明史紀事本末太祖、閩を平定する(太祖平閩)

福建を元のために守り抜いた陳友定と、明軍による閩平定を扱う。至正十二年(1352年)、明渓の駅卒だった友定は蔡公安に見出されて巡検となり、陳友諒の将や鄧克明を退けて行省平章にまで昇り、羅良を漳州に討って八閩を制した。至正二十五年(1365年)には朱亮祖に督戦を迫られた胡深が建寧で敗死し、友定に殺される。呉元年(1367年)、太祖は胡廷美・何文輝を陸路、湯和・廖永忠を海路から発し、福州・建寧が陥落。洪武元年(1368年)正月に延平が破れ、友定は毒を仰いだのち蘇生し、子の海とともに京師で誅された。閏七月に金子隆の残党も平げられ、閩は平定された。

年表(14件)

至正十二年(1352年)— 陳友定の登場

  • 海上に盗賊が起こり、その勢いが汀州に及ぼうとした。元の汀州判官・蔡公安が吏士を募って城を守った。福清の人・陳友定は明渓の駅卒でありながら軍事を論じ、公安はその才を異として黄土寨巡検を授けた。延平・邵武の諸山賊の討伐に従って平定し、清流の主簿に遷り、まもなく清流の令となった。
  • 友定は一名を有定、字は安国。福清から清流に移り住んだ。幼くして父を失い、頭に瘡を病み、富家の羅氏に雇われていた。しばしば子どもたちと薪を取りに行き、隊伍を組んで遊んだので羅氏は異として婿にしようとしたが、母親は「頭を病んだ小僧が婿になれるものか」と喜ばなかった。
  • 鵞鳥を逃がして隣家に逃げ込んだところ、隣家の者は虎が門に踞る夢を見た夜に友定を得たので大喜びし、飲食を与えた。羅氏の母親に乞うてついに婿とし、商売を習わせたが、うまくいかず困窮した。しかし人となりは勇敢沈着で任侠を好み、断を下すのに家の有無を問わず、身を投げ出して急を救い、志を行うだけだった。人々は憚り服し、争ってその下で働きたがった。

至正十九年(1359年)

  • 陳友諒が将の康泰を送って邵武を取らせ、鄧克明が汀州を侵した。友定は総管として防ぎ、黄土で戦ってその部衆をすべて捕らえ、克明は逃げた。行省参政に遷った。

至正二十年 二月庚申(1360年)— 袁天禄の帰順

  • 元の福建行省参政・袁天禄が福寧州をもって帰服した。先に福建義兵万戸のサイフディン・アリマダンが泉州に拠り、陳友諒の兵が杉関に入って邵武・汀州・延平の諸郡県を陥れ、群盗が勢いに乗じて蜂起して閩の地は騒然としていた。天禄らは元の勢いが振るわぬと知り、明の師が浙東を下し方国珍が帰属したのを見て天命の所在を悟り、古田県尹の林文広を遣わして帰順を申し出た。
  • 当時、福清同知の張希伯も属官を送って降った。太祖は書を賜って褒め讃えた。

至正二十一年(1361年)

  • 鄧克明が再び汀州を侵したが、陳友定が迎え撃って破り、そのまま汀州に行省を開き、左丞に遷った。

至正二十二年 夏(1362年)

  • 元は陳友定に汀州を守らせた。友定の兵勢は日々盛んになり、郡県の倉庫はすべてその家に入り、元の行省平章ヤクブハは空位を擁するだけだった。

至正二十四年(1364年)

  • 陳友定は延平に行省を開き、行省平章政事に遷った。当時、元の大都への道は絶たれており、友定は貢納の船の多くを海路から登州・莱州へ向かわせたが、十のうち三、四が届いた。元の主は詔を下して褒め讃えた。方国珍が侵入してきたが撃破した。

至正二十五年 二月〜六月(1365年)— 胡深の敗死

  • 二月、陳友定が処州を侵したが、参軍の胡深が撃って追い払い、さらに追撃して破った。己丑、浦城を下した。
  • 四月乙丑、参軍の胡深が建寧の松渓に進攻して克ち、陳友定の守将・張子玉を捕らえた。残兵は敗れて崇安へ逃げた。深は広信・撫州・建昌の三路の兵を発して合攻し、それによって八閩を取るよう請うた。太祖は深の言のとおり、広信衛指揮の朱亮祖を鉛山から、建昌左丞の王溥を杉関から、深と合流させて進撃させた。
  • 五月、胡深らは浦城を克ち、友定の将・頼元帥と浦城の南で大戦して破った。
  • 六月、朱亮祖と合流して崇安・建陽を克ち、建寧へ進攻した。大軍が城下に至り、亮祖はすぐに攻めようとしたが、深は雲気を見て不利と判じ、「天の時が合っていない。将に必ず災いがある。戦うべきではない」と言った。
  • 亮祖は「参軍ともあろう者が災異を口実にするのか。師は既にここまで来た、緩めてよいものか。しかも天道は玄妙で遠く、山沢の気は変化してとどまるところがない。何の徴候になろうか」と言い、深に進撃を迫った。深はなお不可と主張した。
  • 折しも建寧の守将・阮徳柔が兵四万で錦江に屯して深の陣の背後に迫った。亮祖は深を責めて督戦をいよいよ厳しくし、深はやむを得ず兵を率いて鬨の声を上げて進撃し、その二門を破った。すると徳柔が精鋭を挙げて深の軍を扼し、幾重にも包囲した。
  • 日は既に暮れ、深は営塁が定まらぬうちに包囲が解けず持久しがたいと知って包囲を突破しようとしたが、徳柔の伏兵が突然現れ、深は馬が倒れて捕らえられた。
  • 友定はかなり礼遇した。深は朝廷の威徳を詳しく述べ、天命の所在を陳べ、竇融が漢に帰した故事を引いて諭した。友定にははじめ深を害する意はなかったが、元の使者が来て迫ったので殺した。
  • 先に日中に黒点が現れ、劉基は「東南で一大将を失うでしょう」と奏していたが、果たして深が敗死した。深は文武の才があり、処州を守ること五年、威徳と恩恵がよく行き渡っていた。太祖は報せを聞いて深く惜しみ、使者を送って祭を賜り、縉雲郡伯を追封した。

至正二十六年 八月〜十二月(1366年)— 羅良の抗争と漳州の陥落

  • 八月、元は陳友定が胡深を破ったことから、福建行省平章政事に任じ、あわせて八閩を守らせた。友定は精兵一万を有し、さらに兵を出して諸郡県を取り、遠近は瓦解して角逐する者がなかった。
  • ただ長汀の人・羅良は、かつて私財を散じて士を募り、元のために漳州の山賊を捕殺し、兵を率いて福州の囲みを解いた閩の将の第一人者だった。良はたびたび海路から元へ漕運し、元は良を晋国公に爵した。
  • 良は友定に書を送った。「足下はかつて参政となった国の大臣であり、汀州の回復は本来の職務です。ヤクブハ平章は足下の上司なのに、足下は彼を追い詰めた。郡邑の長は朝廷の任命によるのに、足下は追い払った。百司は朝廷の役なのに、足下は臣妾のように扱っている。足下が回復した郡邑では倉庫を家の資産としている。口では国を言い、心は実は我が身のためです。一歩の間にも真偽ははっきりしている。足下は郭子儀となるつもりか、それとも曹操となるつもりか」。
  • 友定は大いに怒り、兵を発して漳州を攻めた。良は三千人に弩と毒矢を持たせて険に伏せさせて待ったが、十長の石古が良の指図に背いたため友定の兵は柳営江を渡れた。良は馬岐山で迎え撃って敗れ、友定は進んで漳州を囲んだ。良は堅守すること旬月に及んで死んだ。
  • 友定は漳州を占拠し、人に山道を掘らせ城を守って自ら固めた。
  • 十二月、友定の建寧守将・阮徳柔が使者を送って帰順を申し出た。

呉元年(元至正二十七年、1367年)十月甲子 — 福建攻略の発令

  • 中書平章の胡廷美を征南将軍、江西行省左丞の何文輝を副将軍として師を率いて福建を取らせ、湖広参政の戴徳を従軍させた。
  • 太祖は廷美に諭した。「お前は陳氏の丞相から帰服し、私に仕えて数年、忠実で過ちがない。ゆえに総兵を命じて福建を取らせる。何文輝はお前の副、湖広参政の戴徳もお前の指図に従う。二人はいずれも私の親近の者だが、それを理由に軍政を曲げるな。号令も征戦もすべて軍法どおりに行え。 私は昔、身分の低い頃に行伍にあって、将帥の統率に法がないのを見て内心よくないと思っていた。のちに兵権を握ったとき、率いた一軍はみな新参の士だったが、ある日、野戦に駆り出して二人が令を犯したので斬って晒すと、皆が震え上がって私の節制に背かなくなった。人が志を立てれば、できぬことはない。 聞けばお前は先年、閩中を攻めたことがあるというから、その地理の険易をよく知っていよう。今、大軍を総べて征進するにあたり、城邑を攻囲するときは必ず便利か否かを選んで進退し、機を逸するな。平定の功はすべてお前にかかっている」。廷美は拝命して出発した。

呉元年 十一月(1367年)— 光沢・邵武・建陽の攻略

  • 十一月壬寅、胡廷美は杉関を越えて光沢県を攻略して下した。
  • 己酉、邵武を克ち、元の守将・李家茂が城を挙げて降った。
  • 丁巳、建陽を克ち、元の守将・曹復疇も降った。

呉元年 十一月戊午〜庚午(1367年)— 福州の攻略

  • 戊午、征南将軍の湯和、副将軍の廖永忠に舟師で海路から福州を取るよう勅した。
  • 庚午、湯和が福州を克った。もともと友定は福州の城外をぐるりと塁で固め、五十歩ごとに台を築いて兵を厳しく置いて守らせていた。我が師が杉関に入ったと聞くと、同僉の頼正孫、副枢の謝英輔、院判の鄧益に二万の衆で福州を守らせ、自らは精鋭を率いて延平を守った。
  • 湯和は廖永忠・呉禎らとともに明州から東北の風に乗り、数日で福州の五虎門に着いて南台に駐屯した。人を入城させて招諭させたが、元の平章クチュンに殺された。
  • 大軍が上陸して城を囲もうとすると、クチュンは衆を率いて南門から出て拒み戦ったが、指揮の謝得成らが撃破し、衆は潰えて城に入って拒み守った。その夜、参政の袁仁がひそかに人を送って帰順を申し出た。
  • 夜明け、大軍が蟻のように城に登り、南門を開いて湯和が兵を率いて入った。鄧益は水部門で拒み戦って撃ち殺された。正孫と英輔は西門から出て延平へ逃げた。クチュン、タハイ・テムル、ハジャラ・ブハ、左丞のドンジュブ、中丞のテムル・ラシらはみな印綬を懐にして妻子を連れて逃げ去った。参軍の尹克仁は水に投じて死んだ。
  • 僉枢のバイ・テムルは、大軍の城攻めが急なのを聞いて「戦うも守るも私にできることではない。国に報いるすべがない」と言い、楼の下に薪を積み、妻妾と二人の娘を殺して火を放って焼き、自ら首を刎ねた。
  • 湯和は行省の庁舎に入って軍民を撫し、馬六百余匹、海船百五艘、糧十九万余石を得た。和は袁仁と員外の余善を遣わして興化・漳州・泉州の諸路を招諭し、福寧などの未帰属の州県には兵を分けて攻略した。

洪武元年 春正月(1368年)— 興化と建寧の攻略

  • 元の興化守将・葉万戸が州を棄てて逃げ、耆民の李子成らが衆を率いて湯和に降った。和は都指揮の兪良輔を送って守らせ、莆田など十三県はみな降った。和は延平へ進攻した。
  • 胡廷美・何文輝らが師を率いて建寧に至った。元の守将・同僉のダルマと参政の陳子琦は僚佐を集めて謀った。「明の兵は驍勇で、杉関に入って以来、諸鎮は風を望んで瓦解した。その鋒には当たれぬ。今、我が城中の軍士は一万余を下らず、蓄えもなお豊かだから拒み守れる。だが戦ってはならぬ。彼が我が城を攻めて克てなければ必ず自ら気を緩める。そこに乗ずれば志を得られる」。衆は同意し、防備は甚だ堅固だった。
  • 廷美らは進んで囲み、たびたび挑戦したが、ダルマらは固守して出なかった。廷美は兵を督して四門を囲み、昼夜急攻した。ダルマは支えきれず、夜にひそかに副将軍の何文輝の営に来て帰順を申し出た。翌朝、総管のジャイ・エセン・ブハも衆を率いて文輝に降った。
  • 廷美は二人が自分の所に来なかったのを怒り、城を屠ろうとした。文輝は「公とともに命を受けてここに来たのは百姓を安んずるためです。城が降ったのに私憤で人を殺してよいものですか」と言い、思いとどまらせた。
  • 壬辰、軍を整えて入城し、秋毫も犯さなかった。参政の陳子琦を捕らえて京師へ送り、将士・人馬・銀・糧を万単位で獲た。指揮の費子賢に兵を率いて守らせた。

洪武元年 正月(1368年)— 延平の陥落と陳友定の死

  • 湯和・廖永忠らが延平を取りに進むにあたり、まず使者を送って友定を招諭した。友定は諸将を大集会させ、使者を殺してその血を酒に混ぜ、諸将と盟い、皆が慷慨して飲み、死をもって元に報いると誓った。
  • 大軍が延平に至り、水を隔てて陣を敷き、一軍を分けて水を渡らせて西門を攻めさせた。友定は戦って不利となり、帰って諸将に言った。「敵は千里の遠征で気が鋭い。慎んで戦うな。戦えばいたずらに吏士を死なせるだけだ。我らは城壁を山とし濠を谷とし、鋭利な武器を蓄え兵を飽かせて持久の計を立て、敵を疲れさせる」。衆は賛同した。
  • そこで城に拠って守ったが、昼夜、吏士に刁斗を打たせ、甲を着けたまま立ちっぱなしで交替の休息を与えなかったので、守兵は甚だ怨んだ。諸将が出撃を望んでも友定は許さず、繰り返し請われると、部将の蕭院判と劉守仁に二心があると疑い、蕭院判を捕らえて殺し、守仁の兵を奪った。守仁は降り、城を越えて逃げる士卒が多くなった。
  • 包囲十日目、城中の軍の工房で火砲の音が鳴った。明の兵は内応があると疑い、急攻して城を破った。
  • 友定は事の切迫を知り、枢密副使の謝英輔、参政のマンジュシリ・ハヤと訣別して言った。「公らはよく計られよ。私は元のために死ぬ」。行省の堂に坐して剣に手をかけ、毒を仰いで飲み干した。英輔とダルガチのバイ・ハマルは正装して北に向かって拝し、自ら縊れて死んだ。マンジュシリ・ハヤと頼正孫らは門を開いて降った。
  • 庚子、大軍が入城し、友定を輿で運び出したが、折しも激しい雷雨に遭って息を吹き返した。その子・海も将楽から出頭して死を受け、ともに京師へ送られた。
  • 太祖は面と向かって詰った。「元は既に亡んだ。お前は誰のために守ったのか。我が胡将軍(胡深)を殺し、しかも使者を城に入れなかった。今、なぜそんなに衰えているのか」。友定は憤って「もうよい、多くを語るな。私に死以上の何を加えられるか」と答えた。そこで子ともども市に棄てられた。

洪武元年 正月〜閏七月(1368年)— 閩の平定

  • 胡廷美らが進んで興化を克ち、建陽の降将・曹復疇を遣わして汀州および寧化・連城などの県を招諭させた。元の汀州守将・陳国珍が帰順し、かくて泉州・漳州・潮州の郡県が相次いで降った。延平衛を置き、廷美は部将の蔡玉に守らせた。
  • 六月甲子、友定の旧将・金子隆、馮谷保らが再び衆を率いて延平を侵したが、蔡玉が撃破し、沙県の青雲寨まで追った。子隆は険に拠って自守した。折しも建寧指揮の沐英が鉛山を攻めていたので、太祖は英に兵を率いて湯和と合流させた。丙寅、英が兵を率いて挟撃して破り、馮谷保を捕らえた。
  • 戊辰、平章の李文忠に金子隆らの討伐を命じた。
  • 閏七月、李文忠が師を率いて清化・寧化の諸山寨を攻め、金子隆とその余党を捕らえて誅した。閩の地はすべて平定された。

史論(谷応泰曰)

  • 太祖の閩攻略は、兵を分けて二道から入った。胡廷美と何文輝が陸路、湯和と廖永忠が海路の水師を率いた。そのとき元のために封疆を守っていたのが福清の人・陳友定である。
  • 友定は布衣の身で兵を論じ、州判の蔡公安に謁して延平・邵武の諸山賊攻めに従い、巡検から身を起こして功を重ね行省平章に抜擢された。何と偉いことか。人となりは勇敢沈着で任侠を好み、身を捨てて仇に報い生業を顧みず、明兵が境に迫っても義に反顧せず、使者を殺して諸将と盟い、城に籠って固守し、死を誓って元に報いた。まことに際立って優れた人物ではないか。
  • 群雄が割拠し中原が騒然としていたとき、友定は海運の利を借り、関門の険に乗じ、北は東甌を引き、南は嶺表を襟とし、兵を練り粟を積んで一方を専制した。無諸の業、閩越王の尊は座して得られたはずである。
  • そうでなくとも、徐煜が江南にあり銭俶が呉越に拠ったように、虚名を掲げて唐を奉じ、土地を挙げて宋に帰し、王侯に列して富貴を失わずにいれば、数世の利ともなった。
  • ところが友定の計はそこに出ず、終始、元のために働き、延平が落ちようとする中で慷慨して死に就き、毒を仰いで生き返り、父子ともに誅せられた。両端を持する智士、二心を懐く人臣を恥じ入らせるに足る。
  • その間、胡深を殺したのは狐疑が過ぎ、劉守仁が降ったのも猜疑が刻薄だったためで、友定の方略は必ずしも十全とは言えない。しかし謝英輔とバイ・ハマルは自ら縊れて終わり、金子隆と馮谷保も血戦して斃れた。田横が死ぬと義士がみな従い、李芾が自裁すると潭州城も皆それに続いたように、忠勇に激して腕をふるって顧みなかったのではないか。
  • ただ私が不思議に思うのは、至正の末はちょうど(南宋の)徳祐の末に似ており、内では判官が持ち場を離れ、外では印を委ねて城を棄て、一矢も交えず風を望んで降る者が相次いだ。元の部落の多くは奔り潰えたのに閩の人だけが扼して守り、京畿では散り失せる者が多かったのに閩の地だけが死守できたのはなぜか。おそらく、漢室が衰えようとするときに辺境が帰属を請い、晋の綱紀が解けたときに張駿が藩を称したのと同じで、辺境の絶域は中央の朝廷の虚実を測りかねていたからであろう。