明史紀事本末南贛の盗賊を平定する(平南贛盗)
武宗正徳六年(1511年)から正徳十三年(1518年)までの、江西南部と南贛一帯の群盗の平定を扱う。前半は陳金・兪諌・陶琰らの総督のもと、周南が大帽山の賊を、周憲が華林の賊と戦って戦死し、李承勲が降将黄奇を用いて華林と靖安を破り、胡世寧が東郷を、呉廷挙が単騎で桃源に入って王浩八を捕らえた。しかし招撫に頼る処置では根が絶えず、後半では新たに南贛巡撫となった王守仁が、狼兵の調発をやめて各県から精兵を募って訓練し、提督軍務の権を得て横水・左溪・桶岡の八十四巣を二か月で破り、正徳十三年正月には池大鬢を計略で贛州に誘い出して捕らえ、浰頭と九連山を平らげた。以後、南贛には警報がなくなった。
年表(7件)
- 武宗
- 正徳六年夏四月1511年江西の諸郡で盗が蜂起し陳金と兪諌が狼兵を調発して討伐にあたる
- 正徳七年1512年周南が大帽山を平らげ周憲は華林で戦死するが李承勲が黄奇を用いて華林を破る
- 正徳八年1513年呉廷挙が単騎で桃源に入り王浩八の首領を捕らえ陶琰らが桃源の賊を平定する
- 正徳九年1514年兪諌らが臨川四寨の宿盗を平らげ李承勲は誣告を晴らして浙江按察使に昇る
- 正徳十二年春二月〜秋七月1517年王守仁が四省で民兵を募って練り提督軍務の権を得る
- 正徳十二年冬十月〜十一月(横水・左溪・桶岡の平定)王守仁が二か月で賊の巣八十四か所を破り藍廷鳳らを斬獲する
- 正徳十三年春正月(浰頭の平定)1518年池大鬢を贛州に誘って捕らえ三浰と九連山を平らげ和平に県治を置く
武宗正徳六年(1511年)夏四月
- 江西で盗賊が起こり、右都御史の陳金を総制軍務、右副都御史の兪諌を提督軍務として討たせた。
- 先に江西の諸郡で盗賊が蜂起し、贛の賊が新淦を犯して参政の趙士賢を捕らえ、靖安の賊・胡雷二らが越王嶺・瑪瑙寨に拠り、華林の賊・陳福一が瑞州を破った。まもなく撫州の東郷、饒州の桃源洞などでも賊が乱を起こした。陳金らは奏して広西の田州・東蘭などの狼兵を調発し、合わせて征討した。
正徳七年(1512年)
- 春正月、南贛巡撫都御史の周南が兵を率いて大帽山などの寨を攻め破り、ことごとく平定した。大帽山は江西・福建・広東の三省の境にあり、賊首の張番璮・李四仔・鍾聡・劉条・黄鏞らが数千を集めて流掠し、建寧・寧化・石城・万安の諸県を攻め落としていた。周南は江西の兵を安遠から入れて巣穴七つを、広東の兵を程郷から入れて巣穴九つを、福建の兵を武平から入れて巣穴八つを攻め破り、張番璮らを捕らえてことごとく斬った。賊の家族を捕らえ、良民を多数取り戻した。
- 二月、江西按察司副使の周憲が兵を率いて廬山の左湖・盆塘の賊を討って破り、数百人を擒斬した。
- 四月、周憲が軍を移して仙女寨の華林賊を攻めて抜き、進んで鶏公嶺を克ち、前後に千余人を擒斬した。さらに華林に迫って出口を絶ち、賊はいよいよ窮した。
- 五月、周憲が華林の賊を攻め、子の周幹とともに戦死した。陳金は周憲らに三路に分けて華林の賊を討たせていた。周憲が兵を率いて進んだところ、諜者が「賊は飢えて疲れている」と言い、周憲は信じて挟撃の檄を出したが、他の二路が期日に間に合わなかった。周憲は単独で賊と戦って深く山谷の険に入り、賊が高所から擂石を雨のように落として兵は敗れ、周憲は捕らえられた。刀が頭に当たって血が顔に流れ、左股も鎗を受けて歩けなくなったが、賊を罵り続けたので、賊は怒って支解した。子の周幹は父の捕縛を見て馬を躍らせて突進し、流れ矢に当たりながら力戦して崖から落ちて死んだ。賊勢はまた振るった。報が届き、周憲に官を贈って忠愍と諡し、その子を旌表した。
- 六月、南昌知府の李承勲が按察使の王秩とともに兵を督して華林の賊を攻めた。李承勲は賊の将・黄奇を招き降して麾下に置いた。智略があるので任用したが、人が「不測に備えるべきだ」と言うと、李承勲はいよいよ信頼して帳中に泊まらせた。黄奇は感奮して死をもって報いると誓った。
- 李承勲は黄奇を賊の寨に入れてその党を説かせ、多くが降ってきた。期日を約して報を待たせ、期日が来ると土酋の岑猛に精兵五百を選ばせ、夜に一緒に山下へ向かった。黄奇を密かに寨に入れて降伏を約した者を呼び出し、会ってからまた戻して内応させた。
- 李承勲は岑猛と五百人を率いて夜に枚を銜んで登山し、幾重もの険を越えた。黄奇が数人と先導して塁に至ると、賊はいびきをかいて眠り、夜番が三更を打っていた。黄奇が柵を抜いて衆を率いて入り、五百人が刀を振るって斬り込み、内応の降賊も合勢して挟撃した。賊は倉卒でなす術なく、甲や武器も見つけられず、三千余級が斬られた。残る衆は塁を出て夜陰に山谷へ逃げ隠れたが、夜明けに諸山を捜索してさらに千余人を斬獲し、華林の賊は平定された。
- そのまま兵を移して靖安の瑪瑙寨の賊を撃ち、ことごとく俘とした。都御史の陳金は「江西の華林の賊は既に剿平し、桃源の賊・王浩八は撫を願っている」と奏し、太子少保を加えられ、他の者も功に応じて賞された。
- 冬十月、右都御史の陶琰に諸軍務を総督させた。廷議で河北・江西の諸寇が未平とされ、陶琰に軍務総理を勅したのである。着任すると劉六は既に滅び王浩八も撫に応じていた。陶琰は王浩八の狡猾さは信じがたいと慮り、兵備を設け、郡の属僚から有才の者を抜いて要害に分置するよう奏した。
正徳八年(1513年)
- 春正月、桃源の賊・王浩八らがまた乱を起こし、五洞の蛮兵を率いて東郷の賊と分かれて州県を掠めた。操江副都御史の兪諌を提督軍務とし、総兵の劉暉とともに狼兵を率いて進剿させた。
- 夏四月、江西兵備副使の胡世寧が王賽一と内応を約し、兵を率いて東郷の劇賊・楽庚二・陳邦四らを征討してことごとく捕らえた。東郷はもとの賊の巣であり、胡世寧は反側の者を撫御して信義を立てることに努めた。楽庚二と陳邦四は乱を頼んで再び叛いたのでことごとく擒馘し、王賽一は順に効して功があったので死を許すよう奏した。その後、城濠を修め県治を移し、武を整え飢えを賑わし、百姓は安らかになった。
- 五月、江西参政の呉廷挙が単騎で桃源に入り、劇賊の王浩八らを諭し、計略で賊の首領を捕らえて出た。桃源の賊には数年来兵を用い、征討の費用は万を数えたが賊はいよいよ盛んだった。呉廷挙は奇策で勝ちを得ようと、兜を脱いで単騎で賊の巣に入り、解散を諭した。賊に留められて武を誇示され威圧されたが、少しも動じなかった。久しくして左右の謀勇ある者を見分け、密かに結んでその首領を捕らえさせ、呉廷挙を奉じて帰らせた。
- 兪諌が狼兵を率いて裴源で桃源の賊を大破した。兪諌は呉廷挙が捕らわれたことで兵を桃源に移して進剿していた。知府の李承勲が「賊は食に乏しく必ず裴源の積粟を掠める。贛の兵と南昌の兵を岳陽から両翼に分けて裴源に伏せて待つべきだ」と献策し、賊は果たして裴源に入って大敗し逃げた。
- 桃源の賊は巣を棄てて四方に突出し、饒州・信州を越えて徽州・衢州の諸州県を掠めた。賊は狼兵の到来を聞いてかなり恐れ、降ろうとした。按察司の王秩は受け入れようとして既に約定していたが、「賊は反覆して信じがたい。兵威に乗じて撲滅すべきだ」と議する者があり、降った者を殺した。賊はまた大いに乱れ、巣を棄てて四方に突出し、徽州・衢州などを略奪して民は害を被った。
- 六月、総督浙江軍務都御史の陶琰、応天巡撫都御史の王縝が、総制江西都御史の兪諌とともに徽州・衢州で桃源の賊・王浩八を挟撃して平定した。陶琰は桃源の賊の帰順が信じがたいと慮って予め備えていたので、果たして境内に突入すると兵を督して会剿し、残党もことごとく平定した。総制の兪諌は江西の賊平定を奏し、東郷・万年の二県を建てて地方を分治し人民を撫安するよう請い、容れられた。
- 十二月、兪諌が兵を調えて建昌の賊・徐九齢らを征討して平定した。建昌の賊は数年来の患いで、勢いは益府に迫り、官軍も討てなかったが、兪諌が師に命じてことごとく捕らえて還った。
正徳九年(1514年)
- 三月、総制軍務の兪諌が兵備の胡世寧らに檄して兵を合わせ、臨川四寨の宿盗を剿してことごとく平定した。
- 十月、南昌知府の李承勲を浙江按察使に昇進させた。太監の黎安が李承勲の功を奪おうとして誣告したが、大理卿の燕忠が広信で訊問して無実を明らかにした。
正徳十二年(1517年)春二月〜秋七月
- 二月、南贛巡撫都御史の王守仁が四省の兵備官に檄して民兵を選募し操練させた。
- 陳金が桃源・華林の諸賊を討ったとき招撫が多く懲罰を大きく示さなかったうえ、民間で父兄を殺された者は仇を報いられず、常に互いに罵り合っていたので、諸凶は落ち着かず、転々として嘯き集まり、数年ならずして再び盗となった。また南贛は山険が多くて巣穴となりやすく、南安の横水・桶岡の諸寨には賊首の謝志山・藍天鳳、漳州の浰頭などの寨には賊首の池大鬢らがいて、福建・江西・湖広・広東の境、方千里はみな乱れていた。兵部尚書の王瓊は王守仁の才を知って特に推薦した。
- 王守仁は着任すると、これまで狼兵や達兵・土軍を多く調発して万を超える費用がかかっていたことを踏まえ、四省の兵備官に各属の弩手・打手・機快の中から驍勇で胆力ある者を選ばせ、県ごとに千人、少なくて八九百人とし、最も優れた者には俸給を厚くして将領に任じた。兵備のもとの官軍は老弱三分の一を汰り、各県の賢能の官に統べさせて城と隘の守備に専従させ、募った精兵は各兵備官に従って屯し、別に官を選んで隊に分けて統率・訓練させた。こうして各県の屯戍は守備に足り、兵備が募った兵は変に応じて奇を出せるようになり、盗賊は次第に畏れを知った。
- 三月、王守仁が三省の兵を調えて信豊・龍南の流賊を攻め、連破した。賊が信豊に突入すると、王守仁は険に乗じて伏を設け厚く集めて待たせ、密かに兵を近道から回して挟撃させた。賊は潰走して象湖山で拒み守ったが、また密かに兵を出して巣穴を衝いて大敗させた。賊はまた潰えて流恩・山岡などの巣に入り、まもなく逃げ去った。
- 五月、王守仁が兵を調えて何塘洞の山寨の賊酋・張師富ら、および長富村など二十余の巣を攻めて平定した。脅従の残党はみな家族を連れて出頭し撫を受けることを願ったので、王守仁は官を委ねて安置し、四千余人が復業した。さらに知府の李斆に檄して兵を調え、賊帥の陳能を捕らえてその巣穴を平定させた。
- 秋七月、王守仁が提督軍務を請い、許された。王守仁は上疏して「狼兵の通過する所は盗と変わらず、その輸送の苦は民を重く困らせている」と論じ、便宜行事を許して成功を期し時期を限らぬこと、兵衆が既に練れて号令も明らかで事に掣肘なければ機を見て剿滅できることを請うた。衆はその議を迂遠として何度も返答しなかったが、尚書の王瓊は慨然として「朝廷にこういう人がありながら権を与えないなら、誰を用いるのか」と言い、王守仁の疏の覆議に基づき、旨を奉じて南贛汀漳等処提督軍務に改めた。
正徳十二年冬十月〜十一月(横水・左溪・桶岡の平定)
- 冬十月、王守仁が汀州の左溪の賊・藍天鳳らを討って平定した。藍天鳳らは贛南の下新・穏下などの洞の賊・雷文聡・高文暉らと千里に盤踞していた。
- 王守仁は幕僚を集めて議した。「諸巣の患いは同じでも事情は異なる。湖広から見れば桶岡の諸巣が賊の咽喉で、横水・左溪の諸巣が腹心である。江西から見れば横水・左溪の諸巣が腹心で、桶岡の諸巣が羽翼である。今、腹心の患いを先に除かずに湖広と桶岡を挟撃しようとすれば、二つの寇の間に進んで腹背に敵を受けることになり、不利だ。しかも賊は湖広に檄して桶岡を挟撃すると聞けば、横水・左溪は観望して備えを怠る。不意を突けば志を得られる。横水・左溪を破ってから兵を桶岡に移せば、勢いは破竹だ」。
- そこで都指揮の許清に南康の新溪から、知府の邢珣に上猶県の石人坑から、知県の王天与に上猶県の白面峪から入らせ、いずれも横水で合流させた。指揮の郟文に大庾県の義安から、知府の唐淳に大庾県の聶都から、知府の季斆に大庾県の穏下から、県丞の舒富に上猶県の金坑から入らせ、いずれも左溪で合流させた。知府の伍文定と知県の張戢はそれぞれ兵を率いて上猶・南康から分かれて入り、逃走を遮った。王守仁は自ら千余を率いて南康から横水を衝き、諸軍と合流することとした。
- 配置が定まると七日に分道して並び進んだ。王守仁が横水に至ると、謝志山らは倉卒に険に拠って拒んだ。王守仁は賊の巣の三十里手前で兵を止め、夜に登山の巧みな郷兵四百人を募り、各自に旗一本と銃砲を持たせて間道から崖をよじ登らせ、賊の巣の左右の最も高い山頂に分布して伏せて窺わせ、わが兵が険に至った頃に砲火を挙げて応じさせた。また予め人を遣わして夜に壮士を率いて崖を登らせ、賊の滾木・礌石を奪って発射させた。
- 十二日、王守仁が兵を進めて十八面隘に至ると、賊は険に拠って迎え撃った。そのとき突然、巣に近い諸山の頂で雷のような砲声が響き、烟と焔が天に漲った。王守仁が兵を指揮して逼ると、賊は驚いて狼狽し、官兵が既に巣穴を制圧したと思って険を棄てて逃げた。
- わが兵は勝ちに乗じて驟進し、指揮の謝杲・馬廷瑞の兵が間道から先に入って賊の巣を焼いた。賊は退いても帰る所がなく大潰し、横水の大巣は破られた。邢珣・王天与らはそれぞれ数巣を破って横水で合流し、郟文・唐淳らはそれぞれ数寨を破って左溪で合流した。霧雨に遭って兵を休めた。
- 潰えた賊が残る衆を集め、険に拠って柵を立てたが、倉卒で資糧がないと諜知した。王守仁は各営に兵を奇正の二哨に分け、一方が前を攻め一方が後に続き、土地の者を郷導とするよう令した。以後、諸営はそれぞれ分道して残る巣を破り、伍文定と張戢も数巣を連破して左溪で合流し、賊はことごとく平らいだ。
- 十一月、王守仁が兵を合わせて桶岡を攻めた。王守仁は横水・左溪の勝ちに乗じて人を遣わして禍福を諭したので、桶岡の賊・鍾景が款を納れて降った。夜に賊の巣に入って諭させ、一日を期して鎖匙籠から出て降るよう約させた。賊は恐れていたところ使者が来たので皆喜んだが、横水・左溪の賊が反対したので、遅疑して決しなかった。
- 王守仁は使者を鎖匙籠に遣わして降伏を促す一方、別に邢珣に兵を率いて茶坑へ、伍文定に西山界へ、唐淳に十八磊へ、張戢に葫蘆洞へ、いずれも雨を冒して入らせた。藍廷鳳が鎖匙籠で議論している最中に、諸兵が既に険に入ったと聞いて震え上がり、急いで内隘へ逃げ込んで水を隔てて陣を張った。
- 邢珣は兵を指揮して水を渡り前面から撃ち、張戢は右を衝き、伍文定は張戢の右からさらに懸崖を伝って賊の側面に回った。賊は敗走し、舒富と王天与も鎖匙籠から入ったので、賊は全軍で十八磊へ奔った。唐淳が陣を厳にして迎撃し、賊はまた敗れた。日暮れで険を扼して対峙し、翌日、諸軍が合勢して並び撃った。邢珣がまず桶岡の大巣を破り、諸軍も奮って進んで俘斬は甚だ多かった。湖広の兵も到着した。
- 賊の残る衆は山谷に逃げ込み、王守仁は諸将を分道して捕らえさせた。こうして横水・左溪・桶岡の賊はほぼ尽き、賊首の藍廷鳳・蕭貴模らもみな斬獲された。王守仁の出師は二か月で賊の巣八十四か所を平らげ、横水などに城を築き安遠県の県治を設けて三省を制御するよう議した。捷報が届き、王守仁は右副都御史に抜擢された。
正徳十三年(1518年)春正月(浰頭の平定)
- 王守仁が浰頭の賊を討って平定した。王守仁は横水・桶岡の賊を征討した際、浰頭の賊が虚に乗じて騒ぐことを恐れ、人を遣わして銀と布を賞して降伏を諭した。ただ賊首の池大鬢だけが従わなかったが、兵力に余裕がないと計り、羈縻して深くは問わなかった。金巣らが衆を率いて降ると、王守仁は厚く撫して従軍させた。
- 横水が破れると池大鬢は恐れ、弟の池仲安に老弱二百を率いさせて王守仁のもとに降らせ、従軍して功を立てたいと願わせた。実は虚実を窺って内応させるためである。王守仁はこれを見抜き、別の哨に従わせて帰路から遠ざけた。
- 密かに人を遣わして浰頭に近い諸県で賊の害を被った者を集めて事情を聴き、それぞれに方略を授けて帰らせ、密かに兵衆を集めて桶岡平定の報と出師の時期を待たせた。
- 桶岡が平定されると池大鬢はいよいよ恐れた。王守仁が浰頭に使者を遣わして諸賊に牛と酒を賜ると、賊は厳重に備え、使者を偽って「龍川の新民である鄭志高と盧珂が仇討ちで襲おうとしているので備えているのです。官兵に備えているのではありません」と言った。
- 王守仁は信じたふりをして盧珂・鄭志高に怒り、臨川に檄を移して二人が擅に兵を用いた状を糾し、池大鬢には「道を掃き清めて待て。兵を返して討つ」と伝えた。池大鬢は使いを寄越して「わざわざ官兵を煩わせずとも自ら防禦します」と謝した。
- 盧珂・鄭志高・陳英は龍川で既に招撫された新民で、旧部三千余の衆を領していた。当時、諸県の民はみな池大鬢に脅されていたが、この三人だけが賊に抗し、賊は彼らを仇としていた。王守仁が兵を返すと三人が変を告げ、池大鬢の反状を述べた。折しも池仲安が兵を率いて王守仁のもとにいたので、王守仁は偽って三人に怒り、縛って斬ろうとし「池大鬢は弟に兵を率いさせて報効している。そんなことがあるものか」と言った。池仲安は叩首して三人の罪悪を並べ立て、王守仁は信じたふりをして盧珂らを械につないで獄に下した。
- 王守仁は密かに人を獄中に遣わして意を諭し、三人に恐れるなと告げ、使いを帰して衆を集めて待たせた。
- 十二月二十日、王守仁は贛州に戻ると音楽を奏して将士を大いに饗し、「横水・桶岡は既に平らぎ、浰頭も帰順して境内に憂いはない。民は長く労苦したのだから、兵を休めて楽しむべきだ」と令して兵を散じて農に帰らせた。そして池仲安を帰して兄に報告させ、「盧珂を捕らえたので、使いを遣わして池大鬢に備えを解かず盧珂の一党の襲撃に備えよと伝える」と言わせた。池大鬢はすっかり安心した。
- 王守仁は別に池仲安の親しい者を買収して池仲安を説かせ、自ら訴え出るよう仕向けた。「官の意はまことに厚い。自ら一度は謝しに行くべきだ。まして盧珂らの言を容れさせぬためにも」。池大鬢は信じ、配下に「伸びようとすればまず屈するもの。贛州の手並みは自分で見に行かねばならぬ」と言い、徒党四十余人を率いて自ら贛州へ赴いた。
- 王守仁は既に諸郡県および龍川などに檄して兵を整えて報を待たせていた。池大鬢が道に就いたと探知すると、急ぎ使いを発して諸路の兵を浰頭で待機させたが、道は賊の巣を経る必要があったので、別に「盧珂の一党を捕らえる」旨の檄を持たせて賊に見せた。賊は果たして問い、檄を見て気に留めなかった。
- 池大鬢は贛州に着いて王守仁に謁見し、軍門に用兵の様子がないのを見、盧珂らが獄につながれているのを確かめていよいよ安心し、一党に「別条ない」と報告した。
- 王守仁は夜に盧珂らを釈放して間道から帰らせ、兵を発した。諸官には順に牛と酒を設けて日々池大鬢らを宴し犒って帰りを引き延ばさせた。しばらくして盧珂が既に家に着き、諸郡県の兵も集結した頃と計り、王守仁は庭に犒いを設け、予め甲士を伏せて池大鬢らを引き入れ、ことごとく捕らえた。盧珂の供述を出して訊すと皆服したので、すべて獄に入れ、諸路に賊の巣へ向かうよう促した。
- 王守仁は親兵を率いて龍南県の冷水径からまっすぐ下浰の大巣を衝き、諸路の兵はみな三浰に入らせた。賊は長く備えを緩めていたので、官兵が四方から集まったと聞いて驚き恐れ、分かれて出て防ぎ、精鋭千余をことごとく龍子嶺の険に伏せた。
- 官軍は三方から犄角して進み、指揮の余恩がまず賊を撃った。長く戦って賊は敗れ、王受らが追ったところで伏兵が起こって阻まれた。ちょうど推官の危寿の兵が到着して鼓譟して前を衝き、千戸の孟俊が兵を率いて背後に回ったので賊は大潰し、三浰の大巣を克った。
- 残る賊の精鋭八百人が九連山に集まった。山は四面が険絶で一面だけ登れ、賊は礌石・滾木を設けて拒み、官兵は近づけなかった。王守仁は官兵に賊の衣を着せ、日暮れに賊の敗走者を装って登らせた。賊は見て呼び合い、官兵は険を越えることができて道を扼した。賊は気づいて急ぎ防いだが、既に大軍が入り込んでいた。賊は支えられず退いて潰走したが、官兵は先に四路に伏を設けて待っており、ほぼ擒斬された。残る徒二百人は慟哭して降伏を請い、王守仁はこれを納れた。
- 諸険隘を検分し、和平の地が三省を扼するので県治の設置を奏請し、部議を経て容れられた。凱旋すると捷報が届き、璽書を賜って褒賞され、余の功にも賞賜があった。南贛はこれ以後、警報がなくなった。
史論(谷応泰曰)
- 正徳の濁乱で群盗が蜂起したが、江西の盗には五つあった。大帽山の者を贛賊、仙女寨・鶏公嶺の者を華林賊、瑪瑙寨・越王嶺の者を靖安賊、王浩八を桃源賊、楽庚二・陳邦四を東郷賊という。江西副使の周憲が華林で戦死し、総督の陶琰が再び王浩八を撫してから、この二賊が最も激しくなった。
- やがて巡撫の周南が贛賊を平らげ、知府の李承勲が華林・靖安を平らげ、参政の胡世寧と呉廷挙が桃源・東郷を平らげた。当時、陳金と兪諌が節鉞を掌っていたが、李承勲と呉廷挙の功が最も奇抜だった。九年の経営を経て正徳十一年に南贛の賊党はほぼ平らいだが、皇威はまだ行き渡らず、根株からまた芽が萌えた。
- そこで江西の賊にはまた四つ生じた。藍天鳳らを左溪賊、謝志山らを横水賊、鍾景らを桶岡賊、池大鬢らを浰頭賊という。王新建(王守仁)は廷推の旧望をもって新たな肩書を負い、山川を計画し広く間諜を用い、自ら破った賊の巣は八十余、増設した県治は二、特設の南贛提督軍門は一。正徳十二年に命を受けて十三年には江西の賊はことごとく平らいだ。
- 諸臣が賊を平らげるのが遅くて変が続き、王新建が賊を平らげるのが速くて賊が定まったのはなぜか。江西は南に百粤、北に大江、東に閩の峰、西に荊蛮を控え、地は千里に延び五省と境を接し、そのうえ崇山峻嶺と鳥道・竹藪で車騎は長駆できず米や飼葉も時宜に給せない。王師がまっすぐ指せば鳥は深林に遁れ、旅を振るって朝に還ればたちまち鼠が謀って盗み出る。その形勢を測れば、地を決する翼も巣を離れられず、径丈の鱗も水を失えない。しかし尉佗には七郡の計があり任囂には坐して大となる志があった。庾嶺以南は足を挙げれば国家のものではなくなる。
- 四賊が再び発したとき、浰頭は遠く汀州にあり、桶岡は楚境にあり、左溪・横水がその間に連なっていた。彼らは狡兎の三窟を成し「率然」の形を成していた。漢の天子に神霊があろうと、天から降りて来られようか。
- しかも当時の議者は動もすれば招撫を口にした。これは麋鹿を金の轡で招き、逃げた猿を朱の檻で呼ぶようなもので、躊躇い彷徨って、去るのが遅いのを恐れるばかりだ。撫が成らずに剿を用いれば、狼兵・達兵を徴調し、併せて苗峒を招く。彼らは略奪が性となり、王制をほとんど知らない。内地に引き入れて長城と頼み、賊が獣のように驚くより先にこちらが鴟のように張り、賊がひとまず耳を垂れて生を求めれば、こちらは受け入れるのに遅れるのを恐れる。羈縻して絶やさぬのが、どうして久安長治の道であろうか。
- 王新建は客兵をすべて罷めて自ら郷勇を募り、数か月兵を養い、十日ほど隙を窺った。李徳裕が籌辺楼を築き、諸葛亮が米を集めて地形を示したようなものである。それでも賊兵が四方に出てわが師を牽制することを慮り、浰頭を偽って撫し、桶岡を捨てるふりをして、みな疑って観望させた。その徘徊の間に鼓を鳴らして進み、まっすぐ中堅を衝いた。奇兵は雲のように乱れ、鉄騎は疾風のように馳せ、横水は巣を覆され左溪は険を失った。桶岡は右腕を断たれ、王師は既に門庭に入り、二寨からの逃亡者が互いに驚き衝突する。その胆の潰えたのに乗じて一鼓で登った。兵法にいう「その不意に出る」ものである。
- 浰頭は愚かに狡く、王新建は掌中で弄んだ。賊首の池大鬢らはみな千里の外から誘い出され、酒宴の席で縛られた。渠魁は既に檻車にあり、天兵は既に賊の険に迫っているのに、彼らは平然と眠っている。鼓角が一たび鳴れば千山が声を動かす。賊はこの時に城壁に登って兵を授けても一木では支えられず、倉皇と逃げ出しても四面楚歌である。互いに顔を見合わせて甲を解き、慟哭して降を請うた。武侯(諸葛亮)が五月に瀘水を渡って南人が二度と叛かなくなったのと同じである。
- そもそも江のほとり、嶺の外は天南の限りである。背を撫で喉を扼して閫外を専管した楊僕の楼船、馬援の銅柱も、王新建に比べて何と称せようか。