明史紀事本末諸藩を削奪する(削奪諸藩)
洪武九年(1376年)の葉居升の分封批判から建文元年(1399年)の靖難勃発までを扱う。太祖は辺境の諸王に三護衛の重兵を委ねたため、皇太孫の允炆は早くから黄子澄に諸叔父の制圧策を諮っていた。葉居升は分封の侈を極論して獄死し、以後は諫言が絶えた。太祖の崩後に即位した建文帝は斉泰・黄子澄に削奪を委ね、まず周王を捕らえて庶人とし、岷王の護衛を削り、湘王は自焼して死に、斉王・代王も廃されて幽閉された。卓敬・高巍・方孝孺は推恩の令や徳化を説いたが用いられず、まもなく燕王の靖難の兵が起こった。
年表(5件)
- 洪武三十一年 閏五月— 建文帝の即位と削藩の議の起こり1398年皇太孫が黄子澄に諸王の制圧を諮り漢の七国の例を得る
- 洪武九年— 葉居升の分封批判1376年葉居升が分封の侈を諫めて太祖の怒りに触れ獄死する
- 洪武三十一年— 太祖の遺詔1398年遺詔で諸王の会葬を止め、王国の文武吏士を朝廷の節制下に置く
- 建文即位年 六月〜十二月— 削藩の開始1398年李景隆が周王を捕らえて庶人とし雲南へ移す
- 建文元年— 諸藩の削奪と靖難の起こり1399年岷王・斉王・代王を廃し湘王が自焼して靖難の兵が起こる
洪武三十一年 閏五月(1398年)— 建文帝の即位と削藩の議の起こり
- 建文帝が即位し、翌年を建文元年と改める詔を下した。帝は太祖の孫、懿文太子の子である。生まれて十年で懿文太子が死んだとき、高皇帝は六十五歳だった。東角門に出て群臣に対して泣いた。翰林学士の劉三吾が進み出て「皇孫は嫡子で、年もこれからです。儲位に正しく即けば四海の心が繋がります。皇上はご心配に及びません」と言い、高皇帝は「善い」と言った。
- 九月庚寅、皇太孫に立てた。当時、諸王は叔父の尊さをもって不遜な振る舞いが多かった。ある日、太孫が東角門に坐し、侍読・太常卿の黄子澄を召して「諸叔父は各々重兵を擁している。どう制するか」と告げた。子澄は漢が七国を平らげた事をもって答え、太孫は喜んで「この謀を得た以上、憂いはない」と言った。
- もともと太祖は金陵に都を建てたが、辺塞から六、七千里も離れており、元の後裔がしばしば塞下に出没して吏卒を捕殺した。ゆえに辺境の諸王には国中を専制させ、三護衛の重兵を擁させ、将を遣わして諸路の兵を徴するにも必ず親王に報告してから発することとした。
洪武九年(1376年)— 葉居升の分封批判
- 洪武九年、五星の度が乱れ日月が相刑した。訓導の葉居升が詔に応じて陳言し、分封が太だ侈であることを極論した。その要旨。
- 「日は君の象、月は臣の象、五星は卿士・庶人の象です。臣は愚かで星術を知りませんが、しばらく経伝で聞いたところと前世に行われた得失を摭って論じます。 『詩』に『かの月にして食するは、すなわちそれ常なり』とあります。今、日が月を刑するのはまだよいとして、日と月が相刑するとなれば、月が敢えて日に抗するように、臣が敢えて君に抗することになります。 伝に『都城が百雉を過ぎるは国の害なり』とあります。国家は宋・元が孤立して宗室が振るわなかった弊を懲らし、秦・晋・燕・斉・梁・楚・呉・閩の諸国にそれぞれその地を尽くして封じました。都城・宮室の制は広狭大小が天子の都に次ぎ、甲兵・衛士の盛んなものを賜っています。 臣は数世の後に尾大掉わずとなり、そのとき地を削り権を奪えば怨みを起こし、漢の七国・晋の諸王のようになることを恐れます。そうでなくとも険を恃んで衡を争い、あるいは衆を擁して入朝し、はなはだしきは隙に乗じて起こる。防ごうにも及びません。 今、議する者は『諸王はみな天子の親子、みな皇太子の親しい国だ』と言います。なぜ漢・晋の事を摭って見ないのでしょうか。孝景皇帝は漢の高帝の孫、七国の王はみな景帝の同宗の父・兄弟・子孫でした。それが当時、一たびその地を削ると兵を構えて西へ向かいました。晋の諸王はみな武帝の親しい子孫でしたが、代替わりののち代わる代わる兵を擁して皇室を危うくし、ついに四裔が雲のように騒ぐ患いを成しました。これで言えば、分封が制を踰えれば禍患はたちどころに生ずる。古を援いて今を証すれば昭然たるものです。 昔、賈誼は漢の文帝に、早く諸国の地を分けて空けておき諸王の子孫を待つよう勧め、『力が少なければ義で使いやすく、国が小さければ邪心がない』と言いました。願わくは諸王がまだ国に就かぬうちに、その都邑の制を節し、衛兵を減らし、疆里を限り、あわせて諸王の子孫を封ずる分を用意されますよう。この制が一たび定まれば、諸王のうち聖賢の徳行ある者は入って輔相となり、その他は世々藩輔となり、国と休を同じくして世々窮まりないものとなります」。
- 太祖は怒って獄に繋ぎ、居升は獄中で死んだ。以後、あえて言う者はなかった。
洪武三十一年(1398年)— 太祖の遺詔
- 太祖が崩じ、遺詔が下された。「朕は皇天の命を受けて世に大任を膺けること三十一年。憂危を心に積み、日々勤めて怠らず、専ら民に益あることを志した。だが寒微から起こったので古人の博智なく、善を好み悪を憎むことも及ばぬことが多かった。 今年七十一、筋力は衰え、朝夕に危惧して終わりを全うできぬかと憂えていたが、今、万物自然の理を得た。何を哀しみ念う必要があろう。 皇太孫の允炆は仁明にして孝友、天下の心が帰している。大位に登るがよい。中外の文武の臣僚は心を同じくして輔佑し、我が民を福せよ。葬祭の儀は一に漢の文帝のごとくして異にするな。天下に布告して朕の意を知らせよ。孝陵の山はみなその旧に因って改めるな。 諸王は国中に臨み、京に至ることを得ぬ。王国の所在の文武の吏士は朝廷の節制を聴け。ただ護衛の官軍だけが王に聴く。令中にない諸事はこの令に推して従事せよ」。
- 辛卯、皇太孫が皇帝の位に即き、孝陵に葬った。遺詔を援いて諸王が会葬に来ることを止めた。詔が下ると諸王は悦ばず、「これは斉尚書(斉泰)が疎んじ隔てているのだ」と言った。
建文即位年 六月〜十二月(1398年)— 削藩の開始
- 六月、戸部侍郎の卓敬が宗藩を裁抑するよう密奏したが、疏が入っても返答はなかった。かくて燕・周・斉・湘・代・岷の諸王がかなり互いに煽動し、流言が朝に聞こえた。帝は憂えて斉泰に謀り、泰は黄子澄とともに真っ先に削奪の議を建て、そこで事を泰と子澄に委ねた。
- ある日、朝を罷めて子澄を召し、「先生、昔の東角門の言を覚えているか」と言った。「忘れておりません」と答えた。子澄は退いて斉泰と謀った。泰は「燕は重兵を握り、しかも日ごろ大志がある。まず削るべきだ」と言った。子澄は「そうではない。燕は予備が久しく、にわかには図りがたい。まず周を取って燕の手足を剪れば、燕も図れる」と言った。
- そこで曹国公の李景隆に兵を調えて突然、河南に至って包囲させ、周王とその世子・妃嬪を捕らえて京師へ送り、爵を削って庶人とし、雲南へ移した。
- 冬十一月、代王が藩国にあって貪虐の状があった。方孝孺が徳で化して導くよう請い、帝は蜀へ入らせて蜀王とともに居らせた。当時、蜀王は日ごろ賢と聞こえていたからである。
- 十二月、前軍都督府断事の高巍が上書して時政を論じた。
- 「我が高皇帝は上は三代の公を法とし、下は嬴秦の陋を洗い、諸王を封建されました。すべて中国を護り四裔を屏として、聖子神孫のための計は極めて遠大です。 ところが地が大きく兵が強ければ乱を生じやすい。今、諸藩は驕逸で制に違います。削らなければ法を廃し、削れば恩を傷つけます。 賈誼は『天下の治安を欲すれば、諸侯を衆く建ててその力を少なくするに越したことはない』と言いました。臣が愚かに思うに、今はその意に師り、晁錯の削奪の策を施さず、主父偃の推恩の令に倣うべきです。西北の諸王の子弟を東南に分封し、東南の諸王の子弟を西北に分封し、その地を小さくしその城を大きくして力を分ければ、藩王の権は削らずして自ずと弱まります。 臣はさらに、陛下が親を親しむ礼をいっそう隆くし、歳時・伏臘に使いと問いを絶やされぬことを願います。河間王・東平王のような賢者には詔を下して褒賞し、淮南王・済北王のような不法者には、初犯は容し、再犯は赦し、三犯して改めなければ廟に告げて地を削り廃して処せば、服さぬ者があるでしょうか」。
- 帝はこれを嘉したが用いることはできなかった。
建文元年(1399年)— 諸藩の削奪と靖難の起こり
- 春二月、親王が文武の吏士を節制することを禁じ、官制を改定した。
- 夏四月、岷王が不法をなしていると告げる者があり、その護衛を削り、悪に導いた指揮の宗麟を誅し、庶人に廃した。
- また湘王・柏が鈔を偽造し、擅に人を殺したとして勅を降して厳しく責め、あわせて使者を遣わして兵で迫って捕らえようとした。湘王は「私は聞く、前代の大臣は吏に下されると多くは自ら決したと。私は高皇帝の子として南面して王たる身、どうして僕隷の手に辱められて生き延びることを求めようか」と言い、宮を閉ざして自ら焼け死んだ。
- また斉王・榑の隠れた事を告げる者があり、詔して京に至らせて庶人に廃し、拘禁した。代王・桂を大同に幽閉して庶人に廃した。まもなく靖難の兵が起こった。
史論(谷応泰曰)
- 聞くところ、周南で化が始まり二公が陝を分かち、東遷に及んでは晋と鄭に依った。ゆえに諸侯を衆く建て、子弟を分けて王とし、天室を屏藩し京師を拱衛することは、勢いとして極めて重い。
- 高皇帝は大宝が定まると桐の葉を剪って封を論じ、燕王を北平に、代王を代郡に、寧王を大寧に置いた。碁石のように布き星のように羅なり、屹然として国家を鎮めた。その深謀を推せば、単に城壁を維ぐ磐石であるだけでなく、北門の鍵でもあった。
- ただし并州で警備のため重兵を多く蓄え、馬邑で秋の防備に節制を専らにさせた。鄭は京城が実に荘公を危うくし、晋は曲沃が実に孝侯を弑した。大都が国と並ぶのは禍の本である。
- まして秦・晋の四府、湘・岷の六藩はいずれも帝の制を自ら行い、驕り高ぶって坐して大きくなった。神明の胤という血筋を藉り、肺腑の尊さを挟み、揚水が粼々として周道を興し、親を親しむことでかえって弱まったという変事の由来は、故なきことではない。
- まして幼年で位に即き、主は若く国は疑われ、強い宗室が家を乱し、周の赧王・漢の献帝と同じに見られた。この時、賈誼が抱いて哭したような憂いは、たちまち呉・楚の兵を招き、主父偃の設けた謀はすぐに晋陽の甲を開かせる。三家がことごとく公室を分かち、残る地もことごとく廩延に入るのを許すことになる。まさに虎を養って患いを遺し、膿を蓄えて必ず潰えるというものである。
- ゆえに論者は建文の失は諸藩を削ったことにあるとするが、私は、諸藩は削っても叛き、削らなくとも叛いたと思う。論者はまた建文の失は強藩を削ったことにあるとするが、私は、強藩を削らなければ、最強の燕王が真っ先に叛き、次に強い寧王が次に叛いたはずだと思う。斉泰・黄子澄らが胸を叩いて火を措く思いで、手を握り閣門を閉ざし、順に芟り除いて宗社を安んじる計を立てたのも怪しむに足りない。
- とはいえ忠は尽くしたが、算はやや拙かった。当時を考えれば、周王と岷王はいずれも急襲されて捕らえられ、斉藩と代藩はともに幽閉・廃位され、寧邸は護衛を削られ、湘王は宮を挙げて自焼した。数か月のうちに大獄がたびたび興り、案件の検証も明らかでなかった。葛の蔓が庇わなければ、必ず蒼天に託して仇を報い、皇家に生まれたくないと願う者が出る。まして宦官が燕に入り、官属を逮捕拘禁するに至っては、ほとんど十王を並べ戮し、七国を誅するに等しい。釁が兵端を開いたのも口実がなかったわけではない。
- 私見では、太祖の小祥(一周忌)の時こそ諸藩が子を遣わす日である。大内に百孫院を置いて留め、なお名臣を選んで礼義を傅けるべきだった。四小侯が漢で学に就いたのは、長安君が秦に人質に入ったのと同じである。
- さらに洪武の旧勲に分けて命じ、撫綏を名として通州に幕を開き、河・済に分屯させ、周亜夫の堅壁に倣い、辛毗を軍門に立てるようにする。そのうえで温かい詔を賜って自ら徳化を行い、梁王の罪状はすべて焼き捨て、呉王が臣たらざるにも几杖を賜る。そうすれば皇族の諸嗣は逆節が萌しても反形はなお収まったろう。
- そして諸子弟が年ごとに冠婚するのを待ち、一尺の詔でその地を分裂させる。国が小さければ永く邪心なく、内で割かれれば外の事に手が回らない。天下の乱れた糸も徐々に理して解けたはずである。
- ところが葉居升の奏は高皇帝に譴められ、方孝孺の謀は嗣主に行われなかった。斉泰・黄子澄らが道を分けて兵を徴した時には、もはや策がなかった。石頭に詔が下って蘇峻の変を激発させ、江陵が討たれて桓玄の反を逼ったのと同じである。謀の善からぬこと、誰がその咎を負うのか。
- 燕兵が南下し、建業の門が閉ざされると、谷王・橞が門を献じ、安王が真っ先に附いた。周・斉の列藩は順に爵を復した。悪を同じくする者が互いに保つのは、理として当然である。
- ただ蜀王の賢だけは、興廃の謀に与らず、超然として評論の外にあった。河間王が書を集めて博士に読み尽くさせ、東平王の樹が咸陽を望んでみな靡いたというが、これに何を加えられよう。