明史紀事本末藤峡の盗賊を平定する(平藤峽盗)

成化元年(1465年)から嘉靖十八年(1539年)までの75年間、広西潯州の大藤峡に拠った猺・獞の蜂起と三度にわたる討伐を記す。景泰以来、侯大狗らが険に拠って郡県を掠め制しがたかったが、王竑の推挙で韓雍が軍務を賛理し、修仁・荔浦を破ったうえで峡を四面から攻め、火を放って巣を焼き侯大狗ら七百余人を擒にし、峡の藤を断って「断藤峡」と改め武靖州を置いた。正徳以後、陳金の魚塩の約が破れて賊が再び熾んになると、嘉靖七年に王守仁が湖広の土兵で不意を襲って断藤峡と八寨を平らげた。さらに侯勝海の弟・公丁の乱に対し、翁万達・田汝成の計で公丁を捕らえて磔にし、嘉靖十八年、蔡経が左右両軍で峡を平定して七事の善後策を行った。

年表(7件)

成化元年 春正月(1465年)— 出師と大藤峡の地勢

  • 両広で蛮賊が乱をなした。都督同知の趙輔を征蛮将軍、都督僉事の和勇を遊撃将軍とし、浙江左参政の韓雍を右僉都御史に抜擢して軍務を賛理させ、兵を率いて討たせた。太監の盧康・陳宣を監軍、戸部尚書の薛遠に餉を督させ、御史の劉慶・汪霖を紀功とした。
  • 広西潯州の境は万山が盤り聳え、中に潯江という水がある。源を柳州・慶遠に発して東へ巡って潯州に至り、象州・永安・修仁・荔浦・平楽の諸郡県を帯とする。江を挟む諸山はみな切り立って険しく、その最も険悪な地が大藤峡である。一本の藤が峡を渡って、澗を跨ぐ丸木橋のようだからである。
  • 南は潯水を截って府江となる。藤峡から府江まで約三百余里。地はただ藤峡が最も高く、藤峡の頂に登れば数十里がみな目前に歴々とし、軍旅の集散・往来を一目で見尽くせる。
  • 諸蛮はここを本拠とした。桂平の大宣郷・崇姜里が前庭、象州の東郷・武宣の北郷が後戸、藤県の五屯がその左を障り、貴県の龍山がその右に拠って、両腕のようである。
  • 峡の北の巌や洞は百を数え、仙人関・九層崖などは極めて険阻である。峡の南には牛腸・大岵の諸村があり、みな江沿いに寨を立てている。
  • 藤峡と府江の間を力山という。力山の険は藤峡の倍である。さらに南は府江で、周囲およそ六百里。その中には暗い巌と奥深い谷が多く、層をなす石段と絶壁があり、入る者は手で引き足を移して十歩に九折れ、一度足を踏み外せば数百仞下に落ちる。
  • その中に猺人が産し、藍・胡・侯・盤の四姓が渠魁である。力山にはまた獞人があり、毒薬を塗るのに巧みで、弩の矢が人に中れば立ちどころに斃れぬことがなく、四姓の猺でさえ憚った。
  • 景泰年間、猺の渠帥・侯大狗らが乱を倡えて一万人が集まり、修仁・荔浦・力山・平楽がみな呼応した。郡県を攻め落とし山谷に出没し、守吏は制せられず、おおむね招撫で繋ぎ止めた。当時、朝廷はまさに北のオイラトを患えて手が回らなかった。
  • 天順年間、いよいよ恣にした。詔して大狗を捕らえた者に千金と爵一級を与えるとしたが、ついに得られなかった。久しくして広東の高州・廉州・雷州の境に蔓延し、至る所を残し毀ち、両広の守臣はみな待罪した。
  • ここに至って兵部尚書の王竑が言った。「峡の賊が乱をなして久しい。その始まりはみな守臣が招撫を功としたことによる。喩えれば驕った子で、恤めば恤むほど啼く。血が出るまで打たねば啼き止まぬ。浙江左参政の韓雍には文武の才がある。討賊を委ねれば南を顧みる憂いを抒せる。しかも諸将の中でただ都督の趙輔だけが勇略があって任じうる」。ゆえにこの命があった。
  • 国境外の事はすべて雍に委ね、制していわく「将士で功ある者は自ら署してよい。三司以下で命に従わぬ者は軍法に論ぜよ。朕は中から制せぬ」。

成化元年 夏六月〜秋(1465年)— 進軍の方略

  • 夏六月、韓雍が南京に至って諸将を会して進兵の方略を議した。
  • みな言った。「広東は残破し、盗が至る所に屯集しております。兵を分けて撲滅すべきです。一軍を庾嶺から広東へ入れ、大軍は湖広から広西へ入る。広東にいる賊はこれを駆り、広西にいる賊は困らせる。こうしてこそ滅ぼせます」。
  • 雍は言った。「そうではない。賊は既に流れて劫掠して蔓延して出ている。至る所で戦うのは禍を煽ることだ。大藤峡は賊の巣穴である。今、全師でこれを衝き、彼の地に至れば、南は高州・廉州・雷州を援け、東は南雄・韶州に応じ、西は柳州・慶遠を取り、北は陽峒に継げる。諸路の勢いは常山の蛇のごとく、動いて応ぜぬことなく、挙げて克てぬことがない。心腹が既に潰えれば、諸処の賊は息を偸む亡魂にすぎぬ。どうして逐う煩わしさがあろう。 これを措いて図らず、兵を分けて四方に出せば、賊はいよいよ奔り突いて広がり、郡県はいよいよ残し毀たれる。いわゆる『火を救うのに吹く』ようなもの。済ることはあるまい」。諸将は「まことに公の言のとおりです」と言った。
  • そこで官軍三万人を兼程で進ませた。
  • 秋七月、韓雍の大軍が全州に至った。折しも陽峒の西の延苗の賊が梗となったので、偏師を出して撃滅し、軍律を失った指揮の李英ら四人を斬った。軍中は震え上がった。
  • 九月、大軍が桂林に至った。雍は図籍を按じて諸将と議した。「修仁・荔浦は藤峡の羽翼である。これを剪除せねば藤峡の勢いは孤立せぬ」。
  • そこで永順・保靖および西江の土兵十六万人を五路に分けて進め、まず修仁を破り、力山まで追い窮めて大敗させ、一千二百余人を生け捕り、七千三百余級を斬った。

成化元年 冬十一月〜十二月(1465年)— 大藤峡の攻略

  • 冬十一月、大軍が潯州に至った。雍は父老を招いて計を問うた。
  • みな言った。「大藤は天険で、重なる巌と密な藪、三季は瘴癘です。私どもはその地に生い育ちましたが要領を得られません。しかも賊は大兵の到来を聞いて備えをいよいよ堅くしております。兵を屯して囲み、戦いつつ守れば、戦わずして自ら斃れましょう」。
  • 雍は言った。「そうではない。峡の山は遼遠に紛れ入り混じって六百余里。どうして囲めようか。しかも屯兵が長引けば将士は懈み弛み、うかがい衝いてくるのをどうしてすべて防げよう。 兵法に『むしろ我が人に薄れ』といい、また『人に先んずれば人の心を奪う』という。今、我が軍は府江を破ったばかりで勇気は百倍、賊は聞いて震え恐れ魄を喪っている。それに乗じて棄てれば、たちどころに破れる」。
  • そこで総兵の欧信、参将の孫騏・高瑞らに六万八千人を率いさせて右軍とし、象州・武宣から五道に分けて入ってその北を攻めさせ、都指揮の白全・楊嶼・張剛・王屺らに九万二千人を率いさせて左軍とし、桂林・平南から八道に分けて入ってその南を攻めさせ、参将の孫震、指揮の陳文章らに左江および龍山・五屯を守らせて逃走を防がせた。
  • 雍は趙輔・和勇とともに高振嶺に営して諸軍を督した。
  • 雍はさらに欧信に令した。「山の北を破ったら、直ちに兵を提げて深入りし、桂州・横石の諸崖を挟み攻め」。夏正に令した。「林峒・沙田は府江の間道である。古眉・双髻の諸山を越えて林峒に伏兵し、その東への奔走を扼せ」。諸将は命を聴いた。
  • 十二月朔、韓雍は諸将を督して四面から並び進んで攻め、別に兵を遣わして諸山の口を断った。
  • 賊は兵の来襲を聞いて婦女と蓄えを桂州・横石・寺塘の諸崖に置き、力を尽くして出て峡の南を防いだ。排柵は堅く密で、滾木・礧石・鏢槍・毒矢が注ぐように降った。官軍は山に登って仰ぎ攻め、雍は督戦をいよいよ厳しくした。
  • 敵がやや息んだところを、雍はその怠りをうかがって急撃した。将士は団牌・扒山虎・圧二笆などの器具を用い、魚の列のように進み、みな決死で戦った。喚声は山を撼かし、峡は崩れるようで、賊は気を奪われた。
  • 雍は火を放って焼かせた。烟と炎が天を蔽い、日は昼も暗く、賊は大潰して散った。山南の石門・大信・道袍・屋厦の諸舎、老鼠塞嶺・竹踏・梁脳・紫荊・林峒・沙田・古営・牛腸・大岵・大塞などの塞をことごとく破り、賊の家屋と蓄えはみな焼き払われた。
  • 日暮れ、雍は賊の巣中に営せよと命じた。衆は栗々としたが、雍は恬然として整い暇があり、みなこれを恃んで安んじた。
  • 賊が潰えて横石の諸崖に入ると、雍は兵を飭えて追い窮めさせ、山を伐って道を通じ、数日行ってその地に至った。
  • 賊は九層楼などの山に登り、絶壁が霄漢を控え、林と藪は叢がって悪く、人の住む所ではなかった。柵を樹てて拠り、千斤の礧石と大木を転がして落とすと、音は雷のようで巌谷がみな応じ、弩の矢は雨と注いだ。
  • 雍は誘って大いに発せさせ、人に間道からひそかにその頂に登らせ、賊の投射が尽きるのをうかがって砲を挙げて合図とさせた。卯から未まで、賊の投射が尽きたところで砲が挙がり、賊は大いに驚いた。
  • 雍は将士を督して木に縁り蔓を攀じて登らせた。猿のように引き蟻のように附き、山に漫って奮撃した。数日夜、連続して数百合、激闘し、火矢を放ってその柵を焼いた。夏正らも林峒から援けに来て大兵と合した。
  • 賊は大いに驚いて潰え、侯大狗ら七百八十余人を生け捕り、三千二百余級を斬った。崖を磨いて石に歳月を記して還った。
  • 土地の人は「国初以来、ただ禁じ防いで出て掠めさせなかっただけで、巣穴に窮まり入って破った者はいなかった」と言った。
  • 峡の中に斗ほどの大きな藤があって両崖に亘り、諸蛮は蟻のように渡った。ゆえに大藤峡といった。そこで峡の藤を斬って断ち、名を「断藤峡」と改めた。兵を分けて雷州・廉州・高州・肇慶の諸賊を捕らえ、前後に平定した。

成化元年〜二年(1465年〜1466年)— 韓雍の威と陶魯の起用

  • 先に大軍が修仁・荔浦から大藤峡に至る途中、儒生や里老が数十百人、跪いて香を持って言った。「我らは久しく賊に苦しめられ、自ら脱することを敢えてできませんでした。今、幸いに天兵に遭い、自ら良民となれます。三軍の先鋒を願います」。
  • 雍は大いに怒り、左右を顧みて叱った。「これはみな賊だ。縛って斬れ」。左右ははじめ「雍はなぜ良民を殺すのか」と疑ったが、縛ってみると袂の中から利刀が出、初めて間諜と知った。
  • ことごとく頸を断ち手足をばらし、腸胃を刳って藪や棘の中に分けて掛け、累々と連ねた。賊は大いに驚き沮んで「韓公は天威である」と言った。
  • 新会県丞の陶魯が麾下に属した。雍の威厳は王公に擬え、軍門に銅鼓を数千設け、儀節は詳密だった。三司の長吏も見れば長く跪いて事を白し、小吏のように慴え悚れた。
  • ある日、洞の賊で最も強く険しくて下しがたい者について策を設けようとしていた。魯は当時、直接、膳を左右に侍していた。雍がふざけて「県丞は私が何を思っているか揣ってみよ」と言うと、魯は「某の賊のことではありませんか」と答えた。雍は「そうだ。県丞は行けるか」と言った。「行けるだけでなく、しかも甚だ易いことです」。
  • 雍は怒った。「賊は鋭さが甚だしく、しかも要害を扼して自衛している。大兵でなければ入れぬ。部下の文武数百千人を熟視しても、私が託しうる者はない。私が自ら行こうとしているのに、お前はどうして易いなどと言えるか。お前は粟を食うことができるだけだ。ちっぽけな邑も治められぬのに賊を撃つなどと言う。妄言なら笞打つべきである」。
  • 魯は拝せず、抗言した。「魯を『粟を食うことは解しても賊を撃つことは解さぬ』と仰せなのは、明公が魯をご存じないからです。蔣琬・龐統は邑の事を廃しましたが、のち蜀の名臣となりました。公よ、どうか魯を棄てず、技を尽くさせてください。必ず諸醜をことごとく縛って献じます」。
  • 雍は異として顔色を改めた。「お前は何人を率いて成すのか」。「三百人」。「なぜ少ないのか」。「魯はなお多いと思っております。兵は精を貴ぶ。選ばせてください」。雍は「お前が自らせよ」と言った。
  • 魯はそこで基準を示して約した。「百鈞を力で挙げ、二百歩を矢で射うる者は来い」。三軍の士十五万人のうち、基準に適う者は二百五十人だった。「まだ足りぬ。改めて令を下して募らせてください」。数日募ってようやく足りた。
  • 魯はそこで別将となり、自ら陣法を操練し、牛を屠り酒を出して犒い、甘苦を共にした。士は争って死を願い、率いて先登し、賊を大破して斬首は数知れなかった。賊は「陶家軍」と聞くと駭え慄いて遁れ避け、叩頭して良民となり死を免れることを乞い、幸いとした。魯は陶成の子である。
  • 雍はまた奏して韃靼の官軍千余を調え、専ら偏将に領させた。猺と獞は山林に出入りして標槍・盾など短兵の類を得意とし、騎射には当たれなかった。ゆえに韃靼の軍は向かうところそのつど克ち、賊は畏れた。
  • 平定すると雍は上言した。
  • 「諸猺の性は官吏に会うことを憚ります。流官で統べても、ついに乱を靖めがたい。上隆州土知州の岑鐸は罪があって禁じられておりますが、事は曖昧です。蛮戎の輩には彝倫を責めるに及びません。その職を復して藤峡を領させ、州県を開設して従来どおり潯州に属させることを請います。 また各処の巡検はみな流官で、民情に暗く地理を弁ぜず、往来して転任するので責を成しがたい。部下で功のある土人の李昇らは勤労を効しました。土巡検の官秩を量って授けることを請います。彼らはみな恩に感じて報いを図り、必ず一方を保障できます。 また周冲巡検司を勒馬に、靖寧巡検司を献俘に、思隆巡検を碧灘に移し、東郷・龍山にはそれぞれ添設すべきです。 また別種の獞人は国初にかつて戎伍に充てられました。近ごろ用兵の際、千戸の李慶を遣わして招き、多くが順を効しました。その地に千戸所を開設し、その旧俗に因って李慶を渠帥としてこれを統べさせれば、獷悍を羈縻し、地方を保障できます」。
  • 奏が上って上はみな納れた。そこで断藤峡に武靖州を設け、岑鐸を知州として潯州府に属させた。
  • 班師して功を論じ、雍を左副都御史に抜擢し、文綵の幣六を賜り、一子を錦衣鎮撫に官し、趙輔を武靖伯に封じて子孫に世襲させた。
  • 出軍の当初、趙輔は雍の才を知り、軍事はすべて雍に聴き、輔はただ命を用いて戦った。ゆえに向かうところ功があった。

嘉靖六年〜七年(1527年〜1528年)— 王守仁の討伐

  • 嘉靖六年夏五月、新建伯の王守仁を起こして兵部尚書として両広・江西・湖広の軍務を総制させた。
  • 先に成化年間、韓雍が断藤峡を平らげて民は二十余年、安らかに居ることができた。正徳五年以後、遺孽が次第に熾んになり、峡の南の賊がとりわけ甚だしく、江を横切って人を防ぎ止めた。
  • 総制都御史の陳金は「諸蛮は魚と塩を利するだけだ」と考え、彼らと約して、商船で峡に入る者は船の大小を計って魚と塩を給し、諸蛮は水際で受け取って去り、税を徴収するようにして梗とならぬこととした。
  • 蛮ははじめ利を得て約を聴き、道はかなり通じた。金もこの法は長く続くと考え、峡の名を「永通」と改めた。
  • まもなく諸蛮はこれに縁っていよいよ憚りなく、大いに掠奪をほしいままにし、少しでも意に沿わねば殺した。因循して猖獗となり、ついに険を負って大いに賊をなした。
  • ここに至って守仁が両広に至り、田州の盧蘇・王受の降伏を定めた。すると両江の父老が道を遮って断藤峡および入寨の賊が乱を倡えた状を訴え、守仁が上疏して討伐を請い、従われた。
  • 七年春二月、王守仁が湖広の兵を率いて南寧に至った。盧蘇・王受は降ったばかりで、功を立てて自ら贖うことを願った。
  • 守仁はそこで諸守臣・将帥を集めて議し、湖広僉事の汪溱、広西副使の翁素、僉事の呉天挺および参将の張経、都指揮の謝珮に湖広の土兵を監させて断藤峡の賊を襲い剿させ、なお永順の兵を分けて牛鵬などの寨を、保靖の兵に六寺などの寨を進み剿させ、四月初二日に各々の任地に至ることを期した。
  • 先に峡の賊は軍門が湖広の土兵を檄したと聞いてみな深い険地に逃げ隠れた。さらに蘇・受の降伏で罷兵したと聞き、しかも守仁は南寧に駐まって故意に諸兵を散じ遣わす様子を見せたので、賊は弛んで備えなかった。
  • 湖広の兵はみな旗を伏せ鼓を臥せて馳せ至り、官軍と突進して四面から挟撃した。賊は敗れて退き、仙女大山を保ち、険に拠って寨を結んだ。官軍は木を攀じ崖に縁って仰ぎ攻めた。
  • 初四日、賊の寨を破り、初五日、さらに油㢸・石壁・大陂などの巣を攻め破った。賊は敗れて断藤峡へ奔り、官軍が追撃して破った。賊は横石江を渡って奔り、覆り溺れて死ぬ者は六百余人。官軍が背後から急撃して俘獲は甚だ多く、賊は潰散した。
  • 初十日、山や洞をあまねく捜索して遺すところなく、兵を還して潯州に至った。
  • 守仁はひそかに諸将に檄して兵を移して仙台などの賊を剿させた。二十一日、なお前のとおり各哨に分布し、永順の兵は磐石・大黄石から上陸して仙台・花相などへ進み剿し、保靖の兵は烏江口・丹竹埠から上陸して白竹・古陶・羅鳳などへ進み剿し、五月十三日に巣に抵ることを期した。
  • 各賊は牛腸などの寨が破滅したと聞いて大いに恐れ、まさに険に拠って伏を設けて待った。官軍が急進して奮い勇んで挟撃すると、賊は支えきれずに永安の力山へ奔った。そこで兵を分けて囲むと、賊はまた大潰し、諸路へ奔る者の多くが防截する参将の沈希儀らに擒にされた。かくて断藤の賊はほぼ尽きた。
  • 先に守仁は入寨の賊が断藤からやや遠いので、別に布政使の林富、副総兵の張佑を遣わして土目の盧蘇・王受の五千余の衆を監督させて入寨の猺賊を進み剿させた。
  • 各兵は夜に乗じて枚を銜んで襲い、夜明けに賊の巣に至り、そのまま石門の天険を破った。賊は初めて驚き覚め、戦いつつ走った。日中、賊は二千余人を集めて拒みに来たが、官軍が奮撃した。賊は既に険を失って気を奪われて支えきれず、大潰して重い険地に奔り入った。
  • 官軍は夜に死士を募ってその不備を掩い、古蓬寨を襲って破り、続いて固安・古鉢・都者峒の諸寨を克った。かくて八寨の賊も尽きた。前後に擒斬したのは三千余人。両江は平定された。
  • 守仁は班師し、疏して林富を都御史としてその地を巡撫させるよう薦め、功を論じて差をつけて褒賞した。

嘉靖十五年〜十七年(1536年〜1538年)— 侯公丁の乱

  • 十五年夏六月、断藤峡の盗が戍卒を攻め殺した。
  • 先に王守仁が帰って道中で卒し、武靖州知州の岑邦佐は鎮め集められず、しかも賊の賄賂に汚れて多くを曲げて庇った。ゆえに峡の北の賊はまた次第に猖獗をほしいままにした。
  • その頭目の侯勝海は弩灘に住んで乱をなした。指揮の潘翰臣は土目の黄貴・韋香の言を聴いて勝海を誘って殺した。実は貴と香が勝海の田と家を利したのである。
  • 勝海の弟の公丁が衆を集めて城下で騒いで人を殺した。僉事の鄔閲と参議の孫継武が都御史の潘旦に言って討伐を請うた。
  • 参将の沈希儀が沮んで言った。「狡猾な賊は容易に取れません。春に江が増水するのを待ち、数千人で武宣から流れを下って撲つべきです」。聴かれなかった。
  • 閲と継武は潯州に還り、千人で撃ちに行ったが、賊は先に逃げ去り、一人の病人を斬って還った。そこで「賊は既に跡を歛めました。堡を立てて戍らせることを請います」と言い、旦は従った。
  • 希儀はさらに「賊はまだ大きく傷ついておらず、兵威は振るっておりません。堡を立てても守りにくい」と言ったが、旦は聴かなかった。
  • 六月、堡が成った。閲は黄貴・韋香に三百人で戍らせ、勝海の田と家を択び取ることを許して禁じなかった。諸猺は大いに憤り、邦佐もまたひそかに彼らに味方した。
  • 公丁はそこで衆二千人を集め、夜に堡を侵して戍卒二百余人を殺した。貴と香は逃げて免れた。巡按御史の諸演がその事を疏し、閲と継武は釁を開いた罪で罷免された。まもなく旦も去り、侍郎の蔡経が代わった。
  • 十七年春正月、蔡経が諸司を集めて発兵を議した。「諸君、賊を滅ぼすには兵はどれほど要ると思うか」。
  • 副総兵の張経は「一万人を過ぎません」と言った。蔡経は「少なすぎる」と言った。沈希儀は「八万人でなければなりません」と言った。蔡経は「多すぎる」と言った。
  • 副使の翁万達が言った。「二君の言にはそれぞれ拠るところがあります。襲って取るのを『剿』といい、罪を鳴らして討つのを『征』といいます。張君の言によれば剿、沈君の言によれば征です。しかし賊は備えて久しい。剿しても功はありません。沈君の言に従うのが便宜です」。
  • 折しも朝議が安南征討を望み、事はそのまま止んだ。公丁らはいよいよ横暴になり、しばしば出て殺掠し、潯州の人は苦しんだ。
  • 冬、侯公丁が誅に伏した。
  • 先に副使の翁万達が力を尽くして公丁の討伐を請い、御史の鄒堯臣もこれを賛した。蔡経はそこで安遠侯の柳珣と会して計を決して発兵し、兵事を万達に委ねた。
  • 万達は百戸の許雄が日ごろ賊と通じていると調べ上げ、劫かして言った。「公丁を擒にできれば、お前の死を貸す。すぐでなければ法どおり論ずる」。雄は懼れて力を効して自ら贖うことを請うた。
  • 万達は表向き公丁を庇い、「仇家が誣告したのだ」と言い、公丁を訐訟した者数人を捕らえ繋いで釁を開いた罪を責めた。公丁は果たして人を遣わして自ら申し立て、万達は表向き許した。
  • また雄に借金と偽って賄賂を贈らせた。公丁は喜んでいよいよ雄を信じた。
  • 折しも万達が他郡を巡り、事を参議の田汝成に委ねた。汝成は雄を召して申し飭した。雄はそこで公丁を欺いて言った。「潯州の人は久しくお前を口実にしている。幸い上の人は信じていない。今、分守公が新任で来られた。なぜ自ら訴え出ぬのか。堡を侵したのは他の猺のせいだと言えば、信じてもらえよう」。
  • 公丁はもっともとし、雄に随って汝成に会いに来て、改めて冤の状を並べた。汝成は「仇家がお前を誣ったと聞き、既に逮捕して治めた」と言い、慰めて帰らせた。
  • そこでひそかに意を授け、城中の居民で賊に害された者の家から人を出して公丁を殴らせ、市中を騒がせ、そのまま逮捕して獄に繋いだ。
  • 雄を遣わしてその党に諭させた。「堡を侵した事について、公丁は諸猺に罪を委ねた。事実を鞫問して坐させねばならぬ。お前たちがまことに公丁を冤とするなら、罪人を得て釈すべきだ。万一、事が公丁自身から出たなら、ともに棄てるべきである。一人の公丁のために自ら滅亡を取るな」。
  • 諸猺は競って「事は果たして公丁から出ました。論ずるに任せます。あえて党しません」と言った。そこで公丁を檻に入れて軍門に致し、磔にして誅した。

嘉靖十八年(1539年)— 断藤峡の平定

  • 春三月、兵部侍郎の蔡経が断藤峡の諸盗を平らげた。
  • 先に田汝成は公丁を誅すと督府に言った。「首悪が既に擒になり、賊はまさに震え驚いております。この時に乗じて進兵して賊を討つべきです」。経は許した。
  • 折しも沈希儀が病んだので、副総兵の張経に左軍を将いさせ、副使の翁万達に監させ、南寧指揮の王良輔・朱昇・凌浦・柳浦・周新・孫文繍を属させ、都指揮の高乾に右軍を将いさせ、副使の梁廷振に監させ、賓州指揮の馬文傑・王俊・戚振・呉国章を属させ、副使の蕭畹を紀功、参政の林士元および汝成に餉を督させた。
  • 張経は少数の兵で剿し、略ぼ威を示して深入りせぬこと、また紫荊の諸処の賊の巣を捨てて撃たぬことを議した。
  • 万達は不可として言った。「少なく兵を出せば軍威を損ないます。諸猺は恣にすること久しく、大いに傷つけねばその心を懾すに足りません」。汝成もまた万達の議に同じた。
  • 万達はさらに督府に言った。「峡の南もまた劇賊です。ただ今の兵力では併せて及べません。しばらく緩めて後を俟つべきです」。経は同意した。
  • そこで二月に両軍が一斉に発した。
  • 左軍は、王良輔が牛渚湾から武靖を越えて紫荊・姜老鼠の諸巣を攻め、朱昇が三等村から蓼水を渡って石門・黄泥嶺の諸巣を攻め、柳浦が白沙湾から道袍・梅嶺の諸巣を攻め、凌浦が白沙湾から木昂・梅嶺の諸巣を攻め、周維新が白沙湾から藤冲・緑水冲の諸巣を攻め、孫文繍が藤峡から大坑の巣を挟み攻めた。合わせて三万五千人、六道に分けて進んだ。
  • 右軍は、馬文傑が武宣から碧灘・緑水の諸巣を攻め、王俊らが武宣から山に入って羅渌の上峒を攻め、戚振が中峒を、呉国章が下峒を攻めた。合わせて一万六千余人、四道に分けて南北から挟撃した。
  • 賊は大いに窮し、衆を擁して林峒へ奔って東へ向かった。王良輔が邀撃して中を断ち、賊はまた西へ奔り、諸軍が合撃して千余を斬った。
  • 賊は言った。「往年、険に拠って巣を結んだから官兵に撃ち破られてみな殲滅された。今は寨を立てず、ただ山谷を漫ろに走って官兵を追跡に疲れさせよう。日を曠しくして糧饟を多く費やせば、必ず速やかに退く」。
  • その東へ奔った者は羅連山に入った。万達は兵を移して攻め、右軍に檄して長洲に抵らせ、江沿いに巡って賊の背後に出させた。賊は諸険隘に武器を伏せて防禦することが甚だ多かったが、官兵はみな計で発せさせ、追って百余級を斬った。賊はいよいよ窮した。
  • 折しも右軍が道に迷って期日に三日遅れ、また土兵の盧蘇が賊の賄賂を受け、欽州の兵が賊を逃がして諸山谷に漫り匿れた。人は「羅連山は官兵が古来、至らぬ所」と言った。賊が深入りして遁れたので、それ以上、追い窮めなかったという。
  • 当時、平南県に小田・羅応・古陶・古思の諸猺があり、これも険に拠って靖まらなかった。万達らは兵を移して剿した。
  • 三月、班師した。賊の余党二百余人を招いて降らせ、江南の胡姓の諸猺で帰順した者も千余人。藤峡はことごとく平定された。
  • 万達と汝成が督府に献議して七事を挙げた。保甲を編んで新民を置く、営堡を立てて江の道を通ずる、備禦を設けて上流を制する、狼田を清めて疆界を正す、州治を改めて屯所を建てる、欵兵を処して辺防を慎む、商税を徴して公費に資する。蔡経は多く採納して疏して行わせた。
  • 勝報が届き、諸将帥・守臣はみな差をつけて昇賞された。

史論(谷応泰曰)

  • 大藤は粤西の潯州の地に当たる。その水は潯水と府江が五百里を巡り、その山は江を挟む峻嶺が険しく削り立ち、盤り聳えて天を捫でる。高きから数百里を見下ろし、下は測りがたい深い谷に臨む。
  • その径は一本の線を引いて千の曲がりを歴る。手で引き足で踏まねば歩を進めて登れない。その中は前庭・後戸、左の障り・右の屯があり、一夫が戟を荷えば千夫が辟易する。
  • その前は牛腸・大岵が江に臨んで壁のように立ち、敵はあえて関を仰いで攻められない。その後ろは仙人・九層の巌洞が星のように列び、道里は糧を裹んで窮められない。
  • その産物は密な藪と叢がる竹、毒の瘴気と悪しき霧で、人の住む所ではない。その器は長い矢と勁い弩に毒を淬ぎ薬を塗り、人は弦の音とともに斃れる。
  • 図を披いて俗を考え、その大略を綜べれば、大藤の勢いは、蜀に鳥道と蚕叢があり、華山に天門・箭括があるだけのものではない。
  • 郡県を建てても流官と土官が入り交じって治めがたく、学校を設けても猺と獞は獷悍で淫殺が性となっている。魚と塩を通じて誘えば利を見て犬のように唸り、営と堡を建てて備えれば勢いを失った獣のように駭える。喩えれば、瘤のある匏や腫れた樗は名匠でも斲れず、籧篨や戚施のような不具は官司でも材とできない。神皋の甌脱(緩衝地)、上天の驕子である。
  • しかし俗は赤県に編まれ、臣とせぬわけにいかず、地は神州に属し、ついに度外には置けない。厳尤は狄を論じて「古に上策なし」と言い、賈譲の治河もわずかに中計を行っただけだった。
  • 大軍は久しく駐まれず、孤軍は険を追えず、合囲すればその逸出を防ぎ、屯守すればさらに劫掠に苦しむ。癬や疥の疾も七尺の身を廃しうる。涓滴の流れも江河の水を尽くしうる。王竑が決戦したゆえん、韓雍が肆伐したゆえんである。
  • まず潯水を渡ってその樊籬を決し、火を大藤に放ってその巣穴を空にした。賊はそこで衆を尽くして険に憑り、兵を収めて拒み戦った。王師は木に援り蔓を攀じ、楚歌が四方から合し、猿のように牽き蟻のように附き、漢の旗が先登した。
  • 石を磨いて横崖の谷、九層の楼に銘を題し、藤を鋸で断って綱を絶ち、その世代の険を奪った。身首を支離させ肝腸を刳り剔り、金鼓を鳴らして兵を陳ね、旌旗と纛を秉った。
  • 思うに、天兵は容易には至らず、重い険は容易には得られぬ。喉を扼し背を撫でて急撃して失わず、皇霊を宣暢し天誅を顕彰した。威を取り乱を定めたのは、この一役にある。
  • しかしなお武備は中ごろ弛み、苞孽が再び盛んになった。二十年して新建(王守仁)の師があり、さらに十年して蔡経の勝があった。賊の勢いはやや異なり、兵の形もまた異なったが、いずれも追い窮めて深入りし、甲を耀かせ戈を横たえた。
  • 孔明が巴蜀でおおむね厳刑を用い、張詠が益州でそのつど捕斬を行ったのと同じ。乱国に重典を用いるのには由来がある。
  • しかし利を興し弊を除いてその俗を擾さず、仁で漸ませ義で摩けば、久しくしてその旧を革められる。蛮戎にもなお人の性がある。長吏たる者が、どうして馬上で治めてよかろうか。