明史紀事本末汪直の専権(汪直用事)

成化十三年(1477年)から十九年(1483年)までの7年間、太監の汪直が西厰を掌って権を振るい、やがて失脚するまでを記す。李子龍の事件を機に憲宗が西厰を置いて汪直に偵察させると、韋瑛らが楊曄の獄をはじめ大獄を重ね、商輅の弾劾でいったん罷められたが、戴縉・王億の上疏で復活し、商輅・項忠・李賓らが去った。汪直は王越・陳鉞と結び、遼東では馬文升と対立して彼を重慶に謫し、入貢の郎秀らを掩殺して大勝と誣った。安南征討の企ては劉大夏・余子俊に阻まれ、成化十八年に西厰は再び罷められ、翌年、御史の徐鏞の弾劾で汪直は南京へ退けられ、王越・陳鉞・戴縉らも失脚した。

年表(8件)

成化十三年 春正月(1477年)— 西厰の設置

  • 西厰を置き、太監の汪直に外の事を偵察させた。
  • 汪直は大藤峡の猺・獞の出である。猺賊が平定されたとき、直は幼い男子として禁中に入り、昭徳宮の内使となり、まもなく御馬監の事を掌った。年若く狡猾で、上は寵愛した。
  • 先に妖人の李子龍が邪道で衆を惑わし、内使の鮑石・鄭忠が信じて縁故で内府に引き入れた。時に万歳山へ連れて行って眺めさせ、不軌を謀った。錦衣の官校がその事を発いて誅に伏した。
  • これより上は鋭意、外の事を知ろうとし、錦衣の官校で偵察に長けた者百余人を選び、厰を霊済宮の前に置いて「西厰」と号した。永楽年間、建文の諸臣をことごとく戮したとき、疑いを懐いて安んじられず、初めて東厰を設けて奸を偵察させた。ここに至って西厰と名づけ、東厰と区別したのである。
  • 直を自由に出入りさせ、諸校に分け命じて広く偵察させ、大政・小事から方言・巷語まで、すべて採って報告させた。

成化十三年(1477年)— 西厰の横暴

  • 二月、福建都指揮の楊曄の家を没収した。曄は少師・楊栄の曽孫で、郷里で罪を逃れて京師に入った。
  • 錦衣百戸の韋瑛はもと無頼で、内官の韋姓を冒して延綏の従征で百戸に昇った。ここに至って汪直のもとへ行って報じた。「曄の家は資産が巨万、常に人を殺しております。まもなく亡命者を招き納れて海に下る計です」。直は喜んで卒を発して捕らえさせた。供述が兵部主事の楊仕偉、中書舎人の董璵に連なり、ともに獄に下されて死に瀕した。曄はついに斃れ、改めて瑛を遣わしてその家を没収させた。
  • 三月、左都御史の李賓が「みだりに妖言を報じた者は斬に擬すべきです」と奏した。当時、西厰の旗校は妖言を捕らえて官賞を図り、無頼の者の多くが偽の書を作って愚民を誘い、事を行ったところを捕らえて法外の刑を加えた。冤死する者が相次いだが、あえて言う者はなかった。ゆえに賓が奏したのである。
  • 夏四月、汪直が韋瑛に左通政の方賢、太医院判の蔣宗武を捕らえさせて西厰の獄に下した。
  • 礼部郎中の楽章、行人の張廷網が安南から使いを終えて還り、刑部郎中の武清が広西の勘事から還り、浙江布政使の劉福が服喪明けで京に至った。汪直はすべて韋瑛に捕らえて繋がせた。
  • 御史の黄本が雲南・貴州の軍を清し文書を検して還ったとき、汪直は韋瑛に捜索させて象牙の笏一枚を得、捕らえて錦衣衛に送って訊問し、民とした。

成化十三年 五月(1477年)— 商輅の弾劾と西厰の一時廃止

  • 五月、西厰を罷めた。当時、汪直は西厰を開いて罪を織り上げ、たびたび大獄を起こし、臣民は悚れ懼れた。大学士の商輅が疏して言った。
  • 「近日、伺察が繁きに過ぎ、政令は急に過ぎ、刑網は密に過ぎ、人情は疑い畏れ、洶々として安んじません。これは陛下が聴断を汪直に委ね、直がまた耳目を群小に寄せているからです。中外は騒然として、どうして意外・不測の変がないと保証できましょう。往時、曹欽の反乱は、みな逯杲が激発したものです。一朝、禍が興れば、ついに消し止めがたい。 願わくは陛下、宸衷から断じて西厰を革め、汪直を罷めてその身を全うさせ、韋瑛を誅してその罪を正されますよう」。
  • 疏が入ると上は怒って「一人の内豎がどうして天下を危うくしよう」と言った。太監の懐恩が旨を伝えて甚だ厳しく詰責した。
  • 輅は言った。「朝臣は大小を問わず、罪があればみな旨を請うて収問します。直はあえて三品以上の京官を擅に逮捕しました。大同・宣府は北門の鍵で、守備は一日も欠かせぬのに、直は一日に数人を捕らえ械に繋ぎました。南京は祖宗の根本の重地で、留守の大臣を直はそのつど収捕しました。諸近侍を直はそのつど入れ替えました。直を黜けなければ国家がどうして危うくならずにおれましょう」。
  • 恩は指を齧って退き、奏上した。上は直ちに西厰を廃するよう命じ、懐恩を召して直の罪を数えて責め、韋瑛を宣府に謫戍した。
  • 兵部尚書の項忠を籍を削って民とした。
  • もともと汪直が西厰を掌っても士大夫は往来しなかった。左都御史の王越が西征で韋瑛を知り、深く結んで日々、直をうかがいに行った。吏部尚書の尹旻が諸卿・貳とともに直を訪ねようとし、越に紹介を頼んだ。会うと諸卿・貳を率いて叩頭して出、直は大いに悦んだ。
  • ある日、項忠が道で直に遭い、通り過ぎてから気づいて追いつき、輿を下りて謝した。忠は礼をしなかった。まもなく朝で忠を辱め、さらに校卒を遣わした。直は堂に上がって辞去したが、言葉も顔色も甚だ厲しかった。忠もまた礼をしなかった。しかも王越が忠に代わることを謀って毀り短を言った。
  • 直はこれによって忠を恨み、日々その事を拾い集め、危うさは甚だしかった。忠は疏を具えて九卿を率いて弾劾しようとし、武選郎中の姚璧に持たせて尹旻の所へ署名させに行かせた。旻は「もと項公が撰したのだから兵部を首とすべきだ」と言った。璧は「公は六卿の長です」と言った。旻は怒って「今日になって六卿の長と知るのか」と言い、直ちに人を遣わして韋瑛に報せた。
  • 直はいよいよ怒って忠を陥れる手立てを考えた。折しも千戸の呉綬という者があり、先に楚の軍で法を撓げて忠に逐われていた。綬は直の営に書記を求め、かなり文詞に巧みだった。直は喜んで錦衣副千戸を授けた。
  • 西厰が罷められても、上は時にひそかに直を召して外間の事を察させた。直はそこで呉綬が文をよくすることを封じて進め、綬を鎮撫司で問刑させることになった。
  • 直はそこで東厰の官校をけしかけて江西都指揮の劉江、指揮の黄賓の事を発かせ、忠を誣って構えた。給事中の郭鏜、御史の馮瓘が直に附いて交々忠の違法を論じた。忠は廷で慷慨して弁じ、少しも屈しなかったが、獄が成ってついに籍を削られた。璧も降調された。璧はもと尚書・姚夔の子である。

成化十三年 六月〜十一月(1477年)— 西厰の復活

  • 六月、御史の戴縉・王億の言によって西厰を復し、汪直になお偵察させた。
  • 縉は言った。「近年、災変がしきりに至りましたが、大臣が何の賢を進め何の不肖を退けたか聞きません。ただ太監の汪直が奸を釐め弊を剔ったことこそ公論に合っておりました。それが官校の韋瑛が大げさに事を行ったというだけで西厰を革めました。伏して望みます、誠を推して人を任じ、両京の大臣に自ら去留を陳べさせ、聖衷から断ぜられますよう」。上は悦んだ。
  • 当時、縉は九年、昇進せず、進むことを望んで直を頌えた。その「自ら陳べる」の一事はとりわけ直の喜ぶところだった。直は常に商輅と李賓が施行しがたいことを憎んでいたからである。
  • 億は「汪直の行うところは今日の法とすべきだけでなく、万世の法ともすべきです」と言った。天下は聞いて唾した。
  • 大学士の商輅、尚書の薛遠・董方、左都御史の李賓がみな致仕した。王越を兵部尚書兼左都御史として院の事を掌らせた。当時、越は汪直に附き、御史の馮瑾をけしかけて諸大臣を排斥させた。輅が致仕すると、遠らも相次いで自ら陳べて去った。
  • 十一月、御史の馮瓘を大理寺丞、戴縉を尚宝司少卿とした。縉はまもなく僉都御史に抜擢され、王億は湖広按察副使となった。

成化十四年(1478年)— 遼東での対立

  • 夏五月、汪直が奏して武挙に科を設け、郷試・会試・殿試を進士の例のごとくすることを請うた。
  • 秋七月、兵部右侍郎の馬文升が遼東を撫し、まもなく京に還った。
  • 先に海西の烏珍都指揮のサイン・チョハが上書して「開原の検査担当の管指揮が真珠・豹皮を要求しました」と言い、遼東の守臣に調べさせた。管指揮は懼れた。折しもサイン・チョハの甥のチェチェンが入貢し、指揮が賄賂を贈った。チェチェンは「誣告です」と言った。サイン・チョハは聞いて怒り、衆を集めて辺を侵そうと謀った。
  • 守臣は番文に訳して、サイン・チョハに広寧へ来て面と向かって質すよう招いた。サイン・チョハは部下を率いて撫順関から広寧へ赴いた。
  • 当時、参将の周俊が開原を守っており、サイン・チョハが至れば事が漏れることを恐れ、使者を馳せて広寧の守臣に「海西の人は日ごろ撫順から進まぬ。他日の患いを開く恐れがある」と偽って報じた。守臣はその詐りを疑わず、直ちに阻んだ。
  • サイン・チョハは既に関に入っており、これを聞いて大いに怒り、矢を折って恨みを誓って去った。しかも遼左の諸衛にはもともとドクシンを捕らえ殺した怨みがあった。そこで海西の勢いに藉ってサイン・チョハを留め、互いに煽り、兵を合わせて辺に入り、勢いは次第に熾んになった。
  • 汪直は王英に惑わされて、撫しに行けば大功を邀えられると考えた。上は遣わそうとしたが、懐恩は直が年若く功を喜ぶので、覃昌とともに南閣に至り、尚書の余子俊、侍郎の馬文升を集めて議した。
  • みな「彼らは既に使者が入貢しているのに、その家を屠りました。今、どうすれば消し止められましょう」と言った。ある者は「大官で報いるべきです」と言った。文升は「官ではその憤りを釈けません。しかも宋は李継遷を京官としたためについに西夏の患いを招きました」と言った。懐恩は「では大臣に大通事を同行させて撫させよう」と言い、衆はみな「諾」と言った。
  • 旨が伝えられて馬文升と詹升を遣わすことになったが、直は王英を同行させようとした。文升は謝して断り、直は深く恨んだ。
  • 文升は撫順に疾駆し、貢使を放って重陽に帰らせ、その衆に諭して朝廷の徳意を知らせた。まもなくその部長を召して璽書を宣し、慰労は至れり尽くせりだった。
  • やがて海西が再び兵を放って侵掠した。文升が撃破し、まもなく撫定した。事が報じられ、直は「既に撫を受けながら、なぜまた侵入したのか」と言い、あくまで王英の言を信じて自ら赴くことを請うた。
  • 諸部は直の声勢を聞いて久しく一人も出て撫を聴く者がなかった。直が開原に至っても、文升は撫順にいて直は接しなかった。かくて文升が招いた烏珍の野人・ドルジャら三百余人はみな怒って帰ろうとした。
  • 参将の周俊は事が敗れることを恐れて直に「馬侍郎を招かねばなりません」と言った。直はそこで人を遣わして文升を招き、文升が馳せ至った。直が「どうしたものか」と問うと、文升は「太監が既にここに来られた以上、この者らは太監が招き出したのです。どうして彼此の別がありましょう」と答えた。
  • 直は事が易しくないと察して文升の言を聴き、犒って、そのまま文升とともに帰り、表向き上に報じた。
  • 秋七月、江西の人・楊福が汪直と称し、罪に伏した。福はかつて崇王府の内使となって随って京に入り、まもなく逃げ帰った。南京を過ぎたとき、知り合いに「容貌が直に酷似している」と言われた。福はそこで直と偽り、知り合いは校尉に偽装した。
  • 蕪湖から伝馬に乗り食料を給され、常州・蘇州を歴、杭州から四明に至った。有司および市舶の官はみな息を潜めて命を奉じ、威福は大いに張った。福州に至って鎮守太監の盧勝に気づかれ、捕らえて訊問し、律のとおり処された。

成化十五年(1479年)— 馬文升の失脚と遼東の役

  • 夏六月、汪直に刑部尚書の林聡とともに遼東の事を訊問させ、兵部侍郎の馬文升を逮捕して錦衣獄に下し、重慶に謫戍した。
  • もともと陳鉞が遼東を巡撫して事の行いが道理に外れ、文升が入れ替えて約束させ、動けなくした。汪直が遼東に至ると、鉞は戎服で道の左に伏し、道を掃き厨を飾って供応の帳は鮮麗だった。文升だけが直と対等の礼をした。
  • 直は左右を顎で指図した。左右の多くが鉞を誉め文升を毀り、鉞もまた隙に乗じて讒言した。
  • 折しも給事中の張良が鉞を「属部に変を激発させた」と弾劾し、京に逮捕された。鉞は直に賄賂して「海西がみな辺をたびたび侵すのは、文升が農具を禁じて交易させぬからです」と言わせた。直はそこで「文升はみだりに辺釁を開き、擅に農具を禁じました」と奏し、なお直と聡を遣わして訊問させた。
  • 直は偽って恭敬を致し、深く自ら聡に取り入った。聡の報告はついに直の言のとおりとなった。しかし文升が禁じたのは鉄器であって農具ではなかった。
  • 秋七月、汪直に辺を巡らせた。
  • 冬十月、遼東巡撫の陳鉞が海西討伐を請うた。撫寧侯の朱永を総兵、陳鉞に軍務を提督させ、汪直に監させた。
  • 直が遼東に至ると、頭目の郎秀ら四十人が入貢して広寧で直に遭った。直は「うかがい探った」と誣って掩い殺し、塞を出て不備を掩い、その廬と帳を焼いて還り、大勝と報じた。
  • 功を論じて汪直に歳禄を加え、十二団営を監督させ、朱永を保国公に進め、陳鉞を戸部尚書とした。
  • まもなく海西の諸部が復讐を辞として雲陽・青河などの堡に深入りし、男女を殺掠してみな支解して晒した。辺将は兵を収めて出ず、鉞は隠して報告しなかった。
  • 太僕少卿の王宗彝を僉都御史として遼東を巡撫させた。宗彝はもと大学士・王文の子である。郎中として遼東で餉を督し、汪直に阿って急進した。

成化十六年〜十八年(1480年〜1482年)— 威望の頂点と失脚の兆し

  • 十六年春正月、給事中の孫博が上言した。「東西の厰の緝事の旗校は、多くが細事を挙げて大臣を中傷しております。旗校はもと厠役の徒、大臣は股肱の任。国体を傷つけ、治世の事ではありません」。疏が入って厳しく責められた。
  • 三月、太監の汪直、保国公の朱永、尚書の王越に兵を率いて塞を出させ、威寧で敵を襲って破った。越は威寧伯に封じられた。
  • 夏四月、遼東を巡按する御史の強珍が上疏して、太監の汪直、総兵の侯謙、巡撫の陳鉞が先に機を失って隠匿した罪を弾劾した。かくて都給事中の呉原、御史の許進らも鉞について言い、黄潜善・賈似道に比した。詔して鉞の俸を罰した。
  • 鉞はそこで王越が院の事を掌りながら珍を放置していると怨んだ。折しも汪直が辺を巡って京に還り、鉞は五十里まで出迎え、「珍は越の意を承けて弾劾しました」と訴えた。直は怒り、越が迎えに来ても会わなかった。
  • 遼東を巡撫する王宗彝はそこで直の意に阿って珍を「みだりに奏した」と誣い、珍を械に繋いで京に至らせ、錦衣衛の獄に下し、遼東に戍らせた。
  • 秋七月、汪直が安南征討を議した。当時、安南は連年、占城を侵擾し、占城が使者を遣わして討伐を請うた。直はそこで安南攻略の策を献じた。
  • 郎中の陸容が上言した。「安南は中国に臣服して既に久しく、今、大に事える礼を失わず、叛逆の形も現れておりません。一朝、兵を加えれば、遺す禍は小さくないでしょう」。
  • 直の意はなお已まず、旨を伝えて永楽年間に調えた軍の数を索めた。当時、劉大夏が職方にいて故意にその簿を匿し、ゆっくりと利害を告げた。尚書の余子俊が力説して沮み、事はそこで寝んだ。
  • 十七年秋八月、イシ・バチンが大同を侵し、威寧伯の王越に征西前将軍の印を佩びさせ、鎮守太監の汪直にその軍を監させた。
  • 冬十月、宣府を巡撫する都御史の秦紘が、汪直が旗校を放って民を擾していると密疏し、上は釈した。
  • 紘が宣府に着いてから、直が事で来た。声勢は赫々として、他の巡撫の官はおおむね礼を屈したが、紘だけが対等に構えた。直もまた争わなかった。紘はそこで密疏して直を論じた。
  • のち直が還ったとき、上が各巡撫の臣の賢否を問うと、直は独り紘の廉能を称えた。上が紘の疏を直に示すと、直は叩頭して罪に伏し、なお紘の賢を称えて已まなかった。
  • 十八年春三月、再び西厰を罷めた。
  • 先に盗賊が皇城を越えて西内に入り、東厰の校尉が捕らえた。太監の尚銘が報告し、上は大いに喜んで厚く賜った。直は聞いて怒った。「銘は私の用いた者なのに、私に背いて独り功を擅にした」。倒そうと思った。銘は懼れてひそかに直が禍を構えた事を上に達した。
  • 上は直が出征して以来、李孜省が権を用い、万安が昭徳宮と結んでかなり権を攬り、直を憎んで蝕んだので、上も次第に疎んじた。
  • かくて科道が交々章を上って「西厰の苛察は国体でありません」と奏し、万安も罷めるべきだと言い、劉珝は不可としたが、上はついに西厰を罷め、中外は欣然とした。珝には慚じる色があった。
  • 秋八月、威寧伯の王越を延綏の守備に転じ、都督の許寧を代えた。当時、万安は汪直が王越に誘われることを恐れて再び用いることを求め、ゆえにこの転任があった。

成化十九年(1483年)— 汪直の失脚

  • 夏六月、汪直を南京御馬監に転じた。直は総兵の許寧と折り合わず、巡撫の郭鏜が報告し、ゆえにこの命があった。
  • 直が貴く盛んだった頃、車蓋の至る所、有司の出迎えが間に合わなければ、そのつど笞打たれた。おおむね予め用意を整え、早くから戒めて待ち、僕従までみな酔い飽きさせて初めて直は悦んだ。
  • ここに至って転任して州県を過ぎると、有司はみな避けた。直は困窮して公館に仰臥し、孤灯が瑩々と燃えるばかりだった。
  • 裴泰という知州があり、かつて供応が甚だ粛々として備わっていた。折しも上官を迎えに出て直に遭った。直は喜んで食を求めて言った。「私はもう以前とは違う。私が南へ行くのは上意が測りがたい。明朝、発つのに馬夫が足りればよい」。泰は手を拱いて立っていた。
  • 秋八月、御史の徐鏞が上疏して汪直の欺罔の罪を弾劾した。
  • 「汪直は王越・陳鉞と結んで腹心となり、互いに表裏をなし、罪を織り上げる文をほしいままにし、威福の勢いを振るいました。兵は西北に連なり、民は東南に困しみ、天下の人はただ西厰あるを知って朝廷あるを知らず、ただ汪直を畏れて陛下を畏れることを知りません。次第に羽翼を成し、寒心すべきことです。乞い願わくは陛下、明らかに典刑を正し、奸臣が党を結び勢いを恃む戒めとされますよう」。
  • 上は深くその言を納れた。
  • 汪直に罪があって罷め、王越の威寧伯を削って誥券を追奪し、安陸州に編管した。兵部尚書の陳鉞、工部尚書の戴縉、錦衣指揮使の呉綬は職を革めて民とした。前兵部尚書の項忠を起こしてその官を復し、馬文升を召し還して左副都御史として遼東を巡撫させた。
  • もともと汪直が権を用いること久しく、勢いは中外を傾け、天下は凛々としていた。中官に阿丑という者があり、諧謔をよくし、常に上の前で寸劇を演じ、かなり譎諫の風があった。
  • ある日、丑は酔って酒に荒れる者を演じた。前に人を遣わして偽って「某官が来られた」と言わせても、酔漢は従来どおり罵った。また「駕が来られた」と言っても同じだった。「汪太監が来られた」と言うと、酔漢は驚き迫って畏まった。傍らの一人が「駕が来ても懼れぬのに、汪太監を懼れるのはなぜか」と問うと、「私は汪太監があるのを知って、天子があるのを知らぬ」と答えた。
  • また別の日、突然、直の衣冠を真似て双斧を持ち、そそくさと歩いた。ある者が理由を問うと、「私が兵を将いるのはこの二つの鉞(えつ)を仗むだけだ」と答えた。「鉞は何という名か」と問うと、「王越と陳鉞だ」と答えた。上はかすかに笑った。これより直の寵は衰えた。
  • 罷斥されたとき、中外に快としない者はなかった。まもなく尚銘も罪があって黜され、家を没収して数万の資を車で運んだ。
  • 韋瑛は万全衛に謫され、功を要して起用されようと自ら妖言を作り、巫者の劉忠興ら十余人を不軌と誣った。鞫問して白日の下に晒され、瑛は誅に伏した。

史論(谷応泰曰)

  • 明は百余年、海内は治まり、朝野は業を蒙った。ところが太阿の剣がひそかに移り、刑人が権柄を執り、中官の禍がたびたび起こった。憲宗が汪直に命じて西厰を設けたところに至って、喟然として書を廃して嘆ずる。ああ、法の涼薄なること、国制は乱れた。
  • そもそも千尋の木にも必ず壊れた枝があり、径一尺の璧にも必ず微かな瑕がある。ゆえに黈纊は聡を塞ぎ、垂旒は明を蔽い、山沢は汚れを納れ、国君は恥を含む。張武の金銭を愧じ、河東の酒の過ちを隠したのは、瑕を匿して瑜を呈し、群力を鼓舞するためである。
  • 国武子が人の過ちを言うのを好み、君子はその殺されることを知った。隋の文帝が苛細に下を縛り、識者はその遺した謀を陋しとした。
  • それを、夜半に事を探り、人の寝室をうかがい、方言・巷語が競って宸聴に入り、瓜の蔓、枝が連なってたちまち大獄を成す。竹筒・鈎鉅の術(尋問術)は賢い吏でも薄しとし、その行いは俗を衰えさせ悪しくすると言われる。まして万乗の尊で攻訐の智を行うにおいてをや。
  • しかも権柄を人でない者に委ね、権を近くの宦官に寄せ、奸民を招致して顕わに械を繋いだ。その始まりは、李膺が柱を破り将閭が天に呼んだようなもの。因って権は北寺の獄に帰し、黄門の奏で禍は清流に発し、惨は白馬の禍に等しい。継いで薑や桂のような辛さはみな鋤かれ、脂や韋のような柔らかさが習いとなり、身を宮掖に呈し、膝を私人に屈した。中官の勢いが成って主上は孤立した。
  • 憲宗は自ら桓帝・霊帝に法り、奸を養って節を抑えた。卿・貳・大臣を直はみな収問し、局司の近侍を直は更迭し、檻車で逮捕して治め、南署は空になり、緹騎が辺を馳せ、北門は守られなかった。明の世に中人で寵霊を窃んだ者は多いが、これほど顕わに利器を人に授けて断ち割らせたのは憲宗のほかにない。
  • 昔、高皇帝は錦衣衛の獄を罷めてその械具を焼き、子孫に垂れ示した。「人を市で刑して大公を明らかにせよ。禁闥に幽して命を宦官に委ねるな」と。
  • 西厰は続いて罷められたが、弊は二度と革まらなかった。劉瑾が直の書を読み、魏忠賢が善類を傾け、懐宗(崇禎帝)が自ら内乱を平らげるに至っても、晩年には東厰の羅捕に漏れがなかった。商鞅が秦を治めて道に語り合う者もなく、呉元済が蔡を窃んで火も夜に燃えなかった。これも酷吏の哀痛の風、衰える国の乱亡の兆しである。
  • 汪直は大藤峡の猺賊の出で、幼くして禁中に養われた。金日磾が宝の瑟を守った忠を思わず、みだりに安禄山の「赤心」の詐りを持った。用兵を酷く好み、そのつど辺釁を開いた。海西の一獄で危うく降人を激発させ、羽を北の辺陲に垂れ、功を南の服属地に邀えようとした。南海の明珠は寂寥として久しいことを知らなかったのである。
  • 馬文升が撫順で功を推し、劉大夏が安南で簿籍を焼いた。大臣が身を委ねて曲げ従いつつ国を保つのは、もとよりこういうものである。
  • 阿丑は諧謔で主を悟らせ、談笑して奸を除いた。懐恩は心を王室に寄せ、正しい人を倚み恃んだ。これも寺人・女子の類、淳于髠・優孟の智である。言葉が微かに中って人主を説く者にも、察せずにおれようか。