明史紀事本末鄖陽の盗賊を平定する(平鄖陽盗)
成化元年(1465年)から十二年(1476年)までの12年間、荊襄・鄖陽の山間に集まった流民の反乱と、その最終的な処置を記す。明初に空地とされた鄖陽に飢饉で流民が入り込み、劉通(劉千斤)が漢と号して挙兵、石龍(石和尚)を謀主として襄陽・鄧州を掠めた。白圭・朱永・李震・王恕らが四路から討って劉千斤を擒にし、石和尚・劉長子も誘い捕らえて磔にした。成化六年には余党の李鬍子が再び流民を糾合し、項忠が招諭と剿滅を併せ用いて平らげたが、濫殺を非難された。のち周洪謨の『流民説』と文会の三事の建議により、原傑が流民十一万三千余戸を籍に入れ、鄖陽府と六県を新設して呉道宏に撫治させ、地は重鎮となった。
年表(4件)
- 成化元年 夏四月— 劉千斤の反乱1465年劉通が海溪寺に拠って王を称し、朱永・白圭らが討伐に向かう
- 成化二年— 討伐と劉千斤の捕縛1466年白圭らが四路から進んで劉千斤を擒にし、石和尚・劉長子も捕らえて磔にする
- 成化六年〜七年(〜1471年)— 李鬍子の乱と項忠の討伐1470年李鬍子が太平王と称して叛き、項忠が招諭と剿滅で平らげるが濫殺を難ぜられる
- 成化十二年— 原傑の撫民と鄖陽府の設置1476年原傑が流民を籍に入れ、鄖陽府と六県を設けて呉道宏に撫治させる
成化元年 夏四月(1465年)— 劉千斤の反乱
- 荊襄の盗賊・劉千斤が叛いた。
- 荊襄の上流を鄖陽という。鄖は古の麋国、春秋時代は楚の附庸で、地は山が多い。元の至正年間に流賊が乱をなし、元の世を通じてついに制せなかった。
- 明初、鄧愈に大兵で剿除させ、その地を空にし、流民の立ち入りを禁じた。しかし地は湖広・河南・陝西の三省の間に界し、しかも曠土が多く、山谷は険阻、林や藪は鬱蒼として、中には採り掘って食える草木があった。
- 正統二年、年が飢えて民が移り入り、禁じきれなかった。集まる者が多くなっても約束を受けるところがなく、その中の巧みで狡猾な者が自ら雄長となり、次第に人を駆使できるようになった。
- 漢中の守臣が報告し、あわせて「すぐ誅さねば後患を恐れます」と言った。上は「小民は飢寒に迫られたのだ。どうしてすぐ兵を用いて誅せようか」と言い、御史の金敬を遣わして撫し集めさせた。
- 敬は至って数人を戍に謫し、その他は撫を聴いたが、大きな奸者はみな潜伏して出なかった。まもなくまた勢いをほしいままにして、いよいよ蔓延した。
- 錦衣千戸の楊英が河南に使いして、必ず叛くと読んで上疏した。「流亡の衆には良吏を選んでその飢えを賑恤し、次第に散じ遣わす方法を図るべきです」。辞は甚だ懇切だったが、返答はなかった。三省の長吏はまた「自分の管轄ではない」と互いに責任を押しつけ、因循して治めなかった。
- ここに至って千斤が乱を倡えた。千斤は名を通といい、河南西華の人。膂力があり、県庁の門に重さ千斤の石獅子があったのを通は手で持ち上げた。人はそこで「劉千斤」と号した。
- 正統年間、ひそかに襄陽・房県へ行き、僧の尹天峰と乱を謀った。成化元年、石龍という者が「石和尚」と号し、馮子龍ら数百人を糾合して四散して剽掠した。通は子の聡に子龍と挙事を約させ、大石厰に黄旗を立てて衆を集め、海溪寺に拠って王を称し、偽の国号を漢、徳勝と建元し、偽って将軍・元帥を署した。石和尚を謀主、劉長子・苗龍・苗虎を羽翼とし、衆は数万に至り、襄陽・鄧州の境を劫掠した。
- 当時、王恕がちょうど副都御史として出て撫し、高札を掲げて諭したが、まだ分けて討つ命を受けていなかった。賊は慣れて常態とし、散じようとしなかった。恕は朝に報じた。「民は撫すべきです。しかし乱を好む奸民は兵でなければ威せません」。
- 五月、撫寧伯の朱永を総兵官、兵部尚書の白圭に軍務を提督させ、太監の唐慎・林貴を監軍として、湖広総兵の李震と合して劉千斤を討たせ、副都御史の王恕に三師を会して並び進んで巣を衝かせた。
成化二年(1466年)— 討伐と劉千斤の捕縛
- 春二月、荊襄を鎮守する王信を都指揮同知に抜擢した。劉千斤の乱で荊襄は震え驚いた。信は房陵が険要と見て自ら数十騎を率いて拠り、民兵を集めたが千人に満たなかった。賊四千余人が突然至って囲み攻め、援けは絶たれた。
- 信は旗を多く張り火を挙げ、昼夜、休まなかった。四十日を経て、決死の士を城外五、六里に出して火砲を挙げさせた。賊は援兵と思って驚き潰え、信が追撃して大いに利を得た。
- 三月、荊襄軍務を提督する兵部尚書の白圭が奏した。「賊首の劉千斤は襄陽・房県の豆沙河などの万山の中におり、七つの屯に分かれております。臣らは兵を四路に分け、一つは南漳から、一つは安遠から、一つは房県から、一つは穀城から犄角をなして並び進み、期日を刻んで会して剿することを議しました」。
- 上は「兵は遠くから制せられぬ。すべて卿らの議のとおり行え」と報じた。
- 五月、兵部尚書の白圭および湖広総兵都督の李震が師を率いて荊襄の賊を討ち、平定した。
- 先に圭は南陽に至り、撫寧伯の朱永とともに南漳から入り、賊に遭って誘い出し、城に臨んで撃破した。永はたまたま病があって留守した。
- 圭は唐慎・李震、湖広巡撫の王倹と潭頭坪へ進み、林貴・鮑政は安遠から馬良坪へ、喜信・王信は房県から浪口河へ、王恕は都指揮の劉清らを率いて穀城から洞庭廟へ進んだ。
- 賊は勢いが迫るのを見、千斤は寿陽へ走って陝西へ出ようとし、苗龍は大布へ走って遠安へ出ようとした。直ちに兵を寿陽へ調えてその逃走を截った。千斤は退いて大市を保ち、龍と合した。
- 都指揮の田広が雁坪に進んで賊を撃破し、古口山で追いついた。翌日、広と諸軍がみな会して賊陣に進攻し、その子の劉聡、偽都司の苗虎ら百余人を斬った。勝ちに乗じて進むと、賊は巣穴に退いた。山は険しく、しかも雨で泥濘だった。
- 圭は士卒に先んじて格兠に至った。賊は険に憑って拒み、諸路の兵が会して既に二日、攻めても落とせなかった。士卒は圭が来たと聞いて勇を倍にした。
- 圭は劉清に兵千余を率いさせて間道から賊の背後に出てその営を焼かせ、自らは大軍で臨んだ。圭と震・倹がその右を攻め、王信がその左を撃ち、鮑政がその中を衝いた。賊数万余が迎え戦ったが、その営の火を顧みて驚き走り、踏み合って死ぬ者は数知れず、一万人を撃ち斬った。
- 劉千斤を生け捕って京師に献俘し、苗龍ら四十人とともにみな市で磔にし、男子で十歳以上の者を斬った。ただ劉長子と石和尚だけが逃げて険しい岩地に深入りした。折しも朱永の病が癒え、改めて兵を率いて余党を捜させた。
- 六月、石和尚が衆千余を集めて四川の大昌県を焼き劫掠し、夔州通判の王禎を殺した。兵を分けて討たせた。
- 冬十月、湖広軍務を提督する白圭が賊首の石和尚を誘って捕らえた。当時、石和尚と劉長子が巫山に衆を集めていた。圭は参将の喜信・鮑政、都指揮の白玉に賊の向かう先を追って剿させた。賊は計尽き食尽きて降を乞うた。
- 圭は指揮の張英を遣わして誘い、劉長子はそこで石和尚を縛って喜信の営に送り、信は受けた。長子が信の営に詣でて食を乞い、信は与えて営の近くに居らせた。まもなくあわせて劉千斤の妻・連氏およびその偽職の常通・王靖・張石英ら六百余人を誘って捕らえた。
- 事が報じられ、上は余党の捜索を命じた。賊が平らぐと、諸将は張英の功を忌んで朱永に讒言し、「英は賊から多くの賄賂を得ました」と言った。事にかこつけて打ち殺し、そのまま班師した。
- 十一月、石和尚と劉長子を市で磔にした。荊襄平定の功を叙し、撫寧伯の朱永を侯に進め、李震を興寧伯、白圭に太子少保を進めた。
- 四年春三月、戸部右侍郎の楊璿を右副都御史に改め、荊襄・南陽の流民を撫治させた。
成化六年〜七年(1470年〜1471年)— 李鬍子の乱と項忠の討伐
- 六年冬十月、荊襄の賊・李鬍子が衆を集めて叛いた。
- 先に賊が平らいだ後、諸郡邑の制圧・戍守はいずれも設けられていなかった。折しも年が大旱で、山に入った流民は九十万人。
- 李鬍子は新鄭の人、劉千斤の余党である。千斤が敗れると、その党の王彪とともに走って免れ、余党の小王洪・石歪膞を糾合して南漳・内郷・渭南の間を往来し、再び流民を倡えて乱をなし、偽って太平王と称し、「一条蛇」「坐山虎」などの号を立てた。官軍がたびたび捕らえようとしても得られず、荊襄・南陽は騒然とした。
- 十一月、都御史の項忠に河南・湖広・荊襄の軍務を総督させて李鬍子を討たせた。
- 七年春正月、右都御史の項忠が襄陽に至った。手元の卒が寡く弱いので永順などの土兵を調えることを請い、従われた。
- 諸将が速進を請うと、忠は「流民は逃げて山谷に集まり、賊の中に陥って自ら脱せぬだけだ」と言い、そこで駐兵して険要に分布し、人を遣わして高札を持たせて招諭し、賊を去って自ら帰る者は殺すことを禁じた。
- かくて民の多くが老弱を携えて帰服した。王彪が数十人を率いて軍をうかがい、しかも帰る者を阻もうとしたが、不意を突いて捕らえた。
- 兵部尚書の白圭が言った。「賊党は飢寒に困り、迫られ脅されて出た者です。項忠に勅して機と勢いを測り、撫綏の長策を計らせるべきです。永順・保靖の土兵を調えて騒動を増す必要はありません」。
- 忠が奏した。「賊は万山の中の険に拠っており、さらに流民が従えば患いは測りがたい。臣は詔旨を奉じて生路を開き諭し、流民は老幼を携え扶けて山を出ること昼夜、絶えず、計四十余万に及びます。今、中止して土兵を止めれば、民はこれを聞いてなお疑い懼れましょう。しかも王彪は既に首を授けましたが、渠魁の李鬍子はなお竄れ伏しております。もし再び集まれば重ねて調えるのは困難です」。
- 上は「土兵は既に到着した。厳しく約して民を擾させるな。山にいる流民で生業に恋々として非をなさぬ者は、心を用い法を設けて撫安せよ」と報じた。
- 十一月、荊襄・南陽の流賊が平定され、軍務を総督する項忠を右都御史に進め、敕して留めて撫治させた。
- 忠が荊・豫で兵を用いたとき、人に高札を持たせて山に入って招諭させ、険に負って服さぬ者は直ちに兵を放って剿し赦さなかった。
- 李鬍子は勢いが孤立して山寨に潜伏した。忠は副使の余洵、都指揮の李振に兵を率いさせて追捕させ、竹山県で鬍子に遭った。死力を尽くして敵を拒んだが官軍に擒にされた。小王洪はなお衆五百を鈞州の龍潭に屯していたが、これも破って擒にした。
- およそ郷里に帰した者は四十万人、俘斬は二千人、編戍した者は一万余人。
- 当時、流民には洪武以来、家業を子孫に延べて悪をなしたことのない者もあったが、兵が入るとことごとく草を薙ぐように殺した。死者は山谷に折り重なり、湖広・貴州に戍された者はまた多くが道中で死に、屍を江のほとりに棄てられた。
- 議する者は「忠のこの役は実に濫殺が多い」と言った。荊襄平定の碑を建てると、ある者は「墮涙碑(羊祜の碑)」と呼んで忠を嘲ったという。
- 十二月、都御史の項忠が荊襄の俘・李鬍子ら百二十九人を献じ、刑部尚書の陸瑜らが会奏して罪に差をつけて処した。
- 八年夏四月、給事中の梁璟が疏して都御史の項忠が偏聴したこと、検討の張寛、御史の劉潔、総兵の李震が殺戮をほしいままにして功を要したことを弾劾した。
- 上は「荊襄の流民が患いとなって中外はみな憂えていた。今、蕩平したばかりでその後を議するのは、天下を激励するゆえんではない」と言った。兵部尚書の白圭もまた「忠が上った荊陽の功次の文冊は震のものと前後で異なります。勘査を請います」と言ったが、上はやはり聴かなかった。
- 五月、都御史の項忠が致仕を乞い、慰留して院に召し還した。先に星孛が天田に現れ、言う者は荊襄の殺戮の致すところと言った。忠は再び疏して自ら列挙し、骸骨を乞うた。上は温かい旨で答えた。
成化十二年(1476年)— 原傑の撫民と鄖陽府の設置
- 春二月、都御史の原傑に鄖陽を経略して流民を撫定させた。
- 成化の初年から、陝西から荊襄・唐州・鄧州の間はみな長い山と大きな谷が千里に亘り、至る所に流亡者が藏まって梗となった。劉千斤の乱がこれに因り、李鬍子が再び乱をなして流民はざっと百万。都御史の項忠が命を奉じて捕らえ逐い、死者は数えきれなかった。
- 祭酒の周洪謨が『流民説』を著した。その要旨。
- 「かつて天下の地理志を修めたとき、東晋の時、廬松の民が荊州に流れ、そこで松滋県を荊江の南に僑置し、陝西雍州の民が襄陽に流れ聚まり、そこで南雍州を襄陽の西の側に僑置したことを見ました。その後、松滋はついに荊州に属し、南雍はついに襄陽に併された。今に千載、寧謐なること旧のごとし。これは前代が荊襄の流民を処置したのに、甚だその道を得たものです。 もし今、諸県に近い者は籍に附し、諸県から遠い者は州県を設けて撫し、官吏を置いて里甲を編み、徭役を寛くして生業に安んじさせれば、流民はみな斉しい民となります」。
- 都御史の李賓は深くその説をよしとした。ここに至って流民が再び前のように集まり、賓は洪謨の説を援いて疏し、上は許して傑を遣わしてその事に臨ませた。
- 秋七月、北城兵馬吏目の文会が疏して言った。
- 「荊襄は古来、武を用いる地です。宣徳年間には流民の鄒百川・楊継保が隠れ集まって非をなし、正統年間には民の胡忠らが荒田を開墾して初めて版籍に入り、里甲に編まれました。成化年来、劉千斤・石和尚・李鬍子が相次いで乱をなしましたが、大臣の処置が宜しきを失ってついに安輯できておりません。 今、河南は年が凶作で民が飢えて山に入って食を求めており、勢いとして止められません。後日の患いがないと保証できましょうか」。
- そこで三事を条上した。一、荊襄の土地は肥饒でみな耕せる。遠年に籍に入った流民には田土を給し返し、附籍した者には田土を領して力耕させ、量って存恤する。郷里に帰ることを願う者は任せる。二、流民はひそかに住んで出没が定まらぬ。良い有司を選んで撫綏させ、軍衛の官に守禦させれば流民は自ずと安んじる。三、荊襄の上流は呉楚の要害で道路が多く通ずる。必ず要衝に府・衛・州・県を加え設け、保甲を立て、貨賄を通じて衣食を足らしめ、学校を立てて風俗を厚くすれば、その民は自ずと善に趨く。
- 上は大いによしとし、都御史の原傑にその言を採って用いるよう命じた。
- 九月、都御史の原傑が奏した。「信陽・固始などの州県は南は蘄州・黄州に抵り、西は荊襄に接し、東は鳳陽・霍丘に連なり、山勢は綿々と亘り、河流は四方に達し、盗が出没しやすい。しかも鳳陽・陳州は近ごろ災を被り、流民が道に満ち、盗が霍丘に入って帑蔵を劫掠し、県官を捕らえて民庶は騒動しました。まことに患いを思って予め防ぐべきです。 今、汝寧に属する信陽など十三州県で、二司の巡守官に壮丁を選ばせ器械・馬匹を備えさせ、二官に委任して督させて盗賊を緝捕させることを請います。また信陽は軍民が雑居して奸盗がとりわけ多い。守備を南陽・河南の都指揮官に転じて専ら盗賊を防がせ、銀の坑を禁じ治めさせることを請います。また商城県は南に六安州に接して二百余里、四方の野は広漠なのに金剛台巡検司は県の北にあります。今、県の馬頭山に遷置することを請います」。詔してすべて言のとおり行わせた。
- 十一月、湖広の鄖陽府を開設し、その地に湖広行都司・衛所および県を設けた。
- 当時、都御史の原傑は諸郡県をあまねく置いた。深い山、窮まった谷まで、自ら至らぬ所はなかった。至れば朝廷の徳意を宣べ、民の疾苦を問うた。諸父老はみな忻然として版籍に附いて良民となることを願い出た。
- そこで湖広・河南・陝西の撫按・藩臬の臣を大いに会し、流民を籍に入れて十一万三千余戸を得た。故土に帰した者は一万六千余戸、留まることを願った者は九万六千余戸。各々に曠土を占めることを許し、官が丁の力を計って限って給し、開墾させて永業とし、賦役に供させ、郡県を置いて統べさせた。
- かくて湖広は竹山の地を割いて竹渓県を分置し、鄖津の地を割いて鄖西県を分置し、河南は南陽・汝州・唐県の地を割いて桐柏・南召・伊陽の三県を分置し、陝西は商県の地を析いて商南・山陽の二県とし、商県を商州とした。流寓と土着の者を交じり合わせて居らせた。
- また鄖県の城に鄖陽府を置いて、鄖県および竹山・竹渓・鄖西・上津の六県を統べさせ、あわせて行都司の衛を鄖陽に立てて保障・制御させた。
- 経画が定まってその事を上申し、鄧州知州の呉遠を鄖陽知府に薦め、諸州県にはみな隣境の良能の吏でその事に習熟した者を選んで充てた。
- また地が三省に界して統紀がないので、御史の呉道宏の才望を薦めて自分の任に代えさせることを請うた。三省を兼制して八郡を撫治し、鄖陽に居ることになった。上はそこで道宏を大理少卿に抜擢して傑に代えて撫治させ、璽書を馳せて傑に賜って召し還し、南京兵部尚書とした。
- 傑は労苦のため病を得て南へ帰る途中、ついに駅舎で卒した。荊襄の民は聞いて流涕せぬ者はなかった。
- まもなく鄖陽を撫治する大理少卿の呉道宏を右僉都御史とし、鄖陽に開府させ、これを令とした。
史論(谷応泰曰)
- 鄖陽は西北に断絶して陝・蜀と入り交じり、南下すれば光州・信陽・南陽の豫州の域。漢北・楚の山もみな蜿蜒と連なって下は鳳陽・廬州・霍丘に抵る。地はあまねく千里、壌は数省に接し、河流は四方に達し、重なる嶺は万里。麋の故国、鬻熊の辺陲である。
- 元の世を通じて嘯き集まって散らず、高皇帝が削り平らげたが、ついにその地を空にして民の立ち入りを禁じた。周が終に洛に徙り、漢が豊に戻らなかったのと同じく、その淵藪であることを憎んで廃墟としたのである。
- しかし鄖は万山に処し、林や竹が叢がって密で、地は入り組み、利は樵で足りた。流民が生い育っても版図に属さず、家が土田を占めても租税を知らなかった。これも武陵の桃源、蜀道の五丁である。
- 流れ集まる者が多くなると、そこに雄長が生じた。天水の丸泥の志(隗囂)、尉佗が坐して大きくなった形である。劉通は膂力で劉千斤と号し、石龍は妖讖で石和尚と号した。憲宗の世に潜かに号を称し改元し、唐州・鄧州・荊襄は騒然として靖まらなかった。
- 白圭が大司馬として出て督し、五道が並び進んで南漳で破り、軍を懸けて深入りしてその中営を焼き、千斤を闕下に献俘した。陣に臨んで斬獲した者は一万余人、踏み乱されて走り死んだ者は数えきれない。兵威の懲らしめはこれで烈しいものだった。
- やがて劉長子がまた余党を率いて巫山に集まり、圭は師を発して掩い捕らえ、営を連ねて討ち入った。食尽き援け窮まって渠帥を誘い殺し、獲て縛った者は再び六百余人。それでも上はなお兵を放って誅剿し、必ず生き残りをなくして、臣たらざる者への戒めを示し、天威の犯すべからざることを明らかにさせた。
- やがて李鬍子がまた余党で荊襄に乱を構え、項忠は剿を主として力を尽くし、あまねく土兵を召して竹山・房県に営を進め、俘二千を陳ね、編戍は一万に満ちた。しかし史はその「良民を草のように薙ぎ、山谷に折り重ね、戍された者の多くが道中に死んだ」と称する。項羽が外黄を屠り尽くし、晋・楚が京観を築いたのも、これに過ぎない。
- しかし流民が山に入って食を求め、雲のように集まること以前のごとくなり、大臣は禍を悔いて初めて改めることを議した。洪謨が流民の説を著し、文会が三事を陳べ、原傑はそこで榛を披き険を履んで宣布し慰問した。
- かくて山東の民は杖を扶いて詔を聴き、河北の老人は涙を流して軍を観た。籍に入った者は十一万三千、留まることを願った者は九万六千余戸。各々が曠土を占めてあわせて賦役を納め、地を三省に割いて六県を設置し、鄖陽は巍然たる重鎮となった。
- 鄭国が渠を成して秦は万頃を灌ぎ、受降城の外に唐は三城を築いた。『易』に「宝を慢りに蔵するは盗を誨う」という。険を棄てるだけでなく、実に戎心を啓くのである。ゆえに一介の吏は十万の師より賢く、耰と鋤の民は組練の甲より勝る。
- 然るのち知る。飲至して凱旋し、俘を称えて廟に献じたとき、当時、我が赤子を虔劉(殺戮)したことの何と多かったことか。
- 原傑は険しい地を巡って布置し、ついに労で卒した。寇準の雷竹、羊叔子の峴山の碑。死人を刈るように視て己の功とする者に比べれば、私は傑をこそ百世に生けるがごとしとする。