明史紀事本末蜀の盗賊を平定する(平蜀盗)
武宗正徳三年(1508年)から正徳九年(1514年)までの、四川に相次いだ群盗とその平定を扱う。保寧の藍廷瑞・鄢本恕・廖恵が「順天王」などを称して漢中から鄖陽まで掠め、江津では曹甫、続いて方四・任鬍子らが起こった。巡撫の林俊は通江・江津の戦いで廖恵を擒にし曹甫を斬るなど成果を挙げたが、総督洪鐘と議論が合わず、宦官の冒功を拒んで憎まれ致仕した。正徳六年、洪鐘は偽りの招撫と彭世麟の宴で藍廷瑞・鄢本恕ら二十八人を捕らえたが、その後も廖麻子・喩思俸・駱松祥・范藻らが二十万を号して蜂起し、洪鐘は罷職、高崇熙は獄に下された。彭沢が総制となって廖麻子・駱松祥を破り、正徳九年正月に范藻を平らげて蜀の群盗はすべて鎮まった。
年表(7件)
- 武宗
- 正徳三年冬十月1508年藍廷瑞と鄢本恕が漢中で挙兵し林俊が四川巡撫として討伐に当たる
- 正徳四年十二月1509年藍廷瑞らが十万を号して鄖陽を侵し劉烈は乱兵に殺される
- 正徳五年1510年洪鐘が四省の軍務を総督し林俊が通江で廖恵を生け捕る
- 正徳六年1511年林俊が曹甫を斬り洪鐘は偽の招撫で藍廷瑞・鄢本恕を捕らえるが林俊は致仕する
- 正徳七年1512年方四が捕らえられる一方で廖麻子ら二十万を号し洪鐘が罷職され彭沢が代わる
- 正徳八年1513年高崇熙が獄に下され彭沢が漢中の廖麻子と内江の駱松祥を破る
- 正徳九年1514年彭沢が崇慶の范藻を平らげて四川の群盗が尽く鎮まる
武宗正徳三年(1508年)冬十月
- 四川保寧の賊・藍廷瑞と鄢本恕が漢中で挙兵し、郡県を攻め落とした。右副都御史の林俊を起用して四川巡撫兼賛理軍務とし、兵を督して討たせた。
- 藍廷瑞は以前、山中で古い棄印を拾い、まもなく剣も得て、自ら天命があると称し、一党とともに愚民を惑わして乱を起こした。同じ頃、保寧の賊・劉烈も衆を集めて乱を起こし、陝西の漢中などを侵掠した。
正徳四年十二月(1509年)
- 藍廷瑞は「順天王」、鄢本恕は「刮地王」、廖恵は「掃地王」と自称し、十万を合わせて湖広の鄖陽などを侵した。まもなく巡撫の林俊が兵を督して剿捕していると聞き、他境へ流れて侵した。
- 劉烈らが再び四川に戻った。劉烈らは四方に剽掠して陝西の漢中を侵し、勢いは猖獗だったが、このとき戻ったので、林俊に機を見て剿滅するよう勅した。まもなく劉烈は乱兵に殺され、残党の廖麻子と喩思俸がまた盛んになった。
正徳五年(1510年)
- 春正月、刑部尚書の洪鐘に左都御史を兼ねさせ、四川・陝西・湖広・河南の四省の軍務を総督させて、四川などの流賊を征剿させた。
- 夏四月、藍廷瑞・廖恵らが通江県を破った。林俊は官兵を遣わし、併せて玀䝽・石柱などの土兵を調発して攻め破り、殺した者と溺死者は六千余人、廖恵を生け捕った。藍廷瑞は紅口に奔って鄢本恕と兵を合わせ、陝西の漢中・三十六盤を経て大巴山に至った。林俊はさらに兵を遣わして追いつき大敗させ、賊は輜重を棄てて逃げた。
正徳六年(1511年)
- 春正月朔日、江津の賊・曹甫が「順天王」と自称して県治を攻囲し、僉事の呉景が殺された。巡撫都御史の林俊は報を聞いて馳せつけ、元日で賊が酒に酔って備えを怠っているのに乗じ、夜半に食事を済ませて枚を銜ませ、囲んで焼き討ちにした。賊は潰走し、さらに山坪・伏子岸などで連戦して破り、賊営に迫って曹甫らを殺した。前後に三千余人を擒斬し、掠われた男女七百余口を取り戻し、馬騾・武器を無数に獲た。
- 五月、鄢本恕・藍廷瑞らが蓬州・剣州を掠めた。総制尚書の洪鐘に巡撫の林俊・総兵の楊宏とともに機を見て剿捕させ、地方を靖んじさせた。さらに巡視都御史の高崇熙、鎮守太監の韋興に、洪鐘・林俊とともに劇賊の藍廷瑞・鄢本恕を会剿するよう勅した。
- 六月、洪鐘が四川に着いたが林俊と議論が多く合わず、軍機は牽制されて速やかに進めなかった。藍廷瑞は散った者を招き集めて勢いを盛り返し、営山県の県治を焼き討ちして僉事の王源を殺した。
- そこで洪鐘は林俊とともに四川を督し、陝西巡撫都御史の藍章に陝西の兵を督させ、湖広・河南の兵にも檄して分路して進剿させ、洪鐘と林俊が自ら監督した。
- 湖広の兵が先に陝西石泉県の熨斗壩で追いついた。賊は追撃の急なのを見て招撫を求め、四川東郷県の金宝寺で撫を受けたいと言った。洪鐘は榜示を出し併せて檄して藍廷瑞らを呼び、日を約して降伏させようとした。
- 賊の意図は時間稼ぎにあり、六月十四日にようやく信地に着いて営を張ったが、藍廷瑞も鄢本恕も出てこず、使いを寄越して「営山の県治か臨江の市を衆の駐屯地にほしい。そうすれば出て会おう。併せて旗牌官を人質に取りたい」と言った。洪鐘らはいずれも許した。
- 鄢本恕が会いに来て営に戻ると、藍廷瑞もようやく来て会った。降伏を口にしながらなお殺掠を恣にし、松樹埡で民家を掠めて逃亡を図ったが、官兵が七哨に分かれて阻んだので隙を得られず、賊は甚だ窮迫して次第に潰散した。
- 十五日、藍廷瑞は掠った女子を自分の娘と偽って、領兵の土舎・彭世麟に妾として嫁がせ、歓心を結ぼうとした。彭世麟が軍門に報告して受け入れ、賊の首領を営に招いて宴を設けた。洪鐘は藍廷瑞の親しい鮮于金に説かせ、十六日、藍廷瑞と鄢本恕は諸賊二十八人を率いて彭世麟の宴に赴き、伏兵が全員を捕らえた。
- 賊の衆は変を聞いて大潰し、四方の山谷へ逃げ散った。洪鐘らは諸路の兵を分けて追剿し、擒斬・溺死・俘獲した老弱・兵仗・騾馬は甚だ多く、討ち漏らした者は自首を許して撫した。ただ賊首の廖麻子だけは捕らえられなかった。捷報が届き、洪鐘に太子太保を加え、林俊・藍章にも昇進と賞賜があった。
- 江津の賊・曹甫の残党である方四・任鬍子・麻六児らが衆を擁して綦江に走り、思南・石阡などの府に入った。方四は「総兵」、任鬍子は「御史」と偽称し、賊首三十余人も「評事」などと偽称した。貴州の兵が思南で破り、播州の兵が三跳などで破り、相前後して三千を擒斬した。賊は貴州からまた四川に入った。
- 八月、賊が南川・南頸・雀子岡などの関を攻め、官兵が防いだ。また東郷・永澄などを攻め、玀䝽兵が防ぎ、前後にかなりの斬獲があった。しかし百戸の柳芳らが陣没して官軍が退くと、賊は「江津・重慶・瀘州・叙州を取って成都を攻める」と言い立て、遠近が震え上がった。
- 林俊は江津に、高崇熙は瀘州に、太監の韋興は成都に、都御史の王綸は重慶に駐屯した。副使の何珊と都指揮の鄒慶に兵を率いて合江から、副使の李鉞と知府の曹恕に兵を率いて江津から進ませ、挟撃させた。
- 九月、賊が江津を攻めたが、石砫の兵が到着して力を合わせて防ぎ、賊は敗走した。合小坪まで追ってその四営を破った。賊は八千人で攻城具を担いで再び江津を攻めたが、林俊・李鉞・曹恕が酉陽・播州・石砫などの兵を督して三方から迎撃し、賊は敗れた。高観山まで追って五百余級を斬り、二百余人を俘獲した。
- 官兵が勝ちに乗じて追撃すると、賊は高所から石を落として進ませず、また衆を擁して度々突撃した。李鉞は危うく難を免れず、従吏の何士昂らの力戦でようやく解けた。
- 林俊は賊勢がなお盛んなのを見て、降った賊の周大富を営に入れて招撫させた。方四は偽って一党の李廷茂に降るよう命じたが、ついに出てこなかった。高崇熙は賊首がみな仁寿の人と知って、人を仁寿に遣わして各賊の家属を営に連れてきて招いたが、方四らはその族属を殺して撫に応ぜず、「自ら散り去るのを許してくれ」と言い、これに従った。
- 翌日、李鉞が諸将校を督して兵を六哨に分け、大埡・小埡・月埡関から並び進んで高梁にまっすぐ突撃した。賊は支えられず、六面から合囲されて中堅を破られ、賊首の任鬍子らが斬られた。賊は大敗し、三十余里追撃して一千八百余級を斬り、方四の妻妾を生け捕り、男女三千四百余人を俘獲した。残る衆は崖から墜ち谷を埋めること数里、馬騾四千五百余を奪った。
- 土兵が勝ちに乗じて追剿し、さらに二百余人を殺した。しかし賊は官兵が少ないのを見て反撃し、千戸の田宣・冉廷質らを殺し、方四の妻妾もまた逃げた。方四は残る賊二千余人を率いて思南の境内に逃げ込んだ。
- 巡撫右副都御史の林俊が致仕を願い、許された。当時、宦者が権を用い、各辺の征剿では必ず弟や甥、私人を兵籍に名を借りて置き、功を冒して昇進・恩賞を得ていた。林俊がこれを一切拒んだので権倖に憎まれ、また洪鐘とも議論が合わなかったので致仕を願った。疏が上がると、忌む者が「盗は既に平らいだ」と言い、内批で即座に許可された。台諫が留任を疏請したが返答はなかった。林俊が帰るとき、蜀の人は号泣して追い送った。
- まもなく麻六児・喩思俸・駱松祥・范藻らの賊がまた盛んになり、内江・蒙慶の境は騒然として一年を越えても鎮まらなかった。
- 巡撫都御史の高崇熙に兵を調えて方四・廖麻子・麻六児らを討たせた。
正徳七年(1512年)
- 二月、江津の賊・方四らは前年正月に貴州へ奔り、八月にまた集まり、このとき南川などの県を掠奪した。高崇熙が連戦して敗走させた。
- 閏五月、方四が南川から綦江を破ったが、僉事の馬昊が破って婺川へ奔らせ、衆はついに散った。方四は姓名を変えて密かに開県へ走ったが、義官の李清が捕らえて官に送った。
- 十一月、漢中の賊・廖麻子と喩思俸、内江の賊・駱松祥、崇慶の賊・范藻らが分かれて州県を掠め、衆は二十万と号した。洪鐘は分けて剿討したが手が回らない。御史の王綸が「洪鐘は寇を縦して民に禍している」と弾劾し、罷職された。右都御史の彭沢に軍務を総制させ、総兵の時源とともに征討させた。
正徳八年(1513年)
- 二月、四川巡撫右都御史の高崇熙が、盗賊を滅ぼしきれなかったとして逮捕され獄に下された。右僉都御史の馬昊を四川巡撫とした。
- 夏四月、彭沢が苗兵を率いて漢中の劇賊・廖麻子を攻めて破った。賊は山寨に逃げ込み、多くは藪や茨の中に潜んだ。彭沢は兵を分けて出入りを扼し、水路を奪い、一面だけ開けて賊を出させ、挟み撃ちにしてほぼ殲滅した。廖麻子は異術があって姿を隠せると言われ、急を告げると身を躍らせて逃げた。懸賞をかけたが結局捕らえられなかった。そこで兵を内江に移して駱松祥を討ち、平定した。
正徳九年(1514年)
- 春正月、彭沢が兵を率いて崇慶の劇賊・范藻らを討って平定し、四川の群盗はことごとく鎮まった。総制軍務の彭沢に太子太保を加え、時源を左都督とした。
史論(谷応泰曰)
- 正徳年間、蜀の盗である藍廷瑞・鄢本恕・廖恵は漢中で起こり、曹甫・方四は江津で起こった。廷議は林俊を推し、優詔をもって特に起用した。林俊は当時、喪が明けて家居していた。
- 林俊は命を受けると、通江の戦いで廖恵を擒にし藍廷瑞を敗走させた。賊勢は窮迫して秦隴を窺うようになり、呉景の死の後、曹甫は首を授け、江津の賊は振るわず貴州へ逃げるばかりとなった。林俊の蜀での初期の成果は、李綱の入朝で初めて朝廷らしくなり、李光弼が軍を代わって旌旗の色が変わったと言うべきものだった。
- ところが洪鐘が総督として出、高崇熙が会剿にあたると、兵には連鶏の形があって将には輔車の勢いがない。我が志が緩んだところで醜い賊気が再び振るった。その後、諸将が力を合わせて数道から進んだ。降を誘って殺したのは不祥に近いとはいえ、縦せば再び叛くのは癰を養うのと変わらない。
- 藍廷瑞・鄢本恕は檻車で闕に送られ、保寧の残党もほぼ誅鋤され、捕らえられなかったのは廖麻子ただ一人だった。方四が再び江津を寇したときも、林俊は六面から攻撃を督してその首領を斬り、方四の妻子はことごとく帳下に俘となった。蛮官が挫かれ方四が幸いにも網を漏れて黔中で息をついたとはいえ、既に胆は潰れていた。
- 仮に策を借りる者があって処置がよろしきを得、璽詔で優遇して林俊を留めて撫綏させれば、汲黯が淮陽に臥して治め、韋皋が久しく西川に鎮したように、錦江・三峡の間はやがて陣太鼓も鳴らなくなったであろう。角巾に扁舟、軽装で郷里に還るのを蜀の民が涙を流して追い送った——国政を執る者はなんと誤ったことか。
- こうして漢中の残党の廖麻子は再び喩思俸らと乱を唱え、黔中に逃れた方四はまた麻六児らと出て掠め、内江・崇慶が相次いで真似をし、范藻・駱松祥がそれぞれ雄長たろうとした。
- そもそも蜀の寇は紛々としていたが本来は劇賊ではなく、王師が境に臨めば実際いずれも精鋭だった。しかし中人が爵を求めて必ず子弟を監軍とし、鄙夫が権を握って賊平の受賞を口にしたがる。彭沢が出るや残党はたちまち平らいだ。思うに六年の用兵で幾度も成功しては幾度も敗れ、林俊が去ってからは人は咎を畏れ、高崇熙が逮捕され洪鐘が撤されるに至って、利を争った諸臣も難を知って退いた。それゆえ彭沢は閫外を専制して全蜀を削平できたのである。
- 林俊は賊が勢いを張り始め、朝廷を挙げて功を貪る時期に当たり、彭沢は賊気が蔓延して命を受けた臣が禍を畏れる時期に当たった。彭沢は功名を享け、林俊は志を抱いたまま老い死んだ。君子は林俊に、李広や祖逖に対するのと同じ感慨を抱かずにいられない。