明史紀事本末劉瑾の専権(劉瑾用事)

武宗正徳元年(1506年)から正徳五年(1510年)までの、宦官劉瑾の専権とその誅殺までを扱う。東宮以来の遊芸で武宗に取り入った劉瑾ら「八虎」に対し、劉健・謝遷・李東陽と戸部尚書韓文が李夢陽に草させた疏で誅殺を迫ったが、焦芳の密告で計画が漏れて逆転し、王岳らが殺され劉健・謝遷は追われた。以後、劉瑾は司礼監を握って詔を矯め、奸党の榜示、巡撫と兵備の裁革、査盤と屯田丈量による誅求を行い、王守仁・劉大夏・韓文・楊一清ら多数を杖し流した。屯田丈量の苛政が安化王寘鐇の挙兵を招き、討伐に向かう楊一清が太監張永を説いて劉瑾の罪を上奏させ、正徳五年八月に劉瑾は捕らえられ凌遅に処された。ただし政権はなお魏彬・馬永成ら宦官の手に残った。

年表(7件)

武宗正徳元年(1506年)春正月

  • 神機営中軍二司の内官太監である劉瑾に、五千営の管掌を命じた。
  • 劉瑾は陝西興平の人。もとの姓は談。景泰年間に自ら去勢して劉太監の配下となり、その姓を名乗った。成化年間に教坊を管掌して寵を得たが、弘治初めに茂陵(憲宗の陵)の香番に退けられた。その後、東宮に侍することを得て、道化芸で太子に気に入られた。
  • 太子が即位したとき、劉瑾は鐘鼓司を掌っていた。鐘鼓司は内侍のうちでも下位である。劉瑾は仲間八人とともに、狗馬・鷹犬・歌舞・角觝で帝を楽しませ、帝は彼らに馴れ親しんだ。八人とは馬永成・高鳳・羅祥・魏彬・丘聚・谷大用・張永と劉瑾である。劉瑾はとくに狡猾で古今にもいささか通じ、常々王振を慕っており、この頃から次第に権を用いるようになった。

正徳元年六月〜冬十月(八虎排除の失敗)

  • 六月辛酉、郊壇の禁門、太廟の脊獣、奉天殿の鴟吻に落雷。大学士の劉健・謝遷・李東陽は、帝が八人と度を越して戯れていると聞き、連名で誅殺を請う疏を上った。「民生や国計に関わる政は聞き流され、近倖や貴戚に関わる事は牢固として動かせない。臣らは重き地位に居ながら虚しく肩書きを擁するばかりで、旨が中から出ても与り知らず、衆議で擬したものも変えられてしまう。臣らの言が是なら伝えて施行を賜り、非なら明らかに斥責されるべきなのに、留められたまま無いも同然に扱われる」。切直な言だったが返答はなかった。
  • 冬十月、戸部尚書の韓文は退朝のたび部下に語りながら涙を落とした。郎中の李夢陽が「公は国の大臣、義において休戚を同じくする身。泣くだけでは何の益もありません」と言い、韓文が「どうすればよい」と問うと、李夢陽は「近ごろ言官の章が入り交々内侍を弾劾し、章は内閣に下って閣老が強く押さえています。今この時に諸大臣を率いて死を賭して争えば、閣老は諸大臣が支えると見ていよいよ堅く持し、劉瑾らを除くのは容易です」と説いた。韓文は鬚を撫で肩を怒らせ「そのとおりだ。事が成らずとも、わしの年なら死ぬに足る。死ななければ国に報いられぬ」と言った。
  • 翌朝、韓文は密かに閣老に打診し、承諾を得て諸大臣に呼びかけ、皆が応じた。韓文は李夢陽に疏の草案を作らせ、読んで刈り込み「これでは文が過ぎる。上が理解できまい。長すぎては読み終えてもらえぬ」と言った。
  • 疏が成り、九卿諸大臣が連名で上言した。「臣らは股肱の列にあり、主が幼く国が疑わしい時に当たっている。天象を仰ぎ物議を俯して察し、夜中に嘆息し食事中に涙する事が幾度もあった。退いて嘆くより、死を冒して進言する方がよい。近年、太監の馬永成・谷大用・張永・羅祥・魏彬・劉瑾・丘聚・高鳳らは巧偽を弄して上心を淫蕩にし、あるいは毬を撃ち馬を走らせ、あるいは鷹を放ち兎を逐い、俳優雑劇を前に並べ、万乗の尊を人と交易させ、狎れ馴れしく礼体を失っている。日中の遊びで足らず夜に及び、精神を労耗し聖徳を損なっている。ゆえに天道は序を失い地気は寧からず、雷異・星変・桃李の秋の開花など、占って吉祥なものはない。この輩は君上を蠱惑して私を行うことしか知らず、皇天の眷命も祖宗の大業もみな陛下一身にかかっていることを知らない。高皇帝は艱難百戦して四海を得、列聖が継承して陛下に伝えられた。先帝が崩御に臨んで顧命された語も陛下は聞いておられよう。なぜ姑息に群小を左右に置き、夜通しの遊びと飽くなき欲で聖徳を累わせるのか。古来、閹宦の国を誤る例は、漢の十常侍、唐の甘露の変が明証である。永成らの罪悪は既に著しい。放置すれば禍は小さくない。永成らを縛って法司に送り、禍の萌しを消されたい」。
  • 疏が入ると帝は驚いて泣き、食事も取れなかった。諸閹は大いに恐れた。先に科道が相次いで群奸の排除を請うたが閣議が章を下さず、諸閹は既に窮して相対して涙していたところへ、諸大臣の疏が入ったのである。
  • 帝は司礼監八人を内閣に遣わして議させ、一日に三度も往復したが、劉健らは頑として下さなかった。司礼監太監の王岳も東宮の旧臣で剛直、仲間の所業を憎み「閣議が正しい」と一人述べた。
  • 翌日、突然、諸大臣を召す旨が出た。韓文に責を帰す者もいたが、韓文は応じなかった。左順門に着くと太監の李栄が諸大臣の疏を手にして「旨がある。諸大臣が君を愛し国を憂うる言はまことに正しい。ただ奴らは長く上に侍しており、すぐ法に処するに忍びない。しばらく寛くしてほしい。上が自ら処置される」と告げた。皆は顔を見合わせて言葉が出なかった。
  • 韓文は「今、海内は民が窮して盗が起こり、天変は日に増している。群小が上を導いて遊宴に度なく万機を放棄させているのに、我ら卿佐の列にある者がどうして黙っていられよう」と言った。李栄は「疏は具さに読まれた。上とてご存じないのではない、ただ少し寛くしたいだけだ。上には必ずお考えがある」と答えた。吏部侍郎の王鏊が「もし処置されなかったらどうする」と問うと、「それは私が引き受ける。私の首は鉄でできているとでも。国是を誤るものか」と答えた。
  • この日、諸閹はいよいよ窮し、自ら南京への配置を願い出たが、閣議はなお承知しなかった。王岳と司礼太監の范亨・徐智らも韓文らを助けて密奏し、帝はやむなく許した。翌朝に旨を発して劉瑾らを捕らえて獄に下すはずだった。
  • ところが吏部尚書の焦芳は劉瑾と親しく、この計画を漏らした。劉瑾らも王岳の密奏を知っており、八人は夜に帝の前に駆けつけ、円くなって跪き頭を地に打ちつけて泣いた。「上の恩がなければ瑾らは磔にされ犬の餌です」。帝の顔色が動くと、劉瑾はすかさず「瑾らを害するのは王岳です」と言った。帝が理由を問うと、「王岳は東厰を掌っています。外では諫官の先生方が物を言っているといいますが、それはよいとして、閣議のとき王岳だけが『閣議が正しい』と言いました。これはどういう了見でしょう。そもそも狗馬鷹犬を王岳が買って献じていないとでも。瑾らだけを咎めるとは」。帝は怒り「王岳は捕らえる」と言った。
  • 劉瑾はさらに「狗馬鷹兎が万機に何の損がありましょう。今、左班の官が憚りなく騒ぐのは司礼監に人がいないからです。人があれば上の思うままにでき、誰も物が言えません」と言った。帝は怒り、その夜のうちに劉瑾を司礼監掌管兼提督団営に任じ、丘聚に東厰、谷大用に西厰を提督させ、張永らも営務を掌って要地を占めた。
  • 劉瑾は夜のうちに命を伝えて王岳・范亨・徐智を榜示して南京へ追い、外廷はこれを知らなかった。朝、闕に伏したところで旨が下り、劉健らは事の不可を知ってそれぞれ辞任を願った。劉瑾は詔を矯めて劉健・謝遷を致仕させ、李東陽だけを留めた。閣議のとき劉健は案を推して泣き、謝遷も劉瑾らを罵ってやまなかったが、李東陽だけがやや沈黙していたからである。
  • 李東陽は「臣ら三人は責任が同じなのに臣だけ留まるのでは、何と言って天下に謝せばよいのか」と上言したが、許されなかった。劉健と謝遷が発つとき、李東陽は餞して涙を流した。劉健は色を正し「今さら泣いて何になる。あの日に一言出していれば、我らと共に去れたものを」と言い、李東陽は答えられなかった。
  • 劉瑾はまもなく詔を矯めて王岳と范亨を途中で追って殺させ、徐智は腕を折られたが命は助かった。当初、朝廷を挙げて劉瑾を誅そうとしたとき、兵部尚書の許進は「この輩は疎斥すれば足りる。事を厳しくすれば甘露の変のようなことになる」と言ったが、果たしてそのとおりになった。
  • 刑科給事中の呉翀と山西道御史の劉玉がともに、劉瑾の佞倖ぶりと顧命大臣の追放を論じ、劉健・謝遷の留任と劉瑾の処刑を請うた。帝は怒って獄に下し、民に落とした。
  • 劉瑾は志を得ると、内は帝の意に迎合し、外は日々厳しい法文で臣下を追及して自救に追われさせ、誰も進言できなくした。帝は喜んで、いよいよ劉瑾は任せられると考えた。
  • 劉瑾は取り繕いも巧みだった。谷大用が鎮守太監の言として臨清に皇店を開くよう請うと、劉瑾は献策者を捕らえて罪に処した。馬永成が私情で錦衣百戸の邵琪を昇進させようとすると、劉瑾は認めなかった。丘聚が東厰を主宰して恣にし劉瑾に逆らうと、その事を暴いて留都へ回した。王琇が大内に新邸を建てて帝を住まわせ、商人に物資を蓄えさせて計吏に代わって内帑に納入させ、余剰の利を多く得たと聞くと、劉瑾は怒って「天子が税糧の納入を請け負うことがあるか」と言い、その者を罪に問い、事は沙汰止みとなった。これほど巧みに偽り飾ったのである。

正徳元年(続き・劉瑾政権の確立)

  • 吏部尚書の焦芳に文淵閣大学士を兼ねさせ、入閣させた。焦芳は密かに劉瑾と通じており、劉瑾が引き入れて表裏一体で奸を行った。成憲を紊し臣下を桎梏し言路を塞ぎ軍民を酷く扱ったのは、みな焦芳が導いたものである。
  • 欽天監五官監候の楊源が上言。「八月初め、火星が角宿・心宿に入り中星が揺れ動き、天璇・天璣・天権の三星が明るくない。元老大臣に親しみ、内侍の寵倖を退け、深宮に安居して嬉戯を絶ち、遊猟を禁じ弓馬を罷め、号令を厳にして軽々しく出入りされぬよう」。章は礼部に下された。
  • 左都御史の張敷華は「政令は乱れ、百臣が争っても足らぬのに、数人の幸臣が壊すには余りある」と上言し、工部尚書の楊守随は「劉瑾ら八人は上を欺き下を誣い、恣に情を肆にしている。なかでも劉瑾が甚だしい」と述べたが、いずれも返答がなかった。
  • 劉健らが致仕すると、給事中の呂翀と劉茝が留任を疏請した。これを聞いて南京六科給事中の戴銑ら、十三道御史の薄彦徽らが上疏し、権閹を斥け国法を正し、輔弼の大臣を留めて社稷を安んじるよう請うた。劉瑾は旨を矯めて緹騎を遣わし錦衣衛の獄に捕らえた。
  • 戸部尚書の韓文を罷免。劉瑾は韓文を恨み、日々その過失を窺わせていた。内府に納める折銀に贋物が混じっていたのを機に旨を矯め、「防奸を怠った」として職を落とし閑居させた。帰郷の途では密かに邏卒を放って監視させたが、韓文は騾馬一頭に乗り野の宿に泊まって去った。
  • 戸科給事中の徐昂が「韓文は九卿を率いて上疏したもので忠憤の発露であり、停職に処すべきでない」と上言し、除名されて民とされた。韓文の子で高唐州知州の韓士聡と刑部主事の韓士奇も籍を削られ、戸部郎中の李夢陽は山西布政司経歴に降格され、まもなく罷免された。
  • 劉瑾は詔を矯めて張敷華・楊守随を致仕させ、宣府総督の劉宇を張敷華の後任とした。劉宇は焦芳に附いて劉瑾と結んだ者で、まもなく兵部尚書となった。
  • 十二月、吏部尚書の許進が「南京の科道はみな要職なので、南京の部属に暫時兼任させ、各官の取り調べが終われば復職させたい」と奏した。劉瑾は怒って旨を矯め、許進の俸を罰した。許進はもと兵部で劉瑾とともに京営を監督していたが、吏部に移ってからは意見が合わず、劉瑾に恨まれていた。
  • まもなく劉茝・呂翀および戴銑・薄彦徽ら二十人がそれぞれ廷杖を受けて除名され民とされた。劉瑾はさらに詔を矯めて、南京兵部尚書の林瀚を浙江左参政に降格して致仕させた。劉瑾はかねて林瀚の正直を憎んでいたが、南京の科道官が言事で逮捕された際、林瀚だけが餞別を送りに行き、上章して弁護しようとしたと聞いていよいよ怒り、科道の供述に林瀚を絡めて降格したのである。南京副都御史の陳寿だけが弁護の疏を上げたが、これも詔を矯めて除名した。
  • 兵部主事の王守仁が上疏。「戴銑らは諫官の職にあり、言うのが職務です。その言が善ければ嘉納すべきで、善くなくとも包容して忠讜の路を開くべきです。それを突然拘囚されました。陛下のお心は少し懲らしめて後日に軽率な議論をさせぬためで、本気で怒って絶とうというのではないのでしょう。しかし下民は無知で疑懼を生じます。廷臣は皆この挙を非としながら、陛下のために言わないのは、憂国愛君の心がないからではなく、戴銑らを罰したのと同じ理由で罰されることを恐れ、国事の助けにならず陛下の過挙を増すだけだからです。臣が恐れるのは、今後は宗社の危機に関わる事があっても陛下が誰からもお聞きになれなくなることです。まして今は厳寒。派遣した官校の督束が厳しすぎて、戴銑らが道中で命を落とせば、陛下に諫臣を殺す心があったとされ、後で左右に言う者がなかったと悔いても遅い。先の旨を撤回して戴銑らを旧職に復し、大公無我の仁を広げ、過ちを改めるに吝かならぬ勇を示されれば、なんと立派なことでしょう」。
  • 劉瑾は怒って詔を矯め、五十の杖刑を加えた。王守仁は死んで蘇生し、貴州龍場駅丞に貶された。左遷後も劉瑾は途中で殺そうと人を遣わした。王守仁は銭塘に至って免れぬと思い、夜に乗じて投身を装い、冠と履を水面に浮かべ「百年の臣子 悲しみ何ぞ極まらん 夜夜の江濤 子胥に泣く」の句のある詩を遺した。浙江の藩司・臬司も郡守の楊孟瑛も信じて江上で祭り、家人も喪服を着けた。王守仁は姓名を隠して武夷山に入ったが、やがて父の王華のことを慮って駅へ赴いた。王華は当時、南京吏部尚書だったが、劉瑾に致仕を強いられた。
  • 帝は天下の章奏をすべて劉瑾に付した。劉瑾は雑戯や玩具で帝を楽しませ、帝が興じているときに章奏を多く出して裁可を求めた。帝は「お前を使っているのに、なぜいちいち朕を煩わせる」と言い、これによって劉瑾は自ら政を裁するようになった。
  • 劉瑾も初めは内閣に旨を擬させたが、筆を執る者は劉瑾の意を先回りして書き、重大な事は堂候官を劉瑾のもとへ遣わして確認してから筆を下した。後には劉瑾は自邸で擬して行い、その多くは松江の張文冕の手によった。張文冕はもと市井の仲買人で、法を犯して南京兵部尚書の何鑑に捕らえられたが逃亡し、劉瑾に取り入って重用された。
  • 府部などの衙門の官は公事を稟すため日々劉瑾の門で待ち、科道・部属以下はみな長跪した。大小の官が命を受けて地方に出る時も帰京した時も、朝見の後に必ず劉瑾のもとへ挨拶に行くのが常となった。ただ劉瑾自身の建白の本だけは内閣に旨を擬させ、李東陽らは必ず「爾は剛明正直、国のために弊を除く」などと極力称賛した。識者はこれを卑しんだ。
  • 劉瑾は禁直の指揮に六科の官を点検させ、辰の刻に入り酉の刻に出るまで席を離れさせなかった。

正徳二年(1507年)

  • 春正月、劉瑾は旨を矯めて、尚宝卿の顧璿と副使の姚祥を長安左右門外に、郎中の張瑋を張家湾に枷で晒した。規定に反して輿に乗ったのを東厰に摘発されたためである。劉瑾は韓文の帰路を邏卒に監視させたが何も得られず、たまたま顧璿らの件があったので上奏したのである。大学士の李東陽が力を尽くして救ったので、瀕死のところでようやく釈放され、それぞれ流謫となった。
  • 閏正月、劉瑾は詔を矯めて吏部・兵部に、文武の官の進退はすべて事前に劉瑾のもとで詳議するよう命じ、両京の都察院と各道の奏章も必ず堂に呈して詳細を報告してから上聞させることとした。
  • 二月、都御史の曹元を陝西巡撫とした。もと劉瑾と親しかったからである。
  • 劉瑾は詔を矯めて科道に天下の軍民の府庫を査盤させ、留保分はすべて京に納めさせた。郡県の蓄えはこれで空になった。
  • 三月、劉瑾は詔を矯めて奸党を朝堂に榜示し天下に頒示した。「朕は幼くして位を嗣ぎ、廷臣の輔弼を頼りとしてきた。ところが昨年、奸臣の王岳・范亨・徐智が威福を弄び是非を顛倒し、私に大学士の劉健・謝遷、尚書の韓文・楊守随・林瀚、都御史の張敷華・戴珊、郎中の李夢陽、主事の王守仁・王綸・孫□・黄昭、簡討の劉瑞、給事中の湯礼敬・陳霆・徐昂・陶諧・劉茝・艾洪・呂翀・任恵・李光翰・戴銑・徐蕃・牧相・徐暹・張良弼・葛嵩・趙仕賢、御史の陳琳・貢安甫・史良佐・曹蘭・王弘・任諾・李熙・王蕃・葛浩・陸崑・張鳴鳳・蕭乾元・姚学礼・黄昭道・蒋欽・薄彦徽・潘鏜・王良臣・趙祐・何天衢・徐珏・楊璋・熊倬・朱廷声・劉玉と互いに通じ牽強付会し、それぞれ不安を抱いて自ら退職を申し出た。勅内に名のある者は吏部が致仕させよ。悪が熟してから悔いても及ばぬ」。この日、朝が終わると廷臣を金水橋の南に跪かせて詔を聴かせた。
  • 劉瑾は詔を矯めて、京官で病気療養として三年出仕しない者を革して民とし、期間の短い者には厳しく期限を切って上京・選考を命じた。科道などが自分に逆らって療養を口実に禍を避けているのを知り、厳しく禁じたのである。
  • 夏四月、劉瑾は詔を矯めて内閣に勅を撰させ、天下の鎮守太監が刑名・政事に関与できるようにした。最も害が大きかったのは河南鎮守の廖堂で、民財を剥ぎ取って数十万を京師に送った。畢真は初め天津に海産物を取りに遣わされたが、後に勅を請うて山東の沿海から蘇州・松江・浙江・福建まで、行く先々で民財を括り官司を侮辱し、誰も物が言えなかった。
  • 従来、六部の奏で裁可された事は内閣に送って勅書を請う手続きだったが、六部を経ずに内閣が自ら勅を出したことはなかった。劉瑾が内閣に付してこれを創始し、李東陽らは執奏もできず唯々と従うのみだった。
  • 南京巡撫右副都御史の艾璞を逮捕し獄に下した。魏国公の徐俌が無錫の民家と田を争い、艾璞は田を民に返した。徐俌は劉瑾に賄賂を贈って再調査の官を出させ、使者は劉瑾の意を汲んでその田をすべて勲戚に与え、艾璞の前の裁定を非とした。劉瑾は旨を矯めて詔獄に逮送し訊問したが、艾璞は屈せず「これは実に民田だ」と言った。劉瑾は怒って鞭打ち、艾璞は死にかけて数日後にようやく蘇り、海南に流された。
  • 礼部尚書の李傑を罷免。晋府鎮国将軍の袁槏が劉瑾に賄賂を贈って郡王への封を求めたが、李傑は「皇帝の祖訓に載せられていない」として認めなかった。劉瑾は旨を矯めて許可し、李傑を罷めさせ、前礼部尚書の張昇を後任とした。張昇も初め劉瑾に逆らって致仕し、復職後もまた合わずに罷められた。
  • 寧王宸濠が劉瑾に厚く賄賂を贈り、先代で削られた護衛の復活を求めた。劉瑾は旨を矯めて与えた。
  • 劉瑾らは工科給事中の陶諧を誣告して逮捕し、廷杖のうえ職を落として民とした。陶諧は前後の上疏で遊興を戒め讒佞を遠ざけ、急を要さぬ工事の停止、塩の販売や織造への差官派遣を論じ、群奸の欺蔽の罪を直に指弾していた。劉瑾らはこれを深く恨み、後に別件で逮捕して百方に罪を探したが、陶諧はついに屈せず、杖のうえ粛州衛に流された。
  • 五月、講官の詹事・楊廷和を南京戸部右侍郎、学士の劉忠を南京礼部右侍郎とした。従来、経筵が終わると必ず諫言を献じる慣例だったが、この日、楊廷和と劉忠は直言した。講が終わると帝は劉瑾に「経筵の講官のくせに、なぜあんなに口数が多い」と言った。劉忠も楊廷和も旧東宮官だったので、劉瑾は「二人は南京へやるべきです」と奏し、この転出となった。南京に欠員がなかったので添え役とされ、昇進の形でありながら実は遠ざけたのである。
  • 劉忠が楊廷和に「この赴任にあたって劉瑾に暇乞いすべきか」と問うと、楊廷和は「劉瑾の所業はこのとおりだ。二度と会うべき人物ではない。会えば我らが劉瑾と通じたと思われよう」と答え、劉忠も深く同意した。しかし楊廷和は蜀錦を贈って劉瑾に辞去を告げた。劉瑾は「劉先生は私を足らずと見るのか」と言い、以後、楊廷和を厚遇し劉忠を疎んじた。
  • 当時、劉宇が兵部を掌り、保国公の家人・朱瀛を介して劉瑾と通じ、日に何度も往来していた。兵部郎中の楊廷儀は楊廷和の弟で、朱瀛が出てくるたび私室に招き入れて長く語らった。四司の官で劉宇に附かぬ者があれば、朱瀛が劉瑾に告げて地方へ出させた。楊廷儀だけは劉宇に諂い、文才があったので劉宇の章奏はすべて楊廷儀が代作した。
  • 吏部が両広総督右都御史の熊繡を南京都察院掌管に推したが、劉瑾は詔を矯めて致仕させた。熊繡は兵部にいたとき中貴と怨みを結び、両広では供応を裁革して日々の給与は数升の廩米だけという清廉ぶりだった。劉瑾は人を遣わして粗探しさせたが、使いは嘆息して帰り、劉瑾はついに害せなかった。熊繡は帰郷の日、紙筆や薬に至るまで一切持ち出さなかった。
  • 六月、給事中の許天錫は登聞鼓の訴状を自ら作り、時弊を力説したが、懐に入れたまま奏する勇気が持てず、屋梁で首をくくって死んだ。許天錫は弘治年間から言事に気節があった。同じ頃、給事中の郤夔は榆林の功次を検分したが、劉瑾の私人の冒功が多く、記載も難しく、やはり自ら首をくくって死んだ。給事中の周鑰は使いから戻る際、劉瑾に贈る賄賂の当てがなく、桃源の舟中で自刎した。
  • 劉瑾が天下の提学官を廃止しようと議したが、吏部尚書の許進が「提学は人材育成の本」と執奏して阻止した。
  • 太監の李栄が旨を伝え、御馬太監の谷大用の父の奉御、用太監の張永の父の張友をともに錦衣衛指揮使に昇進させ、まもなく都督同知に進めた。内臣の父兄に官を授けるのはこれが始まりである。
  • 秋八月、欽天監五官監候の楊源が「正徳二年以来、火星が太微垣の帝座の前に入り、東に西に往来が定まらない」と奏し、患いを思って予め防ぐよう勧めた。劉瑾を指したものである。劉瑾は激怒し「楊源は何の官だ、忠臣を気取るとは」と言い、旨を矯めて錦衣衛に逮送し杖三十のうえ粛州に流した。楊源は懐慶で死に、妻の度氏は蘆荻を刈って屍を覆い、駅の裏に葬った。楊源の父の御史・楊瑄は曹吉祥・石亨を弾劾して嶺外に流されながら生還できたが、楊源は忠直で父に恥じなかったのに命を落とし、朝野は悲しんだ。
  • 劉瑾は姪の婿で納粟監生の曹謐を千戸に改め、妹の夫で致仕した礼部司務の孫聡を大同軍務の賛画に起用した。
  • 冬十月、南京戸部尚書の楊廷和が入朝すると、戸部尚書兼文淵閣大学士に改めた。南京の尚書が入閣するのは楊廷和が始まりである。
  • 張綵を再び文選司郎中に起用した。張綵は容姿風采に優れ、以前に文選郎だった時から焦芳と気が合っていたが、給事中の劉茝に弾劾されて帰郷していた。焦芳が劉瑾に推薦したのである。張綵は劉瑾と同郷だったが、参内して数日経ってから劉瑾を訪ねた。劉瑾は喜んで笑顔で迎え「よいぞ同郷。外官の多くは事情を知らず朝の後すぐ来る。同郷が遅れて来たのは最も心得ている」と言った。
  • 当時、許進は験封郎中の石確を文選に移す議で疏を上げていたが、劉瑾は張綵を用いたいので許進に迫って石確の疏を撤回させ、張綵に差し替えた。まもなく張綵を右僉都御史とした。合水の韓鼎も劉瑾によって戸部侍郎に昇り、張綵と同時に廷謝した。韓鼎は先に謝したが老いて拝礼もままならず、吃って言葉も出ない。谷大用・張永らが屏風の後ろで笑った。劉瑾は恥じて「まあ次を見よ」と言った。張綵が謝し終えると皆は「よい男だ。推挙に背かぬ」と嘆じた。張綵が帰りに立ち寄ると、劉瑾は酒肴を用意して待ち「都憲がいなければ、わしは老韓のせいで恥じ死にするところだった」と言い、いよいよ親密になった。
  • 十一月、劉瑾は詔を矯めて天下の巡撫を廃止した。
  • 科道を各辺に遣わして飼葉と兵糧の査盤を始めた。劉瑾は辺地で商人を召して納入させる制度(開中)の積弊を知っており、科道官を三年に一度派遣して査盤・報告させた。米が粗く籾が混じり、草が湿って腐っているものがあると、旨を矯めて各巡撫と管糧郎中を逮捕して獄に下し、鎖につないで任地へ押送し、倍額を弁償させた。商人が納入済みで代金未払いのものはすべて官没して支給しなかった。これで商賈は困窮し辺境の備蓄は日に乏しくなった。
  • 劉瑾は詔を矯めて天下の按察司の兵備官を裁革した。
  • 十二月、順天府丞の趙璜を詔獄に下し民に落とした。趙璜は済南知府時代に鎮守の中貴を抑えたので恨まれていた。
  • 四川巡撫都御史の劉纓が、蜀の水路が険悪なので巫山道を開いて彝陵から夔州へ通じさせたいと請い、旨が下る前に道を開いた。劉瑾は旨を矯めて械につないで詔獄に下したが、廷臣の弁護で釈放された。

正徳三年(1508年)

  • 春正月、劉瑾は朝覲の官に対し、布政司ごとに銀二万両を納めさせた。
  • 朝覲官の考察の奏が上がると、翰林学士の呉儼は家が富裕で、以前に劉瑾の求めに応じなかった。御史の楊南金は都御史の劉宇に廷杖され、恥に堪えず療養を口実に退いていた。劉瑾は旨を矯めて奏の末尾に書き加えた——「学士の呉儼は帷幕を修めず、致仕。御史の楊南金は病と偽り、民とする」。
  • 李夢陽を逮捕して錦衣衛の獄に下し、まもなく釈放した。李夢陽は韓文に代わって疏を起草した件で既に左遷されていたが、劉瑾はなお許さず、別件を構えて京に械送し獄に下し、殺そうとした。
  • 当時、翰林修撰の康海は李夢陽と並ぶ才名で、互いに自負して譲らなかった。劉瑾は康海を慕って門下に招こうとしたが康海は行かず、劉瑾から先に働きかけても康海はいつも隙をみて逃げ、ついに一度も会わなかった。
  • ここに至って、李夢陽の食客の左某が獄を訪ね「あなたはもう生路がない。ただ康子だけが解ける」と言った。李夢陽は「私は康子と互いに譲らぬ間柄。今、死生の際になって頼るのは心に恥じないか」と言ったが、左某は「李子ともあろう者が匹夫の小義に拘るのか」と強いて説いた。李夢陽はついに紙片に数字を書いた——「対山、我を救え。ただ対山のみ我を救える」。対山は康海の別号である。
  • 左某が書を持って訪ねると、康海は「それは確かに私の役目。悪人に会うのを惜しんで良友のために咎を避けぬわけにはいくまい」と言い、劉瑾を訪ねた。劉瑾は大喜びで上座に迎えた。康海は「昔、唐の玄宗は高力士を寵し群臣に冠絶させたが、李白のために靴を脱がせた。公にできますか」と言った。劉瑾が「先生のためなら役に立ちましょう」と答えると、康海は「そうではない。李夢陽は李白よりも上なのに、公は援けようとしない。それでいて白のために靴を脱ぐと言われるか」と言った。劉瑾は「これは朝廷の事だが、承ったからには先生のために図りましょう」と答えた。康海は帯を解いて明け方まで酌み交わして別れた。李夢陽はこれで釈放されたが、康海は劉瑾と往来したことでついに清議の非難を受けることとなった。
  • 左都御史の屠滽が院務を掌っていたある日、帝の重囚審録の本文に「劉瑾伝奉」の字が重複して多かった。劉瑾は怒って罵り、屠滽は十三道御史を率いて謝罪した。御史たちは階下に跪き、劉瑾がその罪を数え上げて叱責する間、皆叩頭して仰ぎ見ることもできず、長く経ってようやく立った。
  • 二月、前都御史の雍泰を提督操江に起用。かつて馬文升・劉大夏が交々推薦し、給事中の潘鐸らも「死を恐れぬ節と乱を克する才がある」と疏した。許進が劉瑾に推薦し、劉瑾は同郷ゆえに起用した。郷人が雍泰に劉瑾への謝礼を勧めると、雍泰は「進退は天にある。私をどうしようというのだ」と言った。
  • 三月、翰林院編修の顧清らを部の属官に改めた。焦芳の子の焦黄中が会試に合格し、焦芳は首席を望んだが呂柟が第一で焦黄中は二甲の首だった。焦芳は試験官が抑えたと考え、劉瑾に告げて顧清らを転任させ、焦黄中に簡討を授けた。劉宇の子の劉仁ら六七人もみな庶吉士とされ、数か月で焦黄中・劉仁らはいずれも編修に抜擢された。
  • 劉瑾が荘田を整備するにあたり、天地壇の裏を勝手に掘り、厰官の地五十余頃を侵し、官民の家屋三千九百余間を壊し、民間の墳墓二千七百余基を暴いた。
  • 湖広按察司僉事の湯沐を武義知県に降し、江西按察司副使の陳恪を罷免。陳恪と湯沐は御史時代に劉瑾に逆らったためである。
  • 御史の塗禎を逮捕し、獄死させた。塗禎は江西新淦の人。江陰県令として治績が天下第一と奏され、御史に召された。長蘆の塩課を巡按したとき、劉瑾がその年の余塩の銀を送るよう命じたが従わず、恨まれた。復命して朝門で待つ間、劉瑾に会っても礼をしなかった。劉瑾は旨を矯めて錦衣衛の獄に下し、杖のうえ粛州衛に流したが、塗禎は重傷で獄死した。さらに原籍を調べて子の塗樸を軍籍に補充させ、劉瑾の失脚後にようやく解かれた。
  • 前総制三辺都御史の楊一清を逮捕し、まもなく釈放した。楊一清は辺境巡視の上疏で戦守の策を陳べ、東勝の守備を復して数百里の屯田を開き内地からの輸送を省くよう請い、裁可されて辺墻の築造に着手し完成期限を切っていた。しかし劉瑾は楊一清を憎んで罷免し、工事も中止させた。この時さらに「辺墻築造で費用を浪費した」として詔獄に下したが、大学士の王鏊が劉瑾に「楊一清は高才重望で、国のために辺を修めた。それが罪となりましょうか」と説き、李東陽も力を尽くして救ったので釈放された。
  • 夏四月、劉瑾は湖広の災害を名目に、同郷の侍郎・韓福を糧餉の管理に派遣した。韓福は苛斂誅求して数万両の銀を贈った。復命後さらに副都御史を兼ねて湖広の未納税の督理に当たり、民は大いに苦しんだ。
  • 御史の王時中を逮捕して獄に下した。正徳初め、王時中は劉瑾を弾劾する疏を上げて恨まれ、名を屏風に記されていた。宣府・大同の巡按として綱紀の緩みを見て極力引き締めたが、総督の劉宇は劉瑾の私人で、贓吏の件で王時中に頼んで断られていた。劉瑾の恨みに劉宇の讒言が加わり、詔を矯めて逮捕、重い枷を掛けて三法司の前に立たせた。三日で何度も倒れ死にかけたが、李東陽が救って釈放された。
  • 王佐を南京戸部尚書とした。当時、科道を各辺に遣わして糧秣を査覈させ、歴代の巡撫の憲臣が多く連座して獄につながれていた。王佐が尚書の顧佐らと劉瑾に会ったとき、劉瑾がこの件に触れて「朝廷は必ず大いに誅戮するだろう。恐ろしいことだ」と言うと、王佐は「本朝は大臣を戮したことがありません」と答えた。許進を誹謗する者があり、劉瑾が諸大臣に「許進は奸邪だ。尚書の劉宇なら吏部を任せられる」と言うと、王佐は「私は劉尚書とは親しく許尚書とは浅い間柄ですが、許尚書は元来人望があり、劉尚書は及ばぬかと存じます」と答えた。誹謗者はこれを「王佐は許進の党だ」と告げ、劉瑾は怒ってこの転任を命じた。ひとまず遠ざけて後で処分する腹だった。
  • 劉瑾は詔を矯めて進士の陳璋を致仕させた。陳璋は弘治乙丑の進士で、帰郷して終身母を養おうとしたが、母が「孝子を捨てて忠臣になった話は聞かない。私はお前の禄で養われれば十分だ」と諭して上京を促した。京に着いた時は劉瑾の専権期で、罪を得て致仕させられた。許進は朝廷で「古今、進士で致仕した者があるか」と唱えて助けようとしたが力及ばず、同僚は劉瑾への贈賄を勧めたが、陳璋は「官が賄で成るなら、私はやらぬ」と言い、悠然と帰途についた。帰宅して二十日ほどで母が亡くなり、「天が孝子を成就させたのだ」と議された。劉瑾誅殺の後、詔に応じて起用された。
  • 五月、南京が大飢饉。劉瑾は詔を矯めて米三十三万石を鳳陽へ回して救恤させようとしたが、南京兵部尚書の何鑑が「留都は鳳陽より重く、災害も淮西より甚だしい」と執奏して止め、ようやく官を遣わして賑済させた。
  • 劉瑾は詔を矯めて、故戸部尚書の秦紘と通政の強珍の財産を没収し家属を流した。
  • 西厰太監の谷大用は邏卒を四方に放ち、南康の民・呉登顕ら三家が端午に競渡して勝手に龍舟を造ったと摘発して捕らえ、家産を没収した。以後、辺鄙な州県でも華やかな衣や立派な馬を見れば京師の言葉で互いに告げ合い、官司は密かに賄賂を贈るという有様で、人々は落ち着いて座ることもできなくなった。
  • 六月、鎮守太監の廖堂が内外の官を推薦し、あらかじめ昇進・異動を擬した。吏部も多く従った。吏科給事中の何紹正が「廖堂は旨を奉じて賢否を察するとはいえ、任用の異動は吏部に付すべきだ」と弾劾し、帝は廖堂を責めて推薦者の件を御史に下した。
  • 朝官三百余人を詔獄に下した。早朝、丹墀に文書が落ちており、拾って進めると劉瑾の不法を告発する内容だった。劉瑾は激怒して旨を矯め、百官を奉天門の下に跪かせ、内監たちは門の東に立って監視した。しばらくして大臣を出させ、翰林院の官を東向きに跪かせて「内監はふだん礼遇しているのに、翰林ともあろう者がこんなことをするか」と言い、御史らも東向きに跪かせて「御史は法度を知る身でありながら、こんなことをするか」と言った。
  • 猛暑で十数人が倒れ、劉瑾は引きずり出せと命じた。内監の黄偉が憤って「書の言うところはみな国のため民のためだ。好漢なら死ぬなら死ぬで自ら名乗り出よ。なぜ禍を他人に転嫁する」と言った。劉瑾は目を怒らせ「どこが好漢だ。露章せず匿名にしたのだから匿名は死罪だ。まして御前でのことだ」と言って諸監を中へ引き入れた。李栄が「入った、諸君しばし楽にせよ」と言い、内竪に氷瓜を投げさせた。やがて劉瑾が戻ってくると李栄が「来たぞ」と告げ、皆また跪いた。劉瑾は睨んで怒り、再び中へ入り、日暮れまでに全員を詔獄へ送った。長安の飯屋は百官の食を市中で争って売った。
  • 翌日、李東陽が救済の疏を上げ、劉瑾も内寺から出たものと薄々気づいて釈放された。帝は匿名の書を手にして「お前らが賢だと言うから朕は用いず、不賢だと言うから今用いるのだ」と言い、李栄と黄偉を退けた。劉瑾の専横はいよいよ増した。
  • 前戸部尚書の韓文を逮捕して獄に下した。劉瑾は既に韓文を落職させていたが怒りが収まらず、戸部広東司の簿籍紛失を口実に官校を遣わして械送し、錦衣衛で取り調べて殺そうとした。数か月監禁し、米二千石を大同で自ら納めさせた。当時、劉瑾に逆らって去った諸大臣はみな旧事を誣せられて辺境への納粟を命じられた。尚書の王佐・張縉・楊守随・何鑑、都御史の熊繡・孫需・戈瑄らも免れず、家産を売っても足りず借金で償う者があり、縉紳は騒然となった。
  • 給事中の安奎・潘希曽、御史の張彧・劉子勵が査盤の件で相次いで劉瑾の意に逆らい獄に下された。安奎と張彧は枷を掛けられて死にかけたが、李東陽の救済で釈放された。潘希曽と劉子勵は杖三十のうえ民とされた。
  • 秋七月、雍泰を南京戸部尚書とした。劉瑾は雍泰が自分に附かぬのを恨み、併せて許進も逐おうとして、まもなく詔を矯めて雍泰を致仕させた。保国公の家人・朱瀛は許進を失脚させ劉宇を代えようと図り、許進がかつて雍泰を推薦したのを機に劉瑾に言った。「許尚書は恭謹を装いながら外には剛直を示します。雍泰は山西按察使・宣府巡撫の時、剛暴で属吏を辱め、朝廷が度々貶して用いなかった者です。今、許進は公を欺いて起用し、しかも公が同郷ゆえに用いたので吏部の本意ではないと言いふらしています」。
  • 劉瑾は激怒し、即座に前文選郎中の張綵を召して「雍泰の貶謫の件はどうなっている、なぜ奏内に備えて入れなかった」と詰問した。張綵は「奏稿には備さに載せてありましたが、許尚書が塗り消しました」と答えた。劉瑾が原稿を取り寄せて見ると果たしてそのとおりだったので、旨を擬して許進を「欺罔」として致仕させ、まもなく除名して民とした。馬文升と劉大夏も雍泰を推薦したとして籍を削られ、編修の劉瑞も推薦を理由に粟二百石を大同へ納めることを命じられた。
  • 八月、前兵部尚書の劉大夏と南京刑部尚書の潘蕃を逮捕して獄に下し、流刑に処した。劉大夏は兵部で勇士を革め、光禄の名目なき供進を削って年に官府の浮費数百万を省き、近幸の憎しみを買っていた。帰郷後も帝の怒りを煽る者があったが、太監の寧瑾はふだんから劉大夏を重んじており、叩頭して「これは先帝のご意向で、劉大夏の建白ではありません」と諫めて免れた。
  • また孝宗の召見の折、劉大夏は「劉宇が大同で官馬を私に飼って権貴に贈っている」と述べ、孝宗が密かに錦衣衛百戸の邵琪に調べさせたことがあった。邵琪は「馬を飼っているが贈ってはいない」と復命し、太監の李栄の弁護で劉宇は免れた。この旧怨から劉宇は劉瑾に「劉大夏の家を没収すれば数万金は得られる」と語り、焦芳も一緒に讒言した。
  • 折しも土目の岑猛が潘蕃を恨み、田州への復帰を図って劉瑾に賄賂を贈った。劉瑾は潘蕃のもとの奏と岑猛の獄詞を選び、劉大夏が兵部で議覆したことを口実に、詔を矯めて岑猛を田州同知とし、劉大夏と潘蕃を京に逮送して錦衣衛の獄に下し、土官を激変させた罪で死罪にしようとした。
  • 大学士の王鏊は「岑氏は叛いていない。何をもって激変というのか」と言い、都御史の屠滽も「劉大夏を深く罪すべきでない」と述べた。劉瑾は怒って罵り「死罪でなければ流刑もないというのか」と言った。李東陽が穏やかに取りなした。劉瑾は使いをやって劉大夏の家を探らせたところ実際に貧しかったので、劉宇と謀って潘蕃ともども広西流刑に擬した。焦芳が「それでは二人を家に帰すようなものだ」と言ったので、甘粛衛へ変更された。
  • 劉大夏が騾車を雇って都門を出るとき、見物人が垣のように並び、行く先々で市が閉じ、父老は涙を流し、士女は籠に果物を入れて差し出し、香を焚いて生還を密かに祈る者もあった。
  • 南京右都御史の張泰を南京戸部尚書としてから致仕させた。張泰は清貧で、都御史として聖寿を祝賀する表を奉じた際、劉瑾に土地の葛布を贈った。劉瑾はこれを恨み、吏部がこの職に推補したのを機に旨を矯めて致仕させた。
  • 劉瑾は詔を矯めて劉宇を吏部尚書、曹元を兵部尚書とした。
  • 南京提学御史の陳琳が「老成を惜しみ狂直を宥せ」と上言し、広東掲陽県丞に貶された。劉瑾が大臣を排斥し台諫を追い出したことに言及したためである。
  • 九月、江西按察司副使の王啓が劉瑾に逆らい、広西容県知県に降格された。王啓は御史時代に敢言して中貴に逆らい、劉瑾に恨まれていた。さらに広西の巡按に訊問させ、米三百石を官に納めさせた。劉瑾はまた旨を矯めて巡按御史の胡瓉を二年留任させた。劉瑾は陝西人で、胡瓉が自分に附かぬので留めたのである。まもなく遼東の件を論じて米三百石を罰せられた。
  • 劉瑾は各地の有司が災異を奏することを禁じた。
  • 冬十月、劉瑾は詔を矯めて翰林学士の張昺を鎮江府同知、修撰の何瑭を開封府同知とした。二人とも剛直で劉瑾に会っても礼をしなかったため、事にかこつけて貶したのである。
  • 陝西の挙人・郝序を獄に下した。郝序は戸部侍郎の郝志義の子で、父の死後に先例により祭葬を乞うたが、劉瑾は「洪武の礼制にその例はない」として錦衣衛の獄に下し流刑にした。劉瑾が政を専らにして以来、馬永成ら八党の父はみな都督に封じられ、墳墓の造営と葬祭を命じられた。その祭文はみな李東陽が撰し、台諫は物が言えなかった。
  • 劉瑾は旨を矯めて惜薪司の外厰を辦事厰、栄府の旧倉地を内辦事厰とした。既に西厰を立てて谷大用に領させていたが、劉瑾はさらに自ら内厰を領した。東西の厰よりさらに酷烈で、人はわずかな違法でも無事では済まなかった。市井の遊食無業の者、たとえば粉挽きや水売りまで追放したので、千余人が城外の東郊に集まり、白い棒を持って人を襲い「劉瑾を思い知らせてやる」と叫んだ。劉瑾は恐れて元に戻した。劉瑾はまた寡婦をすべて嫁がせ、喪中で未埋葬の遺体をすべて焼き捨てさせた。京師は騒然となり、劉瑾は変を恐れて首謀者一人を罪に処して衆心を鎮めた。いずれも内厰設立後の出来事である。
  • 劉瑾は詔を矯めて、天下の盗賊は親族まで連座して流刑に処すこととした。
  • 十一月、劉瑾は朝陽門外に玄真観を建て、大学士の李東陽が碑文を作って極力称頌した。

正徳四年(1509年)

  • 春正月、総督漕運副都御史の邵宝が致仕。当時、公卿の多くが劉瑾の門に出入りしたが、邵宝は一切通じなかった。劉瑾は幾度も危言で揺さぶったが動じない。劉瑾は漕運の帥である平江伯を憎み、その件が邵宝に関わったため怒り、禍は測りがたかったが、李東陽が力を尽くして解き、致仕して去ることができた。
  • 山西提学副使の王鴻儒を国子祭酒とした。山西で評判が高く、劉大夏がかつて孝宗に「大いに用いるべき人材」と称していたので、吏部が人望に従って挙げた。まもなく正を守って劉瑾に逆らい帰籍した。
  • 興化知府の張嵿を罷めて民とした。張嵿は刑部郎中の時、隆平侯の張佑が嗣子なく死んで弟・甥が襲爵を争い劉瑾に賄賂を贈った件で、劉瑾の依頼を受けても曲げなかった。正徳三年に興化を守り、劉瑾からの贈り物にも返礼しなかった。郡人の戴大賓が弱冠で及第すると、劉瑾は先の婚約を破棄させて自分の弟の娘を娶らせようと張嵿に頼んだが、これも拒んだ。劉瑾は怒り、隆平侯の奪爵の件を持ち出して誣告し、罷免して帰郷させた。
  • 二月、劉瑾は詔を矯めて吏部に、両京および地方の官の考察を随時行わせることとした。
  • 前大学士の劉健と謝遷を民に落とした。詔で懐才抱徳の士を挙げさせたところ、余姚の周礼・徐子元・許龍、上虞の徐文彪が応じた。劉瑾は四人がみな謝遷の同郷であり、詔の起草が劉健だったことから、これに乗じて害そうとした。旨を矯めて周礼らを鎮撫司に下して訊問させ、劉宇は劉瑾の意を汲んで「有司の推挙が実に反する」と弾劾した。鎮撫の供述は劉健・謝遷に及び、劉瑾はこれを内閣に持ち込んで家産没収を主張した。李東陽が徐々に説いてやや緩和したが、焦芳は「軽くしても除名は当然」と声高に言った。旨が下り、劉健・謝遷は除名、周礼らは辺境へ流され、余姚の人は以後、京朝官に選ばないこととされた。
  • 三月、銭璣を戸部尚書とした。劉瑾に附いていたため序を飛ばして用いられた。
  • 夏四月、大学士の王鏊が致仕。当時、劉瑾の権は内外を圧していたが、王鏊が誠意をもって語るのを見て初めのうちは聞くこともあった。しかし焦芳が用事するようになると迎合ばかりが行われ、劉瑾の矯悖は日々ひどくなり、毒は縉紳に及んだ。王鏊はこれを止めたかったが力及ばず、常に憂え顔だった。劉瑾が「王先生は高位にありながら、なぜ自ら苦しむのか」と言うと、王鏊は辞任を願った。劉瑾の意はいよいよ悪く、人々は禍を恐れたが、王鏊は「私は義において去るべきだ。去らぬことこそ禍だ」と言った。劉瑾は探りを入れたが何も得られず、三度目の疏で許され、璽書を賜り伝馬で帰郷した。当時、王鏊の辞任は危ういと見られていただけに、異例の待遇と評された。
  • 王雲鳳を国子祭酒とした。尚書の張綵が人望によって起用した。任命を受けて固辞しようとしたが、投書があって「執政者が『太祖の、寰中の士夫にして吾が用とならざる者は身を殺し家を滅ぼすべし』の語を口にしている」と告げた。王雲鳳の父で大司徒の王佐が「わしは老いた。お前は私をどこに置いて死ぬつもりだ」と言い、王雲鳳は泣いて赴任した。着任後、劉瑾に贈り物をしなかったので劉瑾は怒って重い禍を加えようとしたが果たせず、沙汰止みとなった。当時、国学の教育は廃れていたが、王雲鳳は条約を立てて諸生に示し厳しく取り締まり、士子はついに感服した。まもなく療養を願って帰郷した。
  • 劉瑾は詔を矯め、弘治年間に編纂された『大明会典』が祖宗の旧制を壊し新例を交えているとしてすべて毀たせ、吏部尚書の梁儲を右侍郎に降し、庶子の毛澄、諭徳の傅珪らも降職した。大学士の王鏊は致仕済みで追及を免れ、李東陽だけが元のままだった。
  • 五月、広東兵備僉事の呉廷挙を逮捕して獄に下した。鎮守が恣に横暴だったので、呉廷挙が太監の潘忠の二十の罪を弾劾し、劉瑾にも及んだ。潘忠も呉廷挙を誣告して列挙し、獄に逮捕して取り調べたが証拠はなく、ただ「道を枉げて家に帰った」として吏部の門前で枷刑とした。主事の宿建らが救済を図り、尚書の張綵が奏稿を読んでその文才を賞して劉瑾に説き、十二日で釈放された。辺衛への流刑となったが、一月あまりで赦されて民とされた。
  • 翰林侍読の徐穆、編修の汪俊らを南京の部属に改めた。劉瑾はかねて翰林が跪礼をしないのを憎んでいた。孝宗実録の完成で慣例により昇進があった際、劉瑾は「文士は世故に習わぬ」として忌む者十余人を南京の員外郎・主事などにして政務を学ばせることとした。もともと劉瑾は翰林が自分を侮ると考えて張綵と外任に出す相談をしたが張綵は反対し、劉瑾が再度持ち出したときも張綵が説得して思いとどまらせかけた。しかし焦芳父子や段炅らが、これに乗じてかねて怨みのある者を排除できると考え、名を挙げて劉瑾に投じ、実現させた。
  • 大学士の焦芳が老病を理由に致仕。
  • 御史らを遣わして各辺の屯田を整理させた。劉瑾は各辺の年例銀を止め、商人の辺儲納入も禁じたので、備蓄が大いに乏しくなった。建国当初なぜ充足していたかを尋ねると、「国初は屯政が整っていて軍食が自足していたが、後に世家に占められて足りなくなった」と答える者があった。劉瑾は屯田の再興を掲げ、胡汝礪・周東・楊武・顔頤寿らを各辺に派して屯田を丈量させ、増加した地畝数の多さと未納分の追徴実績で能否を判定し、できなければ罪に問うた。各辺は数百頃を偽って増やし、すべてに租を出させたので人々は生きた心地もなかった。
  • とりわけ寧夏の周東は苛酷で、軍官の妻にまで刑を加えたため人心は憤り、指揮の何錦らが安化王寘鐇と謀って挙兵し、劉瑾誅殺を名目とする檄を伝えた。劉瑾の禍はここに始まる。
  • 六月、吏部尚書の劉宇を少傅兼太子太傅・文淵閣大学士に進めて入閣させ、吏部左侍郎の張綵を吏部尚書とした。当時、吏部・戸部・兵部の尚書はいずれも劉瑾の党であった。
  • 八月、栄王祐樞が常徳の封国へ赴いた。劉瑾は王が京邸にいるのを憎み、張綵と謀って出立させた。
  • 劉瑾は都督の神英から賄賂を受け、涇陽伯の爵を加えて誥券を与えた。
  • 劉瑾は四方の術士、余明・余倫・余子仁らを招いて天文を占わせ命数を推させ、私に武器を備えた。余明らは「劉瑾の姪の劉二漢は大貴の相」と妄言し、劉瑾は密かに内使に小刀二本を扇の中に隠させて禁中を出入りした。
  • 閏九月、平江伯の陳熊の爵を奪った。正徳三年、陳熊が漕運を総督したとき劉瑾が金銭を横暴に要求したが応じなかった。劉瑾は法にかこつけて死に至らしめようとし、李東陽が力を尽くして争った。劉瑾が「陳熊の罪は重く姑息にできぬ」と言うと、李東陽は「確かに姑息だが、陳熊に姑息なのではなく陳瑄に姑息なのだ。陳瑄は太宗の朝に済寧の河道を開いて漕運を通じ大功があり、鉄券に銘を刻んで子孫は死を免ぜられている。これを全て革めては天下の武臣の心を傷つける」と述べた。劉瑾は不快だったが、結局「田宅を多く買い民の利を侵した」として海南衛に流し、誥券を奪うに留めた。
  • 劉瑾は詔を矯めて刑部侍郎の陶琰を獄に下した。陝西游撃の徐謙が御史の李高を訐奏したが、徐謙は劉瑾の党であり、厚く賄賂して李高を重法に陥れようとした。帝が陶琰に調査を命じ、陶琰は法に拠って李高を正しいとした。徐謙が劉瑾に告げ、劉瑾は詔を矯めて獄に下し、二か月の禁錮の後に籍を削った。
  • 冬十一月、給事中の張絵、御史の房瀛らに両直隷と各省の銭糧を査盤させた。先に諸司の官が朝覲で上京した際、劉瑾の虐威を恐れて禍を避けるためそれぞれ銀を集めて贈り、一省あたり二万両に及んだ。京師の富豪から借り、任地に戻ってから官庫の貯えを取って倍にして返す。これを「京債」と呼び、上下が利を争って怪しみもしなかった。張綵がこれを聞いて劉瑾に告げると、劉瑾は不安になり、査盤の官を派遣した。その痕跡を隠すためである。
  • 劉瑾は金華知府の万福を老疾、蘇州知府の鮑□と同知の王巹を贓貪、江西左布政の馬龍を貪濫、僉事の阮賓を軽浮として、それぞれ降格・訊問に処した。山東巡按の胡節は銀を集めて劉瑾に贈ったが、劉瑾はこれを知って捕らえ獄死させた。侍郎の張鸞が福建から戻って銀二万を送ると、劉瑾はこれを承運庫に収め、張鸞を降黜した。給事中の欧陽雲、御史の貝儀、少監の李宣、指揮の趙良もみな贈賄で籍を削られた。当時、劉瑾は酷法で人を縛り、内外の賄賂は数え切れなかった。吏部尚書の張綵が訪ねて穏やかに諫めると劉瑾はよく聞いたが、結局改めることはなかった。
  • 劉瑾は都督僉事の曹雄を左都督に抜擢した。陝西は楊一清の罷免以来、辺寇が猖獗で制しがたかった。総督尚書の才寛は野戦を好み、自ら興武から套部を撃って数十級を斬ったが、勝ちに慣れて深入りし伏兵に遭って流れ矢に当たり死んだ。巡按御史が曹雄を「臨陣で退縮し救わなかった」と弾劾したが、劉瑾は私情で御史を厳しく責め、逆に曹雄を抜擢した。
  • 十二月、大学士の劉健・謝遷、尚書の馬文升・劉大夏・韓文・許進ら六百七十五人の誥勅を追奪し、民として軍に充てた。都給事中の李憲の言による。
  • 吏部尚書の梁儲を南京へ移した。劉瑾に附かなかったためである。

正徳五年(1510年)

  • 春二月、兵部尚書の曹元を吏部尚書兼文淵閣大学士として入閣させた。正徳年間に翰林出身でなく入閣した者は三人。楊一清は才望により、劉宇と曹元はいずれも劉瑾に附いて得たものである。
  • 劉瑾が太監の張永を南京に出そうとして果たさなかった。劉瑾は自分に軋轢する者をすべて除こうと、隙をみて帝に張永の南京転出を進言した。旨が下る前に即日追い出して出発させ、諸禁門に張永の入場禁止を榜示した。張永は気づいて直ちに御前に赴き、無実であるのに劉瑾に害されたと訴えた。劉瑾を召したが話が合わず、張永は拳を振り上げて殴りかかろうとした。谷大用らが仲裁し、帝は近臣に酒を用意させて和解させた。
  • 夏四月、劉瑾は詔を矯めて南京刑部尚書の呉洪を致仕させた。寧河王鄧愈の後裔に田宅を争う兄弟があり、兄が劉瑾を後ろ盾としたが、呉洪は弟を正しいとしたためである。
  • 安化王寘鐇が反した。都御史の楊一清が太監の張永を提督として討伐に当たらせるよう命じられた。楊一清と張永が西へ向かう途中、ある日、楊一清は嘆息して涙し、張永に「藩宗の乱は除きやすいが、国家内部の乱は測りがたい。どうしたものか」と語った。張永が「何のことか」と問うと、楊一清は「公は一日たりとも忘れていまい。公のために策を画く者がいないだけだ」と言い、席を寄せて手のひらに「瑾」の字を書いた。
  • 張永は「劉瑾は日夜上の傍らにあり、上は一日でも劉瑾を見ないと不機嫌になる。その羽翼は既に成り耳目も広い。どうにもなるまい」と言った。楊一清は説いた。「公も天子の信任篤い臣。今、賊の討伐を他人でなく公に付されたのは、上の意が分かるというもの。試みに凱旋して入京し、寧夏の件で内々に申し上げたいと言えば、上は必ず公に問われよう。その時、寘鐇の偽檄を差し出し、劉瑾の乱政と凶狡、謀反の企み、海内の愁怨、天下の乱の兆しを述べれば、上は英武だから必ず悟り、大いに怒って劉瑾を誅されよう。劉瑾が誅されて公が柄を握れば、公はますます劉瑾のやり方を正して事を行える。呂強・張承業と公と、千載に三人である」。
  • 張永が「もしうまくいかなければ」と問うと、楊一清は「他人が言えば成否は分からぬが、公が言えば必ず成る。ただ言うときは糸口が要る。婉曲に運び、万一上が信じなければ頓首して死を請い、上の前で死ぬと願うのだ。そこで退けば劉瑾に必ず殺される。さらに涙して頓首し、許しを得たら即座に事を行い、一刻も緩めてはならぬ。機を漏らせば禍は踵を回さずに来る」と述べた。張永は腕をまくって立ち上がり「私とて残る命を惜しんで主に報いぬわけがない」と言った。
  • 六月、大学士の劉宇が致仕。劉宇は劉瑾に附いて正しい人々を排斥したが、劉瑾の失脚を察して先に身を引いて免れた。
  • 秋八月、劉瑾が誅された。寘鐇が檄を移して劉瑾の罪を数えたが、誰も上聞する者がなかった。指揮の徐鯤が檄を人に示すと、劉瑾は捕らえて獄に下し死罪に処し、そのうえで赦と寛恤を下して人心を収めた。まもなく寘鐇が捕らえられると、劉瑾は檄の件を悔いてひっくり返そうとし、得意になって自らの功として旨を矯めて自分の禄米を加増し、兄の劉景祥を都督に抜擢した。
  • 張永らは劉瑾と権を争って互いに譲らなかった。八月十五日甲午、張永が寧夏から帰り捕虜を献じると、帝は東華門で迎えて宴を賜った。この夜、劉瑾が先に退出した。夜半、張永は懐から疏を出し、劉瑾が寧夏を激変させて心中穏やかならず、密かに不軌を謀っている状を述べた。張永の党の張雄・張鋭も助けた。帝は「まあよい、酒を飲め」と言ったが、張永は「ここを一歩離れれば、臣は二度と陛下にお目にかかれません」と言った。帝が「劉瑾はどうしようというのか」と問うと「天下を取るのです」。帝が「天下は彼に取らせておけ」と言うと、「では陛下はどこに置かれるのですか」。帝は悟り、奏を許した。
  • その夜のうちに禁兵に劉瑾を逮捕させた。張永らは帝に自ら劉瑾の邸へ行って様子を見るよう勧めた。三更、劉瑾は熟睡していた。禁兵が扉を排して入ると、劉瑾は驚いて「上はどこだ」と問い、「豹房におられる」と答えた。劉瑾は衣を羽織って起き、家人に「これは怪しい」と言い、急ぎ戸を出たところを捕らえられ、内獄に入れられた。
  • 翌日、奉御に降格して閑居させ鳳陽へ送ることとし、廷臣に罪を議させた。劉瑾は術士の余明らを招き置き、太監の孫和に衣甲・弓弩を作らせて贈らせ、すべて受け取って蔵し、密かに不軌を図っていた。ちょうど兄の都督・劉景祥が死んで八月甲午に葬ることになっており、百官の多くが会葬に赴いた。劉瑾はもともと夜間の外出を厳しく禁じており、星が出れば街路は静まり返るのだが、盗み聞きする者が夜半に兵甲の音が響くのを聞いた。里巷では「朝廷を挙げての会葬で、劉瑾はこれに乗じて乱を起こす」と噂された。張永は捕虜献上を、劉瑾には乙未に入ると告げておきながら、甲午に入ることを知っており、それゆえ先手を取れたのである。
  • 翌日の晏朝の後、外部でも劉瑾が罪を得たと薄々知られたが、まだ公然と口にする者はなかった。旨が突然下ると、邏卒が飛騎で道を駆け交い、十日ほどでようやく落ち着いた。
  • 当初、帝には劉瑾を誅す意はなかった。劉瑾は鳳陽行きの命を聞いて「まだ富太監ではいられる」と言った。しかし家産を没収したところ、金二十四万錠と五万七千八百両、元宝五百万錠と百五十八万三千六百両、宝石二斗、金甲二、金鉤三千、玉帯四千百六十二束、獅蛮帯二束、金の湯盒五百、蟒衣四百七十襲、牙牌二匱、穿宮牌五百、金牌三、袞袍八、瓜金龍四、玉琴一、玉の瑤印一、盔甲三千、冬に用いる団扇に貂皮を飾って扇の中に刀二本を仕込んだもの、衣甲千余、弓弩五百が出てきた。帝は激怒し「劉瑾は本当に反逆したのだ」と言い、獄吏に付した。
  • 吏部尚書の張綵、錦衣衛指揮の楊玉・石文義ら六人もみな都察院の獄に送られた。六科十三道が共に劉瑾の罪三十余条を弾劾し、帝は認めて法司と錦衣衛に劉瑾を午門で廷訊させた。都給事中の李憲も弾劾した。李憲はもと劉瑾の門下で、劉瑾はこれを聞いて笑い「李憲までわしを弾劾するのか」と言った。
  • 訊問の日、刑部尚書の劉璟は口をつぐんで声も出せなかった。劉瑾は大言した——「満朝の公卿はみな我が門から出ている。誰が我を問えるか」。皆はじりじりと退いた。駙馬都尉の蔡震が「わしは国戚だ。お前の門から出ていない。お前を問える」と言い、人に劉瑾の頬を打たせて「公卿は朝廷が用いるもの。お前が抑えられるものか。なぜ甲を蔵していた」と問うた。「上を衛るためです」と答えると、蔡震は「なぜ私室に蔵した」と詰め、劉瑾は言葉に詰まった。
  • 獄が上申されると、帝は再奏を要さず凌遅に処せと命じた。三日にわたって行われ、首を梟し、獄詞と処刑の図を天下に榜示した。被害者たちは争ってその肉を買って食い、一銭で一切れという値がついた。
  • 劉瑾の親属十五人と劉二漢・張文冕・楊玉・石文義らはみな斬に処された。張綵は獄中で死んだ。大学士の劉宇・曹元、前大学士の焦芳、劉宇の子で編修の劉仁、焦芳の子で侍読の焦黄中、戸部尚書の劉璣、兵部侍郎の陳震はいずれも籍を削られ民とされた。焦黄中は検討から一年余りで侍郎に昇り、性は狂恣で恥を知らなかった。土官の岑濬が死んで家口が没入された際、その中に美貌の女がおり、焦芳が劉瑾に求めて得たが、後に病臥中の父の女に子が通じた。劉瑾の誅殺後、言官が相次いでその罪を暴き、ともに職を奪われた。
  • 劉瑾の毒は五年に及んだ。吏部・兵部の選法を変え、将官が軍律を失っても伯や都督に加封される者があり、あるいは直接に伝奉し、時には別の本に批を綴じて意のままにした。また事にかこつけて旧大臣の家を没収し、その妻子を捕らえ、日夜、天下の庫蔵を洗い出し、巡捕・巡塩などの官を増設して四方から誅求し、諸辺の屯田や賦税を私腹に充てた。海内は騒然となり、ついに寘鐇の変を招いて自らも禍に及んだ。
  • 五年の間、大理評事の羅僑だけが抗疏して無事だったので、中外は異とした。士大夫はみな学を曲げて世に阿った。劉瑾は物を借りるふりをして士大夫の応対を試したことがある。ある朝士が門下から入るとき、ある者が「わが公は眉に近い冠を好む。君の冠は高いがどうする」と言った。「もう仕立ててある。まあ入るまでだ」と答えたが、劉瑾に会うと睨まれ、驚いて冠を低くし直して詫び、劉瑾はようやく喜んだ。
  • 祭酒の王雲鳳は以前、陝西の提学として生徒を榜で打ち囚人同様に訊問したことがあり、劉瑾はそれを聞いて栄転させた。王雲鳳が挨拶に行くと、劉瑾は「何ものだ祭酒とは。豚の毛のような口ひげめ」と叱った。王雲鳳は恐懼して謝し、退いてから、唐の魚朝恩の故事に倣って劉瑾に太学の視察を請い、さらに劉瑾が近ごろ行った法例を刻して永く令とするよう請うた。給事中の屈銓も同様の請願をした。刑部尚書の劉璟は何度も罵られて恐れ、部下三人を弾劾奏上した。劉瑾が「よく督責している」と言って喜んだので、劉瑾は何でもできると思うようになった。
  • ある日、劉瑾は涙ながらに張綵に語った。「初め、谷大用や張永たちは外の臣が我らを一括りに責めるのを恐れて私に押しつけた。私は身をもって天下に殉じ、多くの衣冠を摧いてきた。今や天下の怨みはすべて私に集まり、彼らは安然と享けている。私は身の落ち着きどころが分からぬ」。張綵は左右を退けて言った。「今の上には子がなく、いずれ宗室の子を立てることになる。年長で賢い者なら公は禍を受けます。幼弱な者を援立すれば、公は長く富貴を保って憂いがない」。劉瑾は「よい」と言った。
  • 数日後、劉瑾は急に変わって「宗室にはしない。私が自ら立つ」と言った。張綵が不可を告げると、劉瑾は怒って茶盆を投げつけ、張綵は物が言えなくなった。劉瑾の失脚後、張綵は同罪の叛逆に問われ「皇天后土、太祖太宗、我が心を鑑みたまえ」と叫んだ。
  • 当初、劉瑾が縛られたとき鳳陽送りの旨が出ると、李東陽は諸大璫に「もし復用されたらどうする」と語った。張永は「私がいる限り心配ない」と答えた。ところが劉瑾が白帖を上げ、「縛られたとき裸で衣一枚もなかった。古着を一二枚頂きたい」と述べると、帝はこれを見て憐れみ、古着百枚を与えるよう命じた。張永は恐れて李東陽に相談し、科道に劉瑾を弾劾させたが、弾劾には文武の大臣も多く連座していた。張永は疏を左順門に持って行き、言官に渡して言った。「劉瑾が権を握っていた時は我らも物が言えなかった。まして両班の官が言えようか。今、罪は劉瑾一人に止めるべきだ。疏を書き換えよ」。獄詞が定まって、連座は文臣の張綵、武臣の楊玉ら六人にとどまった。張綵は冤を訴えて李東陽が劉瑾に阿った事をことごとく暴いたが、結局獄死し、屍は市中で刻まれた。
  • 劉瑾と往復した書簡をすべて焼くよう詔した。劉瑾の書類を没収した中に秦府永寿王が劉瑾の誕生日を祝った詩の序があり、卑諂に過ぎるものだった。帝は激怒して厳しく責める旨を下そうとしたが、李東陽が上疏した。「古来、乱賊を治めるには名を正し罪を定め、誅は身に止めるものです。かつて光武帝は王郎を平定して吏民が交通した文書数千通を得たが、みな焼いて『反側の子を自ら安んじさせよ』と言いました。劉瑾が専権乱政の時、朝廷の威福を借りて天下を脅し、生殺与奪を思いのままにしたのですから、中外の臣工で意を屈しなかった者はありません。まして王府の懿親は、悪を同じくして叛に助力したのでなければ法として赦せぬはずがなく、細かな過ちは包容すべきです。厳責の旨を下せば、書信や贈答をした者はみな聞いて驚き、それぞれ不安に陥ります。聖明の広大な包容をもって、一切の文書のうち叛逆に関わるものは焼いて痕跡を消されたい」。帝は従った。
  • 張永の兄の張富を泰安伯、弟の張容を安定伯、魏彬の弟の魏英を鎮安伯、馬永成の弟の馬山を平涼伯、谷大用の弟の谷大玘を永清伯、義子の朱徳を永寿伯に封じ、誥券を与えて世襲とした。李東陽が「一月の間に二つの難が起こったが、いずれも平定できたのは張永らの功だ」と奏して恩典を加えたのである。
  • 太監の魏彬に司礼監を掌らせた。四川巡撫都御史の林俊が上疏し、帝が内宮に戻ること、宗室の賢者を選んで別宮で養うこと、老臣の劉健・謝遷・林瀚・王鏊・韓文らを召し戻して旧政を修めることを請い、さらに「劉瑾は死んだが権柄はなお宦竪にある。後に劉瑾のような者が出ないと誰が言えよう」と述べた。言葉は切実だったが左右の意に大いに逆らい、返答はなかった。
  • 御史の張芹が大学士の李東陽を弾劾した。「劉瑾が専権乱政の時、阿諛して順い力争しなかった。陛下が人を用いて内変を消されると、その功を横取りして恩蔭を受けている。罷免されたい」。容れられなかった。
  • 劉瑾は誅されたが政権はなお内にあり、魏彬・馬永成らが朝政を専らにし、両河の南北と楚・蜀で盗賊が起こることとなった。

史論(谷応泰曰)

  • 宦官の禍は古来激しいものだ。『周礼』は奄寺の職を重んじ、『秦風』は寺人の制を記す。彼らは刑余の身で身を進め掃除に列なり、忠孝の砥礪を積んだ素地がない。内にあっては房闥に遊んで顔色を窺い、外に出れば天憲を口に銜え王章を手に握る。威福を恣にし、たちまち車が傾き覆るような戒めを成すのも当然である。
  • 劉瑾は東宮の旧侍として君側を蠱惑した。始めから王莽・司馬懿のような非常の志、董卓のような不軌の謀があったわけではあるまい。狗馬音楽で君王の憐れみを乞い、富貴を得て身を全うすれば足りたはずだ。ところが毒蛇を断ち切らねば壮夫の手を螫すという。韓文の一撃が外れて顧命の諸臣は残らず追われ、六給事・十三御史の章が再び入って諫官・台臣もほぼ根こそぎ除かれた。こうして北門の獄が急に興り、縉紳の禍は激しくなった。内閣には私人を植え、部寺には羽翼を張り、威炎は郡国に及び、人事の異動は辺境にまで及んだ。劉瑾はついに人臣の位に安んじられなくなったのである。
  • 水はもともと激しいのに風がさらに煽り、湯はもう沸いているのに火がさらに烈しくなる。廷臣は李東陽以下、恥を忍んで要職に居座り甘んじて顎で使われ、時に軽い言葉で仲裁して陳寔が張譲を弔った故事に託した。しかし寵を固めて曖昧に振る舞ったのは、商鞅が景監を頼ったのと何が違おう。清流の望が既に彼らのもとを離れ、官府の権が一つに帰したのだから、小人の得志には来歴があるのだ。焦芳や劉宇を責めるにも当たらない。
  • とはいえ、李夢陽の閣部での密謀は楊一清が張永を密かに説いたのと変わらず、王岳・范亨・徐智が内から奏上したのも張永が叩頭し泣いたのと変わらない。李夢陽の計は政府で漏れ、楊一清の謀は閫外で成った。王岳らは遅疑して事を敗り、張永は立ち話で策を決した。寘鐇の乱の後に言われた言葉は信じられて徴があり、狗馬で心を娯しませている日に言われた言葉は迷って悟りがたかった。かくして国家は恭顕(弘恭・石顕)のごとき禍を受け、政府には匡衡・張禹のような恥があり、張永は桑楡の功を収め、諸賢は薪を移して禍を未然に防げなかった痛みを深くした。『易』に「国を開き家を承くるに小人を用うるなかれ」という。まことに然りではないか。