明史紀事本末方国珍の降伏(方國珍降)

浙東黄巌の庶民から身を起こした方国珍が、割拠から降伏に至るまでの二十年を扱う。至正八年(1348年)に沿海で挙兵し、元の討伐を退けて温州・台州・慶元を占拠、劉基の討伐建議も退けられた。太祖には子の明完を人質に出して帰順を申し出ながら、元からは丞相の官爵を受け、北のココ・テムル、南の陳友定とも通じて二股をかけ続ける。呉元年(1367年)、太祖は十二の過ちを数え上げて朱亮祖・湯和・廖永忠を発し、台州・慶元・温州が次々に陥ちた。国珍は海に逃れたのち降伏し、詹鼎の草した謝罪の表によって許され、のち広西行省左丞を授かって天寿を全うした。

年表(13件)

至正八年(1348年)— 方国珍の挙兵

  • 浙東台州黄巌の人・方国珍が挙兵し、沿海の州県を掠奪した。元兵はたびたび討伐したが平定できなかった。

至正十三年 十月(1353年)— 劉基の建議と元への降伏

  • 当時、青田の劉基が浙東行省都事となり、方氏こそ乱の首謀であるから捕らえて斬るべきだと建議した。だが執政の多くは国珍から金を受け取っており、かえって基が擅に威福を行うと咎めて紹興に羈管した。結局、元は国珍の降伏を受け入れた。
  • 国珍は元の官職を受けたものの、実際には兵を擁して自守し、元の徴発に応じなかった。元も四方に事が多かったので、繋ぎとめるだけで問わなかった。まもなく国珍は叛いて温州・台州・慶元などの路を占拠した。

至正十八年 十二月(1358年)— 太祖の招諭

  • 太祖は婺州を下すと、典籤の劉辰を方国珍のもとへ遣わして招諭させた。国珍は弟と謀って言った。「今、元の運は終わろうとし群雄が並び起こっているが、江左(太祖)だけは号令が厳明で向かうところ敵がない。しかも今また東の婺州を下した。鋒を争うのは難しかろう。まして我らの敵は東に張士誠、南に陳友定がいる。ひとまず順従の姿勢を示して声援を借り、変化を見るに越したことはない」。

至正十九年 春三月丁巳(1359年)— 帰順の申し出と人質

  • 方国珍は劉辰に託して使者を送り、書を奉って黄金五十斤・白金百斤・金糸織りの文綺百端を献じ、力を合わせて張士誠を攻めたいと願い出た。太祖は許した。国珍は次子の関を人質に出したが、太祖は「およそ人質とは疑うからこそ取るもの。疑わぬのに何の質か」と言い、関に厚く賜って帰らせ、関の名を明完と改めさせた。
  • 国珍はさらに温州・台州・慶元の三郡の戸籍を納め、金を輸して軍を助け、銭鏐の先例に倣って土地を守り、事が定まれば献上したいと申し出た。

至正二十一年 三月戊寅(1361年)— 献上品の辞退

  • 方国珍が使者を送り、金玉で飾った馬鞍を献じた。先に太祖は使者に書を持たせて国珍を諭していた。「福は至誠に基づき、禍は反覆から生ずる。隗囂と公孫述を鑑とせよ」。国珍は恐れ、ここに至って検校の燕敬を送って献上した。
  • 太祖は「私は今、四方に事を構えている。必要なのは文武の才能ある人材であり、用いるのは穀物や布帛である。その他の珍玩は好むところではない」と言い、退けた。

至正二十四年 九月乙酉(1364年)— 平陽・瑞安の攻防

  • 方明善が平陽を攻めたが、元帥の胡深が撃破し、そのまま瑞安を下した。先に温州の土豪・周宗道が平陽をもって帰属したので明善が兵を率いて攻め、宗道が胡深に救援を求めていたのである。
  • 深は明善を破って瑞安を下し、兵を温州へ進めた。明善は恐れ、国珍と謀って毎年銀二万両を軍資として貢納すると申し出た。太祖は許し、深に軍を返させた。

至正二十五年 六月〜九月(1365年)

  • 六月壬子、参軍の胡海が楽清を攻めて下し、方国珍の鎮撫・周清らを捕らえて建康へ送った。
  • 九月、元は改めて方国珍を淮南行省左丞相とし、慶元に分省を置かせた。

至正二十六年 九月(1366年)— 元の官爵と国珍の両属

  • 元は方国珍を浙江行省左丞相に改め、国璋・国瑛・国珉および国珍の子・明善をいずれも平章政事とした。
  • はじめ国珍は三郡を献じると言いながら実際には土地を納めず、ただ表向き声援を借りて元に対抗しようとしていた。元がたびたび官爵を加えると国珍はいよいよ驕横になり、沿海の諸郡県を占拠して正朔を奉じようとしなかった。
  • 当時、太祖は張士誠・陳友諒と兵を交えていて討伐に赴く暇がなく、たびたび博士の夏煜・楊憲を遣わして諭したが、国珍は二股をかけ続けた。太祖はこれを聞いて笑い、「しばらく放っておこう。私が蘇州を克ったあとで正朔を奉じたいと言っても遅い」と言った。

呉元年(元至正二十七年、1367年)九月甲戌 — 討伐の発令と太祖の書

  • 参政の朱亮祖に方国珍討伐を命じた。国珍は詐術を抱いて反覆し、杭州を克てば土地を納めると言いながら、大軍が杭州を克ってもなお従来どおり自ら拠っていた。たびたび貢献にかこつけて虚実を探り、叛くか服すかを計り、また北はココ・テムルと通じ、南は陳友定と結んで犄角の勢をなそうと図った。
  • 太祖は書を送ってその十二の過ちを数え上げ、あわせて貢糧二十万石を徴して言った。「杭州を克つ日は近い。公はなぜ約を破ったままなのか。張士誠は公と境を接しており、公を取るのは枯れ葉を振り落とすようなものだ。それをあえてしないのは、誰がいるからか。私は朝夕に姑蘇を下し、たちまち公の境に至る。城を背にして一戦するのも丈夫のなすことだ。さもなくば去って海に入るのも一策だろう。しかし古来、海上で老いた者はいない。公はよく考えよ」。
  • 国珍は恐れ、弟や甥、将佐と謀った。郎中の張本仁は「江左は今まさに張氏を図っており、勝敗は分からない。境を越えて人を攻める余力はありますまい」と言った。劉席は「江左は歩騎が多く、平地でこそ使えるもの。我らの海船をどうできましょう」と言った。
  • 丘楠は言った。「いずれも主君の福ではありません。智によってのみ事を決し、信によってのみ国を守り、直によってのみ兵を用いられます。かつて江淮の間に豪傑が並び起こり、誰もが帝たらんとしましたが、鼎足を分けたのは漢(陳友諒)と二つの呉(張士誠と太祖)だけでした。漢人は敢戦して怯まず、九江でなお死力を尽くしました。張氏の呉は穴の中の鼠のようで、敗れるのは目に見えていました。 江左は法が厳しく軍威があり、諸将は通過する先々で秋毫も犯さず、得た府庫は封印したまま主君に奉ります。これぞ弔民伐罪の心であり、必ず天下を得ましょう。しかも既に漢を併せ、勢いは張氏をも兼ねようとしています。公が浙東を経営して十余年、三郡を越えられませんでした。今、早く決断しなければ智とは言えません。自ら銭鏐に擬えながら背いているのは信とは言えません。我らが信を欠きながら彼に出兵を責めるのは直とは言えません。与するに越したことはありません」。国珍はこれを用いなかった。

呉元年 九月〜十月(1367年)— 台州・黄巌・仙居の攻略

  • 朱亮祖に馬歩・舟師を率いて討伐させた。台州は国珍の弟・国瑛が占拠していた。己丑、亮祖は新昌に駐屯し、部将の厳徳に関嶺山の寨を攻めさせて平らげた。
  • 辛卯、天台に至ると守将の湯盤が城を挙げて降った。進んで台州を攻めると国瑛が兵で拒み戦ったが撃破した。厳徳は戦死した。
  • 亮祖が台州に至ると、国瑛は逃げようとしたが、折しも国珍が慶元に入って兵を整え籠城の計を立て、使者に「堅く守って去るな」と伝えさせた。国瑛はようやく将士を統率して城に拠って守ったが、士卒の多くは恐れて逃げ去った。亮祖らが急攻すると、辛丑、国瑛は支えきれぬと見て巨艦に妻子を載せ、夜に興善門から出て黄巌へ逃げた。亮祖は入城して撫定した。
  • 十月、黄巌へ進軍した。国瑛はまた海上へ逃げ、党のハラロウを残して黄巌を守らせたが、ハラロウは城を挙げて降った。亮祖は兵を分けて仙居などの県を下した。国珍はこれを聞いて気力を失った。

呉元年 十月癸丑〜十一月(1367年)— 慶元の攻略

  • 癸丑、湯和を征南将軍、呉禎を副将軍とし、常州・長興・宜興・江淮の諸軍を率いて慶元の方国珍を討たせた。太祖は諭した。「お前たちは詔を奉じて罪を伐つのだ。殺戮をほしいままにするな。徐達が姑蘇を下したときのように平定して安集するのが、私の願いだ」。
  • 十一月、呉禎は舟師を率いて潮に乗じ、夜に曹娥江に入り、堰を崩して道を通し、不意を突いて軍廐に至った。降兵が国珍は既に海へ逃げたと言ったので、禎は兵を整えて追撃した。
  • 湯和の兵は紹興から曹娥江を渡り、余姚に進んで知州の李樞と上虞県令の沈煜を降し、慶元の城下に進んで西門を攻めた。院判の徐善らが父老を率いて出迎えて降った。国珍は海船で逃げ、和は兵を率いて追撃して破った。国珍は残る衆を率いて海へ入った。
  • 和は兵を分けて定海・慈渓などの県を攻略し、軍士三千人、戦船六十艘、馬二百余匹、銀六千九百余錠、糧三十五万四千六百石を得た。

呉元年 十一月(1367年)— 温州・瑞安・盤嶼島

  • 朱亮祖は黄巌から温州へ進み、城南七里に陣を敷いた。国珍は子の明善に兵を率いさせて拒み戦わせたが、亮祖が撃破し、太平寨を破って城下まで追った。残兵は潰えて城に逃げ込んだ。
  • 亮祖は部将の湯克明に西門、徐秀に東門を攻めさせ、柴虎に遊軍で策応させた。夕刻に城を克ち、員外郎の劉本善を捕らえた。国瑛らは逃げた。
  • 亮祖はその民を撫し、兵を分けて瑞安を攻略すると守将の同僉・喩伯通が降った。そのまま舟師を率いて呉禎と合し、楽清の盤嶼島に方明善を襲い、夜の三更にこれを克ち、戦艦と士馬を大量に獲た。

呉元年 十一月〜十二月(1367年)— 方国珍の降伏

  • 国珍が海島に逃げると、己丑、太祖は廖永忠を征南副将軍として師を率いて海路から湯和らの兵と合流して討たせた。その部将の多くが降り、諸郡県は相次いで下り、国珍は狼狽して途方に暮れた。
  • 湯和らは改めて人に書を持たせて招き、朝廷の威徳を諭し、天命の所在を述べた。国珍はやむを得ず郎中の承広と員外郎の陳永を送って降伏を乞い、さらに子の明克と甥の明鞏らを送って、省と院の印および諸々の銀印・銅印二十六、銀一万両、銭二千緡を湯和に納めた。
  • 丙申、朱亮祖の兵が黄巌に至ると、方国珍と兄の子・明善が一族を率いて降った。
  • 国珍は子の明完に表を奉じて謝罪させた。太祖ははじめその反覆を怒っていたが、表を読んで憐れんだ。表はその臣・詹鼎が草したもので、文辞は明晰で恭しかった。太祖は表を読んで「誰が方氏に人物なしと言ったか」と言い、書を賜って「私は投誠を誠意と見なし、以前の過ちを過ちとしない」と述べた。
  • 辛亥、国珍と弟の国珉が部属を率いて湯和の軍門に謁見した。士馬と舟楫は数万を数えた。和は国珍らを京師に送った。
  • 太祖は国珍を責めた。「公はなぜ反覆して曖昧な態度を取り、私の軍を煩わせたのか。思うに公の側近が小智を弄して公に教え、公が自ら決断できなかったのだろう」。そしてその臣をすべて召し、丘楠を韶州同知とした。また表が詹鼎の手になると知って官を授け、その他はみな濠州へ移住させた。浙東はすべて平定された。
  • のち太祖が即位すると国珍を厚遇し、京師に邸を賜り、宴席では功臣に次ぐ位に据えた。まもなく広西行省左丞を授けて朝請に列させた。ある日、宴に侍って坐したまま立てなくなり、輿で帰された。太祖はその二子を官に取り立て、国珍に見せてやったという。国珍は天寿を全うした。

史論(谷応泰曰)

  • 至正八年、方国珍は黄巌の一庶民から真っ先に反乱の口火を切り、揭竿して乱を倡え、西は括蒼に拠り南は甌越を併せた。元兵はたびたび討ってもついに平らげられなかった。そのため五年のうちに太祖が濠城に、士誠が高郵に、友諒が蘄・黄に起こり、いずれも南面して雄を称し、大郡を擁するに至った。国珍は聖王のための露払いであると同時に、群雄の禍の始まりでもある。
  • しかし国珍は土地が狭く力も乏しく国を張るに足りず、糧は乏しく援けは絶えて敵を迎えるに足りなかった。こういう場合は、識見が人に過ぎて真に天命を知り、陳嬰が兵を漢の高祖に属したように、馮異が地を光武に帰したようにすれば、功は誓約に刻まれ名は雲台に残り、善く始め善く終われたはずである。ところが国珍は市井の徒、器の小さな人物で、定見がなかったのももっともである。
  • 国珍は智が曇って木を択ぶ(主君を選ぶ)ことができず、鼠が穴の口で首を出し入れするような心を抱いていた。明の侵攻を恐れれば元の招撫を受けて虚勢を強め、元の追及を恐れれば明に帰順を申し出て外からの防壁とした。陳友定に忠を尽くしたのは、河朔の劉琨、西涼の張氏を気取ったつもりか。明の太祖に子を人質として侍らせたのは、下江の王常、呉越の銭俶を気取ったつもりか。まさに歯を剥き尾を振るという定まりなき振る舞いで、明が興隆すれば鬼蜮のごとき恥を残し、仮に元兵が後に盛り返しても鯨鯢として斬られただろう。首尾が食い違って、どちらとしても成り立たない。
  • それでも彼が狡猾な謀に頼って両方に曖昧な態度を取り続けたのは、大国の間に挟まれて年月を引き延ばして命を保つためにすぎない。
  • しかし結局、友諒の凶暴強大も、士誠の裕福さも、いずれも先に滅ぼされ、国珍が弾丸ほどの地でかえって長らえて後に亡んだのは、国珍が守りに巧みだったからではなく、太祖が兵を用いるのに巧みだったからである。太祖の考えでは、兵を用いるのは木を割るのに似て、まず堅い所を割り、節目は後回しにする。ゆえにまず呉と漢を平らげ、のちに国珍を議した。緩急の勢いは動かしがたい。
  • その間、国珍の貢納を許したのが一度、使者を送って招諭したのが二度、さらに人質を返して過失をひとまず不問にした。呉と漢は門先の賊で赴くのは急ぐべきだが、国珍は籠の鳥で取るのは容易だったのである。米が山と積まれ谷が満ちて天水を目中に収めたようなもので、真に「兵は白髪になる」と言って隴と蜀を度外視したわけではない。
  • 結局、六師が加わると海島に逃げ、計尽きて命に帰し、京師に送られた。「禍の始めをなすな」「乱を始めるな」という言葉のとおり、国珍の分不相応な割拠は、ちょうど新しい主君の資となっただけであった。