明史紀事本末江彬の奸佞(銭寧を付す)(江彬奸佞(銭寧を附す))

武宗正徳七年(1512年)から正徳十六年(1521年)までの、辺将江彬と錦衣衛の銭寧による専恣とその末路を扱う。李東陽らの反対を押し切って辺兵が京師に入れられ、大同游撃の江彬は銭寧の手引きで豹房に入って寵を得、許泰・劉暉とともに「外四家」と呼ばれて朱姓を賜った。江彬は帝を居庸関の外へ、宣府・大同・楡林へと連れ出し、さらに南巡を促したため、舒芬・黄鞏ら百余人が諫争して廷杖され陸震・劉校ら十余人が杖下に死んだ。寧王宸濠の叛では宸濠を庇った銭寧が獄に下され、帝の南京滞在中は喬宇や梁儲が江彬を抑えた。正徳十六年二月に武宗が豹房で崩じると、張太后と楊廷和は喪を秘して江彬を召し入れて捕らえ、磔にして家産を没収し、銭寧もあわせて誅された。

年表(9件)

武宗正徳七年(1512年)冬十月

  • 内旨で辺兵を京師の守備に調発しようとし、大学士の李東陽らおよび府部・科道が力を尽くして諫めたが聞き入れられなかった。
  • 密計を献じた幸臣があり、「京軍は戦陣に習わないので、宣府の官軍を京師の守備に入れ、京軍を辺境の戍に充て、毎年春秋に交替させ、班操の例に倣うべきだ」と言った。帝は司礼監の谷大用を内閣に遣わして議させた。李東陽は不可と強く主張したが、谷大用は「上には先に入った言があって覆せない。ひとまず試して再議を待とう」と言った。李東陽は「私どもの職は論思にある。今日、曲げて従えば後患がある。百度死んでも贖えない」と述べ、上疏した。
  • 上疏の要旨——「宣府は京師の北門で漠北に接し、朝廷は重兵を屯して地を分けて防守させてもなお足りぬのを恐れる。毎年、河南などの辺軍が輪番で備禦している。近ごろ流盗が猖獗なので官軍を動かして調発したが、これは一時の権宜でやむを得なかったものだ。京軍と官軍にはそれぞれ持ち場があり、故なく動かすのが第一の不便。京軍は辺備に慣れず戦陣に習わず、国威を傷つける恐れがあるのが第二。京軍が京を出れば人の耳目を驚かせ、各地が疑うのが第三。京軍が外にあれば勢いを恃んで淫らを働き、将官が庇って禁じられず、辺方が害を受けても言えないのが第四。辺軍が内にあれば恩を狎れて軍民を見下し官府を蔑ろにし、小さくは怠慢、大きくは違法となり、治めれば堪えられず、放任すればますます制しがたいのが第五。遠く妻子と別れ墳墓を捨て、風俗が合わず糧食も続かないのが第六。糧草のほかに行糧が要り、布花のほかに賞賚が要り、糜費に際限がないのが第七。往来交替で休む日もなく、倉卒の際に変が道中で起こり、厭き疲れて患いが肘腋に生じるのが第八。京営の空虚を示し中国の脆弱を見せるのが第九。西北の諸辺が警報を上げている今、唇歯の地には策応が要る。万一の疎失があれば咎は誰に帰すのかが第十」。
  • 疏が上がった翌日、そのまま内旨が下って実行された。
  • 大同游撃の江彬らを京師に召した。江彬は宣府の人で驍勇かつ狡険。宣府副総兵の張俊に従って山東の流賊を征したが、良民を殺掠して賞を得たばかりだった。凱旋して入京すると銭寧に賄賂して豹房に引き入れられて帝に謁見し、帝は喜んで側に留め、左都督に昇進させ、国姓を冒して義子とした。江彬は常に帝の前で兵事を説き、遼東・宣府・大同・延綏の四鎮の精兵をすべて京に調発して操練するよう請うた。当時、許泰・劉暉らもみな寵を得て「外四家」と号したが、江彬がとりわけ甚だしかった。辺卒は縦横に驕り、都の人は苦しんだ。
  • 帝はかつて西内で兵を練り、江彬らに兵を率いて入らせて営陣を習わせ、騎射を校し、時に角觝の戯を行った。帝は戎服で臨み、銃砲の音は絶えなかった。禁中の千戸・周麒がこれを叱ったところ、江彬は周麒を陥れて死なせた。以後、左右はみな江彬を畏れた。

正徳八年(1513年)冬十月

  • 銭寧に錦衣衛を掌らせ、朱姓を賜った。銭寧は鎮安の人。太監の銭能が雲南を鎮守していたとき、幼くして銭能の家に売られた。銭能の死後、劉瑾によって帝に謁見し、帝は大いに気に入った。かつて酔って銭寧を枕に臥し、百官は朝を待って夕方になっても帝の起居が分からず、ただ銭寧の様子を窺うほどだった。
  • 銭寧は内では帝に侍し、外では権を招いて賄賂を納れた。諸大臣は訪問が遅れることを恐れ、少しでも意に逆らえば陥れられた。内侍や武臣は挙って重い資財を銭寧に投じて鎮守・総兵の地位を求め、都察院経歴の銭岌に至っては銭寧を父と拝した。密かに廷臣で銭寧に逆らう者を窺って弾劾・排斥した。当時、内臣の張鋭が東厰を掌り、威勢は銭寧と並び、中外は「厰衛」と呼んだ。

正徳九年〜十一年(1514〜1516年)

  • 九年春二月、帝が微行を始め、黄花鎮などに出た。近倖の朱寧(銭寧)・張鋭・張雄らが日々、帝を遊猟と微行に導き、諫めても止められなかった。
  • 十年秋七月、浙江左布政の方永良が朱寧の紙幣売買で民を害していると弾劾したが、返答はなかった。銭寧は貪欲飽くことなく、鈔二万を浙江に送って銀三万余両に換えさせていた。
  • 方永良の上言——「四方の群盗はようやく息んだが傷は癒えず、辺塞に憂いが多く、浙東・浙西は雹害で千里に嘆きの声がある。臣が隠忍して陛下に申し上げなければ、既に徴収した財はすべて朱寧の手に入り民心は傷つく。民心が傷つけば国の本が揺らぐ。陛下はこれを寒心されぬのか。朱寧が寵を得て以来、陛下の賜与は数えきれず、四方からの贈与も莫大で、箱の中にこれくらいはあるはずだ。それでも際限なく苛斂するのは恩に背くこと甚だしい。陛下には偏った愛を割いて詔獄に下し典刑を正され、なお急ぎ浙江巡按監察御史に命じて既に徴収した鈔銀をすべて民に返されたい。民の怨みは慰められ、臣は死んでも本望です。もし臣の言を然りとせず不問に付されて日を重ねれば、尾は大きくなって振れず、必ず軍食を蝕み民に飽くなき求めをなし、尋常では思いも寄らぬ事態が出来しましょう。その時に陛下が悔いても遅い」。
  • 疏が入ると銭寧はかなり恐れ、過ちを下の者に転嫁し、衛卒を遣わして送った鈔を回収して代銀を民に返した。当時、銭寧は寵を恃み威を借りて朝廷は息をひそめていたが、方永良だけが公然と攻めたので恨まれてやまなかった。まもなく方永良は致仕を願い、許された。
  • 十一年春正月、帝が豹房に居て江彬らと起居を共にした。江彬・許泰・劉暉にはみな朱姓を賜った。江彬らは都督の銭寧、中貴の張忠・盧明・秦用・蕭敬、優人の臧賢と表裏して権を擅にし奸を行い、諸司の章疏の多くは阻まれて上がらなかった。しかし諸寵臣はみな江彬の下にあった。江彬は時に帝を宮禁から連れ出して近郊で遊猟させ、群臣が諫めても聞かれなかった。
  • 八月、大学士の楊一清が辞任を上疏した。要旨——「宮と府は体を異にすべきなのに用捨は宜しきを失い、官の帑は空虚で浮費・冗食を革められず、民力は困弊して徴求・苛斂を除けない。讒言が聖聴を惑わし、匹夫が国本を揺るがせる。禁庭には介冑の者が雑じり、京師には藩屏の頼みがない。地震・天鳴・日食・星変・旱魃・水害の報が絶える日もない。恥を忍んで位にあって、何の用があろうか」。疏が入って朱寧の意に逆らい、致仕して帰った。

正徳十二年(1517年)

  • 夏六月、中旨で彭沢の職を革めて民とした。彭沢はハミの経略で土蕃に幣を納れ、かなり国体を失っていた。召し戻されて都察院を掌ってから、言官と朱寧のことを論ずるたび憤って「私はこの賊を手ずから斬れないのが恨みだ」と言った。兵部尚書の王瓊はしばしば彭沢を憾んでおり、これを銭寧に告げて「私が公のために彼を来させる。ご自身で確かめられよ」と言った。彭沢を招いて銭寧を屏風の後ろに匿し、わざと言葉で挑発すると、彭沢はまた大いに罵った。銭寧はこれで深く恨んだ。ここに至って王瓊が「彭沢は擅に土蕃に幣を納れて辺境の釁を開いた」と弾劾し、銭寧が内旨を工作して除名させた。
  • 八月、帝が関を出て遊猟した。江彬らはたびたび帝を宮外に連れ出して近郊で遊ばせていた。江彬は並んで騎乗し鎧兜も見分けがつかぬほどで、しきりに「宣府は楽しい」と言った。ここに至って居庸関を出て宣府に至り、塞下に臨んだ。巡関御史の張欽が上疏して諫めたが返答はなかった。
  • 江彬は帝のために宣府に鎮国府の邸を営み、豹房の珍玩と女御を運び込み、しばしば民家に入ってさらに婦女を求めて進めた。帝は楽しんで帰るのを忘れた。
  • 九月、帝が大同に行幸し、陽和の諸城で狩猟した。帝は時に一頭の馬に乗るだけで、鹵簿も侍従も追いつけなかった。二十七日、狩猟中に雹が降り、死ぬ軍士が出た。その夜、星が墜ちる異変もあった。翌日、駕は大同へ赴いた。北寇の数万騎が陽和を犯して応州を掠め、帝が諸将に撃たせると引き揚げた。
  • 十月、南京吏科給事中の孫懋が上疏した。「都督の江彬は梟雄の資質で憸邪の志を懐き、登用されて以来もっぱら追従に努め非を導いています。遊猟に駆け回り、あるいは声色・貨利、およそ聖心を蠱惑できるものは何でもやります。昨年は陛下を南海子・功徳寺、さらに昌平などへ導き、四方に伝わって人の耳を驚かせました。今また陛下を居庸関の外へ導き、宣府に臨み大同を過ぎ、ついに寇騎が応州に深く入りました。あの日、各鎮の兵が集まらず強寇が続々と来ていたら、土木の轍を踏まなかったとどうして言えましょう。江彬が一日いれば国の安危は測りがたいのです」。返答はなかった。
  • 帝が帰京すると、江彬を平虜伯、許泰を安辺伯に封じた。応州の功に名を借りたものである。
  • 典膳の李恭が還幸を請う疏を作り、江彬の罪を鋭く指弾して、朝賀に擬えて上げた。江彬は聞いて逮捕し、拷問して獄死させた。給事中の石天柱は血を刺して上疏し、御史の葉忠の言はとりわけ深切だったが、いずれも顧みられなかった。

正徳十三年(1518年)

  • 春正月、帝は郊祀を終えるとまた関を出て遊幸した。太皇太后の王氏が崩じてようやく帰京した。
  • 江彬が営卒のために報復し、百戸の朱英を遣わして平谷で人を捕らえさせた。御史の董相が杖のうえ拘禁し、奏聞しようとすると、江彬はすかさず帝に讒言し、董相は徐州判官に降格された。
  • 夏四月、帝は太后の合葬を機に自ら天寿山に赴いて六陵に祭告し、そのまま黄花鎮・密雲などで遊猟した。
  • 六月、寧夏の塞に警報があり、帝はまた北征を議し、自ら「威武大将軍太師鎮国公朱寿」と称して辺境を巡り、江彬を威武副将軍として扈従させることとし、内閣に勅を起草させた。大学士の楊廷和・梁儲・蒋冕・毛紀が力を尽くして諫め、「万一、宗藩の中に祖訓を援いてこれを口実とする者があれば、陛下は何と応じられるのか。あるいは『朝に正臣なく内に奸邪あり』を名目とされれば、陛下の左右と臣らは何と弁明できましょう」と述べたが聞かれなかった。楊廷和は病と称して出仕しなくなった。
  • 帝は左順門に出て梁儲を召し、面前で制の起草を促した。梁儲は「他のことなら順いもしましょうが、この制は断じて起草できません」と答えた。帝は激怒し、剣を抜いて立ち上がり「起草しなければこの剣にかけるぞ」と言った。梁儲は冠を脱いで地に伏し、泣いて諫めた——「臣が命に逆らって罪あるなら死に就きましょう。しかし制を起草すれば臣が君に名を付けることになります。臣は死んでも命を奉じられません」。しばらくして帝は剣を投げて去り、以後は自称するだけで制の起草はさせなくなり、江彬の副将軍も取りやめとなった。
  • 礼部尚書の李遜学らに建儲と居守を廷議させた。当時、銭寧の意は寧藩の世子にあり、江彬の意は別にあった。梁儲は厲声で「皇上は春秋に富んでおられる。建儲は軽々しく言えることではない。万一のことがあれば我らは斧鑕に伏すことになる。邪な謀に従えるものか」と言った。兵部尚書の王瓊、吏部侍郎の王鴻儒も力説して不可とし、議は取り止めとなった。
  • 七月、帝が北巡して居庸関を出た。帝は帰京すると宣府の楽しみを思い出して「家裏(わが家)」と呼んでいた。ここに至って再び宣府を経て大同に至った。大同巡撫都御史の胡瓚が還幸を乞うた。胡瓚は沙漠の地に長居すべきでないこと、扈従の辺将が江彬らの寵を恃んで辺地に大きな害をなしていることを極論し、漢の袁盎が文帝を諫めた例を引いたが、返答はなかった。
  • 十月、帝は偏頭関から河を渡って楡林に行幸した。江彬は金玉・裘・馬を数十万も求め、辺吏に虎豹・犬馬を献じさせた。南京礼部右侍郎の楊廉、兵部尚書の喬宇が上疏して諫止したが返答はなかった。

正徳十四年(1519年)春〜三月(百官の諫争)

  • 二月、帝が楡林から帰京した。
  • 二月、帝は自ら「総督軍務威武大将軍太師鎮国公朱寿」と称し、制を下して南巡することとした。帝は泰山に登り、徐州・揚州を経て南京に至り、蘇州・浙江に臨み、長江・漢水を浮かび、武当を祀り、中原を遍く見ようとしていた。当時、寧王宸濠が久しく異謀を蓄えており、制が下ると人情は騒然とした。
  • 翰林修撰の舒芬らが群臣と申し合わせて留まるよう上疏することとし、みな関下に集まった。吏部尚書の陸完が迎えて「主上は直諌を聞くたび刀を引いて自刎の真似をされる」と言った。言う者を阻むつもりだったのである。
  • そこで舒芬らの疏がまず入り、兵部郎中の黄鞏と員外の陸震が連名の疏を入れ、吏部郎中の夏良勝、礼部郎中の范潮(万潮)、太常博士の陳允川(陳九川)の疏が続いた。医士の徐鏊は医の立場から諫めた。吏部郎中の張衍慶、礼部郎中の姜龍、兵部郎中の孫鳳・陸俸らは部の同僚を率いて合同の疏を入れ、工部郎中の林大輅ら、大理寺正の周叙ら、行人司副の余廷瓉らも合同の疏を相前後して入れた。
  • 帝は激怒し、江彬を召して見せ、江彬の言によって黄鞏・陸震・夏良勝・万潮・陳九川・徐鏊を錦衣衛の獄に下し、舒芬・張衍慶・姜龍・孫鳳・陸俸ら百七人を午門の外に五日跪かせ、林大輅・周叙・余廷瓉ら二十余人をみな獄に下した。翌日、黄鞏ら六人も五日跪かせた。
  • 舒芬の疏が最も切直で、黄鞏は事が江彬から出たとして彼だけを弾劾した。舒芬の疏の要旨——「陛下の行幸は鎮国公を名号とされる。行く先々で親王が勲臣に対する礼で陛下を待遇したら、陛下は朝するのか、その朝を受けるのか。万一、名に循って実を責め、この悖謬の端を糾されれば、左右の寵倖の者に死に場所はなくなる。陛下は大婚十五年で聖嗣がまだない。ゆえに一切の危亡の兆しを大臣は知っていながら言わず、小臣は言っても志を尽くさない。これは恭順なのではなく、陛下の自壊に任せているのだ。まだ痛哭泣血して陛下に申し上げるに忍びないことがある。江右に親王の変があるのに、大臣は馮道の心を懐き、禄位を旧来の持ち物とし、朝廷を市場とし、陛下を碁石とし、建文の革除年間の事を先例としている。ただ左右の寵倖の者は術が浅く、この言を陛下に告げられないだけだ。もし陛下がこれをお聞きになれば、禁門の外に出るのでさえ警蹕して出られるだろう。軽々しく漫遊なさるはずがない」。
  • 黄鞏の疏の要旨——「陛下の御代以来、祖宗の紀綱法度は一たび逆瑾(劉瑾)に壊され、再び佞倖に壊され、さらに辺帥の手に壊されて、今や蕩然として残るところがない。天下は権臣あるを知って陛下あるを知らず、陛下に逆らっても権臣には逆らわない。陛下はご存じない。乱の本は既に生じ禍変は起ころうとしている。陛下がお知りになるのは遅すぎるのを恐れる」。そして六事を陳べた——正学を崇ぶ、言路を通じる、名号を正す、遊幸を戒める、小人を去る、儲貳を建てる。陸震はその草稿を見て連署して進めた。
  • この頃、京師は連日、陰霾で昼も暗く、禁中では水が自ずと溢れて高橋の四尺ほどに達し、橋の下の七本の鉄柱が斬られたように揃って折れた。三月二十五日のことである。
  • 金吾衛指揮の張英は肌脱ぎになり、土を数升入れた袋二つを抱えて蹕道に立ちはだかって哭諫したが容れられず、刀を抜いて自刎し、血が地に流れた。侍衛の者が縛って詔獄に送り、「袋の土は何のためか」と問うと「帝の庭を汚すのを恐れ、土を撒いて血を掩うためだ」と答えた。獄中で死んだ。
  • この日、内旨で舒芬ら百七人はみな廷杖三十、疏の筆頭者は外任に貶し、残りは半年の俸を奪った。黄鞏ら六人はみな廷杖五十。徐鏊は辺境へ流され、黄鞏・陸震・夏良勝・万潮はみな籍を削られた。林大輅・周叙・余廷瓉は廷杖五十のうえ三階降格して外に補し、他は杖四十・二階降格して外に補された。
  • 杖の下で死んだのは、員外の陸震、主事の劉校・何遵、評事の林公黼、行人司副の余廷瓉、行人の詹軾・劉概・孟陽・李紹賢・李恵・王翰・劉平甫・李翰臣、刑部照磨の劉珏ら十余人であった。車駕はついに出なかった。江彬らも朝廷に人がいると知って、やや畏れ憚るようになった。

正徳十四年六月〜九月

  • 六月、寧王宸濠が反した。銭寧は宸濠の賄賂を受けて庇っていた。太監の張鋭は銭寧を倒そうと考え、宸濠の不法を力説した。張鋭の言が先に入ったのを銭寧は知らず、帝に会って宸濠の賢を盛んに称えたが、帝は応じなかった。銭寧は恐れて宸濠に急報し、罪を臧賢に転嫁した。臧賢は辺境へ流されたが、途中で校尉に盗賊を装わせて殺した。帝は銭寧も捕らえて獄に下した。
  • 江彬らは功を求めて帝の親征を賛成したが、王守仁が既に宸濠を捕らえて俘を献じたので、帝は詔で止めさせた。
  • 九月、帝が戎服で南京に至り、百官にもみな戎服で迎えるよう命じたが、各官はついに朝服で出た。帝は問わなかった。

正徳十五年(1520年)

  • 春正月朔日、帝が南京で朝賀を受けた。当時、江彬は辺卒数万を率いて扈従し、恩を恃んで人臣の礼がなく、公卿以下は身を側めて仕えた。魏国公の徐鵬挙が宴を設けて江彬を招いたとき、中道の門を開かず、中堂に席も設けなかった。江彬が激怒して理由を問うと、「高皇帝がかつてこの邸に行幸されたので先例となっている」と答え、江彬はやむなく宴に就いた。
  • 六月、江彬が兵官を遣わして南京の各城門の鍵を求めたが、兵部尚書の喬宇が危言をもって止めた。喬宇は南京兵部で法を持し正を守り、才略もあって、事あるごとに江彬をやや抑えた。人は彼を頼りとし、江彬もかなり憚った。
  • ある日、江彬が使いを遣わして城門の鍵を求め、城中は大いに騒いだ。督府が喬宇に問うと、喬宇は「守備とは非常に備えるためのもの。城門の鍵には祖宗の法制がある。天子の詔でも得られない」と答え、督府はその言で拒み、沙汰止みとなった。江彬は毎度、制を矯めて要求したが、喬宇は制を承けるたび必ず面と向かって確かめてから行うので、江彬の計は少し挫かれた。
  • 当時、帝は南京に駐蹕して久しく旧邸に居て大内に入らず、さらに蘇州・浙江・湖湘へ行幸しようとしていた。喬宇は九卿と台諫を率いて三度上章し、闕に伏して還幸を請うた。帝は江彬を召して議し、江彬は怒って重く処罰しようとしたが、その一党が「先年の京師の件でもう十分だ。二度もできない」と勧め、江彬の意もほぐれて、百官を慰諭してそれぞれの職務に帰らせるよう請うた。
  • 七月、扈従の大学士の梁儲と蒋冕が行宮の門外に跪伏して泣いて諫め、百官の奏に従って還幸するよう請うた。未の刻から酉の刻まで続き、帝は中官を遣わして奏を取り入れさせ、立つよう諭したが、「臣らは旨を奉じておりません。立てません」と答えた。中官を再び出して「近日中に還る」と伝えさせ、梁儲らはようやく退出した。
  • 閏八月、帝が鎮江に至り、十月、南京から凱旋した。

正徳十六年(1521年)

  • 春正月、帝が帰京。江彬はいよいよ驕横になり、その部下の辺卒は桀驁で制しがたかった。
  • 二月十四日丙寅、帝が病で豹房に崩じた。皇太后の張氏は大学士の楊廷和らと議を定め、遺詔を奉じて興献王の長子を迎えて皇帝の位を嗣がせた。
  • 帝が病臥した頃、江彬はなお団営を威武団練と改めて自ら軍馬を提督しており、中外は江彬が旦夕に反すると憂えていた。帝が崩じたとき江彬はたまたま側にいなかった。皇太后は楊廷和らを召して議し、江彬が乱を起こすことを恐れて喪を秘し、帝の命と称して江彬を召し入れた。江彬は帝の崩御を知らず、子とともに入って、ともに捕らえられた。
  • 皇太后は制を下して江彬の罪悪を暴き、江彬の部下の辺卒には厚く賞を与えて鎮に帰らせ、その一党数人を捕らえて錦衣衛の獄に下した。罪を論じて市中で磔にし、家産を没収すると、金七十櫃、銀二千二百櫃、金銀・珠玉・珍宝・首飾りは数えきれず、隠匿していた奏疏が百余本あった。
  • 世宗が即位すると江彬の党の罪悪を正し、流刑や死罪となった者は数十人。併せて銭寧を誅し、太監で追放された者もまた数十人であった。

史論(谷応泰曰)

  • 江彬は辺卒から入侍して十年にわたり悪を重ね、乗輿を顛倒させ、あやうく社稷を危うくした。しかしその行いを追えば、別の謀があったわけではなく、ただ強情で猛々しい凡庸の材にすぎない。
  • 江彬が塞上から身を起こして宮闈を睨んだのは、安禄山が玄宗に侍したのと何が違おう。しかも外は辺兵を握り内は近侍と交わり、銭寧・張忠がみなその羽翼だった。喩えれば、王莽が弘恭・石顕に依り、董卓が張譲と結んだようなもの、王庭湊が内に守澄を頼み、沙陀が田令孜と好を通じたようなものである。一物が商を亡ぼし、二つの恨みが晋を覆した。武宗が生きていれば天子を挟んで諸侯に令し、武宗が崩じれば遺命を矯めて大宝を擅にする——智者を待たずとも明らかである。
  • しかし辺軍を招き寄せて大内で演習させ、君臣が戎服で凶器を娯しみとし、続いて万乗の身を厭かせ九重の禁を離れさせ、離宮の歓びに誘い、馳騁の楽しみに情を恣にさせた。蒼鹿を捕り玄熊を扼えて、楽しみはそれで十分だった。善類を殄滅し正人を斥け、獄舎に血を飛ばし朝堂の半ばを追ったのも、猛虎が檻にあって咆哮して出ようとし、飢えた鷹が腕当てにあって憤って飛ぼうとするようなもので、初めから異己を剪除する心や公卿を脅かす志があったわけではない。
  • そもそも江彬は武人で、武宗の好むところは戎服と兵を語ることにあった。江彬は沙漠に生まれ、武宗の好むところは天下を遊巡することにあった。その志に順えばともに戈を揚げ馬を躍らせ、意に逆らえばともに厳威と峻法を用いた。同声相応じ同道相謀る。『書』に「予に乱臣十人あり、心を同じくし徳を同じくす」という。聖主だけではなく、彼らもまた実際そうだったのだ。
  • やがて主を震わす威が立ち、一族皆殺しの禍が成ろうとする段になると、中庸の者でも必ず三窟を巧みに営み百足の計を成すものだ。それなのに武宗の臨終に際して江彬はなお平然と私邸に帰って眠り、一介の吏が一尺一寸の詔を奉じて召せば即座に至り、車を同じくして駆けつけ父子とも首を並べた。何と愚かなことか。
  • 曹爽は兵を返して天子に老後を私邸で送ることを求め、商鞅は太子の傅を刑して孝公が崩じると自ら魏へ逃げようとした。古来、器が小さくて位が高く、威が重ければ身が危うい。奸邪が前で敗れ禍患が後に続き、死に瀕してなお悟らぬ者である。
  • ただ私は思う。武宗の世において、劉瑾の変は十常侍・甘露の党であり、河北・山東・江西・四川の寇は黄巾・黄巣の乱であり、寘鐇・宸濠の変は七国・八王の孽であり、江彬の奸は董卓・安禄山の釁であった。それでいて陰りが合ったばかりで旭日がまた昇り、大廈が傾こうとしながら漂揺しても倒れなかったのは、禍を構えた者たちがみな乳臭く、茫々たる草沢に英雄がいなかったからである。
  • そして内には六給事・十三御史、編修の舒芬ら百七人、外には楊一清・王守仁・林俊・彭沢がおり、いずれも慟哭して奸を斬らんとし、号叫して駕を阻み、戈を枕にして涙し、袂を振るって舟に登った。宮門で水が溢れ橋柱が七本折れたのは、上天が譴を告げて言官のために示したかのようであり、加えて明星が夜に隕ちたのは還幸を勧めたかのようであり、呉楚の颶風は賊をことごとく魚の腹に飽かせた。これは諸君子の天を格せた功か、それとも祖宗の天にあっての祐けであろうか。伝に「善人は国の紀なり」といい、詩に「人の亡くなれば邦国は殄瘁す」という。まさにこのことであろう。