明史紀事本末太祖、夏を平定する(太祖平夏)
元末の至正十五年(1355年)から洪武四年(1371年)までの17年間、四川に興った大夏政権とその滅亡を扱う。徐寿輝の将だった明玉珍が重慶・嘉定を取って蜀に拠り、隴蜀王を経て大夏皇帝を称し、劉禎を用いて制度を整えた。玉珍の死後、幼い明昇が立つと内紛で万勝が殺され国勢は衰え、太祖の入覲勧告も呉友仁らの主戦論に流れて拒まれた。洪武四年、湯和・廖永忠の舟師が瞿塘関の鉄索を破り、傅友徳が階州・文州から奇襲して成都へ迫ると、明昇は母彭氏の勧めで面縛して降り、戴寿・呉友仁も倒れて蜀は平定された。
年表(14件)
- 至正十五年 春— 明玉珍の重慶占拠1355年明玉珍が楊漢の勧めで重慶を攻め落とし蜀に足場を得る
- 至正十八年— 嘉定の攻略1358年嘉定と大仏寺を落としオンジャル・トらを討ち劉禎を得る
- 至正二十一年〜二十二年(〜1362年)— 隴蜀王から大夏皇帝へ1361年明玉珍が隴蜀王を称し、次いで帝を称して国号を大夏とする
- 至正二十三年〜二十六年(〜1366年)— 雲南遠征と玉珍の死1363年雲南遠征は失敗し玉珍が死んで幼子の昇が嗣ぐ
- 至正二十六年 九月己亥— 夏の使者と太祖の言1366年夏の使者が蜀の険を誇り、太祖は蔡哲に山川を図に描かせる
- 洪武元年〜二年(〜1369年)— 招諭と夏の対応1368年太祖の入覲勧告に対し呉友仁の献策で外交を装い守りを固める
- 洪武三年 夏五月〜秋七月— 興元の攻防1370年徐達が興元を取り、呉友仁の逆襲を金興旺・傅友徳が退ける
- 洪武四年 春正月— 蜀征討の発令1371年湯和を征西将軍、傅友徳を前将軍として水陸二道から蜀を討たせる
- 洪武四年 二月〜三月— 東路の苦戦1371年楊璟が瞿塘に進むが鉄索と飛橋に阻まれて敗退する
- 洪武四年 三月〜四月— 傅友徳の奇襲1371年傅友徳が階州・文州を抜き丁世真を破って蜀の門戸を開く
- 洪武四年 四月〜六月— 綿州・漢州の攻略1371年綿州・漢州を落として戴寿らを大破し呉友仁を保寧へ追う
- 洪武四年 六月— 瞿塘関の突破1371年廖永忠が小舟を担いで上流に出て鄒興を討ち瞿塘関を破る
- 洪武四年 六月〜八月— 明昇の降伏と蜀の平定1371年明昇が面縛して降り、成都も陥ちて呉友仁も捕らえられる
- 洪武四年— 四川の経理と論功1371年李文忠が成都を修築し、傅友徳・廖永忠に賞が下る
至正十五年 春(1355年)— 明玉珍の重慶占拠
- 徐寿輝の将・明玉珍が成都に拠った。玉珍は随州の人、代々の農家で、身の丈八尺、瞳が二重で、信義によって郷党に敬服されていた。
- 徐寿輝の挙兵を聞くと郷兵を集めて青山に屯し、柵を結んで自ら固めた。まもなく寿輝に降って元帥を授かり、倪文俊の麾下に属して沔陽を鎮め、元将ハラトと湖上で戦って飛矢が右目に当たり、やや視力を損なった。
- 至正十四年、兵千人と槳斗船五十で長江をさかのぼった。当時、青巾の賊・李喜喜が兵を集めて蜀を苦しめており、元の義兵元帥・楊漢が五千で防いで平西に屯していた。右丞相オンジャル・トが重慶を鎮め、酒宴を設けて漢を殺そうとしたが、漢は察して脱出し、流れを下って巫峡で玉珍に会い、訴えて重慶が取れる状況を告げた。
- 玉珍は決めかねたが、万戸の戴寿が「重慶を攻めて成れば功、駄目でも帰るのに損はありません」と言い、これに従って進んで城を克った。オンジャル・トは逃げ、父老が迎え入れた。玉珍は侵掠を禁じ、市は平穏で、降る者が相次いだ。
至正十八年(1358年)— 嘉定の攻略
- オンジャル・トが果州から重慶を攻めに来て、嘉定の大仏寺に屯した。明玉珍は明三を防がせた。明三は黄陂の人で驍勇善戦、玉珍は弟のように扱った。のち本姓名に戻して万勝といった。
- また猛士の夜眼陳をひそかに送って烏斗山寨を襲わせ、嘉定を衝いていずれも下したが、大仏寺だけが落ちなかった。玉珍が自ら軍を渡し、十日で城は潰えた。オンジャル・トと恭政の趙資、平章の郎徳格はみな死に、人々は「三忠」と称した。
- 途中、瀘州を通って自ら元の進士・劉禎を訪ね、喜んで「私は一人の孔明を得た」と言った。
至正二十一年〜二十二年(1361年〜1362年)— 隴蜀王から大夏皇帝へ
- 二十一年、明玉珍が隴蜀王を称した。もともと玉珍は陳友諒討伐を謀り、兵を整えて夔門を守り、友諒と通交しなかった。また廟を立てて徐寿輝を祀った。ここに至って自ら隴蜀王と称した。
- 二十二年春三月、明玉珍が蜀で僭して帝を称し、国号を大夏、天統と改元した。周の制に倣って六卿を設け、また翰林院承旨学士、国子監などの官を置いた。賦税は十分の一、廷試を開き、雅楽を置いて郊祀の祭に供した。いずれも劉禎の献策による。
至正二十三年〜二十六年(1363年〜1366年)— 雲南遠征と玉珍の死
- 二十三年、明玉珍は万勝らに三道から雲南を攻めさせ、梁王ボロは金馬山へ逃げ、勝は入城して占拠した。ボロが再び衆を集めて攻め、勝は関灘で敗れて引き揚げた。
- 二十四年、万勝が興元を攻めたが敗れて帰り、鄒興が巴州を克った。
- 二十五年九月、夏主・明玉珍は万勝と戴寿を左右丞相とし、参政の江儼を遣わして通好してきた。都事の孫養浩に答礼させた。この年、万勝が興元を取った。
- 二十六年春三月、夏主・明玉珍が死んだ。三十六歳。玉珍は倹約に努め文学を好み、蜀人は安んじていた。子の昇が嗣いだ。昇はまだ十歳で、母の彭氏が政を共に聴き、開熙と改元した。
- その都察院の張文炳が権を握り、万勝を忌んで玉珍の義子・明昭に彭氏の意を偽らせて殺した。勝は夏の驍将で、その兵は一人が百人に当たらぬものはなかった。勝が死んで夏は振るわなくなった。劉禎が代わって丞相となった。
- 呉友仁が檄を回して兵を興し、昇は戴寿に討伐を命じた。友仁は「明昭を誅さねば国は安らがぬ。昭が朝に誅されれば私は夕に兵を解く」と言った。寿は奏して昭を誅し、友仁は入朝して謝罪し、咎められなかった。
至正二十六年 九月己亥(1366年)— 夏の使者と太祖の言
- 夏主・明昇が使者を送って聘した。使者は自ら「わが国は東に瞿塘三峡の険があり、北に剣閣桟道の阻みがある。古人は『一夫が守れば百人も通れぬ』と言った。西は成都を制し、沃壌千里、財富は豊かで、まことに天府の国です」と述べた。
- 太祖は笑って「蜀人は徳を修め民を保つことを本とせず、山川の険に頼ってその富饒を誇る。それは天から降ってきたものか」と言った。
- 使者が退くと、太祖は侍臣に言った。「私は平生、事をなすには実を務め、浮ついた偽りを尚ばない。この者は主君の善を述べられず、ただ国の険固を誇った。使者の職を失っている。私は常に四方に使者を遣わすとき、言葉を慎み誇大に言うなと戒めている。人に笑われることを恐れるからだ。蜀の使者の妄言を戒めとせよ」。
- 参知政事の蔡哲を遣わして蜀に答礼させた。哲は画工を連れて行き、その山川の険易を図に描いて献じた。太祖は見て嘉した。これが蜀征討の道筋を定める発端となった。
洪武元年〜二年(1368年〜1369年)— 招諭と夏の対応
- 洪武元年冬十二月、使者に書を持たせて夏主・明昇を諭した。
- 二年秋八月、夏主・明昇が使者を送って貢した。王師が関陝を平らげ、蜀人は震え恐れていた。戴寿は昇に言った。「大明の天子は将を遣わし兵を用いて向かうところ敵なし。王保保や李思斉の強盛さでもついに防げなかった。まして我が蜀は。もし一朝、警報があればどうするおつもりか」。
- 呉友仁は「蜀の地は中原とは違う。緩急があれば険に拠って守れる。今の計としては、外に交好を装って敵を緩め、内に武事を修めて自強するに越したことはない」と言い、昇は従って使者を送って貢を修めた。
- 太祖は璽書を賜って答えた。「朕が古の蜀を有した者を見るに、公孫述・李特・王建・孟知祥らはみな機に乗じて進取できたが、善く守る道は聞かない。今、足下は必ず善く守る方法を図られるがよい。朕は連年、師を出して向かうところ勝ってきたが、いずれも諸将が命を尽くしたゆえに功を成せた。遠くから労して礼を致されたのは、いよいよ厚意が見える。使者の帰りにひとまずこれで返す」。
- 冬十月壬戌、平章の楊璟を遣わして明昇に国を挙げて入覲するよう諭した。昇は群議に引かれて決められなかった。璟は帰るにあたり改めて書で諭した。
- 「古は、力が同じなら徳を量り、徳が同じなら義を量り、量るべきものがなければ順を図るとした。足下は自ら『瞿塘・剣閣は一夫が戈を負えば万卒も何ができようか』と言うが、これは時変に通ぜず互いに誤り合う言である。 足下は自らを劉備・諸葛孔明と比べてどうか。それでも彼らはやっと自保できたにすぎぬ。足下の疆場は南は播州を出ず、北は興元を出ない。王師が一たび至れば、足下のために謀る者はそれぞれ自分の計を立てるだろう。足下は老母を奉じてどこへ帰るのか。足下がたとえ幼くとも、老母のことは痛心すべきである。順逆の図はご自身で量られよ」。昇は従えなかった。
洪武三年 夏五月〜秋七月(1370年)— 興元の攻防
- 大将軍・徐達は安定を出て王保保を追い払うと、左副将軍の鄧愈に吐蕃招撫を任せ、自ら部下を率いて興元を攻めた。傅友徳を前鋒とし、秦州から南へ出て一百八渡を経て略陽に至り、旧元の平章・蔡琳を捕らえ、そのまま沔州に入った。裨将の金興旺らを鳳翔から連雲桟に入れて合攻させた。興元守将の劉思忠と知院の金慶祥が出迎えて降り、金興旺・張龍を留めて守らせ、達は軍を西安に返した。
- 秋七月、蜀将の呉友仁が興元を侵し、守将の金興旺・張龍が兵を出して撃退した。翌日、友仁がまた攻め、興旺は戦って顔面に流れ矢を受けたが、矢を抜いて再び戦い、数百級を斬った。
- 当時、城中の守兵はわずか三千、友仁の兵は三万で、興旺は衆寡敵せずとして兵を収めて入城し、間道から使者を宝鶏に走らせて援兵を請うた。友仁は城を囲み、濠を切り堀を埋めて攻撃を強め、興旺は城に籠って拒み、巨砲と擂石を放って敵兵に多くの死傷を出した。
- 当時、徐達は西安にあって報せを得るとすぐ師を率いて益門鎮に屯し、まず傅友徳に兵三千を率いさせてまっすぐ黒龍江へ向かわせ、夜に木槽関を襲い、斗山砦を攻めさせた。友徳は軍中の各人に松明十本を持たせて山上で燃やさせ、友仁の軍は望み見て大いに驚き、夜に乗じて逃げた。
洪武四年 春正月(1371年)— 蜀征討の発令
- 丁亥、太祖は自ら上下の神祇を祭り、明昇討伐を告げた。
- 中山侯の湯和を征西将軍、江夏侯の周徳興を左副将軍、徳慶侯の廖永忠を右副将軍とし、滎陽侯の楊璟、都督僉事の葉昇らに京衛と荊湘の舟師を率いさせ、瞿塘から重慶へ向かわせた。潁川侯の傅友徳を前将軍、済寧侯の顧時を左副将軍とし、都督僉事の何文輝らに河南・陝西の歩騎を率いさせ、秦隴から成都へ向かわせた。
- 太祖は和らに諭した。「今、天下は大いに定まり四海は安らいだ。ただ川蜀だけが未平である。朕は明玉珍がかつて使者を送って好を修め、大に事える礼を存したので、明昇の幼弱を憐れんで兵を加えるに忍びず、たびたび賜って諭し、覚悟することを願った。ところが昇は群議に惑わされ、逆に兵で我が興元を犯した。討たぬわけにはいかぬ。 今、卿らに水陸の大軍を率いて道を分けて並び進み、首尾から攻めさせる。彼を奔命に疲れさせれば必ず克てる。ただ行軍にあたっては行伍を粛し紀律を厳しくし、降附を懐かせて殺掠をほしいままにするな。昔の王全斌の事は戒めとすべきである。慎め」。
- 諸将が辞去すると、太祖はさらに傅友徳にひそかに諭した。「蜀人は我が西伐を聞けば必ず精鋭を尽くして東は瞿塘を守り、北は金牛を阻んで我が師を拒むだろう。彼らは地が険しく我が兵は来られぬと考える。もし意外を突いてまっすぐ階州・文州を衝けば、門戸が毀れて腹心は自ずと潰える。兵は神速を貴ぶ。ただ卿らが勇ならぬことを患うだけだ」。友徳は叩頭して命を受けた。
- 宋国公の馮宗異を陝西へ遣わして城池を修めさせ、衛国公の鄧愈を襄陽へ遣わして軍馬を訓練させ、糧餉を運んで征蜀の軍士に給させた。
洪武四年 二月〜三月(1371年)— 東路の苦戦
- 二月、江夏侯の周徳興と指揮の胡海らが蜀の龍伏隘を取り、進んで覃垕の温陽関を奪った。中山侯の湯和は師を率いて帰州の李逢春・烽火山寨を克ち、南雄侯の趙庸と宣寧侯の曹良臣を分遣して桑植・容美洞を取らせ、周徳興と合流して茅岡の覃垕寨を合攻して克った。
- 三月、平章の楊璟が瞿塘に進んだが不利だった。先に蜀人は瞿塘を天険と自負し、平章の莫仁寿に守らせ、鉄鎖を横に渡して関口を断っていた。王師が境に臨むと聞いて、さらに左丞の戴寿、平章の鄒興、副枢の飛天張らを増派して固守の計を立てた。
- 寿らは鉄索の外に、北は羊角山、南は南城寨に依り、両岸の壁を鑿って綱を引き飛橋を三つ渡し、板の上に砲石・木竿・鉄銃を置き、橋の傍らの両岸にも砲を置いて王師を拒んだ。
- 璟の師は夔州の大渓口に進み、指揮の韋権に兵を率いさせて赤甲山に出て夔州に迫らせ、指揮の李某を白塩山の下から夔府の南岸に迫らせて南城寨を攻めさせ、璟自ら都督僉事の王簡と犬渓口に出て瞿塘の江を扼する敵に進攻した。璟は戦って不利となり、赤甲・白塩の師も帰州へ退いた。
洪武四年 三月〜四月(1371年)— 傅友徳の奇襲
- 潁川侯の傅友徳は命を受けて陝西へ馳せ、諸道の兵を集め、金牛から出ると触れておいて、ひそかに偵察させ、青州・果陽が手薄で、階州・文州は兵塁があっても守備が単弱だと知った。
- そこで兵を陳倉へ向け、精鋭五千を選んで前鋒とし、山谷をよじ登り昼夜兼行し、大軍が続いた。
- 夏四月丙戌、まっすぐ階州に至った。蜀の守将・平章の丁世真が衆を率いて拒んだが、友徳は撃破してその将・双刀王ら十八人を生け捕り、世真は逃げ、階州を克った。
- 文州へ進み、城から三十里の地点で、蜀人が白龍江の橋を切って我が師を阻んだ。友徳は兵を督して橋を修めて渡り、五里関に至ると、蜀の平章・丁世真がまた兵を集めて険に拠った。都督同知の汪興祖が馬を躍らせてまっすぐ前進したが、飛石に当たって死んだ。友徳は怒って兵を奮って急撃して破り、世真は数騎で逃げ、文州を抜いた。
- 庚寅、太祖は湯和・傅友徳らの蜀征討が三か月経っても勝報がないので、永嘉侯の朱亮祖を右副将軍として師を率いて助けさせた。
- 丁酉、傅友徳が青州・果陽を下し、指揮の潘忠を留めて守らせ、進んで江油・彰明の二県を攻めて下した。
洪武四年 四月〜六月(1371年)— 綿州・漢州の攻略
- 癸卯、綿州へ向かった。友徳は精鋭を選んで鼓を鳴らして進み、別に都督僉事の藍玉に夜襲させた。蜀の守将・向大亨の軍は驚き騒いで夜明けに及び、友徳が兵を指揮して乗じた。折しも大風が起こり、諸軍は風に乗って撃ち、蜀兵は大敗し、綿州を克った。龍驤衛指揮の史鑑が戦死した。大亨は漢州に走って守った。
- 友徳は漢州に至ったが水に阻まれて渡れず、軍中に戦艦百余艘を造らせた。当時、蜀人は階州・文州を失っても漢水を頼りに自ら固めていたが、我が師が舟を造って進むと聞いていよいよ震え恐れた。
- 五月己卯、戦艦が完成した。友徳は漢州へ進もうとし、軍情を湯和に伝えたかったが山川に隔てられていた。折しも長江の水が急増したので、木札数千枚に階州・文州・綿州を克った日付を大書して漢江に投じ、流れ下らせた。蜀の守兵はこれを見て崩れた。
- もともと蜀人は丞相の戴寿、太尉の呉友仁らに全兵で瞿塘を守らせ三峡の険を扼していたが、友徳が階州・文州を破って江油を衝いたと聞き、寿らは友仁とともに瞿塘の守兵を分けて漢州の救援に戻り、成都を保とうとした。
- だが到着前に友徳の舟師が既に漢州に迫っていた。向大亨は全兵で城下に陣を敷いたが、友徳は驍騎を選んで撃破した。まもなく寿らの兵が至ると、友徳は諸将に令した。「彼は師を労して遠来し、向大亨が敗れたばかりと聞けば必ず動揺している。一戦で克てる」。自ら師を率いて迎え撃ち、寿らを大破した。
- 六月壬午、漢州を抜いた。寿と大亨は成都へ走り、臨江侯の陳徳が追撃してまた破り、その兵三千余人・馬三百匹を獲た。友仁は古城へ逃げた。
- 友徳は済寧侯の顧時に漢州を守らせ、自ら古城を撃ってまたその衆を大破し、二千余人を殺獲し、宣慰の胡孔彰らを捕らえ、馬・騾五百余匹を獲た。友仁は古城から保寧へ逃げ帰った。
洪武四年 六月(1371年)— 瞿塘関の突破
- 当時、湯和の兵は帰州を発して瞿塘関に進攻したが、長江の水が急増して進めず、大渓口に駐屯して水が引くのを待とうとした。太祖はこれを聞いて逗留して事を緩めることを恐れ、折しも傅友徳の勝報が届いたので和に詔した。
- 「傅将軍は精鋭を率いて険を冒して深入りし、階州・文州および青州・果陽・白水江の地を克った。兵は既に険を越えて平川に至り、蜀人には頼るべき険がない。まさに水陸並進して彼に首尾から敵を受けさせ、奔命に疲れさせるべきである。蜀を平らげる機はまさに今日にある。朕が先日、お前に語ったことを覚えていないのか。何と怯えたことか」。
- 詔が届くと廖永忠は部下を率いて先に進んだ。和はなお躊躇していたが、江の流れに友徳の木札を得て進兵し、白塩山から木を伐って道を開き、紙牌坊渓を経て夔州へ向かった。
- 永忠の兵が先に旧夔州に至ると、蜀の平章・鄒興、副枢の飛天張らが兵を出して拒み戦った。戊子、永忠は軍を前後の陣に分け、交戦したところで後軍を両翼から出して挟撃し、興らを大破した。翌日、兵を併せて攻め、その元帥・龔興を捕らえ、殺され溺れた者は甚だ多かった。
- 辛卯、永忠は瞿塘関へ進んだ。山は険しく水は急で、蜀人が鉄索と飛橋を関口に横たえており、我が舟は上れなかった。
- そこでひそかに壮士数百人に小舟を担がせて山を越え関を渡って上流に出させた。人々は乾飯を持ち水筒を帯びて飢渇に備えた。山に草木が多いので、将士にみな青い蓑衣を着せ、山巌の間を魚の列のように進ませたので、蜀人は気づかなかった。
- 到着した頃合を見て、精鋭を率いて黒葉渡に出、二道に分けた。夜の五更、一軍がその陸寨を、一軍が水寨を攻めた。水寨を攻める将士はみな船首を鉄で包み火器を据えて進んだ。
- 夜明け、蜀人が精鋭を尽くして拒みに出ると、永忠はまず陸寨を破った。ついで舟を担いで江に出した将士が一斉に上流から旗を揚げ鬨の声を上げて下り、蜀人は不意を突かれて大いに驚いた。下流の師も舟を寄せて急撃し、火砲・火筒を放って挟み撃ちにして大破した。
- 鄒興は火矢に当たって死んだ。その三つの橋を焼き、江を横切る索を断ち、同僉の蔣達ら八十余人を捕らえ、千余級を斬り、溺死者は数知れなかった。飛天張・鉄頭張らはみな逃げた。
- 永忠が夔州に入り、翌日ようやく湯和の兵が着いた。永忠は和と道を分けて舟師を率い、夔州から勝ちに乗じて重慶に迫った。沿江の州県は風を望んで帰服した。
洪武四年 六月〜八月(1371年)— 明昇の降伏と蜀の平定
- 銅鑼峡に軍を進めると、明昇と右丞の劉仁らは大いに恐れた。仁は昇に成都へ逃げるよう勧めたが、母の彭氏が泣いて言った。「事勢はこのとおり。たとえ成都へ行っても旦夕の命を延ばすだけで何の益がありましょう」。仁が「ではどうするのですか」と問うと、彭氏は言った。「大軍の蜀入りは破竹の勢い。今、城中の軍民は数万いても皆胆をつぶし心は怯えている。どうして力を尽くせましょう。駆り立てて戦わせれば死傷は必ず多く、しかも結局は免れません。早く降って生霊を兵火から免れさせるに越したことはありません」。
- 明昇は使者を永忠の軍に遣わして城を挙げて帰順を申し出た。永忠は湯和の軍がまだ着いていないとして辞退して受けなかった。
- 癸卯、湯和が重慶に至って永忠と会し、兵を朝天門の外に駐めた。この日、明昇は面縛して璧を口にくわえ、母の彭氏および右丞の劉仁らとともに表を奉じて軍門に至った。和が璧を受け、永忠が縄を解き、制を承けて撫慰し、将士に侵掠を禁ずる令を下した。
- 戴寿・向大亨らの家を撫諭し、その子弟に書を持たせて成都へ招諭に行かせた。指揮の万徳を遣わして明昇らと降表を京師へ送った。朱亮祖の兵も到着した。
- 秋七月、傅友徳の兵が成都を囲んだ。戴寿・向大亨らが出戦し、象に甲士を載せて陣前に並べた。友徳は前鋒に火器で衝かせ、象は退いて走り、寿の兵は踏み殺される者が甚だ多かった。
- 折しも湯和が人を送って重慶の勝報を伝え、寿らも家からの書を得て、重慶が既に降り、家族はみな無事と知った。そこで府庫と倉廩を名簿にし、その子を軍門に遣わして帰順を申し出、友徳は許した。
- 翌日庚申、寿がその属を率いて降り、友徳は衆を整えて東門から入城し、士馬三万を得た。兵を分けて朱亮祖と合流させ、未帰属の州県を攻略した。壬戌、崇慶知州の尹善清が拒み戦ったので撃破して斬り、判官の王桂華が父老を率いて降った。戴寿と向大亨は降ったのち夔峡に至り、いずれも舟に穴を開けて自ら沈んで死んだ。
- 八月、太祖は使者を送って湯和らに諭した。「将たる者は機を審らかにし敵を重く見積もることを貴ぶ。今、全蜀は既に下り、ただ呉友仁が保寧に拠って一時をしのいでいる。機に乗じて取れと命じた。破竹の勢いで克てぬはずがない。将軍が徘徊して進まぬのはなぜか。私は将軍に大任を託したのに、事に臨むたびこう逗留していては、どうして軍政を総べ国事を寄せられようか」。
- 和は詔を聞いて周徳興を遣わして傅友徳と合流させ、その城を克ち、友仁を捕らえて京師へ送って誅した。蜀の地はすべて平定された。
- 明昇が京師に至ると、廷臣は宋の乾徳年間に孟昶が降ったとき叩頭伏罪の礼があったと上言した。太祖は「孟昶は奢淫で放恣だったが、昇は幼く、臣下に従っただけだ。伏地の礼は免じてよい」と言い、昇を帰義侯に封じて京師に邸を与えた。のち昇を高麗へ移した。
洪武四年(1371年)— 四川の経理と論功
- 曹国公の李文忠に四川を経理させた。文忠は成都の旧城が低く狭いので新城を増築し、塁を高く池を深くして規制をほぼ整えた。
- 当時、傅友徳は保寧に駐兵し、湯和は重慶に駐兵し、それぞれ人を遣わして番漢の人民および明氏の潰散した士卒で帰服する者を招き集め、その壮丁を名簿に入れた。
- 丙子、成都に右・中・前・後の四衛を置いて分属させ、また保寧守禦千戸所を置いて濠梁などの衛の官軍を調えて守らせた。
- 十二月辛卯、蜀平定の将士に賞を与えた。傅友徳と廖永忠にそれぞれ白金二百五十両、彩緞二十表。滎陽侯の楊璟、南雄侯の趙庸、永嘉侯の朱亮祖は賞に与らなかった。太祖は自ら「平西蜀文」を制作し、傅・廖の二将の功を記した。
史論(谷応泰曰)
- 聞くところ、名山大川は諸侯や王公に封じない。険を設けてその国を守るのだが、周が雒陽に都したとき「南に三塗を望み、北に嶽鄙を望む。徳あれば王となりやすく、徳なければ亡びやすい」と言った。古の賢明な王は徳にあって険になかったのである。
- 中国で地の険を得た所は巴蜀に過ぎるものはない。桟道が北を掲げ、瀘水が西を阻み、岷山・峨眉の天闕を表とし、二江の双流を帯とし、勇夫が幾重にも閉ざせば、ほとんど断絶している。それでも古今、敗亡が相次ぎ、捕らえられて臣となり、全うした者はまれである。蜀の地の険はもとより恃むに足りない。
- 元の運が終わろうとして群雄が並び起こったとき、明玉珍は随州の布衣から青山に寨を結び、徐寿輝の外臣、倪文俊の守将となった。文俊が友諒に殺されると、そのまま三巴を有して名号を盗んだ。劉宗(公孫述に仕えた者)が輦を下りて自ら王となり、公孫述が馬を躍らせて帝を称したのに比べても、いっそう容易だった。
- 玉珍がこの時に北のかた子午道へ進んで関隴を叩き、南は夷陵へ下ってまず漢沔をうかがわず、ただ夔門を固守して改元し称制し、一隅に自ら割拠して座して滅亡を待ったのは、最下の策である。かくて東の自守者は張士誠に過ぎるものなく、西の自守者は明玉珍に過ぎるものがない。
- 太祖が初め中原に鹿を逐って外征の暇がなかったとき、書に答えて聘を通じ、隗囂を待つように、厚礼卑辞で李密を驕らせるようにした。ところが使者は張裔のような口舌で蚕叢(蜀)の形勝を誇った。井の中の蛙が坐して大きくなったのは、行き過ぎである。
- 元都が既に没し秦晋がことごとく平らぎ、蜀道の一隅は黒子ほどの勢いになってから、ようやく鄒興・莫仁寿らに命じて瞿塘で水を阻み鉄鎖を関に横たえ、丸泥をもって固守した。遅すぎたのではないか。
- 太祖の蜀征討では、湯和らの舟師が峡に入って重慶へ疾走したのが正兵、傅友徳の一軍が金牛から出ると触れつつひそかに階州・文州を取ったのが奇兵である。鄧艾が縄で降りて陰平に入れば綿竹の師は摧かれずして潰え、呉漢が広都に襲い至れば城市の橋は焼いて断てる。劉仁が表を持って軍門に至り、明昇が面縛して璧をくわえたのももっともで、彭氏が「たとえ成都へ走っても旦夕の命を延ばすだけ」と言ったのも道理である。
- ここから、桓温が入れば李勢は亡を告げ、王全斌が師を渡せば孟昶は祀を絶たれたと分かる。張載が剣閣に銘を勒し、左思が蜀都に戒めを致したのはこれである。玉塁・銅梁の険も拠るに足りない。
- これより冉駹は順を効し、卭・笮は影のように従い、枸醤が番禺から出、竹杖が大夏から来た。版図の盛んなことは言うまでもない。
- ただ功を傅・廖に記した文がいずれも御製であり、楊璟は功なきゆえに叙されず、小校は義ならざるゆえに賞を止められた。勧懲はここにあり、単に蜀平定の規範にとどまらない。
- 明昇は帰義侯に封じられ京師に邸を賜り、要領を全うして母子ともに保たれた。劉禅が魏を楽しんで身が生還しなかったのに対し、望帝の帰魂が死してなお血を啼いたのとは違う。ああ、西川で僭号したときから、その身は既に長く仮の宿りであった。