明史紀事本末寘鐇の叛乱(寘鐇之叛)

武宗正徳五年(1510年)四月から八月までの、慶府安化王・寘鐇の挙兵と鎮圧、そして事後処理を扱う。劉瑾が周東を寧夏に遣わして田地を丈量し屯租を苛酷に徴したため将卒が怨み、寘鐇は孫景文・何錦・周昂らと謀って総兵姜漢・巡撫安惟学・周東らを殺し、劉瑾の罪を数える檄を辺鎮に伝えた。しかし游撃将軍の仇鉞が病と偽って内応を図り、周昂を撲殺して寘鐇父子と孫景文らを捕らえ、挙兵はわずか十八日で崩れた。朝廷は事情を知らず張永・楊一清らを討伐に出したが、途中で捕縛を聞いて京軍を返し、楊一清は誅殺を首悪に限って千余人のうち百余人を釈放した。八月に寘鐇・何錦らは京で誅され、仇鉞は咸寧伯に封じられた。

年表(3件)

武宗正徳五年(1510年)夏四月

  • 慶府の安化王・寘鐇が反した。寘鐇は慶靖王の曽孫。祖父の秩炵は靖王の第四子で、永楽十九年に安化王に封じられた。弘治五年に寘鐇が王位を嗣いだ。
  • 当時、劉瑾が権を専らにして毒は天下に流れていた。寘鐇はかねて逆謀を抱き、寧夏衛の生員・孫景文、孟彬と密接に往来していた。覡(男の巫者)の王九児が鸚鵡神を降ろすと称して禍福を妄言し、寘鐇に会うたび「老天子」と呼んだ。寘鐇は不軌の心を懐いていたのである。
  • 折しも劉瑾が大理寺少卿の周東を寧夏の田地丈量に遣わし、頃畝を倍に水増しして屯租の馬を厳しく徴し、拷問も酷かったので、諸将や衛の兵卒はみな憤り怨んだ。
  • 孫景文は寘鐇に「殿下が大事を図られるなら今こそその時です」と説いた。寘鐇は孫景文の家に酒宴を設け、かねて辱めを受けていた武官の丁広・楊泰らを招いた。孫景文は言葉で衆の怒りを煽り、寘鐇には多くの奇瑞があって輔けるに足ると説き、守臣をことごとく殺して衆を脅し挙兵しようとした。皆は怨みを抱いていたところなので喜んで従い「事が成らずとも死んで恨みはない」と言い、血をすすって盟い計を定めて散会した。
  • 孫景文が報告すると、寘鐇は平虜城に人を遣わして戍将や親しい張欽ら十余人を説き、みな従って各自兵を集めて時を待った。
  • 折しも辺境に警報があり、総兵の姜漢が周昂に精鋭を選ばせて牙兵とし、申由居敬ら六十人を得て周昂に率いさせた。
  • 五日、寘鐇は酒宴を設けて都指揮の何錦、周昂、指揮の丁広を招き反乱を謀った。何錦と周昂はかねて孫景文を通じて寘鐇から金を借り、階級を買って都指揮に昇っていたので、寘鐇に深く恩を感じていた。
  • 寘鐇は巡撫の安惟学、総兵の姜漢、少卿の周東、鎮守太監の李増・鄧広らを大々的に招いたが、安惟学と周東は辞退して行かず、副総兵の楊英は警報を聞いて兵を率いて出ており、これも来なかった。
  • 何錦らは辺境が急だと偽って壮士を呼び、申由居敬に辺備として兵器を執らせ馬に乗せて騒がせた。儀賓の韓廷璋らが府の序(脇殿)の下に兵を伏せ、何錦らが安化府に押し入ると序の中で伏兵が起こって姜漢らを殺した。
  • 続いて行台に走って安惟学と都指揮の楊忠を殺し、さらに周東を殺し、侯参議を縛った。獄囚を解き放ち、官府を焼き、庫蔵を掠め、河の舟を奪い、慶府の諸王・将軍から金幣を万を数えるほど大掛かりに徴発し、「逆党」と名づけた。
  • 平虜城千戸の徐欽が兵を率いて入城。偽の印章と旗牌を造り、孫景文に檄を作らせて劉瑾の諸罪状を数え、「張綵・劉璣・曹雄・毛倫ら文臣武将が内外で結んで不軌を謀っている。今こそ義兵を挙げて君側を清める。同心の者はみな響応せよ」と述べ、辺鎮に伝布した。
  • 何錦を討賊大将軍、周昂・丁広を左右副将軍、孫景文を軍師、徐欽を先鋒将軍とし、魏鎮ら七人を都護、朱霞ら十一人を総管とした。関中は大いに震えた。
  • 陝西の守臣が寘鐇らの刊印した「劉瑾激変罪悪」の告示・榜文を封じて上奏したが、劉瑾は隠して上聞しなかった。

正徳五年四月(討伐と鎮圧)

  • 総兵の曹雄らは変を聞き、兵を率いて黄河沿いを堵截し、広武営指揮僉事の孫隆を遣わして大小二壩に積み上げた柴草をすべて焼き払わせた。楊英は黄正らを率いて霊州から流れを下った。寘鐇が魏鎮らを広武営に遣わして賞を配り懐柔しようとしたが、孫隆は弓箭と神鎗で撃退した。曹雄は自ら兵を率いて霊州に至った。
  • 寧夏游撃将軍の仇鉞は辺境の警報を聞いて兵を率い玉泉営に出ていた。寘鐇は反すると人を遣わして仇鉞を招き、兵を率いて合流させようとした。仇鉞は偽って承知し、衆を率いて鎮に還ったが、寘鐇はその軍を奪い、仇鉞は単騎で私邸に帰った。京師では「仇鉞は既に賊に従った」との訛言が流れ、また興武営守備の保勲がもと賊と姻戚だったので、保勲も外応するのではと疑われた。
  • 朝議は保勲を参将、仇鉞を副総兵として兵を率いて賊を討たせることとした。保勲は上疏して「臣の母と妻子はみな賊中におります。臣は義において家を顧みません。飛んで黄河を渡り賊の肉を食らって朝廷に謝したい」と述べた。仇鉞も病と称して臥せながら、密かに游兵の壮士を引き入れ、保勲らの兵の到着を待って内応しようとしていた。
  • まもなく曹雄も書を持たせて仇鉞と約した。仇鉞の下僕の書童が河を潜って城に入り、保勲・楊英・韓斌・時源がそれぞれ兵を率いて河上に屯し、広武営都指揮の孫隆が両壩の柴草を焼き、河の舟をすべて東岸に泊めたことを伝えた。
  • 仇鉞は喜び、人を使って賊に「急ぎ渡口を守り、河を決して城を灌がれるのを防ぎ、東岸の兵を渡らせぬようにすべきだ」と吹き込んだ。何錦は果たして都指揮の鄭卿ら三千人を率いて渡口の偵察に出て、周昂に城の守りを残した。四月二十三日のことである。
  • 寘鐇が出城して社稷・旗纛の神を祭り、仇鉞を陪祭に呼んだが、仇鉞はまた病と称して出なかった。周昂が自ら見舞いに来ると、仇鉞は呻いて臥せるふりをし、下僕の陶斌らを伏せておいて、周昂が入るや鉄骨朶で撲殺し首を斬った。
  • 仇鉞はただちに甲を着け剣を佩き馬に乗って門を出て、壮士の楊真らを呼ぶと百余人が従った。まっすぐ安化府に向かい朱霞・孫景文ら十一人を捕らえて殺し、寘鐇とその子の台溍、儀賓の謝廷槐・韓廷璋、および一党の李蕃・張会通らを捕らえた。
  • 寘鐇の令と偽って何錦を呼び戻す一方、古興児を密かに遣わして鄭卿に反正を促した。何錦が兵を率いて戻る途中、鄭卿らは麾下の兵で胡璽・魏鎮ら十余人を撃殺し、「城中は事が定まった」と触れ回って賊の心を離れさせ、さらに河口に赴いて劉鉞・姜永を捕らえて殺した。賊は大いに潰えた。
  • 何錦・丁広・張欽・楊泰は身一つで逃げたが、賀蘭山の外で追い捕らえられ、申居敬らも捕らえられた。曹雄と楊英が相前後して寧夏に到着した。寘鐇の挙兵はわずか十八日で敗れた。

正徳五年五月〜八月(善後処置)

  • 帝は寘鐇の反乱を聞いて天下に詔を頒ち人心を慰安した。詔には軍に充てられた者や罰米を科された官員の宥免、糧草の徴収停止などが含まれ、内閣の草案から出たものである。さらに各地に派遣した官校を呼び戻そうとし、劉瑾は難色を示したが李東陽の言で従った。
  • 五月、涇陽伯の神英を総兵、太監の張永を総督軍務、太監の陸誾を神鎗管領とし、前右都御史の楊一清を提督に起用して中外の兵を率い寘鐇を討たせた。朝廷はまだ四月二十三日の顛末を知らなかったので出師したのである。神英らは京営兵を統べ、陝西諸鎮の兵馬と合流して分道して進剿することとした。
  • 劉瑾は詔を矯めて戸部侍郎の陳震を兵部侍郎兼僉都御史とし、寘鐇討伐と総制事の暫行を命じた。陳震は劉瑾に附いて光禄卿から戸部侍郎に昇った腹心である。寘鐇の反乱で衆論が楊一清を提督に推し、劉瑾は公論に屈してやむなく従ったが、楊一清は必ず辞退すると踏んで、その間を繕うため陳震を遣わし、成功すれば陳震を用いようと考えていた。
  • まもなく寘鐇が既に捕らえられたと聞き、楊一清は京軍を呼び戻して動揺を鎮めるよう上疏した。帝は神英に兵を率いて還るよう詔し、張永と楊一清はそのまま寧夏に赴いて地方を安んじるよう命じた。
  • 当時、「総督が京営兵を率いて寧夏を屠る」との噂が流れていた。楊一清は激変を恐れ、百戸の韋成に牌を持たせて寧夏の官・舎・軍・民に「大賊は既に擒となり地方は無事。天子が二人の重臣を遣わして撫定される」と諭させ、さらに「朝廷は首悪だけを誅し脅従は問わない。功ある者は録用を許す。各部の官員は人の誣告を聴いてはならない。訛言を造る者は軍法で処断する」と掲示した。
  • 侍郎の陳震が寘鐇に械を掛けて京師へ送ろうとした。楊一清は宗室に関わる事で処置が疎かでは他の変を生じかねず、また各犯には原謀と脅従の別があって情罪が一様でないのに一括して京へ送れば助かる者がなくなると考え、急ぎ止めさせた。既に河を渡っていたので、霊州に留め置いて楊一清を待たせた。
  • 太監の張永が鎮守・巡撫・巡按に檄して、王司・司公とともに首謀・共謀・随従などを区別して審理させた。鎮守・巡撫が逮捕した者は千余人に及んだが、楊一清は百余人を釈放した。申居敬・徐欽・程保らは本人だけを逮捕して家属も繋ぎ、正犯の誅殺後にその妻子を流すこととし、奏聞して法司の議を経て裁可された。
  • 楊一清はまた張永に言った。「恩と威は並び行われて背馳しない。大変の後で堂陛の序が崩れ、上下の分が分からなくなっている。この時にあたって偽の命・偽の符を造り、自ら大臣を刃にかけ、主将を殺してその家を奪った残党がまだ残っている。このままでは後を善くできない」。そこで密かに鎮守・巡撫に諭して指揮の馮経らを捕らえさせ、奏上して誅した。
  • 八月、太監の張永が帰京し、楊一清はそのまま陝西三辺の軍務を総制した。慶府の護衛を削り、寘鐇・何錦・丁広らは械を掛けて京に送られ、みな誅された。功を論じて仇鉞を咸寧伯に封じた。

史論(谷応泰曰)

  • 正徳二年四月に慶府の寘鐇が反し、十四年六月に寧府の宸濠が反した。逆の罪は等しく、それは動かない。
  • 古の天子は重きに居て軽きを馭し、まず根本を定め、次いで宗子を分封して藩屏を固めた。無事のときは職を修めて貢を称し土地を挙げて王に帰し、有事のときは甲を環らせ戈を荷って国難を救う。ゆえに家は苞桑のごとく裕かに、国は磐石のごとく鞏く、計は深遠であった。
  • 劉瑾は威で大臣を脅し権は万乗を傾け、刃を帯びて何羅のような謀を蓄え、術士は蒯通のような論を進めた。秦の二世のような禍も時を待つばかりだった。寘鐇が罪を声にして難を発し、君側を清めると志したのは、諸呂がいた時の劉興居の兵が叛でなく、武后が簒った時の徐敬業の兵が正であったのと同じ理屈ではある。
  • 惜しむらくは、巫覡に志を溺れさせ、命卿を擅殺し、狼狽して戈を執った。事変を観る智もなく、黄河のほとりで徘徊して乱を撥める心もなかった。それゆえ身を斧鑕に膏として秦人も哀れまなかったのである。とはいえ、扶蘇が沙丘の偽詔を受けて声を呑んで自裁し、湘東王が台城の命を得ながら甲を環らせて進まなかった例もある。枝を強くして本を固めるとは、どういうことなのか。
  • 寘鐇は一介の狂悖な小僧である。天がその衷を誘って狡猾に事を企てさせた。天はおそらく寘鐇を借りて逆璫の首を授ける資としたのだろう。寘鐇が反さなければ張永・楊一清の夜半の謀は成らず、寧夏が乱れなければ武宗の腹心の愛は断ち切れなかった。張父趙母(宦官・外戚)による社稷の憂いに、いつ終わりがあっただろうか。
  • 楊一清が道中で寘鐇の捕縛を聞くや急ぎ京兵を返し、悪党の誅殺を緩めたのを見よ。狡童の游魂は時に応じて剪滅されたが、璫の毒は深く人心は動揺しやすい。内憂が鎮まらぬうちは、外が寧かでも福ではない。豹房の計が行えて初めて戦勝の賀が廟堂にあったのだ。
  • ならば寧夏の功は寧夏にあるのではなく、楊一清が寘鐇に乗じて城社の奸を誅したことにある。南昌の捷も南昌にあるのではなく、王守仁が宸濠を滅ぼして覬覦の胆を寒からしめたことにある。ああ、いずれも大臣というべき人物である。