明史紀事本末胡惟庸・藍玉の獄(胡藍之獄)

洪武二年(1369年)から洪武二十六年(1393年)にかけての、丞相胡惟庸と大将藍玉をめぐる二大粛清を扱う。劉基は胡惟庸を宰相の器でないと評したが用いられ、惟庸は権を専らにして劉基を陥れ、李善長・陸仲亨らを引き入れ、倭や元と通じて謀反を企てた。洪武十三年に発覚して誅され、中書省と丞相が廃されて六部・五軍都督府の体制に改められ、株連は一万五千人に及んだ。のち藍玉が雲南・捕魚児海などで大功を挙げながら驕慢となり、洪武二十六年に謀反を告発されて磔となり、連座は二万人に達した。李善長も洪武二十三年に自ら縊れ、王国用がその冤を訴えている。

年表(10件)

洪武二年 冬十月(1369年)— 劉基の人物評

  • 太祖は楊憲を丞相にしようとして劉基に問うた。基は日ごろ憲と親しかったが、不可とした。太祖が怪しむと、基は言った。「憲には宰相の才はありますが宰相の器がありません。宰相たる者は心を水のように保ち、義理を秤として自分を交えぬものです。今、憲はそうではない。敗れずにおれましょうか」。
  • 太祖が「汪広洋はどうか」と問うと、基は「これは狭く浅い」と答えた。「胡惟庸はどうか」と問うと、「小牛にすぎません。轅をひっくり返して犁を壊すでしょう」と答えた。
  • 太祖が「私の宰相は先生に勝る者がない」と言うと、基は答えた。「臣は自分を知らぬのではありません。臣は悪を憎むことが深すぎ、また煩雑な事務に堪えません。務めれば大恩に背きます。天下に才を欠く憂いはありません。明主が心を尽くして求められますよう。目下の諸人については、臣はまことに可とすべき者を見ません」。

洪武六年〜八年(1373年〜1375年)— 胡惟庸の登用と劉基の死

  • 六年秋七月、胡惟庸を中書左丞相とした。
  • 八年夏四月、誠意伯の劉基が死んだ。太祖が胡惟庸を相としたとき、基は大いに憂えて「私の言葉が外れれば蒼生の福だ。当たったなら蒼生をどうしよう」と言い、憂憤して病を重くした。
  • 基はかつて太祖に甌閩の事を陳べた。甌と閩の間に淡洋という空き地があり、その南は閩の境に至る三魁といい、塩の密売賊の巣で、方氏の乱もそこから起こった。基はその地に巡検司を立てて扼するよう奏した。姦民はこれを不便として、逃亡した戍卒を語らって叛き、有力者がひそかにその奥を握った。
  • 基は子の璉に上書して奏させたが、先に中書省に告げなかった。惟庸はもとより基を恨んでいたので、刑部尚書の呉雲に弾劾させた。「淡洋は山海に拠って王気がある。基は墓地にしようと図り、民が与えなかったので巡検司設置の策を立てて人を窘め、変を激発させた」と。
  • 疏が入ると太祖は有司に下し、惟庸は重刑を加えるよう請い、また基の子・璉を獄に逮捕しようとした。太祖はいずれも問わず、ただ文書を移して基に知らせた。
  • 基は馳せて入朝し、太祖に会ってあえて弁明せず、ただ咎を引いて自ら責めるだけで、帰郷したいとも言わなかった。
  • まもなく病を得た。惟庸は太祖が基への思いを緩めたのを見て、表向き好意を装い、正月朔に医者を伴って見舞いに来た。基は薬を飲むと胸中に拳ほどの石が積もったような感覚を覚え、しばらくして太祖に告げたが、太祖は取り合わなかった。
  • さらに三か月して重篤となり、使者を送って様子を問わせ、起てぬと知って駅船で青田へ護送させた。まもなくついに死んだ。

洪武十三年 春正月(1380年)— 胡惟庸の専横と謀反

  • 左丞相の胡惟庸が謀反して誅に伏した。楊憲と汪広洋が失脚して以来、惟庸は中書の政を総べ、生殺・黜陟を専らにして威福をほしいままにした。内外の諸司が封事を奏上すると、惟庸が先に取って見、自分に不都合なものは隠して報せなかった。そのため出世を求める徒がその門下に集まった。
  • 魏国公の徐達はその奸邪を深く憎み、しばしば太祖にそれとなく述べたので、惟庸は恨んだ。達の門番に福寿という者があり、惟庸はひそかに誘って自分の用に使おうとしたが、福寿に暴露された。
  • 惟庸はもと寧国県令から身を起こした。当時、太師の李善長が政を執っており、惟庸は善長に黄金二百両を贈って召され、太常卿となり、中書参政に累遷した。そして善長と深く結び、兄の娘を善長の甥・李祐に嫁がせた。賄賂を貪り権を弄び、いよいよ憚るところがなくなった。
  • ある日、その定遠の旧宅の井戸から突然、竹の笋が生え、水面から数尺伸びた。追従する者は争って丞相の瑞応と言い、また祖父三代の墓の上に夜、光が天を照らすと言った。ここで惟庸はやや自負して邪な謀を抱くようになった。
  • 折しも惟庸の家人が不正な利を得ようとして関所で関吏を罵り辱め、吏が奏した。帝は怒って家人を殺し、惟庸は知らなかったと謝した。帝はさらに故誠意伯(劉基)の死の状況を追及した。惟庸は恐れ、露見しそうだと見て考えた。「主上は勲旧の臣を草のように扱う。私は死ぬだけだ。先に事を起こすに越したことはない。人に手を束ねられて黙って終わってなるものか」。
  • 当時、吉安侯の陸仲亨と平涼侯の費聚がしばしば法を犯し、帝に厳しく責められて恐れていた。惟庸はひそかに権と利で脅し誘い、二人はもともと愚直で勇があり、惟庸が権を握っているのを見て往来し、次第に親密になった。
  • 惟庸は御史大夫の陳寧と省中に坐して天下の軍馬の名簿を閲し、都督の毛驤に衛士の劉遇宝および亡命者の魏文進らを取らせて腹心とし、「私にはお前たちを用いる所がある」と言った。
  • 太僕寺丞の李存義は善長の弟で、惟庸の婿の父である。親族の縁で惟庸の家に往来した。惟庸は存義にひそかに善長を邪な謀に誘わせた。
  • 惟庸はまた指揮の林賢を海に下らせて倭軍を招き、期日を約して会そうとし、また元の臣・封績を遣わして書を送り元に臣を称して外応の兵を請うた。いずれもまだ発していなかった。
  • 折しも惟庸の子が馬に乗って荷車に突っ込んで死に、惟庸は車を引いていた者を殺した。太祖は怒ってその死を償わせようとし、惟庸の逆謀はいよいよ急となった。
  • そのころ日本の貢使がたまたま私的に惟庸に会った。惟庸はその王と約し、舟に精兵千人を載せて貢使を装わせ、期日に府中の力士と会して掩襲・捕縛し、帝の位が取れるなら取り、取れなければ庫の物を掠めて海を渡って日本へ行くという約定を結んだ。
  • 正月戊戌、惟庸は偽って邸の井戸から醴泉が出たと言い、帝の行幸を請うた。帝は許し、駕は西華門を出た。内使の雲奇が行幸の道に飛び出して馬の轡を押さえ、事情を告げようとしたが、気が逸って舌が回らず意を伝えられなかった。
  • 太祖はその不敬に怒り、左右が乱れ打ちにした。雲奇は右腕が折れんばかりで死にかけながら、なお賊臣の邸を指さし、痛みで縮こまらなかった。太祖は悟り、城に登ってその邸を望むと、二重の壁の間に兵を隠し、刀と槊が林立していた。
  • 直ちに羽林を発して掩捕し、拷問して自白を得、市で磔にした。あわせてその党の御史大夫・陳寧、中丞の塗節らがみな誅に伏した。僚属や一党で連座した者は一万五千人、株連は甚だ多かった。
  • 群臣が李善長・陸仲亨らの誅を請うたが、太祖は言った。「朕が挙兵した当初、李善長が軍門に謁して『天があり日がある』と言った。その時、朕は二十七歳、善長は四十一歳で、言うことの多くが我が意に合ったので書記を掌らせ計画を助けさせた。功成って上公に爵し、娘をその子に嫁がせた。 陸仲亨は十七歳のとき父母兄弟をみな失い、乱兵に掠われるのを恐れて一升の麦を持って草の間に隠れていた。朕はこれを見て『来い』と呼び、そのまま朕に従った。長じて功により侯に封じた。いずれも我が挙兵当初の股肱・心膂である。朕は罪するに忍びない。問うな」。
  • 癸卯、中書省を廃し、六部の官秩を上げ、古の六卿の制に倣うよう詔した。大都督府を中・左・右・前・後の五軍都督府に改めた。
  • 祖訓に言う。「古来、三公が道を論じ六卿が職を分かった。丞相を設けたとは聞かない。秦から始まり、丞相を制してすぐに亡んだ。漢・唐・宋には賢相もあったが、その中に小人が多く、権を専らにして政を乱した。今、丞相を廃し、五府・六部・都察院・通政司・大理寺などの衙門を設けて天下の庶務を分理させ、事はすべて朝廷が総べる」。

洪武十三年 十二月(1380年)— 宋濂の連座

  • 致仕した学士承旨の宋濂が、孫の慎が胡惟庸の党に坐して刑を受け、家を没収され、枷をはめて京へ送られた。太祖は怒って誅そうとしたが、皇后が諫めた。「民間で一人の師を招いても終始、恭敬を忘れません。宋先生は親しく太子と諸王を教えました。どうして殺すに忍びましょう。しかも宋先生は家に居るのに、朝廷の事を知りえましょうか」。太祖の意は解け、濂は茂州に配流されることになったが、夔州まで来て病死した。

洪武十四年 春二月(1381年)— 浦江鄭氏の兄弟

  • 浦江の鄭氏が胡惟庸と通じていると訴える者があった。当時、四方で仇怨から告発し合い、胡党と指名された者はみな重い獄に連座させられた。
  • 鄭氏は日ごろ孝義で聞こえ、兄弟六人がいた。吏の捕縛が急なので、諸兄が争って自分が行こうとした。弟の鄭湜は「弟がいながら諸兄を刑辟に遭わせられようか」と言い、独り吏のもとへ赴いて自ら行くことを願い出た。
  • 次兄の鄭濂は先に京師で用があり、弟が着くと迎えて「我が家は年長者が罪を負うべきだ。弟は関わるな」と言った。湜は「兄は老いている。私が行って弁明する。万一それが通らなければ、私が罪に伏す」と言い、二人は争って獄に入ろうとした。
  • 太祖はこれを聞いて二人とも朝廷に召して労い励まし、近臣に「これほどの人物が、人に従って悪事をなすものか」と言い、そのまま赦した。湜を福建布政司参議に抜擢した。

洪武二十三年 夏五月乙卯(1390年)— 李善長の死と王国用の上書

  • 太師の李善長が自ら縊れて死んだ。虞部郎中の王国用が上書して冤を訴えた。その要旨。
  • 「人情として、その子を愛するのは必ず兄弟の子を愛するより甚だしいものです。善長にとって胡惟庸は甥の親しみにすぎませんが、陛下に対しては子の親しみです。仮に善長が惟庸を助けて事を成しても、勲臣の第一に過ぎず、太師・国公、男は公主を娶り女は妃となる、それだけのこと。 しかも善長がどうして天命を僥倖で求められぬと知らぬはずがありましょう。元の末、それをしようとした者がどれほどいたか。いずれも家系が絶え宮は汚され首領を保てなかった。善長がよく見てきたことです。 人は年を重ねれば精神も意慮も奮い立つのに倦みます。安逸を偸み世に迎合する、それが善長にはあった。血気の強暴がその胸中を動かしたなどと言えましょうか。 しかも善長は子として陛下に仕え、骨肉に託して細かな嫌隙もありません。およそこうしたことを企てる者には必ず深い仇か急な変事があり、大いにやむを得なくなって初めて父子の間でも互いに抱き込んで禍を逃れようとするものです。平生穏やかで全く形跡もないのに、突然この謀を起こすなどということは、理として絶対にありえません。 もし天象が変を告げ、大臣が災に当たるというので人を殺して天象に応じたというなら、それが上天の意でしょうか。今、不幸にして既に刑を誤りました。臣が懇ろに陛下のために明かすのは、なお陛下が将来の戒めとされることを願うからです。天下の誰が『功は李善長ほどでも、なおあのとおりだ』と言わずにおりましょう。臣は四方の人心が離れることを恐れます」。
  • 返答はなかった。国用の疏は解縉が代わりに草したものである。
  • 刑部に命じて逆党粛清の事を天下に告げさせた。韓国公の李善長、列侯の胡美・唐勝宗・陸仲亨・費聚、既に死んだ侯の顧時・陳徳・華雲龍・王志・楊璟・朱亮祖・梅思祖・陸聚・金朝興・黄彬・薛顕、都督の毛驤・陳万亮・耿忠・於琥、合わせて二十人である。
  • 二十五年秋八月丙子、靖寧侯の葉昇が胡惟庸と通じた罪で誅に伏した。

洪武十一年 秋八月(1378年)— 藍玉の登場

  • 西平侯の沐英を征西将軍として都督の藍玉らを統べさせ、兵を率いて西番を征させた。
  • 玉は開平王・常遇春の妻の弟である。長身で顔が赤く、勇略があり、遇春の麾下に従うたびに先登して陣を陥れ、当たるところ前に敵なしだった。遇春は日ごろ太祖に称え、太祖も遇春の縁で特に寵遇し、功を重ねて都督僉事に至った。
  • ここに至って英とともに西番を討ち、その渠帥・癭脖子を捕らえ、斬獲は千を数え、馬二万余匹、牛羊十余万を獲て帰り、永昌侯に封じられた。

洪武十四年〜二十一年(1381年〜1388年)— 藍玉の武功と驕慢

  • 十四年秋九月、永昌侯の藍玉を征南副将軍として潁川侯の傅友徳とともに雲南を討たせ、転戦して平定した。
  • 二十年春正月、永昌侯の藍玉を右副将軍として宋国公の馮勝とともに金山を襲い、ナクチュを降し、あわせてその衆十余万を降した。勝は過誤により召還され、そのまま軍中で玉を大将軍に拝した。
  • 二十一年夏四月、大将軍の藍玉が捕魚児海を襲い、元主の次子ジボヌ、后妃・公主ら百三十余人、呉王ドルジら将相・宮校三十人、男女七万、馬・駱駝五万を獲た。太祖は大いに喜び、璽書を下して玉を褒め、衛青・李靖に比した。
  • 秋七月戊寅、大将軍の藍玉が人を送って元主の次子ジボヌと后妃・公主らを京へ送った。まもなく玉が元主の妃を私したと言う者があり、太祖は大いに怒って「玉の無礼はこれほどか。大将軍のすることではない」と言った。元主の妃はこれを聞いて恐れて自尽した。玉が帰朝すると太祖は厳しく責め、徳に率い行いを改めるよう戒めた。
  • 十二月壬戌、永昌侯の藍玉を涼国公に封じた。先に梁国公に封ずるつもりだったが、涼に改め、その過失を証書に刻んだ。

洪武二十三年〜二十五年(1390年〜1392年)— 藍玉の各地遠征

  • 二十三年春正月、西番の蛮人が再び叛き、涼国公の藍玉に都指揮の瞿能を率いて大渡河で迎え撃たせた。玉は嵓川・雑道を討ち平らげ、散毛峒を克って土目の刺惹ら一万余人を捕らえ、大水田千戸所を置いた。進んで施南・忠建の二宣撫司の叛蛮を平らげて帰り、歳禄を増され、黄金と文綺を賜り、まもなく詔して帰郷させた。
  • 二十四年冬十月、涼国公の藍玉を陝西へ遣わして軍士を訓練させた。
  • 二十五年夏四月、涼国公の藍玉が逃賊のキジスンを捕らえ、そのまま西番の罕東の地を攻略した。玉の兵が罕東に入り、都督の宋晟を遣わして阿真州を攻略させたが、番衆はみな遠く逃げた。
  • 折しも蜀の旧降将・イレ・テムルが建昌で叛いたので、玉に軍を移して討たせた。着いたときには裨将の瞿能が既にその衆を大破しており、イレ・テムルは柏興へ逃げた。玉は計略でその父子を誘って縛り、京師へ送って斬り、その余党をすべて降した。便宜として諸衛の増設を請い、また民を兵籍に入れることを請うた。太祖は諸衛の設置は許したが民の兵籍化は許さず、玉は凱旋した。

洪武二十六年 春正月乙酉(1393年)— 藍玉の誅殺

  • 涼国公の藍玉が謀反して誅に伏した。もともと胡惟庸が叛いたとき、玉もその謀に加わっていたと言う者があったが、太祖はその功が大きいので赦して問わなかった。のち老将の多くが没したので、大将に抜擢し総兵として征伐させ、甚だ太祖の意に適った。かつて陝西の辺事を処置し、蘭川で落馬してわずかに手を傷つけたとき、詔を下して慰労し、中山王(徐達)・開平王(常遇春)の二王に比した。
  • しかし玉は日ごろ学ばず、性はまた強情で、太祖の厚遇を見、また自ら功績を恃んで専恣横暴となった。荘園の奴僕や仮子を数千人抱え、出入りに勢いに乗じて漁り、東昌の民田を占拠して民が訴え、御史が調査に来ると、玉は御史を捕らえて打ち据えて追い払った。
  • 先に北征から戻る際、珍宝や駱駝・馬を数知れず私し、喜峰関を渡るとき、関吏が夜だからと即座に通さなかったので、玉は大いに怒り、兵を放って関を壊して入った。太祖はこれを聞いて不快とし、あわせて元主の妃を私したことを詰責したが、玉は無頓着で顧みなかった。
  • 太祖に会って座を賜り、あるいは宴に侍っても、玉の挙動は傲慢で人臣の礼がなかった。総兵として外にあれば擅に将校を昇降させ、軍士に黥刺し、はなはだしきは詔に違って出師し、ほしいままに威福をふるって部下を脅した。
  • ここに至って西征から帰り、爵位の昇進を望んだが、太傅に任じられると、玉は袖をまくって大言した。「私はもとより太師であるべきではないか」。常に不平を抱き、宋国公・潁国公の下に居ることを不満とした。時に奏事しても太祖が従わないと、玉は恐れて退き、親しい者に「主上は私を疑っている」と語った。
  • そこで謀反を企てた。当時、鶴慶侯の張翼、普定侯の陳桓、景川侯の曹震、舳艫侯の朱寿、東莞伯の何栄、都督の黄恪、吏部尚書の詹徽、侍郎の傅友文および玉の部将だった諸武臣を、玉は親信を遣わして召し、朝晩、私邸で会して謀議し、士卒と家奴を集めて甲を伏せ、変を起こそうとした。
  • 約束が定まったところで錦衣衛指揮の蔣瓛に告発された。群臣に訊問させて事実が明らかとなり、市で磔にし三族を滅ぼした。列侯・功臣、文武の大吏から偏将・裨将・士卒に至るまで、党として死罪に論じられた者は二万人ほど、蔓延は胡惟庸の獄をしのいだ。
  • 三月辛酉、会寧侯の張温、都督の蕭用、瀋陽侯のチャガンが藍玉の党に坐して誅に伏した。
  • 九月、胡党・藍党のうち既に捕らえて官にある者を除き、まだ発覚していない者は追及せぬよう詔した。

史論(谷応泰曰)

  • 昔、太公は封域を賜って南は穆陵に至り、鬻熊は封を論じて江漢を有した。ゆえに土田と圭瓚を景鐘に勒し、彤弓と盧矢を太常に銘して、功臣を王として分かち永くその世を保たせた。まことに盛んな典礼である。
  • ところが漢の高帝は馬を殺して盟いながら韓王信・彭越らを鑕に伏させ、闔閭は国に誓いながら伍子胥に属鏤の剣を与え、介推を綿上に遺し、文種を地下で試した。弓を蔵し鳥を尽くすとは、まことに悲しむべきである。
  • 明の太祖は中原に力戦し、自ら甲冑をまとい風雨に晒された。茅土(封建)の爪牙に頼り、戈を枕に鼓を臥せ、林間の虓虎のような猛将を借りた。洪武三年に武成を大いに告げ、功を論じ賞を行い、公爵十人、侯爵二十八人、鉄券丹書を白水河に誓い、山を帯とし砥石とするまで苗裔にも及ぼした。主君に労なき賜与はなく、臣にも功なき俸はなかった。
  • それがどうして、惟庸は二重壁に兵を蔵し、藍玉は家奴に甲を着けさせ、張敖の不軌が漢祖を柏人で脅かし、桓温が兵を称して黄鬚を姑孰に追ったようなことになり、ついに五等の爵を除かれ、禍が三族に及んだのか。
  • しかしその始まりを推せば、胡は邪佞で鼎の耳に昇り、藍は寵と利で成功に居座った。学ばず術なく、器は小さく任は重い。及ぶべくして及んだのである。
  • 論者は、光武帝が功臣を保全し、封じたのは大県数か所を超えず、加えたのは特進・朝請にすぎなかったから、君臣の恩が終始変わらず、鹿鳴・天保の詩のように魚と水のようであったという。
  • しかし私が太祖の分封を考えるに、最も尊貴な者でも韓国公が食禄四千石、魏国公が食禄五千石で、土地を裂いて自ら王とさせたことはない。任用も、出師は廟算に本づき、還軍すれば禁旅に帰し、征伐を専らにさせたこともない。
  • こうして内を安んじ外を攘い、勢いは犬の牙のように噛み合い、幹を強くし枝を弱くしていた。制御に何の難しさがあろう。それなのに一人の跋扈で尾大の図を疑い、慌てて機を開き、明らかでない事に付会して株連は四万、侯を失った者は二十。周勃の獄のような深文もこれほど惨くはない。
  • 淮陰侯や陽夏侯の場合は、たとえ関与していたとしても、彭越の家臣・欒布のように罪が及ばぬ道理もあった。まして下級役人の子孫は次第に衰え、酎金の令で順に削られていく。朝に盟府に登り、夕に檻車に繋がれ、口の血も乾かぬうちに罪状が擬されるということがあろうか。
  • そのために善長は自ら縊れ、宋濂(景濂)は道中に死に、蕭何は三木の刑具で徴され、蕭望之は毒を仰いで自殺した。功を尚ぶ典礼は斉侯に設けられず、功を議する条は周礼に載らなかったのか。
  • とはいえ、高帝の晩年、甘露や慶雲がたびたび冊に書かれる一方で醴泉の詐りが起こり、爵を貶め封を削る令を外に告げる一方で伏甲の謀が起こった。胡・藍の釁は、やはり鳳徳の衰えでもあった。
  • 徐中山(徐達)の忠志に瑕なく、李岐陽(李文忠)の学を好み行いを飭え、湯信公(湯和)の命を聴くこと謹み、沐西平(沐英)の貴に居て驕らなかったこと。いずれも龍の鱗に攀じて功があり、虎の尾を履んでも噛まれなかった。ああ、畢公・散宜生の徒と烈を争うものである。