明史紀事本末開国の規模(開國規模)

至正二十四年(1364年)の呉王即位から洪武三十一年(1398年)まで、太祖朱元璋が明の国家体制を築いた過程を扱う。綱紀と礼を先とする方針のもと、宗廟・郊社を営み、律令を定め、文武の科挙を設け、衛所の制と六部・五軍都督府を整えた。李善長・劉基・宋濂・陶安・桂彦良ら儒臣と治道を論じ、寛と猛、祥瑞と災異、教化と刑罰をめぐる議論を重ねながら、宦官・女寵・外戚・藩鎮の禍を防ぐ法を立てた。学校を郡県と閭里に設け、屯田・免租・賑恤を繰り返す一方、葉居升や解縉、周敬らの用刑の繁を諌める上言も収める。

年表(29件)

至正二十四年 春正月〜五月(1364年)— 呉王即位と治道の議論

  • 正月、李善長・徐達らが群臣を率いて太祖を呉王の位に即けた。李善長を中書右相国、徐達を中書左相国とした。太祖は退朝して善長らに言った。「建国の初めはまず綱紀を正すべきで、綱紀は礼を先とする。元氏は主が荒み臣が専らにした。今これを鑑とすべきだ」。
  • 三月、起居給事中を置き、日々左右に侍って言動を記録させた。中書省の臣に諭し、山林の士や兵卒が上書して用に立つことを許し、民間の俊秀で二十五歳以上の学識ある者を招いて中書へ赴かせた。
  • 夏四月甲午、太祖は退朝して侍臣の孔克仁に言った。「秦の主は暴虐で臣は佞、天下が叛いた。漢の高祖は布衣から起こり、寛大で人を御するのが上手く、ついに天下に帝たった。今、元の政は緩みきって豪傑が蜂起しているが、いずれも法度を修めて軍政を明らかにしていない」。そして長く感嘆した。
  • 五月、太祖は白虎殿で『漢書』を閲し、宋濂と孔克仁に「漢の治はなぜ三代に及ばぬのか」と問うた。克仁は「王道と覇道が混じったからです」と答えた。「では咎は誰から始まるか」と問うと「高祖にあります」と答えた。
  • 太祖は言った。「そうだ。高祖は創業して礼楽の暇がなかった。孝文帝の時こそ制作して三代の旧を復すべきだったのに、逡巡して果たさず、漢家をついにあのままにした。三代はその時があってなしえた。漢の文帝は時がありながらしなかった。周の世宗は時がないのにしようとした者である」。

至正二十六年(1366年)— 書籍の収集と宗廟の造営

  • 夏六月、有司に古今の書籍を訪ね求めて秘府に蔵し、閲覧に資するよう命じた。侍臣の詹同らに言った。「三王五帝の書は世に伝わり尽くさぬので、後世はその行事をあまり知らない。漢の武帝が遺書を購い求めて六経が初めて世に出、唐虞三代の治が見られるようになった。武帝の雄才大略は後世に及ぶ者が少ないが、六経を表章し聖賢の学を闡明にしたことこそ後世に功がある。私は宮中で事のないとき、いつも孔子の言を取って見る。『用を節して人を愛し、民を使うに時をもってす』などはまことに治国の良規で、孔子の言はまことに万世の師である」。
  • 十二月、太祖は国の重んずるべきものは宗廟と郊社に先立つものなしとして、翌年を呉元年と定め、有司に鍾山の南に圜丘を建てて冬至に昊天上帝を祀り、鍾山の北に方丘を建てて夏至に皇土地祇を祀らせ、あわせて廟社を建て宮室を立てさせた。
  • 己巳、営繕を掌る者が宮室の図を進めた。太祖は雕琢が奇麗なものを見て取り除かせ、中書省の臣に言った。「千古の上、茅葺きにして聖となり、彫刻を高くして亡んだ。私は節倹こそ宝とする。民力を尽くさせてはならぬ」。
  • 箋文で頌美することを禁じ、中書省の臣に諭した。「古人は君を祝頌するにも警戒を寓した。近ごろ群下の進める箋文を見ると誉め言葉が多く諌めが少ない。君臣が互いに成し合う道ではない。一切禁止する」。

呉元年 春正月〜六月(1367年)— 免租と文武科挙、刑罰の方針

  • 正月戊戌、中書省の臣に諭した。「私は昔、軍中で空腹のまま出戦し、粗末な飯を得て甚だ甘く感じた。今も忘れていない。太平・応天・宣城の諸郡は私が渡江して創業した地で、供給の労がとりわけ重い。太平の租税を六年、応天・宣城の諸郡を一年免ずる」。
  • 三月、文武科で士を取る法を定めた。先に有司に毎年、賢才および武勇・謀略・天文に通暁する士を挙げさせ、書・律に兼通する吏も推薦させ、賢者を得れば賞し、濫挙や賢を蔽う者は罰した。ここに至って文武二科を設けた。
  • 文挙に応ずる者は、言行を察してその徳を見、経術を考えてその業を見、書算を試してその能を見、経史と時務を策問してその政事を見る。
  • 武挙に応ずる者は、まず謀略、次に武芸。いずれも実効を求め虚文を尚ばない。三年に一度開く。
  • 夏五月、令を下した。「私はもと布衣、乱によって江左を撫定して十三年。中原の民は流離して顛倒し、なお帰する所がない。私は粟を積み弓を張って備える。徐州・宿州・濠州・泗州・寿州・邳州・襄陽・安陸の徭賦を三年免ずる」。
  • 六月、憲臣(監察官)に諭した。「任官が不当なら庶事は治まらず、刑を用いるのが不当なら無辜が害を受ける。ゆえに刑は慎まねばならぬ。人を笞杖の下に置けば、何を求めて得られぬことがあろう。古人が刑を用いたのは本来、人を生かすためで、殺すためではない。ゆえに欽恤(慎み憐れむ)が刑を用いる根本である」。
  • また中書省の臣に諭した。「法に連坐の条がある。私は思うに、獄を鞫くには平恕であるべきで、大逆不道でなければ罪はその身に止めるべきだ。先王は罪が妻子に及ばず、罰が嗣に及ばなかった。忠厚の極みである。今より民に犯す者があっても連坐させるな」。
  • 恭政の楊憲が答えた。「先王の用刑は時に軽く時に重くありました。元の政が姑息だったので民は軽々しく法を犯します。重く治めなければ犯す者はいよいよ増えます」。
  • 太祖は言った。「民が悪をなすのは衣に垢が積もるようなもの。洗えばまた清くなる。汚れた民も善で導けば新たにできる。刑戮で威嚇して犯させぬというのは術が浅い。しかも重典の中で生を求めるのは、釜の中で魚を探すようなものだ。ゆえにおおよそ軽い法に従えば、生を求めずとも死に至らぬ道がある」。

呉元年 秋七月〜九月(1367年)— 雅楽・宮殿・律令

  • 七月乙亥、太祖は戟門で雅楽を閲し、自ら石磬を打った。学士の朱升が五音を弁じて宮を徴と誤ると、起居注の熊鼎が「八音のうち石の声が最も和しがたい。ゆえに『書』に『予、石を撃てば百獣率いて舞う』とあります」と言った。太祖は「楽は人声を主とする。人声が和すれば八音も諧う」と言い、鼎は「楽は外に求めるものでなく、君の心にあります。君心が和せば天地の気も和し、天地の気が和せば楽に和せぬものはありません」と言った。太祖は深く納得した。
  • 郡県の官を任ずるに賜与と道中の費用を定め、廉を養った。
  • 九月甲戌朔、太廟が完成した。
  • 癸卯、新しい内裏の三殿が完成した。奉天・華蓋・謹身といい、左右の楼を文楼・武楼といった。殿の後ろを宮とし、前を乾清、後を坤寧といい、六宮を順に並べた。いずれも朴素で飾らなかった。
  • 博士の熊鼎に古人の行事で鑑戒とすべきものを類別編纂させて壁に書かせ、また侍臣に『大学衍義』を両廡の壁に書かせた。太祖は「前代の宮室は多く絵画を施した。私はこれを用いて朝夕に見る。丹青に勝るではないか」と言った。
  • この日、蘄州から敷石にできる文石が出ると言う者があった。太祖は「倹朴を敦く崇めてもなお奢華に慣れることを恐れる。お前は節倹の道で私に仕えず、かえって私を侈麗に導こうというのか」と言い、言った者は恥じて退いた。
  • 冬十月丙午、百官の礼儀をすべて左を上とするよう命じた。先に元の制を承けて右を尚んだが、ここで改め、右相国の李善長を左相国とした。
  • 礼官に勅して元の右丞・余闕、江州総管の李黼、御史大夫の福寿の祠を建て、歳時に祀らせた。
  • 甲寅、中書省に律令を定めさせた。太祖は、唐宋にはいずれも成文律があって獄を断じたが、元だけは古制に倣わず、一時に行った事を条格としたため胥吏が上下に操って弊を増したと考えていた。ここに至って台察が既に立ち、按察司が郡県を巡歴しようとしていたので、李善長・楊憲・傅瓛・劉基・陶安らに詳定させ、諭した。
  • 「法を立てるには簡にして当を貴び、人に分かりやすくすべきだ。もし条目が繁多で、一事に両端があって軽くも重くもできれば、貪吏が手掛かりを得て奸をなす。残暴を禁ずるはずのものが、かえって良善を害する。良法ではない。網が密なら水に大魚なく、法が密なら国に全き民なし。卿らは心を尽くして参究せよ。刑名の条目はすべて私が卿らと面談して斟酌する。そうすれば久遠の法となろう」。まもなく律令が成り、太祖は自ら閲して煩を除き重を減らして頒行させた。

呉元年 十一月〜十二月(1367年)— 農の労と即位への準備

  • 十一月甲午、圜丘が完成し、太祖が視察に出、世子(太子)が従った。太祖は左右に命じて世子をあまねく農家に案内させ、その居処・飲食・器用を見せた。帰って言った。
  • 「お前は農の労苦を知ったか。農は身が田畝を離れず、手が耒耜を放さず、一年中働いて休息を得ない。住むのは茅葺きの草の戸に過ぎず、着るのは練絹の裳と布の衣に過ぎず、飲食は菜羹と粗飯に過ぎない。それでいて国家の経費はみなそこから出る。ゆえにお前に知らせたのだ。およそ居処や食用には必ず農の労を思い、取るに制あり、用いるに節あるようにし、彼らを飢寒に苦しませるな。もしその上に横暴な徴収を加えれば、民は命に堪えられなくなる」。
  • 十二月丁未、先聖・孔子の五十六世孫の希学に衍聖公を襲封させた。
  • 癸丑、中書省左相国の李善長が文武の群臣を率いて即位を勧めた。太祖は辞退したが、強く請われて許さず、翌日また請われて許した。辛酉、善長が群臣を率いて即位の礼儀を進め、甲子、太祖は新宮に出て、群臣の推戴の意を上帝・神祇に祭告した。

洪武元年 春正月(1368年)— 即位と直言の求め

  • 正月壬申朔(四月乙亥)、南郊で天地を祀り、皇帝の位に即いた。天下を有する号を大明と定め、洪武と建元し、太廟に詣でて四代の祖考を追尊した。
  • 丁丑、奉天殿で群臣に大宴した。太祖は言った。「私が史伝に載る歴代の君臣を見るに、君上が忠讜を聞くのを喜んでも臣下が黙して言わぬ場合があり、臣下が抗言して直諫しても君上が非を飾って諫を拒む場合がある。近ごろ朕が発言しても百官は口ごもるばかりだ。その中に是非得失で直言できることがないはずがあろうか。今後は忠讜を尽くして朕の不足を匡せ」。

洪武元年 正月(1368年)— 東宮官と外戚

  • 辛丑、廷臣に東宮官を兼ねさせた。先に中書および都督府が元の旧制に倣って中書令を設け、太子をこれに充てるよう奏上しようとした。太祖は言った。「元人は事に古を師とせず、官を設けるのに賢を任ぜず、ただ同類だけを与した。法とすべきか。しかも我が子は年がまだ長ぜず、経験も多くない。師傅を尊礼して古今に博通させるべきだ。後日、軍国の重務はすべて報告させればよい。なぜ彼らに倣って中書令とする必要があるか」。
  • 礼部尚書の陶凱が、人を選んで専ら東宮の官属に任ずるよう請うた。太祖は言った。「朕が廷臣で徳望ある者に東宮官を兼ねさせるのは理由のないことではない。かつて廷臣と東宮の属が折り合わず嫌隙を生ずることを憂えた。江充の事は明鑑となる。朕は今、法を立てて台省などの官に東宮官を兼ねさせ賛輔させる。父子は一体、君臣は一心である」。
  • そこで李善長を太子少師兼詹事、馮勝を副詹事兼務、楊憲・傅瓛を府丞兼務、徐達を太子少傅兼務、常遇春を太子少保兼務、鄧愈・湯和を太子諭徳兼務、章溢を太子賛善大夫兼務、劉基を太子率更令兼務とした。
  • 太祖は善長らに諭した。「朕が東宮に別に府僚を設けず卿らに兼ねさせるのは、軍旅がまだ止まず、朕が外に事あれば必ず太子を留めて監国させるからだ。もし府僚を設ければ、卿らは内にあって事は報告すべきだが、太子が聴断に明らかでなければ、卿らは必ず府僚が導いたと言おう。嫌疑はそこから生ずる。ゆえに朕は特に賓客・諭徳などの官を置いて太子の徳性を輔け成し、また名儒を選んで賓友とする。 昔、周公が成王を教えて『お前の戎兵を詰めよ』と告げ、召公が康王を教えて『六師を張り皇せよ』と告げた。これは安に居て危を慮り、武備を忘れぬことである。世を継ぐ君は富貴の中に生い育ち、安逸に慣れて軍旅の事を忽せにして務めず、一たび緩急あれば措く所を知らぬ。二公の言は忘れてはならぬ」。
  • 太祖が外戚を官に用いようとすると、后が言った。「国家の官爵は賢能を用いるべきです。妾の家の親属に必ずしも用いるべき才があるとは限りません。しかも聞くところ、前世の外戚の家は驕淫で法度を守らず、たびたび覆敗を招きました。陛下が妾の一族に恩を加え、賜与を厚くして身を保たせてくださるだけで十分です。才もないのに官に就け、寵を恃んで敗れるのは妾の願うところではありません」。太祖はやめた。

洪武元年(1368年)— 治道の対話と田畝の検査

  • 太祖は朝を罷めてゆったりと劉基・章溢に言った。「朕は淮右に起こって天下を有したが、戦陣の際に鋒鏑に横死した者が多く、常に心に痛む。喪乱の民が治安を思うのは飢渇の者が飲食を望むようなもの。もしさらに法令で駆り立てれば、薬で病を治そうとして鴆毒を加えるようなものだ。民は何を頼りにしよう」。溢は叩頭して「陛下が民の隠れた苦しみを深く知っておられるのは、天下の蒼生の福です」と答えた。
  • 太祖が儒臣と学術を論じたとき、陶安は「正道が明らかでないのは邪説がこれを害するからです」と答えた。太祖は言った。「邪説が道を害するのは、美味が口を悦ばせ美色が目を眩ませるようなものだ。戦国の時、縦横・捭闔の徒が邪説をほしいままにし、利を急ぐ諸侯の多くが従ったが、しばしば事が成らぬうちに国が滅んだ。何の益があろう。邪説が去らねば正道は興らず、天下はどうして治まろうか」。安は「陛下のお言葉はその本を深く探ったものです」と答えた。太祖は「仁義は天下を治める本である。賈誼は秦の亡んだのを仁義の道を行わなかったからだと論じた。だが秦は戦国の弊を襲ったのだ。どうしてこれを知りえたか」と言った。
  • 天下の府州県の官が来朝して辞去するとき、太祖は諭した。「天下は定まったばかりで百姓の財力はいずれも困窮している。飛び始めた鳥の羽を抜いてはならず、植えたばかりの木の根を揺すってはならぬのと同じだ。要は安養して生息させることにある。 ただ廉なる者だけが己を約して人を利し、貪なる者は必ず人を削って己を厚くする。才の敏い者も私に妨げられ、善柔な者も欲に眩む。いずれも廉ならぬことが招く。お前たちは深く戒めよ」。
  • 甲申、周鋳ら百六十四人を浙西に遣わして田畝を検査させる詔を下した。中書省の臣に諭した。「兵革の後、郡県の版籍の多くが失われた。今、経理してその源を清め、制を過ぎて我が民を病ませぬようにしたい。善政は民を養うにあり、民を養うは賦を寛くするにある。周鋳らを諸府県に遣わして田畝を検査し賦税を定めさせよ。それ以外にみだりに騒がせるな」。
  • 太祖が劉基に言った。「かつて群雄が角逐し生民は塗炭に苦しんだ。今、天下は順次平定された。生息の道はどうすべきか」。基は「生民の道は寛仁にあります」と答えた。
  • 太祖は言った。「実の恵みを施さず、ただ寛仁と言うだけでは益がない。朕の見るところ、民を寛くするには必ず民の財を豊かにし民の力を休めるべきだ。用を節せねば民の財は尽き、役を省かねば民の力は困る。教化を明らかにせねば民は礼義を知らず、貪暴を禁ぜねばその生を遂げられない」。基は叩頭して「これぞ仁心をもって仁政を行うということです」と答えた。

洪武元年 二月(1368年)— 郊社宗廟の礼と衛所の制

  • 二月、中書省の臣に勅して郊社・宗廟の礼を定めて報告させた。そこで李善長・傅瓛・陶安らが古を引き今を斟酌して擬した。冬至に昊天上帝を圜丘で祀り、大明・夜明・星・太歳を従祀。夏至に方丘で祀り、五嶽・五鎮・四海・四瀆を従祀。四代それぞれ一廟、廟はみな南向き、四時の孟月に祭り、歳の除には高廟で合祭。社稷は春秋二仲月の上戊の日。従われた。
  • 衛所の官軍および将帥が兵を将いる法を定めた。京師から郡県までみな衛所を立て、おおよそ五千六百人を一衛、一千一百二十人を一所、一百十二人を百戸所とし、各百戸所に総旗二名・小旗十名を設けて官が統率し、通じて指揮使などの官が領する。大小が連なって隊伍をなす。
  • 征伐があれば総兵官に詔して将印を佩びて領させ、凱旋すれば佩びた将印を朝廷に返上し、官軍は各々本衛に帰り、大将軍自身も邸に帰る。権はすべて朝廷から出て、専擅を許さない。以後、征伐はおおむねこれを常例とした。
  • 丁未、太牢をもって孔子を国学に祀り、なお使者を曲阜に遣わして致祭させる詔を下した。
  • 衣冠をすべて唐の制に倣うよう詔した。
  • 乙丑、中書に役法を議させた。太祖は立国の初めの経営や造営で役が貧民に及ぶことを恐れ、中書省に田を調べて夫役を出させた。省臣が奏議し、田一頃につき丁夫一人、一頃に満たぬ者は他の田で補い、「均工夫」と名づけ、造営があれば農閑期に用いることとした。
  • 庚午、国子監生を選んで太子の読書に侍らせた。

洪武元年 三月(1368年)— 『女誡』の編修と瑞物の辞退

  • 三月丁未、翰林の儒臣に『女誡』を修めさせた。
  • 太祖は学士の朱升らに言った。「天下を治める者は身を修めるを本とし、家を正すを先とする。家を正す道は夫婦から始まる。后妃は天下に母として儀たるとはいえ、政事に与ってはならぬ。嬪嬙に至っては職事を備え巾櫛に侍るに過ぎない。もし寵愛が過ぎれば上下の序が失われる。 歴代、宮の政が内から出て禍乱とならなかったものはまれである。内の寵愛が人を惑わすのは鴆毒より甚だしい。ただ賢明の主だけが未然に察しうる。その他は惑わされぬ者がない。卿らは『女誡』および賢妃の事で法とすべきものを纂修し、後世の子孫に守るべき所を知らせよ」。
  • 甲申、徐達が山東で獲た土地・甲兵の数を奏した。近臣が、山東に銀山があって開発できると進言した。太祖は言った。「銀山の弊は官の利は少なく民の損は多い。今、疲弊した後にどうしてこれで重ねて民力を労せよう。昔、茶を抜いて桑を植えて民が利を得た者があった。お前は知らぬのか」。言った者は恥じて退いた。
  • 乙酉、蘄州が竹の簀を進めた。命じて却け、中書省の臣に諭した。「古の方物の貢は服食・器用だけで、玩好の飾りはなかった。今、蘄州が竹簀を進めたが、命じもせぬのに献じてきた。天下が風を聞いて争って奇巧を進めれば、民を労し財を傷つけるのがここから始まる。受けるな。今後、四方は朝廷の必要とするもの以外、みだりに献ずるな」。

洪武元年 夏四月(1368年)— 図画による訓誡と宦官の禁

  • 四月丁未、古の孝行および自ら経歴した艱難・起家・戦伐の事を図に描いて子孫に示すよう命じた。太祖は侍臣に言った。「朕はもと農家、祖父はみな長者で、積善の余慶が朕に及んだ。今これを図に描くのは、後世の子孫は富貴になれば驕りやすいので、見せて王業の艱難を知らせるためだ」。
  • 丙辰、宦官が政に与り兵を典することを禁じた。太祖は侍臣に言った。「朕は史伝に書かれた漢・唐の末世がみな宦官に敗られ蝕まれたのを見て、惋惜せぬことがない。『易』に『国を開き家を承くるに、小人を用うるなかれ』とある。宮禁にあっては掃除をさせ使い走りをさせるだけでよい。政に与り兵を典すべきものか。漢・唐の禍は宦官の罪でもあるが、人主が寵愛したせいでもある。もし宦官に兵を典し政に与らせなければ、乱をなそうとしてもできようか」。

洪武元年 秋七月〜八月(1368年)— 学校・賑恤・王褘の上言

  • 秋七月、帯刀舎人の周宗が上疏して府州県に学校を開設するよう請い、太祖は嘉して納れた。
  • 庚寅、中原の貧民を賑恤した。中書省の臣が財の乏しさを憂えると、太祖は「窮乏を救うには、余財のないことを患えず、その心のないことを患う。まことに心を注げば足りぬことを憂えることがあろうか」と言った。
  • 閏七月丁未、天下の賢才を徴して京に至らせ、守令に授けた。太祖は中書省の臣に言った。「布衣の士に新たに政を授けるには、必ずまずその廉恥を養い、しかるのち成功を責めるべきだ。『洪範』に『既に富ましめ、しかるのち榖せしむ』とある。これぞ古人の良法美意である」。厚く賜って遣わした。
  • 呉江・広徳・太平・寧国・和州・滁州の水旱災の租を免じた。
  • 八月、漳州府通判の王褘が上言した。「人君が徳を修める要は二つ、忠厚を心とし、寛大を政とすることです。昔、周家は忠厚ゆえに八百年の基を垂れ、漢室は寛大ゆえに四百年の業を開きました。 上天は物を生ずるを心とし、春夏は長養し、秋冬は収蔵し、その間に雷電や霜雪が時に搏撃し粛殺しますが、いずれも暫くで常ではありません。もし雷電・霜雪が絶えずあれば、上天の物を生ずる心は絶えます。臣は陛下が天道に法られることを願います。 浙西が既に平らぎ租賦も広がりました。科斂を減ずるべきことはなお議しうるところ。臣は陛下が人心に順われることを願います」。太祖は嘉して納れた。当時、元の政に反して厳しさを尚んでいたので、褘はそう言ったのである。
  • 太祖が宋濂らに言った。「秦の始皇と漢の武帝は神仙を好んで長生を求めたが、結局何も得られなかった。もしこれを移して治を図っていたら、天下がどうして治まらぬことがあろう。朕の見るところ、人君が心を清め欲を寡なくし、民を田里に安んじ衣食を足らしめ、和やかで自らそれと気づかぬようにすれば、それが神仙である」。
  • 初めて六部の官を置いた。先に中書省には四部だけを設けて銭穀・礼儀・刑名・営造を掌らせていたが、ここで吏・戸・礼・兵・刑・工の六部を定め置いて庶務を分理させた。

洪武元年(1368年)— 劉基の致仕

  • 御史中丞の劉基が致仕した。先に太祖が北巡したとき、基に李善長とともに京師を留守させた。基は太祖に「宋・元以来、寛縦が長く続いた。まず紀綱を振るい粛してから恵政を施すべきです」と言い、太祖は同意した。
  • 基はもとより剛厳で、僚吏に犯す者があれば直ちに捕らえて治めた。宦官で工匠を監する者が粛でないと皇太子に申し出て捕らえて法に処し、宿衛の舎人が当直の部屋で碁を打っていると取り調べたので、人はみな足を側めて立った。
  • 中書都事の李彬が法を曲げたことが発覚した。彬は日ごろ善長に附いており、善長は基に獄を緩めるよう頼んだが、基は許さず、人を馳せて奏し彬の誅を請うた。太祖はその奏を許した。
  • 当時は大旱魃で、善長らはちょうど雨乞いを議していたところへ彬誅殺の報が届いた。善長は「今、雨を祈ろうというのに人を殺してよいのか」と言った。基は怒って「李彬を殺せば天は必ず雨を降らす」と言い、彬を斬った。善長はこれを恨んだ。
  • 太祖が帰ると、基を怨む者が多く太祖の前で訴え、善長も基が専恣だと言い、言葉は甚だ切迫した。折しも基に喪があり帰郷を告げたので、許された。

洪武元年 冬(1368年)— 節倹と大本堂

  • 太祖は北京に行幸して元の宮人を放った。
  • 学士の詹同ら十人に十道を分けて巡らせ、隠逸の士を広く求めさせた。
  • 有司が乗輿の服御の諸物を造るにあたり、金を用いるべきものを、特に銅で作るよう命じた。有司が「費用は僅かで惜しむに足りません」と言うと、太祖は「朕は四海を富有する。どうしてこれを吝しもうか。だが倹約というものは、身をもって先んじなければどうして下を率いられよう。しかも奢侈の源は小から大に至らぬものがない」と言った。
  • 冬十月甲午、司天監が元の置いた水晶の刻漏を進めた。極めて機巧を尽くし、中に二体の木偶人があって時に応じて自ら鉦鼓を打った。太祖は見て侍臣に言った。「万機の務めを廃してこれに心を用いる。いわゆる『無益を作して有益を害す』である」。左右に命じて砕かせた。
  • 十一月辛丑、大本堂を建て、古今の図籍を取ってその中を満たし、儒臣を招いて太子と諸王を教授させ、起居注の魏観に太子に侍って書を説かせた。
  • 太祖が太子に「近ごろ儒臣は経史の何を講じたか」と問うと、「昨日は『漢書』の七国が漢に叛いた事を講じました」と答えた。そこで「その曲直はどちらにあるか」と問うと、「曲は七国にあります」と答えた。
  • 太祖は言った。「それは講官が偏って説いただけだ。景帝は太子のとき博打の盤を投げて呉王の世子を殺し、帝となってからは晁錯の説を聴いて諸侯を黜し削った。七国の変は実はここから起こったのだ。 もし諸子にこれを講ずるなら、こう言うべきだ。藩王は必ず上は天子を尊び、下は百姓を撫し、国家の藩輔となって天下の公法を撓げてはならぬ、と。そうすれば太子たる者は九族を敦睦し親を親しむ恩を隆くすることを知り、諸子たる者は王室を挟み輔けて君臣の義を尽くすことを知る」。
  • 甲辰、孔希学に衍聖公を襲封させ、孔希大を曲阜知県とし、いずれも世襲とした。孔・顔・孟の三氏教授司、尼山・洙泗の二書院を立て、博士の孔克仁らに諸子に経を授けさせ、功臣の子弟も入学させた。
  • 十二月己巳、太祖は退朝して宮に還り、太子と諸王が侍った。太祖は宮中の空き地を指して言った。「ここに亭台・館榭を建てて遊観の所にできぬわけではない。まことに民力を重ねて傷つけるに忍びぬだけだ。昔、商の紂は瓊宮・瑶室を造って天下が怨んだ。漢の文帝は露台を作ろうとして百金の費用を惜しんだ。当時、国は富み民は安んじていた。お前たちは常に警戒を存せよ」。
  • 辛未、中書省に詔して礼官に官民の喪服の制を定めさせた。当時、人民は元の俗のままで、葬送に音楽を奏して死者を娯しませていたので、御史の高原侃が奏して禁じた。

洪武二年(1369年)— 「寛」の議論と免租

  • 春正月庚子、太祖は奉天門に出て元の旧臣を召し、その政事の得失を問うた。馬翼が「元は天下を有するに寛をもって得、また寛をもって失いました」と答えた。
  • 太祖は言った。「寛で得たとは聞くが、寛で失ったとは聞かぬ。歩みが急なら躓き、弦が急なら切れ、民が急なら乱れる。上に居る道はまさに寛を用いるべきだ。元の末の君臣は逸楽に耽り、ついに滅亡に至った。その失は放縦にあり、寛にあるのではない。 おおよそ聖王の道は、寛にして制があり、廃棄をもって寛としない。簡にして節があり、怠慢をもって簡としない。施して中を得れば弊はない」。
  • 中原の田租を免ずる詔。「朕はもと淮右の布衣、天下の乱によって衆を率いて渡江して十四年。将に命じて北征させ、兵が大河を渡ると斉魯の民は歓んで食を饋って迎えた。近ごろ燕都を平らげたが、晋・冀の民は久しく兵に困しみ徴収を受けてきた。北平・山東・山西は今年の税糧を免ずる。河南の諸郡、西は潼関に至り、北は大河を界とし、南は唐州・鄧州・光州・息州に至る地も蠲免を行う。秦隴の新附の民もみな同様とし、朕の意に称うようにせよ」。
  • 江南の田租を免ずる詔。「朕は渡江の始め、太平に駐兵し、続いて鎮江を克ち宣城を下し、西征北伐していずれも平定した。朕は創業の初めに諸郡の供給が繁重だったことを思い、常に深く憫れんできた。今、天下は十のうち九が定まった。太平・応天・鎮江の糧税を一年免じ、寧国・広徳・無為・滁州・和州も同様とする」。

洪武二年 二月〜三月(1369年)— 『元史』の編修と籍田

  • 二月丙寅、『元史』を修める詔を下した。太祖は廷臣に言った。「近ごろ元都を克って元の十三朝の実録を得た。元は亡んだが、史は勧懲のためのもの、廃してはならぬ」。
  • そこで左丞相の李善長、前起居注の宋濂、漳州府通判の王褘を総裁とし、山林の遺逸の士・汪克寛ら十六人を徴して纂修させ、元の『経世大典』の諸書を取って考証に資し、また儒士の欧陽佑らを北平に遣わして元の統至正の事蹟を采訪させた。
  • 壬午、太祖は自ら南郊で籍田を耕し、また皇后に内外の命婦を率いて北郊で蚕を飼わせ、祭祀の衣服とした。
  • 三月戊申、太祖が詹同と文章を論じた。太祖は言った。「古人が文章を作ったのは道徳を明らかにし世務に通ずるためだ。典謨の言はみな明白で分かりやすい。諸葛孔明の出師表に至っても、いつ彫刻して文を成したか。だが誠意が溢れ出て、今も誦すれば人に忠義を感激させる。 近世の文士は辞を立てるのに艱深でも意は実に浅近だ。たとえ司馬相如や揚雄でも実用に何の裨益があろう。今より翰林が文を作るには、ただ道理に通じ世務を明らかにするものを取り、浮ついた藻飾を事とするな」。

洪武二年 夏四月(1369年)— 祥瑞より災異を

  • 四月癸巳、淮安・寧国・鎮江・揚州・台州がそれぞれ瑞麦を献じた。一茎に五穂・三穂のものが甚だ多かった。群臣が祝賀すると、太祖は言った。
  • 「朕は生民の主として、ただ徳を修めて和を致し、三光を平らかにし寒暑を時に適わせることこそ国家の瑞と思う。物を瑞としない。漢の武帝は一角獣を獲、九茎の芝を産したが、功を好み事を生じ、ついに海内を空虚にした。その後の神爵・甘露の奢りは山崩れ地震にまで至り、漢の徳はそこで衰えた。これを見れば、嘉祥に徴なく災異に験あり。戒めずにおれようか」。
  • まもなく礼部尚書の崔亮が奏した。祥瑞は国家の休徴である。『唐六典』によれば四瑞があり、大瑞・上瑞・中瑞・下瑞である。大瑞は景星・慶雲・麟・鳳・亀・龍の類、上瑞は白狼・赤兎の類、中瑞は蒼鳥・朱雁の類、下瑞は岐麦・嘉禾・芝草・連理枝の類。今、祥瑞のうち大瑞に当たるものは所司が表を奉じて奏し、その他の瑞は実を検証して図で進めることを擬します、と。
  • 太祖は言った。「卿らの議は祥瑞にのみ及んで災異に及ばない。災異こそ上天が戒めを示すもので、関わりはいっそう重い。今後、四方に災異があれば大小を論ぜず、みな所司に即時に飛報させよ」。
  • 太祖が侍臣と大臣を待遇する体を論じたとき、劉基が「古は公卿に罪あれば盤水に剣を加え、密室で自ら裁いた。鄙め辱めたことはありません」と言い、詹同が『大戴礼』の賈誼の疏を取って進めた。

洪武二年 六月〜冬十月(1369年)— 内侍の制と建都の議、郡県学校

  • 六月丁卯、国子学の官に人材を教養し、国子生に騎射を習わせるよう諭した。
  • 秋八月己巳、吏部に内侍諸司の官制を定めさせた。太祖は言った。「朕が『周礼』を見るに閹寺は百人に及ばなかったが、後世は数千を超え、ついに大患となった。今、古に復せぬにしても、微を防ぐ計はすべきだ。古の時、この輩が治めたのは酒漿・醯醢、司服・守祧に止まった。今、朕もただ使い走りに備えるに過ぎぬ。その宜しきを斟酌し、多きに過ぎさせるな」。
  • また侍臣を顧みて言った。「宦官に善良を求めても百に一、二もない。耳目として用いれば耳目が塞がれ、腹心として用いれば腹心が病む。これを御する道は、ただ法を畏れさせるべきで、功を立てさせてはならぬ。功があれば驕り恣にし、法を畏れれば身を検束する」。
  • 監察御史の睢稼が、府州県の長吏に月の朔日に民を集めて法を読ませるよう請い、儒臣に礼書を纂修する詔を下した。
  • 九月、太祖は詔して群臣に建都の地を問うた。ある者は関中の天府の国と言い、ある者は洛陽の天地の中と言い、汴梁も宋の旧京だと言い、ある者は北平の宮室が完備していると言った。
  • 太祖は、平定の初めで民がまだ休息せず、供給と力役はすべて江南に頼っており、建業は長江の天塹があって国を立てるに足り、臨濠は前に長江、後に淮があって険を恃みうえ水運も利くとして、詔してこれを中都とした。
  • 冬十月辛巳、天下の郡県にみな学校を立てる詔を下した。太祖は中書省の臣に諭した。「学校の設けは名存して実亡している。兵革以来、人は戦闘に慣れた。朕は思うに、治国の要は教化を先とし、教化の道は学校を本とする。今、京師には太学があるが天下の学校がまだ興っていない。郡県にみな学を立てさせよ」。
  • そこで詔した。府には教授一・訓導四・生員四十人、州には学正一・訓導三・生員三十人、県には教諭一・訓導二・生員二十人を設ける。学ぶ者は一経を専治し、礼・楽・射・御・書・数の科を設けて分けて教え、実才を求めるよう務め、頑迷で従わぬ者は黜する。

洪武三年(1370年)— 諸施策と蘇琦の三事

  • 春二月壬戌、太祖は後苑を歩いて鵲の巣と卵を孵す労を見て喟然と嘆じ、群臣で親の老いた者に帰って養うことを許した。
  • 浙西・蘇州の富民を京師に召し、面と向かって諭した。弱きを凌ぐな、貧しきを貪るな、小を虐げるな、老を飲ませつぶすな、父母に孝敬し、親族と和睦し、貧乏を周恤せよ、と。それぞれ酒食を賜って帰らせた。
  • 戊子、天下の有司に賢才を推訪する詔を下した。
  • 三月庚寅、応天・徽州など十三府州、河南・山東・北平の税糧を免じた。
  • 丁酉、鄭州知州の蘇琦が三事を上言した。
  • 関輔・平涼・北平・遼右の余孽がまだ平らがず、兵を調え粟を運ぶのは急には調わない。屯田して粟を積み、長久の計を示すべきである。
  • 文武を兼ね辺務に練達した重臣を選んで要害に分鎮させ、徳をもって懐かせる。沙漠の要害でない所はその城郭を毀ち、人民を内地に移すべきである。
  • 田を墾いて中原を実らせる。辛卯の年に河南で兵が起こって以来、天下は騒然とし、十年の間に耕桑の地が草莽に変わった。守令に責を負わせ、流れ移って戸籍に入っていない民を招き誘い、官が牛と種を給して時に及んで耕させる。守令で戸を増し田を開ける者は、巡歴の御史・按察司から申請して挙げる。
  • 書が奏されると、中書省に採用して行わせた。

洪武三年 夏四月〜六月(1370年)— 危素、司農司、宮閫の法、科挙の格

  • 夏四月、危素を翰林侍読学士としたが、まもなく和州に謫した。素は弘文館に居た。ある日、太祖が東閣に出ると履の音がコツコツと聞こえた。太祖が「誰か」と問うと「老臣の危素です」と答えた。太祖は「お前か。朕は文天祥かと思った」と言った。素は恐懼して叩頭した。太祖は「素は元朝の老臣だ。なぜ和州へ行って余闕の廟を守らぬのか」と言い、この謫があった。素は一年余りで死んだ。
  • 五月甲午、司農司を置いた。太祖は中原で兵が興って以来、田の多くが荒廃したので、省臣に民を計って田を授ける方策を議させ、官を設けて領させた。そこで司農司を設け、治所を河南に開いた。
  • 乙未、宮閫の政を厳しくし、令として世々守らせた。太祖は元末に宮嬪や女の取次ぎが外臣と私通し、あるいは番僧が入宮して受戒を行い、大臣の命婦まで禁中に往来して淫らに乱れたので、前代の失を深く戒めて典とした。
  • 皇后は宮中と嬪婦の事を治めるにとどまり、宮門の外に与らない。
  • 宮費は尚宮から奏し、内使監が覆審して初めて支出する。違反者は死罪。私に書を外に出す者も同罪。
  • 宮人が病めばその症状を告げて薬を請う。
  • 群臣の命婦は節慶と朔望に中宮に朝見し、故なく入れない。
  • 人君は外命婦に会う礼はない。
  • 天子・親王の后妃・宮嬪は良家の子女から慎んで選び、自ら進んで来る者は受けない。
  • 己亥、科を設けて士を取る詔を下し、科挙の格を定めた。初場は各経義一道・四書義一道。二場は論一道、詔・誥・表・箋のうち一科一道。三場は策一道。合格者は十日後に騎・射・書・策・律の五事で試す。
  • 詔に言う。「成周の際は貢士から才を取り、賢者が職にあって民に士君子の行いがあった。漢・唐・宋の科挙はただ詞章を貴んで徳芸を求めなかった。前元は科を設けて士を取ったが、権家や勢要が結託して奔走し、賢者は並び進むことを恥じて山林に隠れることを甘んじた。 今年八月を始めとして特に科挙を設ける。務めは経に明らかで行いを修め、古に博く今に通ずることにある。合格者は朕が自ら廷で策問し、その学識を観て高下を第して任ずる。科挙によらぬ者は官となることを許さぬ。高麗・安南・占城の諸国も郷貢で京師の試に赴くことを許す」。
  • 丁未、大射の礼を行い、太学生および天下の郡県学の生員にみな射を習わせる詔を下した。
  • 辛亥、服色を定める詔を下した。礼部が奏した。夏は黒、殷は白、周は赤、秦は黒、漢は赤を尚び、唐の服飾は黄を尚び旗幟は赤を尚んだ。国家は周・漢・唐・宋に法を取って治めるので、赤を尚ぶのが宜しい、と。太祖は従った。
  • 六月癸亥、嶽・鎮・海・瀆はいずれも前代の封号を除き、山水の本来の名でその神を称し、淫祠を禁ずる詔を下した。
  • 蘇州の未納の糧を免じた。蘇州・松江・嘉興・湖州・杭州の五郡の民で田産のない者を臨濠へ行かせて耕作させ、その耕した田を世業とし、官が牛・種・舟・糧を給して送り、三年間は税を徴さぬよう詔した。当時、移住した者は四千余戸だった。
  • 秋九月、『大明集礼』の書が成り、刊行する詔を下した。その書は吉・凶・軍・賓・嘉、冠服、車輅、儀仗、鹵簿、字学、楽を綱とする。
  • 吉礼十四:祀天、祀地、宗廟、社稷、朝日、夕月、先農、太歳風雷雲雨師、嶽鎮海瀆・天下山川・城隍、旗纛、馬祖先牧社馬歩、祭厲、祀典神祇、三皇孔子。
  • 嘉礼五:朝会、冊拝、礼冠、婚、郷飲酒礼。
  • 賓礼二:朝貢、遣使。
  • 軍礼三:親征、遣将、大射。
  • 凶礼二:弔賻、喪儀。
  • ほかに冠服・車輅・儀仗・鹵簿・字学が各一、楽三(鐘律・雅楽・俗楽)。
  • 昇降の儀節・制度・名数をみな備え、通じて五十巻。
  • 冬十月丙辰、御史の袁凱が功臣を保全する道を言い、従われた。省と台に勅して儒士を招聘し、午門で諸将に書を説かせた。

洪武四年(1371年)— 進士・帝王陵の祭祀・内監の品秩

  • 春二月、太平・鎮江・寧国の田租を免じ、工部に官を遣わして広東で耕牛を買い、中原の屯種の民に給させた。
  • 三月、奉天殿で進士に策試し、初めて進士に釈褐して釈菜の礼を行わせた。
  • 使者を遣わして歴代帝王の陵寝を祭らせた。帝王三十五を祀った。河南に十——陳州で伏羲と殷の高宗、孟津で漢の光武、洛陽で漢の明帝・章帝、鄭州で周の世宗、鞏県で宋の太祖・太宗・真宗・仁宗。山西に一——滎河で商の湯。山東に二——東平で唐堯、曲阜で少昊。北平に三——内黄で殷の中宗、滑県で顓頊・高辛。湖広に二——酃県で神農、寧遠で虞舜。浙江に二——会稽で夏の禹と宋の孝宗。陝西に十五——中部で黄帝、咸陽で周の文王・武王・成王・康王・宣王と漢の高帝・文帝・景帝、興平で漢の武帝、長安で漢の宣帝、三原で唐の高祖、醴泉で唐の太宗、蒲城で唐の憲宗、涇陽で唐の宣宗。
  • 閏三月、吏部に内監などの官の品秩を定めさせた。監正令の五品以下、従七品まで差を設けた。太祖は侍臣に言った。「古の宦官は晨昏を告げ使い走りをするに過ぎなかった。漢の鄧太后が女主として制を称し公卿に接しなかったので、門番を常侍・小黄門として命を通じさせ、これ以来、権が人主を傾けた。私はこれを極めて厳しく防ぎ、法を犯す者は必ず斥け去る。霜を履めば堅氷に至るという意である」。
  • 夏五月、江西・浙江の田租を免じた。
  • 六月戊申、吏部尚書の詹同と礼部尚書の陶凱が宴享九奏の楽章を作った。「本太初」「仰大明」「民初生」「品物亨」「御六龍」「泰階平」「君徳成」「聖道成」「楽清寧」という。太祖は音律に協うのを善しとし、俗楽をすべて退けた。
  • 秋八月、淮安・揚州・臨濠・泰州・滁州・無為の田租を免じた。
  • 太祖は自ら書いて劉基に問うた。「近ごろ西蜀が平らぎ疆域は広がった。元は寛で天下を失った。朕は猛でこれを救おうとしたが、小人はただ寛を喜び、ほしいままに誹謗する。今、天鳴が八年続き、日中の黒点がたびたび現れる。卿は条を尽くして報告せよ」。
  • 基は上言して、雪霜の後には必ず陽春があり、今は国威が既に立ったので少しは寛をもって済うべきだと述べた。太祖はその書を史館に付した。ある者が「殺運三十年が除かれていない」と言うと、基は「もし私が国に当たって俗弊を掃除すれば、一、二年後には寛政を復せる」と言った。

洪武五年〜六年(1372年〜1373年)— 后妃の戒め、考課、科挙の一時停止

  • 五年夏六月甲辰、工部に紅牌を造らせ、后妃を戒諭する辞を刻んで宮中に懸け、宦官の禁令を定めた。
  • 冬十二月甲戌、中書に勅して有司の考課には必ず学校と農桑の実績を要し、違う者は降格・処罰させた。
  • まもなく莒州日照の知県・馬亮が任期満了で農を課し学を興した実績がなく、運送の督励に長けていたので、黜すよう命じた。山西汾州が平遥主簿の成楽が商税をよく増収したと考課したのに対し、太祖は「増収とは額外に民から取ることだ。主簿の職は県政を補佐して百姓を撫安することにある。どうして増収を能とするか。州の考課は誤りだ」と言い、吏部に文書を移して訊責させた。
  • 孟子を引き続き祀るよう命じた。もともと国子監が釈奠を請うたとき、孟子の祀を罷めるよう命じていたが、ここに至って太祖は「孟子は邪説を闢き異端を弁じ、先聖の道を発明した。これを復せ」と言った。
  • 六年春正月、来朝した守令の辞去に際し、慈祥・豈弟であれ、偽りを作すなと諭した。
  • 甲寅、挙人の張唯・王璉らを編修とし、文華堂に入れて学ばせ、太子賛善の宋濂と正字の桂彦良を師とする詔を下した。太祖は聴政の暇にしばしば堂に行幸してその優劣を定め、白金・弓矢・鞍馬を賜り、寵遇は甚だ隆かった。
  • 二月甲午、しばらく科挙を罷め、有司に賢才を察挙させる詔を下した。太祖は中書省の臣に諭した。「朕は科挙を設けて天下の賢才を求め任用に資した。ところが今、所司の多くは文詞を取り、試用しても事を行えぬ者が甚だ多い。朕は実心で賢を求めているのに、天下は虚文で応じている。朕の意に称う所ではない。しばらく天下の科挙を罷め、有司に賢才を察挙させよ。必ず徳行を本とし、文芸をその次とせよ」。
  • 夏四月、吏部に天下の賢才を訪ね求めさせた。
  • 『昭鑑祖訓録』が成った。もともと太祖は陶凱らに漢・唐以来の藩王で観戒とすべきものを採らせ、書が成ると『昭鑑祖訓録』と名を賜った。目は十三——箴戒・持守・厳祭祀・謹出入・慎国政・礼義・法律・内令・内官・職制・兵衛・営繕・供用。太祖は自ら序を作り、諸王に頒賜した。
  • 秋八月、太祖はゆったりと正字の桂彦良に治道を諮った。彦良は「道は心を正すにあります。心が正しくなければ好悪が偏り、好悪が偏れば賞罰が狂い、賞罰が狂えば太平の期はありません」と答えた。
  • 当時、太祖は元氏が寛縦で天下を失ったのを懲りてかなり重典を用いていた。太祖が「法をたびたび行ってもすぐ犯される。どうしたものか」と問うと、彦良は「徳を用いれば逸、法を用いれば労です」と答えた。太祖は「江南の大儒は卿一人だ」と言った。
  • 九月庚戌、対偶の文辞を禁ずる詔を下し、翰林院の儒臣に唐宋の名儒の箋表で法とすべきものを選ばせた。群臣は柳宗元が柳公綽に代わって書いた謝表および韓愈の賀雨表を進め、中書省に頒って式とさせた。
  • 冬十月壬辰、前代の内官を糾弾する法を考究させた。
  • 十二月、郡県に大きな寺観だけを残し、僧道を併せ住まわせ、四十歳未満の女子が尼となることを禁じた。

洪武七年〜九年(1374年〜1376年)— 官の任用、社学、葉居升の上疏

  • 七年春正月庚午、六部の官を軽々しく転任させず、年功ある者は本部で昇用させた。吏部に諭した。「古は官を任ずるに賢才のみと称した。郡県が一人の賢い守令を得れば、潁川に黄覇、中牟に魯恭がいたように、治まらぬ憂いはない。今、北方の郡県で民が少なく事が簡なところに、繁劇の地と同じだけ官を設けている。適宜、減らせ」。
  • 八年春正月甲子、天下の郡県に頼るところのない窮民を訪ね、衣食と家屋を給する詔を下した。
  • 丁亥、天下の閭里にみな社学を立て、師儒を招いて子弟を教え、有司が時に応じて監督する詔を下した。太祖は北方が喪乱の後であるとして、御史台に国子生を選ばせて各郡へ派遣し分けて教えさせ、諭した。「治を致すは俗を善くするにあり、俗を善くするは教化にある。教化が行われれば、閭閻の者も君子とできる。教化が廃れれば、中程度の材でも小人に堕ちる」。廩食と衣服を給して遣わした。
  • 山陽の民で父が罪を得て杖に当たり、子が身代わりを願い出た。太祖は「朕は孝子のために法を曲げる」と言い、特に釈放した。
  • 十二月、陝州の人が天書を献じたので斬った。
  • 九年夏六月、中書行省を承宣布政使司と改める詔を下した。
  • 秋九月、中書省が福建参政の魏鑑・瞿荘が奸吏を笞で打ち殺したと奏した。太祖は言った。「君が臣を御するには礼、臣が吏を御するには法をもってする。吏が詐れば政が蝕まれ、政が蝕まれれば民が病む。朕はかつて吏卒が法を犯せば死をもって縄せと令したが、有司の多くが法によらず下に操られ、その横行を放置して誰も咎めなかった。今、両参政が奸吏を極刑に処した。いわゆる『ただ仁人のみが能く人を悪む』である」。特に璽書を賜って労った。

洪武九年 閏九月(1376年)— 葉居升の上疏

  • 閏九月庚寅、欽天監が五星の度が乱れ日月が相刑すと奏し、詔を下して言を求めた。山西平遥の訓導・葉居升は詔を聞いて人に言った。「今、天下に三事がある。二事は見やすくて患いは小さいが、一事は知りがたく患いは大きい。この三つは私の心に久しく積もっている。求められずとも言おうと思っていた。まして明詔があるのだから」。
  • そこで上言した。「臣が今の事を見るに、太過なるものが三つあります。分封が太だ侈なること、刑を用いること太だ繁なること、治を求めること太だ速やかなることです。 臣が歴代を見るに、開国の君で徳を尚び刑を緩めて民心を結ばなかった者はなく、また刑罰を専らにして民心を失わなかった者もありません。国祚の長短はことごとくここに由ります。三代・秦・漢・隋・唐が国を享けた年数は書物に載り、昭然として見られます。 今、議する者は『宋・元は中葉以後、紀綱が振るわず姑息を専らにして滅亡を招いた。陛下はその弊を痛く懲らして枉れるを矯めておられる』と言います。 しばらく今の刑法で言えば、笞・杖・徒・流・死が今の五刑です。この五刑を用いるのに仮借なく、一に大公至正から出るならよろしい。ところが用刑の際に多くは聖衷から出るので、獄を治める吏は深刻を求めて上意に迎合します。深刻な者は多く功を獲、平允な者は多く罪を獲、はなはだしきは贓罪の多寡を成績の上下とする。獄の平允を求めても、どうして得られましょう。 近ごろ特旨で雑犯の死罪を免じて充軍とし、その他も順に流・徒の律に倣い、また旧諸律条を刪定して減宥に差を設けられました。これで次第に寛宥が見え、生き延びる者が多く、主上の好生の仁は既に宇内にゆきわたっています。しかし法司の治獄はなお旧弊に従い、寛宥の名はあっても実がありません。いわゆる実は主上にあって臣下にはないのです。 ゆえに必ず『罪の疑わしきは軽きに従う』の意があってはじめて好生の徳が民心に洽り、必ず『王は三たび宥してしかるのち刑する』の政があってはじめて囹圄が空になる効があります。 唐の太宗は『棺を売る家は年ごとの疫を望む。人を害したいのではなく、棺が売れる利を求めるだけだ』と言いました。今、法司が一つの獄を審理するとき、必ず深刻を求めて成績としています。今、どういう法を作れば平允を得られましょうか。 古の士は仕籍に登ることを栄とし、罷職されて叙用されぬことを辱としました。今の士は名を埋めて聞こえぬことを福とし、瑕がついて録されぬことを幸としています。屯田・工役を必ず当たる罪とし、鞭笞・捶楚を尋常の辱としています。 その始め、朝廷が天下の士を取るのに網羅して漏らさぬよう務め、有司が上道を急かすこと重罪の囚人を捕らえるようです。京師に着いてから官を除するのに多くは容貌で選ぶので、学んだことが聞いたことと違い、用いられる所が学んだ所と違うことがあります。官に居て言動が一たび法に躓けば、誅戮を免れても必ず屯田・工役の科に落ちます。いわゆる『これを取るに錙銖を尽くし、これを用うるに泥沙のごとし』が常となり、少しも顧み惜しむことがありません。 しかしこれとて人主が楽しんでなさることでしょうか。人が懼れて敢えて犯さぬようにしたいだけでしょう。しかし数年来、誅殺も細かならずと言うべきほどですのに、犯す者は日々相次いでいます。下の者が懼れぬのではありません。まことに濁を激し清を揚げることが明らかでなく、善悪賢愚に別なく、能を議する法が既に廃れたため、人が自ら励まず、善をなす者が怠るからです。これこそ用刑の煩なることではありませんか。 漢の世にもかつて大族を山林に移したことがありますが、罪人でこれを満たしたとは聞きません。今、鳳陽は皇陵の所在、龍興の地であるのに、みな罪人を住まわせ、怨嗟愁苦の声が園邑に充ちています。朝廷が宗廟を恭しく承ける意ではありません。 賊人の偽四大王が山谷に逃げ隠れ、狐や鼠のように追うべき窟もないのに、重兵を労して討たれました。彼らはたちまち驚いて潰散し、加えて深山大壑の人跡の追えぬ所です。数年捕らえてもその方法がないと、新附の戸籍の細民に咎を帰して遷徙させ、四千里の地を騒がせ、鶏犬も安らげません。 まして新附の民は、以前の兵難で他所へ流れ、朝廷が復業を許して帰ってきた者です。今、附籍した者の数を取ってことごとく遷すのでは、法が民に信じられません。 戸口があってはじめて田野が開かれ、田野が開かれてはじめて賦税が増えます。臣は今後、北の郡の戸口が再び増えられなくなることを恐れます。 これらはみな臣のいわゆる太過であって、災異を招くに足るものです。臣は願わくは、今後、朝廷が大体を録して小過を赦し、天下に明詔して八議の法を備え挙げ、深刻な吏を厳しくし、断獄が平允な者は抜擢し、苛刻で搾取する者は罷免されますよう。そうすれば兆民は自ずと安んじ、天変も自ずと消えましょう。 昔、周は文王・武王から成王・康王に至ってのち教化が大いに行われ、漢は高帝から文帝・景帝に至ってのち富庶と称されました。文王・武王・高帝の才が教化を行き渡らせ富庶を致せなかったのではありません。天下の治乱、気化の転移、人心の趨向は、いずれも一朝一夕の故ではないからです。 臣が思うに、天下が治に趨くのは堅氷が解けようとするのに似ています。氷の堅さは太陽一日の光で消せるものではありません。陽気が発生し土脈がわずかに動いてはじめて融け解けます。聖人が天下を治めるのもこれと同じです。 治を求める道は風俗を正すに先立つものなく、風俗を正す道は守令に務むべき所を知らせるに先立つものなく、守令に務むべき所を知らせるには風憲に重んずべき所を知らせるに先立つものなく、風憲に重んずべき所を知らせるには朝廷が尚ぶ所を知るに先立つものはありません。すなわち簿書・期会・獄訟・銭穀の報告がないことは恕すべきとし、流俗が敗れ世が壊れることこそ問わずにおけぬとして、はじめて風俗を正す道が得られます。 今の守令は戸口・銭糧・簿書・獄訟を急務とし、農桑・学校という王政の本を虚文と見なして問いません。農桑で言えば、春になると州県が一枚の文書を下し、里甲が書状を申し上げるだけで、守令が自ら種蒔きの次第や旱澇の予備の具を点検したことがありません。学校で言えば、廩膳生員は国家が人材を取る資とする所ですが、守令にも礼譲の実で成器を育てる者はまれです。朝廷が社学を第一に重んじても、守令はただ文案を具えて照査に備えるだけ。憲司が部を分けて按臨しても、旧例を踏襲するだけで、一人を派遣して興廃の実を巡行点検したことがありません。上下がこれほど虚文と見なすので、小民は孝弟忠信が何物か知りません。これが守令の務むべき所を知らぬ失です。 風紀の司は朝廷に代わって風化を宣導し、綱目を条挙する所です。訴訟を聴き獄を判ずるのはその一事に過ぎません。今は専ら訴訟を要務とし、贓を多く獲た者を称職とし、事績の少ない者を無能とします。一つでも合わなければ、忠臣・孝子・義夫・節婦があっても虚文末節と見なして挙げる暇がありません。これが風憲の重んずべき所を知らぬ失です。守令は民に親しむ官、風憲は守令に親しく臨む官。務むべき所を知らぬことがこの通りですから、善き治を求めてもついに得られぬのです。 『王制』は、郷の秀士を司徒に昇し、司徒が太学に昇し、太学正が司馬に昇し、司馬が官材を弁論し、論が定まってのち官に就け、官に任じてのち爵すると論じます。その考えは詳細でした。今、天下の郡県の生員を太学に昇らせ、数か月と経たぬうちに急に選んで官に入れることも間々あります。世に稀な奇才が顔回・耿弇・鄧禹のようであれば常法に拘れませんが、開国以来、選挙した秀才は少なくなく、選任した名位も軽くありません。今数えて、賢者は幾人ありましょうか。これらはみな臣のいわゆる治を求めること太だ速やかなることの過ちです」。
  • 書が奏されると逮捕して訊問され、獄中で病死した。

洪武九年 冬十月〜十年(1376年〜1377年)— 禍の根源についての議論

  • 冬十月、太祖は侍臣と女寵・寺人・外戚・権臣・藩鎮・四裔の禍を論じて言った。「木は必ず蠧してのち風が入り、体は必ず虚してのち病が乗ずる。国家の事もこれと同じである。 漢は外戚と閹寺で亡び、唐は藩鎮と戎狄で亡んだ。しかし制するに道があり、貴賤に体があり、恩が義を掩わなければ、女寵の禍はどこから生じよう。私愛に引かれず、政典を犯せば至公をもって裁けば、外戚の禍がどこから起ころう。閹寺は使い走りを職とし兵権を貸さねば寺人の禍はない。上下が相繋ぎ大小が相制し、目隠しを防ぎ威福を謹めば権臣の患いはない。藩鎮の設けはもともと民を衛るためで、財は有司に帰し兵は符を待って調えるなら、どうして跋扈の憂いがあろう。四裔を御するに至っては、武備を修め辺防を謹み、来れば防ぎ去れば追い窮めなければ、どうして侵暴の虞いがあろう。 これらの数事は、常に書に著して後世の子孫に時に応じて観省させたいと思う。これも社稷の無窮の利である」。
  • 十二月、中書省の臣に諭し、およそ職官で銓選を待つ者には早く任命を与え、資用が尽きぬようにし、有司に舟車を給して送らせた。
  • 十年春正月、工部承差の張致中が三事を上言した。一に監察御史を慎んで選ぶこと、二に京師と各府州県に常平倉を設けて時に応じて出し入れすること、三に北方の曠土を開墾するのに農民自身に畝数を申告させて税糧を定め、守令が里甲に虚偽の増額を責めさせぬこと。宛平知県に抜擢された。
  • 二月、仕官した者の徭役を免ずることを令とした。
  • 夏五月、ある内侍が久しく内庭に侍り、ゆったりと政事に言い及んだ。太祖はその日のうちに斥け、郷里に帰らせ、終身、官途に列せぬよう命じ、群臣に諭した。「閹寺の人が左右に長くいると、その小さな忠と小さな信で君心を固く結ぶ。長くなれば威を借り権を盗み、勢いはついに抑えられなくなる。朕は法を立てて寺人が政事に与ることを許さぬ。今これを決然と去るのは将来を懲らすためだ」。
  • 六月、天下の臣民が事を言うのに封をして直接、御前に達することを許す詔を下した。
  • 秋八月庚戌、圜丘を南郊に改建した。先に郊祀は一に『周礼』のとおり行っていたが、久しくして風雨が時ならず災異がたびたび現れた。太祖は天地は父母のようなもので、父母が別々にいるのは人情として安んじられぬとし、圜丘の旧址に壇を作って屋根で覆い、大祀殿と名づけた。
  • 癸丑、社稷壇を午門の右に改建して一壇とした。十一月丁亥の冬至、奉天殿で天地を合祀した。
  • この年、河南・山西・広東・湖広の田租を免じた。

洪武十一年〜十五年(1378年〜1382年)— 中書省の廃止と諸事

  • 十一年春三月、奏事を中書省に通すことを禁じた。
  • 十二年春三月、太祖は退朝して便殿に出、儒臣を召して治道を論じ、国子学官の李思廸・馬懿だけが発言しなかったので謫した。
  • 十三年春正月、中書省を廃し、六部の官秩を古の六卿の制のごとく上げる詔を下した。
  • 三月、戸部に蘇州・松江・嘉興・湖州の四府の重い税糧の額を減らすよう命じた。もともと王師が姑蘇を囲んで久しく落ちなかったとき、太祖はその民が賊に附き、また富室に苦しめられながらなお死守したことに怒り、諸豪族の租簿と佃暦を有司に付してその数どおりを額とさせた。一時の懲らしめだった。ここに至ってその額を減らし、旧来、一畝につき七斗五升から四斗五升だったものは十分の二を減じ、四斗三升から三斗六升だったものは三斗だけ徴することとした。
  • 五月、天下の今年の田租を免ずる詔を下し、山西の軍二万四千人を民に返した。
  • 十四年春三月、太祖は北方が喪乱の後で経籍が残欠しているとして、五経・四書を北方の学校に頒たせた。
  • 秋七月、孝弟力田・賢良方正・文学の士を挙げ、何徳忠・金思存らを参政・参議の諸官とした。
  • 十五年夏四月辛巳、廉州府巡検の王徳亨が西戎の水銀坑を取ることを上言したので斥けた。広平府の吏・王允道が磁州臨水鎮の地に鉄を産するので元の時のように鉄冶都提挙司を置いて管轄すれば歳に鉄百余万斤を収められると言った。太祖は杖で打って海外へ流した。
  • 五月、使者を遣わして経に明るく行いを修めた士を求めた。広東の儒士が治平の策数千言を上ったが、太祖はそれが賢の登用に及ばぬことを責めた。秀才の曽泰を戸部尚書とした。泰は江夏の人で学行があったので、次を越えて抜擢された。
  • ある日、太祖は囚人の審査を終えて御史の袁凱に東宮へ送って再審させ、次々に減刑した。凱が戻って復命すると、太祖は「朕と東宮とどちらが正しいか」と問うた。凱は叩頭して「陛下は法の正、東宮は心の慈です」と答え、太祖は大いに喜んですべて従った。
  • 秋九月、晋府長史の桂彦良が太平治要十二事を上った。天道に法る、地理を広める、人心に順う、聖徳を養う、国脈を培う、経筵を開く、選挙を精しくする、刑罰を審らかにする、教化を敦くする、四裔を馭す、才俊を蒐める、咨訪を広くする。太祖は嘉して納れた。

洪武十六年〜二十一年(1383年〜1388年)— 開済の獄、科挙成式、解縉の上言

  • 十六年夏四月、刑部尚書の開済が法を巧密に議した。太祖は「沢を竭くして漁れば害は鯤鮞に及び、林を焼いて狩れば禍は麛鷇に及ぶ。巧密の法に百姓がどうして堪えよう。朕の望むところではない」と言った。
  • 済は強敏で綜核に長け、深文を善くして誰も逃れられなかった。かつて獄を売り、死囚を借りて身代わりを逃れさせ、獄吏が発覚させると獄吏を打ち殺した。冬十月、済を獄に下して誅に伏させた。
  • 十七年春三月戊戌、科挙の成式を頒行した。三年ごとの大比、郷試は三場。八月初九日に四書義三・経義四を試す。四書義は朱子の集註、経義は詩は朱子の集伝、易は程・朱の伝義、書は蔡氏の伝および古註疏、春秋は左氏・公羊・穀梁・胡氏・張洽の伝、礼記は古註疏を主とする。十二日に論一・判語五・詔誥章表のうち一科を試す。十五日に経史策五を試す。礼部の会試は二月で郷試と同じ。
  • 受験できるのは国子学生、府州県学生、儒士、未仕の官で未入流の者。学校の訓導は専ら生徒を主宰する。罷閑の官吏、倡優の家、および父母の喪中の者はいずれも受験を許さない。
  • 秋七月丁酉、内官が外事に与ることを禁じ、諸司が内監と文書を往来させぬよう勅した。
  • 冬十月丁亥、秀才の宋矩ら十七人を監察御史とした。
  • 十八年春正月、太祖は戸部に諭した。「農桑は衣食の本。食を足らすは末作を禁ずるにあり、衣を足らすは華靡を禁ずるにある。天下に申明して四民各々その業を守らせ、遊食を許さず、庶民が錦繍を着ることを許すな」。
  • 十九年春三月、太祖は戸部に諭した。「国家の賦税には既に定制がある。用度を節すれば自ずと余裕がある。徭を軽くし末を抑え、農桑に力を尽くさせれば、自然に家給人足となる。搾取を事として国体を傷つけるな」。
  • 秋七月、経に明るく行いを修め時務に練達した士および七十歳以上の者を挙げて京師に送る詔を下した。
  • 八月、太祖は侍臣と、宋の太宗が封樁庫を内蔵庫と改めたことを論じて言った。「人君は四海を家とする。どうして公私の別があろう。太宗は宋の賢君でありながらこの通りだった。漢の霊帝の西苑や唐の徳宗の瓊林・大盈庫は深く責めるまでもない。 宋は乾徳・開宝以来、有司が支度に不足があれば必ずその数を記して内蔵から借り、課賦に余りがあれば償った。これは商人が自分の家と出入りを計算するようなものだ。内蔵が満ちると牙の札でその名目を分け、帳簿と照合し、晩年には札を出して真宗に『これをよく保てば足りる』と示した。この謀の遺し方では、どうして訓とするに足ろう。 『書』に『その終わりを慎むはその始めにあり』とある。太宗が真っ先に財利の端を開いたので、後世は兵革に困り、三司の財用は尽き、内蔵は積むばかりで出さず、たまに緡銭十万ほどを出して軍需を助ければ、難事をよくなしたと思われた。いずれも太宗が善く始められなかったゆえである」。
  • 二十年春正月、太祖は錦衣衛が非法に罪囚を訊鞫することが多いと聞き、その刑具を取ってすべて焼かせ、繋がれた囚人はなお刑部へ送って審理させた。
  • 閏六月、養老の政を天下に申した。
  • 秋七月、有司が武学を立てて太公を祀ることを請うた。太祖は「文武は二途ではない」と言い、太公を帝王廟に従祀し、その旧祀を罷めた。
  • 二十一年夏四月、庶吉士の解縉が上言した。
  • 「陛下は天下を群盗から取り、生民を塗炭から救われました。これぞ帝王の功です。女寵と寺人の患いを絶ち、声色・遊畋の娯しみをなくされました。これぞ帝王の略です。 ところが国初から今まで二十年、変わらぬ法がいくらの時もなく、過ちなき人が一日もありません。陛下はかつて『世に賢は絶えぬ』と言われ、また『民は死を畏れぬ。なぜ死で懼れさせようか』と言われました。陛下は善を好まれるのに善は顕れず、悪を憎まれるのに悪は日々増える。まことに誠信に隙があり、用刑が太だ繁なるゆえです。 陛下が震怒して奸逆を誅鋤されたことは聞きますが、詔書で一人の大善を褒め、賞が世に延びたことは聞きません。あるいは朝に賞して暮れに戮し、あるいは忽ち罪して忽ち赦す。陛下は自ら悔いられることが多く、そのたびに及ばぬと嘆かれます。 陛下はまた『道徳心経』『説苑』『韻府』の諸書を好んで御覧になります。臣がひそかに思うに、劉向・何晏の学は純粋な師ではなく、陰氏の『韻府』は寒士の叢説です。臣は陛下が儒生を集め、上は唐虞・夏・商・周の紀の奥義に溯り、下は関・閩・濂・洛の伝に及び、臣に筆を執ってその後に随わせられることを願います。 天に配するには掃地の規を復すべきです。祖を尊ぶには七廟の制を備えるべきです。太常は俗楽を習うべき所ではなく、官伎は人道のなす所ではありません。法外の刑を痛く懲らし、京城の役を永く革めるべきです。婦女で帷簿を修めぬ者を、ようやく逮捕・拘禁されました。大臣の過悪が誅に当たっても、なお戮を加えられませんよう。 古の藍田呂氏、今の義門鄭氏の家範に倣ってこれを天下に布き、率先して旌表し勧奨し、授田・均田の制を行い、常平・義倉の法を挙げ、古の書院・学田を復興して広く益すべきです。これが化の原の始まる所です。 律は人倫を重んずるとしながら婦女を給配する条があります。それではどうして義夫・節婦を得られましょう。 粢盛の潔さ、衣服の整え、儀文の備えは、天を畏れることの末です。簿書の期限、獄訟の判断、鈎距の巧みさは、民を治めることの末です」。
  • 太祖はその疏を手に持って縉を奇才と称えたが、その言がかなり迂遠だとして行わなかった。

洪武二十二年〜二十六年(1389年〜1393年)— 教化と直言

  • 二十二年冬十一月、太祖が翰林学士の劉三吾と民を治める道を論じたとき、三吾は「南北の風俗は同じでない。徳で化しうる所も、威で制すべき所もあります」と言った。太祖は「地に南北はあるが民に二心はない。徳で君子を化し、威で小人を制するのであって、地によるのではない」と言った。
  • 二十三年春正月、潮州の生員・陳質の軍籍を削った。質の父は大寧に戍して既に死に、有司が質を取って伍を補わせようとした。質が上書して学業を終えることを請うと、太祖は「国家が一卒を得るのは易く、一才を得るのは難い。朕がどうして戦う士一人に事欠こうか」と言い、許してその伍を除いた。
  • 二十五年秋七月、岢嵐州学正の呉従権と山陰教諭の張恒が任期を終えて京師に至った。太祖が民間の疾苦を問うと、いずれも「知りません、職事ではありませんので」と答えた。太祖は言った。「宋の儒者・胡瑗は蘇州・湖州の教授となり、諸生を教えるのにみな時務を兼ねさせた。聖賢の道は世を済うためのものだ。民情を知らずして何を教えるのか」。極辺に流し、刑部に高札で天下の学校に諭させた。
  • 九月、暦数に通暁し過去を推して未来を知る者を求め、侯に封ずるという詔を下した。山東の監生・周敬が上疏して諫めた。その要旨。
  • 「国祚の長短は徳の厚薄にあり、暦数で定まるものではありません。陛下はただ徳を修められれば国祚は自ずと万世に伝わります。 陛下は連年征伐され、臣民はみな伝国の宝を得られぬことを恥としています。臣が聞くに、伝国の宝は楚の平王から出、秦の始皇がこれを御璽と名づけました。『易』に『聖人の大宝を位という。何をもって位を守るか、仁という』とあります。仁こそ人君の宝であり、玉璽は宝ではないと知られます。 今、力役は繁く興り、戸口は多くとも民で労する者が多い。賦斂は過度に厚く、倉廩は満ちても民で貧しい者が多い。教化は博いのに民は悦ばず、法度は厳しいのに民は服しません。 汲黯は漢の武帝に『陛下は内に欲多くして外に仁義を施す。どうして唐虞三代の治に倣おうというのか』と言いました。今、国は富を願い、兵は強を願い、城池は高深を願い、宮室は壮麗を願い、土地は広きを願い、人民は衆きを願う。そこで軍士を多く取り、税糧を広く積み、征伐の功に空しい日なく、土木の工に已む時がない。どうして治まりましょう。 洪武十二年に天下の官吏を欽録し、十三年に京の民を大いに殺し、善悪を分けませんでした。善人・君子で偶々誤りの中に入った者がなかったはずがありましょうか。今、水旱が連年で大豊作に至らぬのも、無辜を殺戮して和気を傷つけたことによるのかもしれません」。
  • 疏が奏されると、太祖はかなりその言を納れ、北征の議はやや止んだ。
  • 二十六年夏四月、戸部に詔して天下の有司に諭し、飢饉に遭えばまず倉廩を開いて民に貸し、しかるのち奏聞することを令とした。
  • 秋七月戊申、秀才の張宗濬らを選んで詹事府・左春坊の官に従わせ、班を分けて文華殿に直させ、侍講が終わると民間の利害・田里の稼穡などを進言させ、あわせて古今の孝弟忠信・文学才芸の諸故事を陳べさせ、日々の常とした。まもなく東宮の官属が欠けたので、浦江の鄭・王二姓の子弟で三十歳以上の者を徴して選用した。九月甲子、鄭済を左春坊左庶子、王勲を右春坊右庶子とし、まもなく鄭沂を礼部尚書に抜擢した。
  • 冬十一月、天下の学官が入覲した。太祖は自ら民間の政事の得失を尋ねた。泰州訓導の門克新は答えが率直明快で、紹興府教授の王俊華は文辞が巧みで豊かだった。太祖は克新を左賛善、俊華を右賛善に抜擢し、「朕が克新を左とし俊華を右としたのは、直言を重んずるからだ」と言った。

洪武二十七年〜三十一年(1394年〜1398年)— 晩年の諸政

  • 二十七年夏四月庚戌、太祖は工部に言った。「人の常情として、飽けば飢えを忘れ、暖かければ寒さを忘れる。ひとたび凶荒に遭えば茫然として措く所がない。近年は年がかなり豊かだが、予防の計は早くせねばならぬ。工部は民間に諭し、空き地があればみな桑と棗を植えさせ、栽培法を授けよ。さらに綿花を植えさせて税を免じ、年末に数を報告させよ」。
  • 秋九月甲申、『寰宇通志』の書が成った。方隅の目は八。東は遼東都司に距り、東北は三万衛に至り、西は四川松潘衛を極み、西南は雲南金歯に距り、南は広東崖州を踰え、東南は福建漳州府に至り、北は太平・大寧衛に暨び、西北は陝西甘粛に至る。縦一万九百里、横一万一千五百里。四裔は含まない。
  • 二十八年夏八月己丑、群臣に諭して黥刺・腓・劓・閹割の刑を禁じた。
  • 秋七月、ある道士が書を献じた。太祖は「朕は天下の生民を寿域に登らせようとしている。どうして一己の長生久視のためだけであろうか」と言い、却けさせた。
  • 二十九年春三月壬申、文廟の従祀から揚雄を罷め、董仲舒を進める詔を下した。行人司副の楊砥の言による。
  • 三十年夏五月甲寅、『大明律』が完成し、中外に刊布した。太祖は午門に出て群臣に祥刑の意を諭した。
  • 侍読の張信、侍講の戴彝に諭した。「論思を職とせよ。およそ国家の政治の得失、生民の利病は、知って言わぬことのないようにせよ。昔、唐の陸贄・崔群・李絳は翰林にあって、いずれも正言讜論して世道に補益した。古人をもって自ら期し、抜擢の意に背くな」。
  • 九月辛亥、戸部に命じて天下の人民に、郷里ごとに木鐸を置き、年老いた者を選んで月に六度、鐸を持って道を巡らせた。また民に時ごとに鼓一つを置かせ、農桑の時月には朝起きて鼓を打ち田所に集まらせ、怠惰な者は里老が督責し、里老が勧め督さなければ罰した。婚姻・死喪・吉凶などの事には一里の内で互いに助け合わせた。
  • 十一月、太祖は奉天殿に出て散騎舎人が極めて鮮麗な衣を着ているのを見、「作るのにいくらかかったか」と問うた。「五百貫」と答えた。太祖は「五百貫は農夫数口の家の一年の資である。それをお前は衣一枚に費やした。驕奢がこれほどとは、暴殄ではないか」と言い、厳しく戒めさせた。
  • 三十一年春正月、太祖は山東・河南の民の多くが農事を怠っていると聞き、戸部に人材を各郡県へ派遣させ、民に耕種を督励させ、耕した田地と収穫した穀粟の数を名簿にして報告させた。

史論(谷応泰曰)

  • 太祖は淮西の布衣から剣を仗んで乱を討ち、十五年の間に帝業を成し、明堂を開いて上帝を礼した。功はまことに烈しい。しかも身は行軍の中にあって手は書を離さず、礼を尽くして儒臣を招き、深く治道を思った。
  • 宋の代が衰えて生民に主なく、西京の礼楽は周の遷都で失われ、晋代の風流は江左で亡んだ。続いて元人が統御を失い、濁り乱れ乖離した。古来、禍乱が広がり聖学が放棄されて、これほど酷いことはなかった。帝が神霊倔起し智勇挺興したのでなければ、どうしてこれほど速やかに禍乱を克ち鎮め、旧章に率って撥乱反正できたであろうか。
  • 宦官の失を懲らして内官が政に与ることを禁じ、女寵の禍を懲らして母后の臨朝を戒め、外戚の乱を懲らして后家を封ぜぬよう令し、藩鎮の変を懲らして武臣が兵と食に与らぬよう制した。禍の本、乱の階梯を、ほぼ防ぎ尽くした。
  • 律令を著し、典礼を定め、百官を置き、宗廟を立て、軍衛を設け、学校を建てるに至るまで、いずれも損益し、質と文を斟酌して美備を尽くした。百王の跡をあまねく考え、治乱の故を深く明らかにし、秦の焚書で堕ちた緒を振るい起こし、周の歴のごとき謀を永く遺した。
  • 沛公(漢の高祖)は行軍の中に老死し、漢の治はことごとく秦の弊を踏襲した。光武帝は高祖に符を同じくしたが三公はわずかに吏治に参ずるのみ。唐は貞観を美とするが内に慚徳が多く、宋は太祖(藝祖)を推すが外に経営が乏しい。前哲を網羅し後王を範囲することを求めれば、およそこれに及ぶものがない。
  • その官制・典礼・律令・宝訓・女誡・臥碑・木鐸・祖訓を見れば、大言は炎々、至文は郁々、義は二代を鑑とし、法は三千を備え、条を貫き同じくし、金声玉振である。呉の季札が初めて来て必ず周礼を観、武王が車を下りて商の旧を改めなかったのもこれと同じ。大成を集める者は毀ちがたく、至善を継ぐ者は功をなしがたい。司馬遷が史を作っても帝を謗る書を成しえず、陸機は呉を悲しんでなお「弁亡の論」を著しえた。秦中の父老が法三章を誇り、宋室の子孫が杯酒の功を侈るのに比べれば、この盛んな軌範に対し、あちらの風はいかにも陋い。
  • ある者は、韓信・彭越を誅戮し、宗室を広く封じ、豪傑を猜疑し、富民を遷徙し、直言者を獄中に病死させ、詩の過ちで荒徼に謫戍したことを言う。賈誼が剣盤に涙を流し、周勃が牘の背に心を摧いたようなもので、七国の釁は実は癰を養って開き、黄巾の禍にも報いがなくはない。河北の降城にはついに男子がなく、青城で節を仗んだのは侍郎一人だけだった。あるいは法を作るに涼薄だったので天道の還りがあったのか。
  • 思うに、汴都が陥落したとき諸王を殲滅し尽くし、元末に群雄がみな大盗から起こった。それを懲りて、羹に懲りて膾を吹く面がなくはない。帝の性は沈鷙で屠殺に果断だった点は少しく漢の高祖に類し、唐・宋に美を譲るのはこの点かもしれない。
  • とはいえ、隋の文帝は長続きせず急で亡んだと言われ、晋の武帝も短命で寛で敗れたと言われる。枉れるを矯めるのに正を過ぎても差し支えないというのは、英雄が時務をよく識るということでもあろう。
  • 詩に「老成の人なしといえども、なお典型あり」という。その開国の規模を見れば、宏遠なものである。