明史紀事本末太祖、滇を平定する(太祖平滇)
洪武五年(1372年)から洪武三十一年(1398年)までの27年間、元の梁王が拠る雲南の平定と、その後の統治確立を扱う。太祖は王褘・呉雲を使者として招諭したが二人とも殺されたため、洪武十四年に傅友徳・藍玉・沐英を派遣した。白石江でダルマを破って曲靖を落とすと梁王バザル・ワルミは滇池に投じて死に、百余日で雲南は下った。続いて大理の段世を捕らえ、布政司・都司や府州県を置き、烏撒・東川・越州の再叛や楊苴の乱、定辺での思倫発の象軍を沐英が破って鎮めた。沐英は屯田と学校で滇を楽土とし、その死後も子の春・何福が平緬の刁幹孟を平らげて決着した。
年表(20件)
- 洪武五年 春正月癸丑— 雲南への詔諭と沿革1372年王褘に詔を持たせて雲南の梁王を諭させる
- 洪武六年 冬十二月— 王褘の死1373年王褘が元使トクトに屈せず殺される
- 洪武七年〜八年(〜1375年)— 呉雲の死1374年呉雲も使者として送られ、鉄知院らに殺される
- 洪武十四年 秋九月壬午— 雲南征討の発令1381年傅友徳・藍玉・沐英に雲南征討を命じ進軍路を授ける
- 洪武十四年 十二月— 白石江の戦いと曲靖の平定1381年白石江でダルマを破り曲靖を平定する
- 洪武十四年 十二月— 梁王の自死と雲南入城1381年梁王バザル・ワルミが滇池に投じて死に藍玉らが入城する
- 洪武十四年 十二月— 烏撒の攻略1381年郭英と傅友徳がシバオを破り烏撒に築城する
- 洪武十五年 春正月〜二月— 官制の整備1382年貴州都指揮使司・雲南都司・布政司を置いて統治を敷く
- 洪武十五年 閏二月— 大理の攻略と雲南の平定1382年藍玉・沐英が下関を破り段世を捕らえて大理を取る
- 洪武十五年 三月〜四月— 統治体制と再叛1382年府州県を改定し賦税を定めるが烏撒・芒部が再び叛く
- 洪武十五年 秋七月〜八月— 烏撒の平定1382年沐英と傅友徳が烏撒の衆を大破して平定する
- 洪武十五年 九月— 楊苴の反乱と雲南城の防衛1382年楊苴が二十万で雲南城を囲むが馮誠と沐英が破る
- 洪武十六年 春二月〜夏四月— 論功と班師1383年傅友徳・藍玉が凱旋し沐英が残って鎮守する
- 洪武十七年 秋八月〜冬十月1384年平緬の思倫発が元の印を差し出して朝貢する
- 洪武十八年〜二十年(〜1387年)— 沐英の治績と平緬の侵入1385年沐英が貢額と屯田を整える一方、思倫発が景東を侵す
- 洪武二十一年 春正月〜三月— 定辺の象戦1388年沐英が火銃三段撃ちで思倫発の象軍を定辺で破る
- 洪武二十一年 夏六月〜九月— 東川・越州の反乱1388年東川の蛮と越州の阿資が叛き傅友徳らが討つ
- 洪武二十二年— 阿資の降伏と平緬の帰順1389年阿資が窮して降り、思倫発も貢を納めて百夷が平らぐ
- 洪武二十五年 夏六月丁卯— 沐英の死1392年沐英が没し黔寧昭靖王を追封され子の春が嗣ぐ
- 洪武二十八年〜三十一年(〜1398年)— 平緬の再乱と平定1395年刁幹孟の叛乱を沐春と何福が討ち平緬が定まる
洪武五年 春正月癸丑(1372年)— 雲南への詔諭と沿革
- 翰林院待制の王褘に詔を持たせて雲南に諭させた。
- 雲南は古の滇池の地で、南は交趾を制し、北は土蕃に接し、西は諸甸を擁し、東は曲靖を門戸とする。蜀・黔と土地が入り組み、麗江・松潘・烏蛮・霑益は犬の牙のように交錯している。
- 戦国時代、楚の威王が将軍・荘蹻に兵を率いて長江をさかのぼらせ、巴蜀・黔中を攻略して西の滇池に至り、兵威で楚に属させた。帰って報告しようとしたが、折しも秦が楚を撃って巴・黔の道が塞がったので、その衆を率いて滇に王となり、服装を変えてその俗に従って治めた。
- 漢の武帝元狩元年、彩雲が南方に現れ、使者を遣わして跡を追わせると洱河から起こっていたので雲南郡を置き、滇王に入朝を諭した。宣帝は王褒を遣わして金馬・碧鶏の神を求めさせた。
- 蜀漢の建興三年、諸葛亮が南征して雍闓を斬り、その渠帥・龍祐那を部長に封じて張姓を賜った。次第に山林を去って平地に移り住み、城邑を建て農桑に務め、諸部はここに初めて姓氏を持った。
- 隋の開皇年間、史万歳に破られた。唐の武徳・貞観の間に張氏が弱まって蒙氏に位を譲り、南詔と号した。天宝七年、閣羅鳳が叛いて節度使の鮮于仲通を西洱河で破った。
- のち段氏がその地を有した。段氏の先は武威郡の人で、国号を大理と改めた。宋の太祖が立つと王全斌が四川を下し、大理を取ろうと請うたが、太祖は唐の禍を鑑として玉斧で大渡河に線を引き、「これより外は我が有ではない」と言った。これにより雲南は兵を被らず、段氏は長く世を保った。
- 元の世祖は臨洮から大渡河を過ぎ、山谷二千里を経て金沙江に至り、革の袋に乗って渡り、段興智を捕らえてその国を滅ぼした。子のフトゥチュを雲南王として鎮めさせ、なお段氏の子孫を記録してその王を守らせた。フトゥチュが死ぬとその子・松山を梁王に封じた。至正の時、バザル・ワルミが位を嗣ぎ、明玉珍が一度攻めたが克てなかった。太祖は夏を平らげてから使者を遣わして諭したのである。
洪武六年 冬十二月(1373年)— 王褘の死
- 詔使の王褘が雲南で殺されたと報じられた。褘は雲南に着くと元の梁王の君臣に会い、版図を奉じて職方に帰すよう諭したが、梁王は取り合わず、別室に泊まらせた。
- 数日後、褘はまた言った。「私は命を受けて遠来したが、我が身のためではない。朝廷は雲南の百万の民が兵刃に殲滅されるのを望まぬのだ。元の綱紀が解け、陳友諒が荊湖に、張士誠が呉会に、陳友定が閩関に、明玉珍が巴蜀に拠ったが、天兵が下って四、五年経たぬうちに悉く斧鉞の血糊となったのを聞かぬのか。ただ元君だけが北へ走って死に、ココ・テムルの一党は降るか逃げるかで、武を用いる地もなかった。この時に当たり、先に服す者は賞され、後から来る者は誅される。今、自ら勇悍強獷を任じても、陳・張と比べてどうか。土地と甲兵は中国と比べてどうか。天の廃するものを誰が興せようか。そうでなくとも、皇上が一将軍に龍驤百万を率いさせて昆明池で会戦すれば、あなたがたは釜の中で泳ぐ魚も同然、亡びずにいられようか」。
- 梁王の君臣は顔を見合わせて驚き服し、かなり降る意を持った。褘の宿を改めて厚遇した。
- 折しも元の太子が沙漠で自立し、使者トクトを西番から遣わして雲南に糧を徴し、兵を連ねて我が方を拒もうと謀った。トクトは梁王に二心があると察知し、朝使を迫って殺させて意を固めさせようとした。梁王はどちらとも決められず、褘を民間に隠した。トクトはこれを聞いて梁王をなじった。「国家が顛覆したのを救えず、逆に他人に附こうというのか」。馬に乗って去ろうとしたので、梁王はやむを得ず褘を出してトクトと会わせた。
- トクトは褘を屈服させようとしたが、褘は罵った。「天命はお前たち元に尽きた。我が朝が実にこれに代わったのだ。消えかけた火の残り燼が、なお日月と光を争おうというのか。私は命を受けた使臣、どうしてお前に屈しようか」。そして梁王を顧みて「お前が朝に私を殺せば、夕には大兵が至る」と言った。ついに殺され、地蔵寺の北に葬られた。
- 褘には王佐の才があった。太祖はかつて「私はもとより浙東に二人の儒者があると知っている。卿と宋濂だ。学問の博さでは卿は濂に及ばぬが、才思の雄大さでは濂は卿に及ばぬ」と語った。のち子の紳が雲南へ赴いて遺骸を求めた。翰林学士を贈り、文節と諡した。
洪武七年〜八年(1374年〜1375年)— 呉雲の死
- 七年秋八月、元の威順王の子・ババイに詔を持たせて雲南に諭させた。
- 八年秋九月、湖広行省参政の呉雲を雲南に使いさせた。太祖は雲に諭した。「今、天下は統一され四方は服したが、ただ雲南の一隅だけが正朔を奉じていない。朕は兵で取ろうと思うが、師を労し財を費やして我が民を重ねて傷つけることを恐れる。卿は朕のために陸賈となれるか」。雲は「雲南はその険と遠さを恃んで声教を阻んでいます。臣が陛下の威徳を奉じて禍福を説けば、彼は必ず順い附きます。もし頑迷に従わなければ、師を興すのはそれからでも遅くありません」と答えた。
- 当時、元の梁王がその臣・鉄知院ら二十余人を漠北へ使いさせたところ、徐達に捕らえられて京師へ送られていた。太祖は釈放して雲と同行させた。
- 雲南の沙糖口に至ると、鉄知院らは謀った。「我らは使命を受けながら果たせず、捕らえられて帰る。罪は必ず免れぬ」。そこで共に雲に迫って服を替えさせ、元の使者に偽装させ、制書を書き替えて梁王を欺こうとした。雲は従わず、鉄知院らは志を奪えぬと知って殺した。
洪武十四年 秋九月壬午(1381年)— 雲南征討の発令
- 潁川侯の傅友徳を征南将軍、永昌侯の藍玉と西平侯の沐英を副将軍として師を率いて雲南を征させた。列侯の曹震・王弼・金朝興、都督の郭英・張銓らがみな従った。
- 太祖は諭した。「雲南は昔から西南夷の地だが、漢に至って吏を置き中国に臣属した。今、元の遺孽バザル・ワルミらは険と遠さを恃んで使臣を害した。必ず討つべきである。 お前たちは行軍にあたり、その山川の形勢を知って進取をうかがえ。朕はかつて地図を見、衆に諮って、その要塞と攻略の計を得た。まず永寧から驍将を分遣して一軍で烏撒へ向かわせ、大軍は辰州・沅州から普定に入って要害を分け拠り、しかるのち兵を曲靖へ進めよ。曲靖は雲南の咽喉で、彼は必ずここに力を併せて我が師に抗する。形勢を審察して奇を出し勝を制するのはまさにここにある。 曲靖を下したら、三将軍のうち一人が兵を提げて烏撒へ向かい永寧の師に応じ、大軍はまっすぐ雲南を衝け。彼此を牽制して奔命に疲れさせれば必ず破れる。雲南を克ったら兵を分けてまっすぐ大理へ向かえ。先声が既に振るえば勢いは瓦解し、その他の部落は人を遣わして招諭すれば、兵を煩わさずに下る」。
- 出師にあたり太祖は龍江で餞し、旌旗は江を蔽ってさかのぼった。
- 丁未、傅友徳の師が湖広に至り、都督の郭英・胡海洋・陳桓らを分遣して兵五万で四川の永寧から烏撒へ向かわせ、友徳らは大兵を率いて辰州・沅州から貴州へ向かった。
洪武十四年 十二月(1381年)— 白石江の戦いと曲靖の平定
- 十二月辛酉、傅友徳は藍玉・沐英らを率いて普定に進攻して克ち、羅鬼・苗蛮・犵狫は風を望んで降った。普安に至ってまた攻め下し、兵を留めて戍守させ、曲靖へ進んだ。
- 元の梁王バザル・ワルミは明の師が普定を下したと聞き、司徒・平章のダルマに精兵十余万を率いさせて曲靖に屯して我が師を拒ませた。
- 右副将軍の沐英が傅友徳に言った。「彼は我が師が深入りして疲れていると考え、警戒心がない。倍の速さで急進して不意を突けば必ず破れる。主上のいわゆる『奇を出して勝を取る』とはこれです」。友徳は同意して師を進めた。
- 丙寅、曲靖まで数里の地点で突然、濃霧が四方を閉ざした。霧を衝いて進み、水に阻まれたと思ったら既に白石江に臨んでいた。まもなく霧が晴れ、ダルマは望み見て大いに驚き、慌てふためいた。
- 友徳はすぐ渡河しようとしたが、英は「我が軍は遠来で形勢は既に露見した。もとより速戦が有利だが、急に渡れば扼される恐れがある」と言った。そこで師を整えて流れに臨み、渡ろうとする構えを示した。ダルマが精鋭を尽くして水際を扼すると、英は別に数十人を下流からひそかに渡らせてその背後に出し、鉦鼓を鳴らし旗を立てさせた。ダルマは急ぎ衆を割いて防ぎ、陣が動いた。
- 英は剣を抜いて師を督して渡河した。勇猛で泳ぎの得意な者を先にやり、長刀と盾でその前軍を破った。敵の気は萎え、数里退いて陣を敷いた。我が師が渡り終えると、友徳は兵を指揮して迫った。矢石が放たれるや喚声が天地を動かし、数合の戦いののち英が鉄騎を放ってその中堅を衝き、敵衆は崩れて大敗した。
- ダルマを生け捕り、屍は十余里に横たわり、その衆二万を捕虜とした。友徳はみな撫して釈放し、それぞれ生業に帰らせた。蛮人は帰ってきた者を見てみな喜び安堵し、軍声はいよいよ振るった。かくて曲靖を平らげ、兵を留めてその地を鎮めさせた。
- 友徳は藍玉・沐英を分遣して師を率いて雲南へ向かわせ、自らは数万の衆で烏撒へ向かい郭英らの声援とした。
洪武十四年 十二月(1381年)— 梁王の自死と雲南入城
- 壬申、元の梁王バザル・ワルミはダルマの敗北を聞いて城を棄てて羅佐山に入った。その右丞・魯爾が曲靖から馳せ帰って「事は急です、どうなさるか」と言った。そこでバザル・ワルミは妻子を連れ、左丞のダダン・魯爾とともに普寧州の忽納砦に入り、その龍衣を焼き、妻子を駆り立ててともに滇池に赴いて死んだ。
- 癸酉、藍玉・沐英らの師が雲南の板橋に至り、元の右丞・観音保が出て降った。翌日、金馬山に駐兵すると、旧梁王の宦官エセン・テムルが金宝を持って献じ、諸父老が香を焚いて出迎えた。玉らは衆を整えて入城し、秋毫も犯さず、梁王の金印および宮府の符信・図籍を収めてその民を撫定した。
- 九月朔の出師から雲南を下すまで、わずか百余日だった。
- 藍玉は別に曹震・王弼・金朝興らに兵二万を率いさせて道を分けて臨安の諸路を取らせ、いずれも下した。沐英は兵を分けて烏撒へ向かい友徳と合流した。
洪武十四年 十二月(1381年)— 烏撒の攻略
- 先に都督の郭英らが永寧を出たが、路に険阻が多かった。諸将は深入りを望んだが、英は「敵を破るには先声が貴い。攻め取るには必ず近くから始めるべきで、近きを捨てて遠きへ走るのは上策ではない」と言い、兵で赤水河を攻め、河から二十里の地点に営した。
- 当時、長雨で水が急増していた。英は「賊は増水を恃んで我らが渡るとは思うまい」と言い、諸軍に木を伐って筏を造らせ、夜半に渡河した。夜明けに敵は気づき、大いに驚いて潰え、阿客指蛮を生け捕った。雲南の諸郡邑はみな震えた。
- ここに至って友徳は曲靖から師を率いて格孤山に沿って南下し、まっすぐ烏撒を衝いた。元の右丞・シバオは兵を収めて赤水河に屯し、郭英らを拒んでいたが、友徳の大軍が至ると逃げた。
- 友徳は烏撒に築城を命じた。版築の準備が整った頃、シバオが諸蛮を率いて再び大挙して集まった。友徳は高い岡に拠って厳しく陣を敷いて待った。諸将が戦いを請うても友徳はわざと許さず、士は争って奮い、死を尽くそうと思った。
- 友徳は使えると見て令した。「我が軍は深入りしており、進むのみで退けぬ。彼は一度逃げて再び来た。心は必ず一つでない。力を併せて戦えば必ず破れる。もし彼が険に拠って自ら固めれば、克ちがたくなる」。
- 進んで戦った。陣を敷くと芒部の土酋が衆を率いて援けに来てシバオと勢いを合わせて迎え戦った。我が師は駆け寄って数十合戦い、渠長の多くが槊に当たって落馬して死に、我が師はいよいよ奮った。蛮衆は大潰し、三千級を斬り、馬六百匹を獲た。シバオは残兵を率いて逃げた。
- かくて烏撒に築城し、七星関を得て畢節に通じ、さらに可渡河に進んだ。東川・烏蒙・芒部の諸蛮は震え上がり、みな風を望んで降附した。
洪武十五年 春正月〜二月(1382年)— 官制の整備
- 正月辛巳朔、元の威楚路平章エンナイ・マダイ、参政のレクジュ・ブハらが曹震の営に来て降った。
- 壬午、元の曲靖宣慰司行省枢密院同知のクレク、傅慰の高仁、廉訪司副使のボロ・フチャ、および中慶・武定・徴江の三路、嵩盟・晉寧・昆陽・安寧・新興・路南・建水の七州、昆明・富民・宜良・南甸・河陽・陽宗の六県のダルガチ・ジャムらの官がみな藍玉・沐英の営に来て降った。
- 丁亥、貴州都指揮使司を置き、平涼侯の費聚と汝南侯の梅思祖に司の事を代行させた。
- 甲午、使者を遣わして傅友徳らに諭した。「報せを得て雲南が既に克たれたと知った。しかし区画と布置にはなお計慮を要する。先に貴州都指揮使司を置いたが、雲南からはなお遠い。今、必ず都司を雲南に置いて諸軍を統べさせよ。土地と民がある以上、必ず布政使司および府・州・県を置いて治めよ。烏撒・烏蒙・東昌・芒部・建昌の地は、いっそう渠長を約束させ、兵を留めて守禦させ、民が兵刃を帯びるのを禁ぜよ。靄翠らを完全に服させなければ、雲南があっても守りがたい」。
- 金朝興の兵が澂江・臨安・沅江・尋甸・楚雄・洱海を攻略していずれも下した。宣慰司を廃し、臨安府および各府に十四衛を立て、雲南都指揮司を置いて都督の謝熊・馮誠に司の事を代行させた。
- 二月、雲南布政司を置き、中慶路を雲南府と改め、汝南侯の梅思祖と平章の潘原明に司の事を代行させ、張紞らを参政・参議などの官とした。
洪武十五年 閏二月(1382年)— 大理の攻略と雲南の平定
- 靄翠が京に至り、衣帽と鈔を賜って帰らせた。
- 藍玉・沐英らが兵を進めて大理を攻めた。大理城は点蒼山に倚り、西は洱海に臨んで堅固である。土目の段世は明の師の到来を聞いて衆を集め下関を扼して守った。下関とは南詔の皮羅閣が築いた龍尾関で、険要と称された。
- 玉らは品甸に至り、定遠侯の王弼に兵を率いさせて洱水の東から上関へ向かわせて犄角の勢とし、自ら衆を率いて下関に至って攻城具を造った。夜半、都督の胡海洋を石門の間道から出して河を渡らせ、点蒼山の背後を回らせ、木を攀じ崖を伝って登り、旗を立てさせた。
- 明け方、大軍が関下に至ってこれを望み、躍り上がって喚声を上げ、敵衆は驚き乱れた。英は士卒に先んじて馬を進めて河を渡り、水は馬の腹まで達したが、将士は誰も後れを取らず続き、関を斬り開いて入った。山上の軍もこれを見て下って攻め、敵は腹背に敵を受けて大潰し、その城を抜き、段世は捕らえられた。
- 兵を分けて鶴慶を取り、麗江を攻略し、石門関を破って金歯を下した。かくて車里・摩㱔・和泥・平緬などが相次いで降り、雲南はすべて平定された。
洪武十五年 三月〜四月(1382年)— 統治体制と再叛
- 三月、藍玉が兵を送って三営万戸砦を攻め抜いた。雲南所属を改定して府五十二、州六十三、県五十四とした。
- 傅友徳は使者を遣わして旧元の威順王の子ババイおよび梁王の家族三百十八人を京師へ送り、あわせて奏した。「雲南は元の世祖から今まで百余年、たびたび兵火を経て図籍が残らず、兵数を調べようがありません。ただ今の要害に応じて衛を設け戍守させるべきです。 賦税については、旧元の司徒・平章のダルマらが、元末に田土の多くが豪族に隠し占められたと言っています。今、元の旧制を踏襲すれば歳用が足りません。既に布政司に諸衛所を調べさせて軍食に充てさせましたが、なお不足の恐れがあります。今年徴収した糧、および旧官の院寺から官に入った田を土官の供輸と併せ、塩商の中納、戍兵の屯田の収穫も併せて給すべきです」。太祖はすべて許した。まもなく雲南塩課司を置いて軍費を増した。
- 夏四月、烏撒・東用・芒部が再び叛き、傅友徳は檄を移して沐英と兵を合わせて討った。西堡の蛮賊が普定を侵したが、貴州衛指揮同知の顧成が撃破した。
- 六月、大渡河守禦千戸所を置き、傅友徳は従征の千戸・呉中を兵を率いて守らせ、舟を造って渡河・往来させた。太祖はさらに使者を遣わして安陸侯の呉復、平涼侯の費聚に、征南三将軍と合流して烏撒・烏蒙・東川・芒部・磐石関・索嶺の諸蛮を攻めるよう諭した。
洪武十五年 秋七月〜八月(1382年)— 烏撒の平定
- 秋七月、沐英が大理から滇池へ軍を返し、傅友徳の兵と合流して烏撒に進攻し、その衆を大破して三万級を斬り、馬・牛・羊を万単位で獲た。残る衆は逃げたので、さらに兵を送って捕撃し、悉く平らげた。烏撒・烏蒙・芒部の三府は四川に近いとして四川布政司に属させるよう奏した。
- 八月乙巳、使者を遣わして傅友徳・沐英に諭した。「報せを得て、永昌侯が建昌に駐兵し、大軍が七月二十八日に既に烏撒を撃破し、順に林や藪の諸蛮を捜捕していると知った。しかしこの地は山が高く道が狭い。慎んで軽々しく動くな。 七星関から来た者が言うに、芒部・烏撒の蛮は夜に火を挙げて家を挙げて靄翠に入るという。使いが至れば、靄翠の民に彼らを縛って軍前に送るよう諭せ。その関索嶺は古道ではない。古道はさらに西北にある。大軍で踏み越えてこの道を開き、普定に接続させれば、芒部の渠長はすべて捕らえられる。将軍よ、よく図られよ」。
- さらに使者を遣わして諭した。「雲南の士卒は食に苦しんでいるのだから、分屯すべきではない。ただ赤水・畢節・七星関にそれぞれ一衛を置き、黒張の南・瓦店の北の中間に一衛を置け。こう分け守れば雲南の道路は往来に支障がなくなる。靄翠の地は必ず十万の衆を用いなければ定まらぬ。これらは朕の見た大概にすぎぬ。万里の外をどうして周く知れようか。将軍は便宜に自ら処置せよ」。
洪武十五年 九月(1382年)— 楊苴の反乱と雲南城の防衛
- 九月、傅友徳・沐英らが兵を分けて未服の諸蛮を攻め、指揮の馮誠に雲南を守らせた。諸蛮は大軍が出たので城の守りが手薄と見て、互いに煽り立てて叛いた。
- 土官の楊苴はとくに狡猾で、部下を欺いて「総兵は大軍を率いて帰った。雲南城は図れる」と言い、衆二十万を糾合して城下に会し、三十六営の兵を合わせて城を攻めた。
- 当時、城中は食に乏しく士卒に病人が多く、突然の来襲にかなり憂えた。馮誠は指揮の謝熊とともに孤軍で城に籠って拒み守り、楼櫓と戦具を備え、強弓・強弩を多く城上に置き、賊が来るたび射て、多くが弦に応じて斃れた。賊がやや怠るのを見て奇兵を出して撃ち、賊は攻めきれず、城を囲んで持久の計を立てた。
- 当時、沐英は烏撒に駐屯していたが、これを聞いて精騎一万余を選んで救援に来た。曲靖に至って、まず人をひそかに入城させて報せようとしたが賊に捕らえられた。その者は偽って「総兵官が大軍三十万を率いて到着した」と言い、賊は顔を見合わせて驚愕し、営を抜いて夜に逃げた。
- 安寧・羅次・邵甸・普寧・大祺・江川などに至って険に拠り柵を立て、再挙を図ろうとした。英が至って馮誠らと兵を合わせて剿捕し、六万余級を斬り、四千余人を生け捕り、諸部は再び定まった。誠は馮国用の子である。
洪武十六年 春二月〜夏四月(1383年)— 論功と班師
- 二月、傅友徳らが人を遣わして旧元の雲南右丞・観音保、参政のチョマン・ブハおよび渠長の段世ら百六十人を京へ送った。それぞれの家に衣服を賜り、観音保を金歯指揮使とし、李観の姓名を賜った。
- このころ友徳らは蒙化府・鄧川州を平らげ、仏光砦を破り、金沙江を渡って北勝府を攻め、その平章・高生を捕らえ、さらに麗江府・平津などの州を平らげ、降った蛮民は数十万戸に及んだ。
- 三月甲辰、太祖は雲南平定により耿炳文を遣わして傅友徳・藍玉らに凱旋を諭し、副将軍の沐英には数万の衆で残って鎮めさせた。
- 雲南の麓川の外に緬という国があり、車里の外に八百媳婦という国があり、いずれも内附を請うた。太祖はさらに大理指揮使司を置き、周能を指揮として兵を統べて守らせた。
- 五月、六安侯の王志、安慶侯の仇成、鳳翔侯の張龍に兵を督して雲南の尋甸などへ行かせ、城池を修め屯堡を立てて人民を安輯させた。
- 十七年三月、征南将軍の傅友徳と左副将軍の藍玉が凱旋した。友徳の雲南平定にあたり、太祖は前後に璽書数十を下し、万里の外を遠く判断してことごとく的中し、友徳は奉行してあえて誤らなかった。土地の風俗に応じて租賦を定め、学校を興し、戦死者の骨を葬り、屯田を広げたので、遠近が畏れ悦び、これによって大いに定まった。
- 夏四月壬午、雲南平定の功を論じ、傅友徳を潁国公に進封し、列侯の藍玉・仇成・王弼は子孫にも及ぶこととし、陳桓を普定侯、胡海を東川侯、郭英を武定侯、張翼を鶴慶侯とし、将校も順に差をつけて昇進させた。
洪武十七年 秋八月〜冬十月(1384年)
- 秋八月壬申、平緬宣慰使の思倫発が使者を遣わして方物を献じ、元から授けられた宣慰司の印を差し出した。
- 平緬は西南夷の中でもやや遠く、大理から金歯を越えてその地に至る。城郭・宮室があり、その人はみな高床に住み、地は象と馬を産する。官民はみな僧のように髪を剃り、出入りには象に乗る。前代には中国と通じたことがなく、元が初めて使者を送って招諭して入貢した。ここに至って大兵が金歯を下し、平緬と土地が接したので、思倫発は聞いて恐れ、ゆえに使者を送って朝貢したのである。
- 冬十月乙酉、景川侯の曹震が奏した。「四川から建昌への駅道が通る大渡河は、往来する人が瘴癘で多く死にます。父老に問うたところ、眉州の峨眉から建昌まで古い駅道があり、平坦で通行でき瘴毒の患いもないとのこと。既に四川の軍士に閑暇の時にその道を開通させました。温江から建昌までの各駅馬を峨眉の新駅に移すのが便宜です」。詔して従われた。
洪武十八年〜二十年(1385年〜1387年)— 沐英の治績と平緬の侵入
- 十八年春正月、東蘭州の韋富が乱を起こし、沐英が討ち平らげた。英は滇にあって土地の産物を測り、貢額を定め、民数に応じて力役を均しくし、雲南の民は安んじた。兵を分けて広西の維摩の残党を剪り、四川への糧道を通じた。太祖は喜んで「英がこうしてくれるなら、私は南を顧みる憂いがない」と言った。
- 冬十二月、思倫発が衆を率いて景東を侵し、馮誠が撃ったが不利で、千戸の王昇が戦死した。
- 十九年春二月、雲南の臻洞・西浦・擺金・擺榜の諸蛮が叛き、傅友徳に師を率いて討たせた。友徳はさらに兵を移して平越の蛮マハ・イマらを討って平らげた。
- 秋九月庚申、沐英が「雲南は地が広い。屯田を置いて軍士に開墾させ蓄えに備えるべきです」と奏し、詔して従われた。
- 二十年夏五月庚申、沐英らに勅諭した。「使者を平緬に遣わすな。ただ金歯・楚雄・品甸および瀾滄江中の諸道の塁を修めて固守して待て」。英は楚雄から景東まで百里ごとに一営を置き、兵を率いて屯種させて蛮賊に備えた。
- まもなく景川侯の曹震に四川の精兵を選んで雲南の尋甸に駐屯させ、普定侯の陳桓と靖寧侯の葉昇に雲南の諸軍を総制させ、定辺・姚安・畢節・曲靖・越州の諸処に駐屯して営を立て屯種させ、征討を待たせた。
洪武二十一年 春正月〜三月(1388年)— 定辺の象戦
- 正月、思倫発が侵入して摩沙勒に砦を結んだが、沐英は都指揮の寧正を遣わして撃破し、千五百級を斬った。
- 三月、思倫発は全軍、三十万と号し、戦象百余頭で再び定辺を侵し、摩沙勒の役の報復をしようとした。勢いは甚だ猖獗だった。
- 沐英は驍騎三万を選んで昼夜兼行、十五日で賊営に至り、塁を隔てて陣を敷いた。都督の馮誠を先に出して軽騎三百で挑ませると、賊は一万人で象三十余頭を駆り立てて迎え撃った。雲南前衛指揮の張因が騎卒五十余人を率いて前鋒となった。その渠帥が巨象に跨ってまっすぐ前に出ると、我が軍は矢を注いで連射し、矢が象の左膝と脇に当たって象は倒れ、渠長は矢に当たって逃げたが追って射殺した。諸軍は喚声を上げて前進し、賊数百人を殺し、象一頭を獲て帰った。
- 英は喜んで「賊は平らげるに足りぬ」と言い、軍中に令した。火銃と神機箭を三列に陣中に並べ、象が進んだら前列の銃と箭を一斉に発し、退かなければ次列が続き、なお退かなければ三列目が続く、と。
- 翌朝、軍を三隊に分け、馮誠にその前、寧正に左、都指揮の湯昭に右を領させた。将士はみな勇を鼓して進んだ。
- 賊は全軍で営を出て陣を組んで待った。その渠帥・把事の招綱らはみな象に乗り、象は甲を着せられ戦楼を負い、欄干のようなものの両側に竹筒を懸け、その中に短い矛を置いて撃刺に備えていた。
- 陣が交わると象の群れが突進してきた。我が軍が撃つと矢石が一斉に発せられ、声は山谷を震わせ、象はみな脚を震わせて逃げた。指揮の張因、千戸の張栄祖が騎士を率いて乗じ、まっすぐその柵を衝き、火を放って寨を焼くと、煙と炎が天に漲った。戻ってまた兵で迎え撃ち、殺傷は甚だ多かった。
- 賊党に昔刺という驍勇な者がいて、再び衆を率いて決死の戦いを挑み、我が左師はやや退いた。英は高みに登って望み、左右に「左帥の首を取ってこい」と命じた。左帥は遠くから一人が刀を抜いて騎を飛ばして下ってくるのを見て、衆を率いて進み直した。英は督戦をいよいよ厳しくし、三軍は大喝して激闘した。
- 時を移さず賊衆は大敗し、三千級を斬り、一万余人を捕虜とし、象三十七頭を生け捕った。その他は矢を受けて針鼠のようになって死んだ。渠帥の刁斯郎理はそれぞれ百余矢を受けて象の背で斃れ、残る賊は潰えた。英は師を率いて追撃し、賊は連日食を得られず死者が折り重なった。思倫発は逃げた。
洪武二十一年 夏六月〜九月(1388年)— 東川・越州の反乱
- 六月、東川の蛮が叛き、傅友徳を征南将軍、沐英と陳桓を左右副将軍、曹震と葉昇を左右参将として馬歩の諸軍を率いて討たせた。八月壬寅、沐英は都督の寧正を遣わして傅友徳に従って東川を討たせた。
- 九月、越州の土目・阿資が叛いた。阿資はもと囉囉種の苦麻部の土師である。南征の際、沐英がその地の湯池山に駐兵して降を諭していたが、ここに至って叛いた。
- 傅友徳らが兵を率いて討ち、道は平彝を通ったが、その山勢が峭険で阿資に近接しているので、その山民を移して早上村に居らせ、神策衛千戸の劉成らを留めて兵を駐め柵を立てさせた。のちにこれを平彝千戸所とした。
- 阿資らはさらに衆を率いて普安を侵し、府庁を焼いて大いに掠めた。友徳が進撃してその渠帥・満已青を斬った。
洪武二十二年(1389年)— 阿資の降伏と平緬の帰順
- 春正月、阿資は普安に退いて屯し、崖壁に倚って砦とした。傅友徳が精兵で迫ると、蛮衆はみな壁を伝い崖を攀じ、墜死する者は数知れず、千三百余人を生け捕った。阿資は越州へ逃げ帰った。
- 沐英は寧正を遣わして友徳に従い、阿資を越州で撃って大破し、その党の火頭・弄宗ら五十余人を斬った。
- はじめ阿資が逃げたとき、「国家に万軍の勇があっても、我が地には万山の険がある。どうして我らを滅ぼし尽くせようか」と大言した。英はそこで越州・馬隆の二衛を置いてその要衝を扼し、兵を分けて追捕することを請うた。阿資は窮迫して降った。
- 甲午、曹震・葉昇が兵を率いて分かれて東川の叛蛮を討ち、悉く平らげた。
- 冬十一月、思倫発が把事の招綱らを遣わして、叛逆の謀はみな部下の刁厮郎理の仕業であると言い、象・馬・白金を貢し、貢賦を納めたいと願い出た。百夷はかくて平らいだ。
- 二十四年冬十二月、沐英は阿資の叛服が定まらぬとして越州衛を陸涼に移して鎮めることを請うた。阿資はまた叛き、平羌将軍の何福が兵を督して討った。越州に至ると阿資は援けを絶たれて降り、福は険を扼して寧越堡を置いた。
洪武二十五年 夏六月丁卯(1392年)— 沐英の死
- 西平侯の沐英が雲南で死んだ。雲南は二十郡、左右に界を分かち、大江の東北を金沙、西南を瀾滄といい、いずれも海に入る。幅員は万里に及ぶ。
- 英は雲南を鎮め、官僚を簡選し、恵政を修め、姦悪と害虫を除き、学校を興し、水利を治め、田一百一万二千畝を墾いた。軍食は満ち足り、恩威は並び行われ、教化は大いに行われ、雲南はついに楽土となった。
- かつて入朝したとき奉天殿で宴を賜り、黄金と綵幣を賜った。辞去にあたり太祖は撫でて「私に枕を高くして南を顧みる憂いをなくさせたのはお前だ」と言った。
- 死後、黔寧昭靖王を追封し、その子・春に西平侯を襲封させて雲南に鎮めさせた。
洪武二十八年〜三十一年(1395年〜1398年)— 平緬の再乱と平定
- 二十八年春正月、雲南按察司を置いた。
- 秋九月、平緬の諸蛮の刁幹孟が叛いて宣慰使の思倫発を追い出し、倫発は京師に奔って訴えた。西平侯の沐春を征南大将軍、都督の何福と徐凱を左右副将軍として雲南・四川の兵を率いて討たせた。
- 冬十二月乙巳、思倫発を雲南へ帰らせ、怒江のほとりに駐まらせ、沐春に刁幹孟へ帰順を命じさせたが、主母(思倫発)に対して臣たることを拒んだ。
- 三十一年春二月、刁幹孟が入貢を請うた。
- 夏五月、西平侯の沐春が兵を進めて平緬を撃った。まず兵で思倫発を金歯へ送り、人を遣わして刁幹孟を諭したが従わなかったので、左軍都督の何福・瞿能らに兵五千を率いて討たせた。
- 福らは高良公山をよじ登り、まっすぐ南甸を衝いて大破し、その渠帥・刁名孟を殺し、斬獲は甚だ多かった。兵を返して景罕寨を撃ったが、寨は高みに拠り険を占めて堅守し、落ちなかった。官軍は糧も武器も尽き、賊の勢いはいよいよ盛んになった。
- 福は春に急を告げ、春は五百騎を率いて救援に赴き、夜に乗じて怒江に至り、翌朝そのまま渡って騎兵を寨の下で駆け回らせ、砂塵を上げて威嚇した。賊は高みから望んで塵が空を蔽うのを見、大軍が突然至ったと思って驚き恐れ、衆を率いて降った。
- 春は勝ちに乗じてさらに崆峒寨を撃ち、賊は夜に潰えて逃げた。刁幹孟は人を遣わして降を乞うたが、帝はその反覆を理由に許さなかった。まもなく春は病死し、何福が刁幹孟を討って捕らえ、思倫発はようやく帰れた。平緬はすべて定まった。
史論(谷応泰曰)
- 梁王は旧元の宗室として滇南に土地を分かたれ、国は亡び君は死んだが、蛮陲で様子見をしていた。その勢いは、隗囂が隴西で座して大きくなり、公孫述(子陽)が白帝で尊号を称したのとは違う。
- 大義のために自ら裁いて反顧せぬと誓うのであれば、北地王・劉諶が漢に殉じ、烏孫公主が隋を忘れなかったのと同じである。王褘を北寺に葬り、呉雲を沙塘で斬り、死は余闕に従い、生は危素に愧じた。討たれたのはやむを得ぬこと、節はこれで烈しい。
- もし大命が既に去り新主に帰したとして、天子は北門から出て中原を破れ草履のように棄て、孤臣は天の果てで丸泥をもって滄海を塞ぐこともできぬというなら、子嬰が軹道で降ったのがどうして秦を亡ぼしたことになろう。劉禅は長安で蜀を思う必要はなかった。臣を称して命に帰し、土地を納めて入朝すれば、頡利は灞上に塚を留め、突利は并州で老死したように、臣僕となる悲しみはあっても明哲保身の智である。
- ところが猶予して両端を持ち、去就に徘徊した。旌旗と船団が江を蔽って西上して初めて、平章に軍を開かせ、兵を曲靖に集めた。烏撒への師が永寧から分かれて出、普定の兵が専ら曲靖を攻め、大軍がまっすぐ雲南を衝き、偏師がさらに大理へ向かうことを知らなかった。朝廷には米を積んで地形を示す図があり、将帥は破竹の勢いを成した。釜の中の泳ぐ亡魂は、とうに太祖の掌中にあった。
- 慌てて敗報を聞き、六宮が逃げ出し、龍衣を宝殿で焼き、一門を駆り立てて滇池に死なせた。鼠のような輩がこうまで意地を張ったのはなぜか。あるいは魯仲連が秦を帝とするより東海を踏むと願い、田横が入朝の途上、客舎で自刎した志と同じか。
- 太祖の雲南平定は、万里の外で籌を運らし、敵を計ること神のごとく、山川の険阨をあたかも自ら歩いたかのように把握し、進退の指揮に寸分の狂いもなかった。史書は漢の高祖が百敗しても折れなかった、唐の太宗が身をもって諸将に先んじたと称えるが、太祖の雄略の前には遠く及ばない。
- 曲靖の戦いでは、沐英が策を決して霧を冒して疾駆し、兵は白石江に臨んだ。「我が方から敵に迫り、敵に迫らせるな」——先軫が勝ったゆえんである。旗を張り角に展開してひそかに敵の背後に出た——陳余が擒にされたゆえんである。江に臨んで陣を組み、退こうとしても止まれない——苻融が死んだゆえんである。
- 甲は熊耳山より高く積まれ、馬は昆明の水を飲んだ。路は万里を越え、時はわずか百日。耿弇が祝阿で功を震わせ、李靖が風のごとく突厥を襲ったのに、潁川侯(傅友徳)と黔寧王(沐英)は何ら劣らない。
- その後もときおり蜂起があったが、左を顧みる手間もかからず、軍は疾風のようで、彼らは枯れ葉のように敗れた。薛仁貴の名が遠く伝わって舌を巻かれ、郭子儀の姿を望んで塵に拝したというが、それは沐氏父子が威を万里に行き渡らせたゆえんである。
- 漢の武帝が西南夷に事を構え、夜郎・卭・笮はついに荒服となった。唐でまた吐蕃に陥り、宋では西夏に割かれた。元が兵威を極めて初めて桐葉を分かち、黔寧王が永く鎮めて三百年、貝金・象牙が異郷から来るだけでなく、金馬・碧鶏までも恭しく侍従に入るに至った。春風の及ぶところ、鷹の眼も慈しみを帯び、泮水の林の梟の声も速やかに化した。ああ、盛んなことである。