく停止せよ」と言った。
嘉靖五年〜十一年(1526〜1532年)(真人の任命と祈嗣の醮)
- 嘉靖五年、道士の邵元節を真人、呉尚礼を左至霊とした。
- 七年春正月、大学士の楊一清らが「宮寝の中は天を祀る所ではない。毎日拝祝されるのは労であり、また褻れであろう。已められたい」と言った。返答があったのみだった。
- 十年十一月、行人を遣わして大学士の張孚敬を朝に召し還し、欽安殿に祈嗣の醮を建て、礼部尚書の夏言を醮壇監礼使、侍郎の湛若水・顧鼎臣を迎嗣導引官に充てた。文武大臣が日を替わって進香し、世宗は初日と最終日の二日の礼を自ら行った。
- 十一年冬十月、編修の楊名が修省の疏を上って汪鋐・郭勲の奸を斥け、土木の工事と禱祀を罷めるよう乞うた。世宗は怒って捕らえ、械をつけて訊問した。楊名は瀕死に至り、辺境の戍に謫された。
嘉靖十三年〜十四年(1534〜1535年)
- 十三年五月、世宗は重華殿に御して大学士の張孚敬、武定侯の郭勲ら五人を召し入れ、祀天の青爵を観覧させて、「紀楽同遊」の詩を作った。
- 十四年夏四月、大興隆寺が焼けた。御史の諸演が天心に順って異端を絶つよう請うと、礼部尚書の夏言に勅して覆奏させ、僧録司を大隆善寺に移し、僧徒で還俗を望む者は許した。併せて姚広孝の神位も移した。姚広孝の神位は、世宗が祀典を改定して太廟の配享を撤し、興隆寺に移していたものである。
嘉靖十五年(1536年)(邵元節の栄達と仏殿の撤去)
- 春正月、致一真人の邵元節に道号を加え、玉帯と冠服を賜った。邵元節は興安の人で、仙源の范文泰が見て奇とし、竜図亀範の秘法を授けた。嘉靖の初め召されて入京し、便殿で召対を受け、まず真教主静の説を進めて世宗に嘉納された。やがて雪を祷ってたちまち験があったので、致一真人として金籙の醮事を領させ、玉・金・銀の印を各一つ与えた。
- 世宗が南郊で事を行ったとき、邵元節を召して風・雷・霊・雨の壇に分献させ、頂に奉天殿の班二品を置き、併せてその師も真人に封じた。勅して真人府を都城の西に建て、落成すると夏言に記を作らせて庭に刻ませた。歳ごとに禄百石を給し、緹騎四十人を遣わして掃除の役に充て、田三十頃を贈ってその租と徭役を免じた。このとき寵待はいよいよ隆くなった。
- 夏四月、紅玉・黄玉を求めて神を礼するよう詔した。
- 十月、禁中の仏殿を除き、慈慶宮・慈寧宮を建てた。当時、世宗は釈殿を除こうとして武定侯の郭勲、大学士の李時、礼部尚書の夏言を召して視察させた。大善殿には金で鋳た神鬼の淫褻の像があり、また金函・玉匣に仏首・仏牙の類を蔵し、支離した傀儡と併せて総じて一万三千余斤あった。夏言は退いて疏を上り、野中に埋めて宮禁を瀆さぬようにと力請した。
- 世宗は「朕が思うに、この類は智者は邪穢として見ようとせぬが、愚民は無知ゆえ必ず奇異として奉ずるだろう。野中に埋めても必ず盗み出して民を惑わす者が出る。往来の路で焼いて永く除け」と言った。こうして禁中の邪穢はほぼ払い尽くされた。
- 十一月、立極殿で金籙の醮を七日七夜にわたって大いに修し、儲祥に謝した。大臣を上香監礼使・迎嗣引導使などに充てたのは旧のとおりである。
- 十二月、皇嗣の誕生により、致一真人の邵元節に禱祀の功を録して礼部尚書を加授し、一品の服と俸を給し、白金・文綺・宝冠・法服・貂裘を賜り、その徒の邵啓南らにも差をつけて禄秩を授けた。先に世宗は中使に命じて貴渓の山中に仙源宮を建てさせ、成ると邵元節はしばらく山に還ることを乞うた。まもなく世宗は錦衣千戸の孫経を遣わして起用を促し、舟が潞河に至ると中使に迎え入れさせ、彩蟒衣と「闡教輔国」の玉印を賜った。当時、世宗が祈嗣のために醮を設けると、朝夕に雲気が圻壇の上に現れたので大いに悦び、三日後に皇子が生まれたので、この命があったのである。
嘉靖十七年〜十八年(1538〜1539年)(張彦頨と邵元節の死、陶仲文の登場)
- 十七年、内の皇壇で金籙の大斎を建てるよう命じた。白鶴が壇をめぐり、卿雲が日を捧げたので、天師の張彦頨に賞賜を加えた。嘉靖の初め、張彦頨が入って賀したとき、世宗は清心寡欲の道を問い、その答えによって正一嗣教真人に加封し、金冠・玉帯・蟒衣・銀幣を賜って京邸に留めた。やがて山に還ることを請うと、世宗は行人に詔を持たせて召し、卿と称して名を呼ばなかった。その邸宅が焼けると修理させた。給事中の黄臣は「昔、欒巴や郭憲は酒を噴いて火を止めた。張彦頨の邸宅が焼けたのに、陛下はどうしてこれを修理される必要があろうか」と諫めたが、世宗は従わなかった。張彦頨はまもなく卒し、列侯の例にならって恤典を賜るよう詔した。「天師永緒」は世宗が名づけたものである。
- 十八年八月、致一真人の邵元節が死んだ。当時、世宗は顕陵を親しく視ており、邵元節は京師に留まっていた。ある日、朝起きて弟子を召し「私はまもなく逝くだろう。どうにかして行在に走り、一度皇帝にお目にかかりたい」と語り、言い終わらぬうちに卒した。裕州に駐蹕していた世宗は聞いて慟き、手詔で行在の礼部に勅して贈諡し、中官と錦衣に喪を護らせ、喪が還ると有司に勅して葬らせ、恤典は伯爵の例にならった。
- 方士の陶典真を神霄保国宣教高士とした。陶典真は一名を仲文といい、黄岡の人である。若くして県の掾となり、神仙方術を好み、かつて羅田の万玉山で符術を授かった。邵元節も微賤のころ陶仲文の家に往来していた。嘉靖の初め、陶仲文は遼東庫大使を授かり、任期満ちて京師に至った。当時、邵元節は貴幸だったがすでに老い、致仕を請おうとしていたが機会がなかった。折しも宮中に黒眚が現れ、邵元節が治めても験がなかったので、陶仲文を推薦して自分に代わらせた。宮中で試すとやや妖を絶つことができ、世宗は寵遇して異とした。
- このとき陶仲文は駕に扈従して南巡し、衛輝に至ると白昼に旋風が駕をめぐって散らなかった。世宗が問うと、陶仲文は「火があるはずです」と答え、禳わせようとすると「火はついに免れません。ただ聖躬を謹んでお護りください」と言った。この夜、行宮は果たして焼け、宮中の死者は数え切れなかった。錦衣の陸炳が扉を押し破って入り、世宗を背負って出したので無事だった。翌日、行在の吏部に勅して陶仲文にこの職を授け、誥と印を給し、その家族を官舎に携えることを許した。
- 九月、世宗は輔臣に「朕は東宮に監国させ、朕は一、二年静かに養生してから親政したい」と諭した。太僕卿の楊最が上言して言った。聖諭がここに至ったのは、方士の調摂を信じられたにすぎない。堯舜は性のままに、湯武は身をもって行った。修養で仙になれると知らなかったのではなく、得がたいからである。得がたいから学ばなかったのだ。堯舜の世に仙人がなく、堯舜の智が学ぶことを知らなかったとでもいうのか。孔子は老子を竜のようだと言った。すなわち仙である。孔子は老子が仙であることを知らなかったのではなく、学べないと知っていたのだ。学べないのなら、どうして得やすかろう。
- 臣は皇上の諭を聞いて、初めは驚き駭き、次いで感じて悲しんだ。犬馬の誠として願うのは、ただ端拱穆清として恭黙のうちに道を思い、声色に近づかず元陽を保ち復されることである。そうすれば仙を期せずして自ら仙、寿を期せずして自ら寿となる。黄白の術や金丹の薬はみな元気を傷つけるに足るもので、信じてはならない、と。世宗は読んで大いに怒り、鎮撫司に逮捕して拷訊させ、久しくして獄中で死なせた。
嘉靖十九年〜二十年(1540〜1541年)(段朝用・陶仲文と楊爵の諫)
- 十九年春正月、世宗は病んで朝せず、玄極殿で天を拝した。二月、宮に祈禳を建てること三日。八月の万寿聖節には三昼夜の醮を建て、玄極殿で天に告げた。
- 郭勲が方士の段朝用を引き合わせ、「物を金銀に化することができます」と言って、化した銀器を進めた。世宗は大いに悦び「まさに天授であろう」と言って、段朝用に紫府宣忠高士を授け、その器を太廟に薦め、郭勲に禄米百石を加えた。
- 十一月、陶仲文を忠孝秉一真人に進めて道教の事を領させ、まもなく少保・礼部尚書を加え、さらに少傅を加えて一品の俸を食ませた。
- 二十年春正月、御史の楊爵を逮捕して詔獄に下した。楊爵は上言して言った。人に君たる者は天を奉じ民を安んじ、それぞれその所を得させるものである。いま飢民は顛連して訴えるところなく、命を溝壑に委ねているのに、土木の工事は十年やんでいない。さらに部臣に重ねて委ねて遠く雷壇を建てさせ、一方士のために民の膏血を絞っている。民はどうしてその所を得られよう。
- 左道を執って衆を惑わす者は聖主が必ず誅するところだが、いま異言・異服の者が廷苑に列し、金紫・赤紱の賞が方術に及んでいる。保傅の位は坐して道を論ずるもので、天下の選を極めた者でなければ当たれぬ貴い地位なのに、これを迂怪の徒に与えている。名器の濫は極まった。
- 陛下は天縦の聖として上天の元子であられる。遠くは帝道を宗とし近くは祖法を守られれば、和気は祥を致して天災はなく、山川鬼神も安んじないことはない。どうしてこの邪佞の術を法禁の地に列し、これに藉って福としようとされるのか。
- 古人に「君が聖なれば臣は直し」という言がある。もし天威をもって震わし危禍を加えられれば――往年、楊最が言を出して身は即座に死に、近くは羅洪先らが言によって罷黜された。国体と治道の損なわれるところは実に多い。臣は、忠藎の者が口を閉ざせば讒諛が代わって進み、安危休戚を知る手立てがなくなり、堂と陛の近さが万里より遠くなることを恐れる、と。疏が入ると世宗は大いに怒り、鎮撫司に長く繋がせた。
嘉靖二十二年〜二十四年(1543〜1545年)
- 二十二年春二月、段朝用が下獄して死罪に論ぜられた。初め段朝用は黄白の術で郭勲に取り入って出世を求めたが、久しくして技が尽きた。郭勲が罪を得て獄に繋がれると、段朝用は脅して賄賂を索め、郭勲の家の下働きを撲殺した。張瀾がさらに疏を上って冒瀆する奏をしたので、世宗は怒って法司に送り、死罪に論じた。
- 宮婢の楊金英らが弑逆を謀って誅に伏した。世宗は「朕が天地の鴻恩に頼って宮変を遏め除かなかったら、どうして今日があろう」と言った。世宗は朝起きて朝天宮に醮した。七日の醮の日、白鶴四十余羽が空中を翔ったので群臣が賀した。
- 二十三年冬十月、大同の辺卒が叛人の王三を捕らえた。世宗は「叛悪が擒にされたのは、もとより義勇の効ではあるが、実は神鬼が黙って戮したのである」と言い、秉一真人・礼部尚書の陶仲文に少師を加え、他は旧のままとした。これ以前、大臣で陶仲文のように三孤を兼総した者はなかった。
- 二十四年三月、朝天宮に祈年の醮を建てた。
- 秋八月、永和王の知燠が白鹿を献じて上寿したので、鹿の瑞を太廟に告げた。このとき世宗は箕仙を重んじており、箕の下る言に従って有司にも骸骨を覆い埋めさせ、故御史の楊爵、給事中の周怡、工部郎中の劉魁を詔獄から出した。いずれも箕の言に従ったのである。楊爵・周怡・劉魁が出て三日、吏部尚書の熊浹が箕仙を諫め止めると、再び旧のように逮えて獄に下した。熊浹は辞職を乞い、錦衣衛に校尉を遣わさせて原籍に送り、民とした。
嘉靖二十五年〜三十一年(1546〜1552年)(陶仲文の封爵と鎮虜法壇)
- 二十五年秋七月、久雨があった。世宗は「鹿の瑞と亀の祥がしきりに現れ、去年と今年、朕の辰日には醴泉がまた出た。聖賢といえどもこれを恃んで怠るものではないが、敬い謝さないわけにいかない」と言い、二十五日から八月十五日まで謝の礼を挙げ、封貢の事を停め、慢らせぬようにした。
- 八月、陶仲文に伯爵を加封した。陶仲文は特進光禄大夫・柱国を加え、兼ねて大学士の俸を支給され、子一人を尚宝司丞に任じた。
- 二十九年夏四月、陶仲文を恭誠伯に加封した。先に春に雨が降らず、世宗が陶仲文に問うと「冤獄があるのではないでしょうか」と答えた。当時、楊武知県の王濂が罪により絞に坐せられ、その子の王策が京師に走って、巡撫の胡纉宗が私怨から故意に罪に陥れたと訴えていた。胡纉宗の迎駕の詩に「穆王の八駿 飛雲殿、湘竹の英皇 涙磨せず」の句があるのを詛呪だと述べ、世宗は怒って逮訊させたが久しく決しなかった。このとき陶仲文の言によって釈された。その夜、四鼓に大雨が降り、翌日、旨を伝えて陶仲文を封じ、誥と歳禄一千二百石を賜った。
- 三十年夏五月、鎮虜法壇に再び事えた。先に世宗は陶仲文の請に従って符鎮虜法壇を設立し、厳かにこれに事えて「虜の魄を褫い、我が辺圉を窺わせぬように」と言っていた。このとき世宗は馬市が成って諳達が塞に款じたので撤去しようとしたが、たちまち虜に異謀ありとの報が届いた。世宗は群臣に「朕は十九日に鎮虜法壇を撤そうとしたが、二十日には警報があった。玄威の至るところ、忘れてはならぬ」と諭し、いよいよ敬い事えた。
- 冬十月、辺吏が叛人の哈舟児・陳通事を捕らえた。礼部が「二逆が擒にされたのは実に玄貺の至るところによる。雷霆洪応壇に告げ謝し、献俘の礼を行うべきだ」と上言し、容れられた。
- 三十一年二月、太上道君の誕辰に永寿宮で醮を建てること九日。三月、太和山の玄帝宮の修築を詔した。
嘉靖三十三年〜三十五年(1554〜1556年)(玄文の撰進と徽王の廃)
- 三十三年秋七月、駙馬都尉の鄔景和、安平伯の方承裕、吏部尚書の李黙、礼部尚書の王用賓、左都督の陸炳、吏部左侍郎の程文徳、礼部左侍郎の閔如霖、吏部右侍郎の郭朴・呉山に命じて、そろって西内に直して玄文を撰させた。鄔景和は玄理に通じていないとして辞免した。まもなく金幣を玄修の諸臣に賜ったとき、なお鄔景和にも及んだ。鄔景和は自ら疏して功がないと辞し、「心を洗い慮りを滌めて、馬革に屍を裹む報いを効したい」と願った。世宗は怒って「景和はことさら不祥の語を出した。怨訕の律に擬すべきだ」と言い、爵を革めて崑山に安置した。当時、諸臣は玄文の撰進を覬っていたが、鄔景和だけは直に賛ずるのを潔しとしなかったのである。
- 夏四月、高玄の祀を挙げて大いに興し、封を止め刑を停めた。工部尚書の趙文華が帰郷を乞い、病と称して請うた。世宗はちょうど玄修に励んでおり、奏疏では特に病を言うのを忌んでいた。疏が入って世宗の怒りに触れ、罷めさせられた。
- 三十五年夏四月丁巳、翰林院侍読の厳訥、修撰の李春芳をともに翰林学士とし、右春坊右中允の董份とともに西内に直して玄文を撰させた。これ以来、詞臣の多くが本職を捨て、往々にして供奉に就いて登用を望むようになった。
- 九月、徽王の載埨を廃して庶人とした。徽王は上意をよく伺い、宮中に入用があると必ず先んじて献じた。道を修める者に南陽の梁高輔がおり、年八十余、手の爪が数寸伸び、導引に長けていた。徽王は厚遇して世宗に進め、世宗は散人に拝した。梁高輔は謹み深く、賜与はみな辞退した。徽王が人を遣わして謝礼を求めても応じられなかった。徽王はもともと女癸を煉って服用しており、世宗もこれを求めた。梁高輔が馳せて求めても徽王は与えず、しかも徽王は勝手気ままに土木を興し、張世徳と詐称して自ら南京に走って美女を買い求めた。事が聞こえて爵を奪われ、鳳陽に幽された。徽王はこれを聞いて自殺した。
- この年、世宗は睿皇帝に「三天金闕無上玉堂都仙法主玄元道徳哲慧聖尊開真仁化大帝」の道号を上り、献皇后に「三天金闕無上玉堂総仙法主玄元道徳哲慧聖母天后」、孝烈皇后に「九天金闕玉堂輔聖天后掌仙妙化元君」の号を上った。世宗自らは「霊霄上清統雷元陽妙一飛玄真君」と号し、後に「九天弘教普済生霊掌陰陽功過大道思仁紫極仙翁一陽真人元虚玄応開化伏魔忠孝帝君」と加号し、さらに「太上大羅天仙紫極長生聖智昭霊統三元証応玉虚総掌五雷大真人玄都境万寿帝君」と号を改めた。
嘉靖三十六年〜三十九年(1557〜1560年)(瑞祥の献上と陶仲文の死)
- 三十六年冬十月、玄嶽の諸山が紫芝を献じた。ついで総督の胡宗憲、巡撫の阮鶚、御史の路楷らが相次いで献じ、数え切れなかった。
- 三十七年夏四月、総督の胡宗憲が白鹿を献じ、五月にはまた斉雲山で白鹿を献じた。世宗は「一年に二つの瑞は天の眷である」と言い、玄極殿と太廟に告げ謝させ、胡宗憲の忠敬をもって一級を陞し、百官が表を上って賀した。
- 秋七月、礼部が四方から献じられた芝を類別して進めたが、総じて千八百六十四本に上った。詔してさらに径一尺以上のものを求めさせた。
- 三十八年六月、陶世恩を太常寺丞とした。陶世恩は蔭によって尚宝少卿を歴たが、言官に列挙されて官を奪われていた。このとき陶仲文が子の原職への復帰を乞い、世宗は太常寺丞兼道録司右演法に改めるよう命じた。このころ陶仲文が休暇を請うて郷里に還ると、世宗は璽書を下して褒め諭し、錦衣千戸一人を遣わして護送させ、なお白金と彩繒を賜って眷懐を示し、有司に歳時の見舞いをさせた。
- 三十九年二月、浙江総督の胡宗憲が汪直を獄に下した旨を上った。世宗は「玄祐である」と言って玄極殿に告げさせ、胡宗憲の功を差をつけて論じた。まもなく胡宗憲が芝草五本と白亀二匹を献じたので、世宗は悦んで金帛・金彩・鶴衣一襲を賜った。礼部が玄に謝し廟に告げるよう請い、許された。数日せずに白亀が死ぬと、世宗は「天が霊物を降されたのだ。朕はもとより塵寰に処すること長くはあるまいと疑っていた」と言った。
- 十一月、秉一真人の陶仲文が死んだ。陶仲文は祈禳の術を習って寵幸を得、坐を賜って「師」と称された。しかし小心で世宗の威厳を憚り、ほかに干請するところはなかった。爵は五等に列し、死んで栄康恵粛と諡され、伯の礼で葬られた。隆慶の初め、爵を奪われ家を籍没された。
嘉靖四十年〜四十一年(1561〜1562年)(仙術の探索と厳嵩の失脚)
- 四十年二月、御史の王大任・姜儆・奚鳳らを分けて遣わし、天下に仙術・異人および符篆・秘方の諸書を訪ね求めさせた。
- 十一月、礼部が四方から進められた芝は総じて七百六十九本と奏した。五色で一尺に満ちるものを採るよう命じた。淮王が白雁二羽を献じ、金幣を賜った。世宗は「天が祥羽を降された。廟に告げよ」と言った。
- 四十一年三月、万寿宮が成った。宮は四十年十一月に焼けたが、三月と経たずに落成した。宮中には寿源・万春・太玄・仙禧の諸殿があってきわめて宏麗だった。世宗は悦んで大学士の徐階らに差をつけて秩を加えた。
- 夏四月癸酉、方士で鄠県の王金が五色の亀と霊芝を進め、太医院御医を授けられた。成国公の朱希忠に命じて廟に告げさせ、表を上って賀した。
- 壬寅、大学士の厳嵩が免ぜられた。初め方士の藍道行が箕によって寵幸を得ていた。世宗は問うところがあると密封して中官に箕の所へ持たせて焼かせたが、答えられないと中官が穢れていると咎めた。中官はそこで方士と示し合わせ、開いて示してから焼くようにしたので、答えは毎回旨のとおりになった。
- 世宗が「いま天下はなぜ治まらないのか」と問うと、「賢者が用い尽くされず、不肖の者が退けられていないだけです」と答えた。その賢否を問うと、「賢者は徐階・楊博のごとく、不肖は厳嵩のごとし」と答えた。世宗は心を動かし、折しも御史の鄒応竜が厳嵩を弾劾した。世宗は「人が厳嵩を憎んで久しい。朕はその玄を賛け寿を君したのをもって特に優遇してきたのに、逆子を放縦にして朕に背いた。致仕させよ」と言った。
- まもなく世宗は厳嵩の玄を賛けた功を思い、鬱々として楽しまず、徐階に位を伝えて西内に退居し、祈りに導かれて長生を求めたいと諭した。徐階が諫めると、世宗は「必ずみな上命を奉じて玄を闡き仙を修めてこそよい。再び厳嵩のことを言う者があれば、鄒応竜ともども斬る」と言った。厳嵩は世宗の意を知り、ひそかに左右に賄して藍道行が権を恃んだことと玉詔を矯称した不法の事を暴かせ、藍道行はついに妖言の律で死罪に論ぜられた。
- 秋七月、内苑が嘉禾を献じた。一茎三穂のものが一つ、二穂のものが三十一。群臣が賀した。
- 十二月辛酉、甘露が顕陵の松の上に降り、守備太監の張方、奉祀都督僉事の蔣華らが進めた。世宗は悦んで郊廟に告げた。
嘉靖四十二年〜四十三年(1563〜1564年)
- 四十二年夏四月、厳嵩が祈鶴の文検および法秘を上った。厳嵩は罷免されて帰り、南昌に至って道士の藍田玉らを招き、鉄柱宮で世宗のために醮を行った。藍田玉は所蔵の名鶴符・験法書を厳嵩に附して奏し、厳嵩・藍田玉ともに差をつけて賞賜された。
- 秋八月、御苑の亀が卵を産むこと五つ。湖広巡撫都御史の徐南金が白鵲を献じ、景陵から出たと言ったので、群臣が表を上って賀した。
- 四十三年三月、妖人の李応乾らが誅に伏した。李応乾は河南の済源に住み、片目がやや眇み、両手に日月の字を刺青していた。懐州・衛州の間の不逞の者が多く附き従い、ひそかに印章数百、太白旗数十を鋳て徒衆に付して符験とし、四月八日に挙兵しようと約した。当時、山東・宣府・大同・真定・順徳の諸処にも妖人が特に多く、互いに煽り結んでいた。呂某という者は京に潜入し、白社の法で衆を惑わし、ひそかに無頼千余人を結んだ。その一党のうちに、偽の告身二帙と辟穀の薬餌一包みを持って大学士の徐階に首告する者があり、捕らえて取り調べ、実を得て奏聞した。李応乾は山西に隠れていたが、久しくして捕らえられ、ともに誅に伏した。
- 五月乙卯、桃が夜に御幄に降った。左右は空から墜ちたと言った。世宗は喜んで迎恩の典を五日にわたって修めた。丙辰、桃がまた降り、この夜、白兎が二子を生んだ。世宗はいよいよ喜んで玄に謝し廟に告げた。まもなく寿鹿も二子を生んだので群臣が表を上って賀し、世宗は奇祥三つを手詔で答えた。
嘉靖四十四年(1565年)(丹薬の害と海瑞の直諫)
- 春正月、世宗は病んだ。世宗は玄修に意を注いでおり、先に王大任が命を奉じて陝西・湖広で方外の士の王金ら内養の諸薬を合成できる者を招き、姜儆が命を奉じて江西・広東で符法に通じる者を得て復命した。いずれも翰林侍講を授けられた。姜儆は自ら安んじられず郷里に還ることを乞い、王大任はなお朝にあったが翰林に相手にされなかった。
- 世宗は西内で玄を修めていたが、権網は総攬しており、夜分から五鼓まで章奏を覧て決していた。王金らは修錬によって寵幸を得ると、陶仲文の子の世恩とともに恩沢を求め、五色の霊亀・霊芝を偽造して天降の瑞徴とし、また陶倣・劉文彬・申世文・高守中と諸品の仙方・養老新書を偽造して、金石の薬を進御した。その処方は詭秘で判じがたく、性は燥熱で神農本草に載るものではなかった。世宗が服むと少しずつ火が発して癒えなくなった。それでも陶倣は太医院使、陶世恩は太常寺卿、王金は太医院御医、劉文彬は太常寺博士に遷ることができた。
- 三月、方士の熊顕・趙添寿がそれぞれ法書数十冊を進めた。世宗は留め置いて覧ることとし、冠帯と銀幣を賜って還した。趙添寿はさらに法秘を進め、留覧して虚しく祈咒を観ることを乞うた。
- 五月、方士の胡大順・藍田玉らが誅に伏した。初め藍道行という者が方術で世宗に見え、世宗はかなり信じたが、やがて事が敗れて下獄して死んだ。胡大順はもと陶仲文の弟子で、やはり事が敗れて斥けられていたが、再び登用されたいと望み、「万寿金書」一帙を偽造し、呂祖が箕で授けたものと詭称した。黒鉛から白を取ったものを「先天玉粉丸」と名づけ、その一党の何廷玉に持たせて京に至らせた。当時すでに厳世蕃は失脚していたので、資財をもって賄い、藍道行の弟子の藍田玉を通じて内侍の趙楹に渡して献じさせた。
- 世宗が「箕書というなら、箕を扶けた者はどこにいるのか」と言うと、藍田玉らはたちまち世宗が思っておられるのだと言い、羅万象という者とともに旨を詐り伝えて胡大順を京に徴し、名を胡以寧と改めて世宗に薦め、図書および宮を建てる地を求める旨を具奏した。ところが至ってみれば胡大順だったので、世宗は悪んだ。
- 当時、宮中にしばしば氛孽があり、藍田玉らは藍道行が下獄したためにこうなったのだと言い立てて世宗を動かそうとし、世宗はかなり惑って徐階に問うた。徐階は「胡大順は小人で法紀を畏れず、藍田玉はさらに甚だしい。しかも宮の孽は久しいことで、藍道行の下獄によるものではありますまい」と力説し、さらに「藍田玉は厳世蕃の党で、妄りに白鉛を進めた。その意は測りがたい。まして妄りに密旨を伝えたのは罪悪がとりわけ重い」と言った。
- 世宗はそこで胡大順らを捕らえて訊問させた。獄が成っても世宗はなお寛にしようとして再び徐階に問うと、徐階は「聖旨は至って重いものです。詐り伝えるのを許せば、他日、夜半に片紙を出して指揮するようなことがあれば、どうなさいますか」と言った。こうして趙楹も併せて死罪に論ぜられた。
- 八月、御几と褥からそれぞれ薬丸が一つ得られたので、自ら太極殿に謝し宮廟に告げた。
- 冬十月、戸部主事の海瑞が上言して言った。陛下は即位の初年、敬一箴に心をとどめ、冠と履の分を弁じ、孔廟の像を除いて敬聖の祠を立て、元の世祖を国門の外に斥けて埋め、宦官・外戚からことごとくその権を奪われた。天下は忻々として煥然たる更始と称えた。ところが鋭意が久しからずして妄念に牽かれ、誤って長生が得られると思い、一意に玄を修め土木を興作された。二十余年、朝政を視ず、法紀は弛んだ。推広の事例をしばしば行って名器は濫れた。
- 二王が相見えぬので人は父子に薄いと言い、猜疑と誹謗で臣下を戮辱するので人は君臣に薄いと言い、西苑を楽しんで大内に返らぬので人は夫婦に薄いと言う。いま愚民の言に「嘉とは家、靖とは尽きるということだ。民は窮し財は尽きて、余すところがない」という。それなのに内外の臣工は斎を修め醮を建てて相率いて進香し、天桃・天薬に相率いて表を上って賀する。陛下が誤ってこれを為し、群臣が誤ってこれに順っているのだ。
- 臣の愚考では、陛下の誤りは多いが、大端は玄修にある。そもそも玄修は長生を求めるためのものだ。堯・舜・禹・湯・文・武が君たること聖の至りだったが、世を久しくして終わらぬことはできなかった。下って方外の士にも、漢唐宋を歴て今に存する者を見ない。陛下は陶仲文を師事されたが、仲文はすでに死んだ。仲文が長生できなかったのに、陛下だけがどうして求められよう。まして天が仙桃・薬丸を賜ったなどというのは怪妄も甚だしい。
- 臣の聞くところ、伏羲が宇に御して竜馬が河に図を出し、大禹が山に随って神亀が洛に書を出した。天は道を惜しまぬこと日月星辰が昭らかに布き森然と列するごとくである。どうして誣いうるものか。宋の真宗が乾裕山で天書を得たとき、孫奭は「天が何を言うものか。どうして書があろう」と諫めた。桃は採ってこそ得られ、薬は搗いてこそ成る。それが理由なく至るのは、脛があって歩いてきたのか。天が賜ったというなら、手があって授けたのか。それなら玄修に益のないことは知れる。
- 陛下は玄修すること多年、一つも得るところがない。左右の奸人が聖意を揣り迎えて桃を投げ薬を設け、長生をもって欺いているのだ。理としてありえぬことは断じて明らかである。陛下がまことに翻然と悟り悔いて、日ごと旦に朝を視、輔宰・九卿・侍従・言官と天下の利害を講求され、数十年の君道の誤りを洗って身を堯舜禹湯文武の域に置かれ、諸臣にも数十年の君に阿った恥を洗わせて身を皋陶・夔・伊尹・傅説・周公・召公の列に置かせられたい。
- 内は宦官・宮妾、外は蔭恩・叙労に、事なくして官にある者が多い。上は内厨・内庫、下は宝物・貨賄に、事なくして積まれたものが多い。諸臣には必ず陛下のために言う者があろう。諸臣が言い陛下が行われれば、一つの節省で足りる。官の侵漁、将の怯懦、吏の姦についても、諸臣には必ず言う者があろう。諸臣が言い陛下が行われれば、一つの振作で足りる。
- 陛下がこれを為すのは労ではない。民が熙び物が洽って薫じて泰和となるのが、陛下の性中の真の薬である。道が天と通じ、命が我によって立つのが、陛下の性中の真の寿である。この理はあるもので、たちどころに至りうる。それなのに服食の不老の餌を懸念し、軽挙の方をはるかに想い、切々として爵禄を散じ精神を竦てて求め、終身しても得られない。大臣は禄を保って外に諛い、小臣は罪を畏れて面前で順う。君道が正しからず臣職が明らかでない。これこそ天下第一の事である、と。疏が上ると世宗は大いに怒り、海瑞を逮捕して鎮撫に下すよう命じた。
- 交城王の表相が藐姑射山で白兎を得、頌を撰して献じ、金袞を賜った。
嘉靖四十五年(1566年)(世宗の崩御と方士の処断)
- 春正月、世宗は久しく病んで癒えず、大学士の徐階に、承天に幸して顕陵を拝し、薬を取って気を服したいと諭したが、徐階が奏して止めた。
- この年の冬、世宗は乾清宮で崩じた。詔に言う。朕は宗廟を奉ずること四十五年、国を享けること長久で累朝にないことだった。一念惓々として、ただ天を敬い民に勤めることを務めとしてきた。ただ病が多かったために長生を過度に求め、ついに奸人の惑わすところとなった。今より以後、建言によって罪を得た諸臣は、存する者は召し用い、歿した者は恤み録し、いま監に在る者はただちに釈して職に復せ、と。
- 穆宗が践阼すると、戸部主事の海瑞を獄中から釈し、方士の王金・陶倣・申世恩・劉文彬・高守中・陶世恩を逮えて詔獄に下し、死罪に論じた。
史論(谷応泰曰)
- 宋臣の李沆は「人主は四方の艱難を知るべきだ。さもなくば土木と禱祠が次々と並び起こる」と言い、伊尹が太甲を訓えても「酣歌恒舞、これを巫風という」と言った。いずれも豊かで大なる時の良規であり、嗣王の炯戒である。
- 世宗は藩服から起こって入り大統を継いだ。累葉の昇平で兵革は衰え息んでいた。富貴は自分にはすでに極まっており、知らないのは寿だけだ——そう思ったからこそ、寿考によって長生を慕い、長生によって天翔ることを冀い、箕疇に福を備えながら心を方外に馳せたのである。初政を考えるとすでに斎宮を設け、末年に至ってなお丹薬を餌んだ。遊仙の志が久しいほど篤くなること、これほど甚だしい例はない。
- 前星がまだ耀かず、玄鳥がまさに来て、瑶筐が祥を誕し、高禖に応があったとき、世宗はこれを信じて欣然と、天神を降しうると思った。そこで道士の邵元節を致一真人とし、金銀の印を与え、南郊に陪祀させ、風雨霊壇を職掌させ、秘籙を司らせた。しかも神に紅玉を祠り、詔使を分けて諮い、天の青爵を享け、召して重華に視せた。黄帝が五城に憑って神人を授かり、漢の武帝が文成を寵して方士を延いたのに劣らぬとはいえ、過ちとまではいえまい。
- 続いて真人の張彦頨を召して金籙の大斎を設けさせると、白鶴が庭に降り、卿雲が日を捧げた。天を去ること五尺、ほとんど呼吸も通じるかのようだった。しかし邵元節は身死して玉棺は来らず、張彦頨は邸宅が焼けて酒を噴いても消せなかった。それでも世宗の意はなお真人に遇うことを冀い、また陶仲文を召して神仙高士に拝した。徐市が去ればさらに盧生を用い、混康の後にはまた霊素を徴す。蓬莱の想いはいよいよ殷んになり、祈年の観はいよいよ麗しくなった。
- 旋風が四たびめぐれば行宮は果たして焼け、疑獄が平らぐや春の霖雨がたちまち降る。白鹿一双が浙地から献じられ、紫芝千本が荊州から貢される。さらに雲気が祈壇に降り、綏桃が御幄に来る。建章宮の芝房・露掌、玉津園の幡節・楼台に比べても、今をもって古に準じれば史書に書き尽くせぬほどだ。世宗がこれに甘心したのも無理はない。
- その後、段朝用は下獄して戮せられ、胡大順・藍田玉らも次々に誅に伏したが、少翁の牛腹が疑いを招き、辛平の玉杯が譴めを得たのと変わらぬ程度である。仲文の死後もなお異人を訪ね、羈縻して絶やさなかった。ここに至るとは。
- さらに駭くべきは、世宗が清虚に道を学んで万機を御さず、奸臣の厳嵩が権を擅にすること二十余年に及んだことだ。二世が深宮に居て趙高が国を柄り、徽宗が道君と称して蔡京が政を専らにしたように、陰かに蠱惑が行われた。それは責めるまでもない。だが周瑯・鄭一鵬らが前に諫め、楊爵・海瑞らが後に争ったのに対し、永嘉(張孚敬)は再び相となって同遊の詩を撰し、貴渓(夏言)は典礼を掌って壇の監醮に充てられた。王旦が祥符に附会し、寇準が乾祐に阿ったように、国の大臣がこうも汚れてよいものか。
- しかも世宗は初めの御世に仏像の金を括り毀ち、仏骨を焼き除いて、海内は喁々として聖学を聞けると思った。それが仏には黜け、道には崇めるとは。崔伯深は胡神に事えぬと言いながら天師を奉じ、孔祭酒は仏法を詆り訶りながら心を道党に寄せた。長短を較べれば、二氏のいずれを択ぶというのか。
- 結局、金石は燥烈で、鼎湖にはすでに竜が昇り、王金・陶倣は死に論ぜられ、雲中には鶏犬に事欠かなかった。語に「服食して神仙を求め、多く薬に誤らる」といい、また「君これをもって始まらば、必ずこれをもって終わる」という。ああ、慨嘆すべきことである。