明史紀事本末太祖、呉を平定する(太祖平呉)
塩の仲買人から身を起こした張士誠と、朱元璋との十五年にわたる抗争を扱う。至正十三年(1353年)の泰州挙兵に始まり、士誠は高郵で元のトクトに大敗しながら再起して平江を拠点に呉王を称した。太祖側は耿炳文の長興、湯和の常州、呉良兄弟の江陰を東南の屏障として守り抜き、李文忠・胡徳済が諸全・新城で大勝する。淮東を平定したのち至正二十六年(1366年)に徐達・常遇春が二十万で出撃し、湖州・杭州・嘉興を落として平江を包囲。呉元年(1367年)九月に城は陥ち、妻の劉氏は斉雲楼に自焼し、士誠は建康へ送られて自ら縊れて死んだ。
年表(29件)
- 至正十三年 夏五月— 張士誠の挙兵1353年張士誠が十八人と泰州に挙兵し高郵を陥れる
- 至正十四年 冬十一月— 高郵の攻防1354年元の丞相トクトが高郵を克ち、士誠は十八騎で逃れる
- 至正十六年 春二月〜九月— 平江占拠と太祖との通交決裂1356年士誠が平江を陥れ、通好の書を拒んで開戦し、弟の士徳を失う
- 至正十七年 春二月〜三月— 長興と常州の攻略1357年耿炳文が長興を、湯和が常州を得て守りに就く
- 至正十七年 夏五月〜六月— 太湖・泰興・江陰1357年俞通海が太湖を制し、常遇春らが江陰を取って呉良に守らせる
- 至正十七年 秋七月〜八月1357年常熟・馬駄沙を取られた士誠が元に降伏を請う
- 至正十八年 春二月〜三月— 海寇の討伐と建徳の攻略1358年桑世傑が戦死しつつ海寇を破り、建徳路を克つ
- 至正十八年 夏六月〜十二月— 常州・常熟の防衛、宜興の攻略1358年宜興を糧道断ちで克つが、廖永安が呂珍に捕らえられる
- 至正十九年 春正月〜三月— 諸暨州、江陰の防衛1359年胡大海が諸暨を取り、呉良兄弟が江陰で士誠の大軍を破る
- 至正十九年— 紹興、常州、分水1359年馮国用の死で紹興を失うが、分水で士誠を破り建徳への道を絶つ
- 至正二十年1360年杭州攻めに失敗し、諸全で袁実が戦死する
- 至正二十一年 秋八月〜冬十一月— 長興の攻防1361年李伯昇十万の長興包囲を常遇春の救援で解く
- 至正二十二年 春二月〜冬十一月— 諸全の防衛1362年李文忠の虚声の計と胡徳済の夜襲で張士信を潰走させる
- 至正二十三年 春二月〜三月— 安豊の救援1363年呂珍が劉福通を殺すが、太祖が自ら出て安豊を救う
- 至正二十三年 夏四月〜九月— 謝再興の叛乱と新城の築城1363年謝再興が叛いて降り、諸全の傍らに新城を築く
- 至正二十三年— 張士誠の呉王僭称1363年士誠が自ら呉王を称し姑蘇に宮室を営む
- 至正二十四年 夏四月〜秋八月— 元の官への圧迫と呉の内政腐敗1364年ダシ・テムルとブハ・テムルが自死し、士信の乱政が進む
- 至正二十五年 春正月〜二月— 長興の防衛と新城の戦い1365年李文忠が新城で李伯昇二十万を大破する
- 至正二十五年 冬十月〜十二月— 淮東の攻略1365年徐達・常遇春が泰州・興化を取って淮東を切り崩す
- 至正二十六年 春正月〜三月— 江陰の防衛と高郵の攻略1366年江陰を守り抜き、徐達が高郵を克つ
- 至正二十六年 夏四月— 淮安・興化・濠州の攻略1366年梅思祖が淮安を献じ、故郷の濠州も回復して淮が平定される
- 至正二十六年 八月— 呉討伐の発令1366年徐達を大将軍として二十万を発し、先に湖州を取る策を定める
- 至正二十六年 八月〜十一月— 湖州の攻略1366年旧館の呂珍・五太子らが降り、張天騏が湖州を挙げて降る
- 至正二十六年— 杭州・紹興・嘉興の帰順1366年潘原明が杭州を献じ、紹興・嘉興も相次いで降る
- 至正二十六年— 平江(姑蘇)の包囲1366年諸将が門を分けて平江を囲み、襄陽砲と敵楼で圧する
- 呉元年(元至正二十七年、)春二月〜夏六月 — 平江の攻防1367年俞通海が矢傷で死に、士誠の突出を常遇春が大破する
- 呉元年 夏六月— 李伯昇の使者と士誠への説得1367年使者が天命を説いて帰順を勧めるが士誠は決しない
- 呉元年 六月〜九月— 平江の陥落と張士誠の死1367年平江が陥ち、劉氏が自焼し、士誠は建康で縊れて死ぬ
- 呉元年— 論功行賞と太祖の戒め1367年李善長・徐達・常遇春を国公に封じ、中原平定を命ずる
至正十三年 夏五月(1353年)— 張士誠の挙兵
- 泰州の張士誠が挙兵し、高郵を陥れた。士誠は白駒場亭の民で、塩場の綱司の仲買人だった。弟の士徳・士信とともに塩の密売で不正な利を得ていたが、財を軽んじ施しを好んだので人望があった。乱に乗じて仲間の李伯昇・潘原明・呂珍ら十八人と兵を集め、泰州を陥れた。
至正十四年 冬十一月(1354年)— 高郵の攻防
- 元の右丞相トクトが高郵を囲み、張士誠が兵を率いて迎え撃ったが、トクトが奮撃して大破した。士誠は支えきれず、呂珍・潘原明ら十八騎で包囲を突破して逃げ、トクトは高郵を克った。
至正十六年 春二月〜九月(1356年)— 平江占拠と太祖との通交決裂
- 二月、張士誠が平江を陥れた。トクトが失脚して追われると、士誠は亡命先から再び衆を集め、海を渡って平江を攻め陥れ、松江・湖州・常州の諸郡を掠めていずれも下した。
- 九月、徐達が常州を囲んだ。もと常州の奔牛壩の人・陳保二が衆を集め、黄色の頭巾で頭を包んで「黄包軍」と号していた。湯和らが鎮江を下すと保二は降ったが、ここで再び叛いて張士誠に帰し、詹・李の二将を誘って捕らえ連れ去った。
- 乙亥、太祖は楊憲を遣わして士誠と好を通じた。その書の要旨。「近ごろ足下の兵が通州を経て呉郡を有したと聞く。昔、隗囂は天水に拠って雄を称した。今、足下は姑蘇に拠って自ら王となった。足下のために深く喜ぶ。私と足下は東西の境を接している。隣と睦まじく国境を守り、境を保って民を安んずるのは古人の貴んだところで、私も慕っている。今後は使者を往来させ、仲を裂こうとする言葉に惑わされて国境の争いを生じさせぬようにしたい」。
- 士誠は自分を隗囂に比されたのを不快とし、楊憲を拘留して帰さなかった。まもなく我が斥候を誘い、舟師で鎮江を攻めた。徐達らが防いで龍潭でその軍を破った。さらに宜興を侵し、耿君用は鎧をつけて柵に登ったところを槊に貫かれて死に、宜興は士誠の手に落ちた。
- 太祖はこれを聞いて徐達に諭した。「張士誠は行商から身を起こし、詐術が多い。今、鎮江を侵したのは既に交わりを変えたということだ。速やかに出兵して毘陵(常州)を攻め、機先を制して進取し、その詐謀を挫け」。
- 達は師を率いて常州を攻め、その塁に迫った。士誠は弟の張九六に数万を率いさせて救援に来た。達は「張九六は狡猾で戦上手だ。その勢いに乗らせては当たれない。計略で取る」と言い、城から十八里の地点に伏兵を置き、総管の趙均用に鉄騎を率いさせて奇兵とした。達が自ら督戦して九六と戦い、矛を交えたところで均用の鉄騎がその陣を横から突き、陣は乱れた。九六は馬を駆って逃げたが伏兵に遭い、馬が倒れて先鋒の刁国宝・王虎子に捕らえられた。九六とは士誠の弟の士徳で、猛悍かつ知謀があり、士誠が諸郡を陥れたのはその力によるところが多かった。捕らえられて士誠は気勢を削がれた。
- 十月、華雲龍・王弼らが士誠の弟・士信を旧館で破り、驍将の湯元帥を捕らえた。士誠は連敗して書を奉って和を請い、糧二十万石・黄金五百両・白金三百斤を軍の慰労に供すると申し出た。太祖は返書でその開戦と兵を招いた罪を数え上げ、我が使臣と将校を返せば直ちに軍を退くと約したが、士誠は返答しなかった。
- 十一月、士誠は我が新附の軍を誘って叛かせ、加勢させて戦った。徐達は牛塘で包囲されたが、兵を整えて戦い、常遇春・廖永安・胡大海が外から救援して挟撃し大破、その将・張徳を捕らえた。残兵は城に逃げ込み、達は諸軍で包囲した。士誠は将の呂珍をひそかに入城させ、兵を督して固守させた。
至正十七年 春二月〜三月(1357年)— 長興と常州の攻略
- 二月丙午、耿炳文らに長興を取らせた。張士誠の将・趙打虎が兵三千で迎え撃ったが破り、城の西門まで追った。打虎は湖州へ逃げた。
- 戊申、長興を克ち、守将の李福・安達実密らを捕らえ、戦船三百余艘を獲た。永興翼元帥府を立て、耿炳文に兵を統べて守らせた。
- まもなく士誠が偽左丞の潘原明と元帥の厳再興を侵入させたが、炳文が撃破し、数百人を生け捕り、斬首も多かった。原明らは逃げ、部将の費聚が瑣橋まで追って破った。以後四年、士誠は長興を犯せなかった。
- 我が師の常州包囲が長引くと、敵は食に窮して支えきれず、呂珍らもひそかに逃げ去った。三月戊午、常州を克った。長春枢密院を立て、湯和を同僉総管として兵を統べて守らせた。
至正十七年 夏五月〜六月(1357年)— 太湖・泰興・江陰
- 五月、俞通海・張徳勝らが舟師で太湖を攻略し、馬跡山に入って賊の水寨を衝き、張士誠の将・王貴と紐津を降した。洞庭山の口を通ったとき呂珍の兵が突然現れ、諸将は慌てて退こうとしたが、通海は「いけない、我らは寡兵だ」と言って自ら士卒に先んじて決戦した。矢が右目に当たったが動じず、壮士に自分の兜をかぶらせて船上に立たせ「俞将軍だ」と言わせた。呂珍はあえて迫らず引き揚げた。
- 両淮分院副使の張鑑と同僉の何文正に泰興を攻めさせた。士誠が救援を送ったが撃破し、その将・楊文徳らを捕らえた。己卯、泰興を克った。
- 六月、常遇春、分院判官の趙継祖、元帥の郭天禄、鎮撫の呉良らに江陰を取らせた。士誠の兵が秦望山に拠って防いだが、継祖らが攻めたところ大風雨に遭って敵兵は潰走し、我が師が山を占拠した。翌日己未、城の西門を攻めて克った。呉良を分院判官に抜擢して守備させた。
- 江陰は姑蘇からわずか百余里の近さで、大江を扼して東南の要衝に当たる。まもなく弟の呉禎に兵を増やして協力鎮守させた。良らは力を尽くして備えを固め、軍容は甚だ盛んで、敵が来るたび破って追い払った。
至正十七年 秋七月〜八月(1357年)
- 七月丁丑、徐達らが常熟を下した。
- 八月、徐達・常遇春・康茂才が江陰の馬駄沙を襲って克ち、元帥の費子賢が武康を下した。士誠は連敗して勢いが日々窮し、南に嘉興・杭州を攻めたがまた楊オンジャルに破られ、そこで元に降伏を請うた。ただし降ったとはいえ、城池・甲兵・銭穀はすべて従来どおり自ら握っていた。
至正十八年 春二月〜三月(1358年)— 海寇の討伐と建徳の攻略
- 二月、廖永安・俞通海・桑世傑らに張士誠を討たせた。江陰の石牌で海寇の偽帥・欒瑞が州判の朱錠らを率いて兵を整えて拒み戦った。世傑は戈を振るい馬を躍らせて陣に突入して戦死したが、永安らが奮撃して大破し、欒瑞・朱錠を捕らえ、その海船をすべて獲た。
- 三月、鄧愈・李文忠・胡大海が徽州の昱嶺関から建徳路に進攻した。遂安を通るとき長槍元帥の兪子貞に遭って撃破し、淳安まで追った。遂安の守将・洪某が五千を率いて救援に来たが、大海がまた破った。軍が建徳に至ると、元の参政ブハらは支えきれず城を棄てて逃げた。
- 丙申、建徳路を克った。李文忠を帳前総制親兵指揮使として守らせた。文忠は太祖の姉の子である。当時、建徳は落ちたばかりで守備が整わず、士誠は手下に苗獠を率いさせて水陸から城下に迫ったが、文忠は奇兵を出して大破した。斬った首と捕虜を大筏に載せて流し下すと、水上の賊もこれを見て逃げた。
至正十八年 夏六月〜十二月(1358年)— 常州・常熟の防衛、宜興の攻略
- 六月、士誠の兵が常州を侵したが、湯和が力戦して破り、兵三百人を捕らえた。さらに常熟を侵したが、廖永安が福山港で戦って大破し、通州の狼山まで追って戦艦を獲て帰った。
- 九月、元の苗帥・左丞の楊オンジャルが張士誠に殺された。先に江淮が乱れて元兵がたびたび敗れると、苗兵が使えるという議が起こり、湖広から招き寄せた。たびたび張士誠の兵を破って左丞まで昇進したが、苗の性は貪残で殺戮を好み、通過する先々で掠奪と虐殺を行い、郡県は苦しんだ。士誠は苗軍に窮したが、降伏後にこれを図ろうとし、元のダシ・テムルもオンジャルの驕横で制しがたいのを厭うたので、ひそかに計を定め、士誠の兵で包囲させた。オンジャルは敗れて自殺した。丁酉、その部将の員成・蔣英・劉震らが部下を率いて李文忠に降った。オンジャルの死で士誠はいよいよ憚るものがなくなり、まもなく兵を送って杭州・嘉興を占拠し、ダシ・テムルはどうすることもできなくなった。
- 冬十月、士誠の兵が常州を侵したが、湯和らが撃破し、甲士千余人・舟千艘・馬千匹を捕獲した。
- 甲戌、宜興を克った。徐達・邵栄が宜興を攻めて長く落ちず、太祖は使者を送って言った。「宜興は城が小さく堅固で、にわかには抜けまい。聞けばその城の西は太湖に通じ、張士誠の兵糧の道が出る所だという。糧道を断てば城中の食が尽き、必ず破れる」。達は丁徳興に兵を分けて太湖の口を絶たせ、力を合わせて急攻し、城はついに破れた。
- 宜興を抜くと廖永安が舟師で太湖の士誠軍を撃ち、勝ちに乗じて深入りしたところ呂珍に遭って不利となり、捕らえられた。屈しなかったので士誠は幽閉した。太祖は捕虜の将士三千人と永安を交換しようとしたが士誠は従わず、士誠の母は士徳を思って永安と士徳を交換したがったが太祖も許さなかった。士徳はまもなく謀られて殺された。
- 楊国興が太湖の口から出て諸将とともに湖州へ向かい、旧館を攻めて張士信の兵を破り、また宜堰口の二十六寨を平らげた。太祖は国興に元帥の沈仁らを総督させて守らせた。国興が慰撫して集めたので民が多く帰属し、宜興に城を築いた。三月で城は完成した。士誠が水陸から侵入したが、国興が諸将を率いて撃破し、士誠は逃げた。
至正十九年 春正月〜三月(1359年)— 諸暨州、江陰の防衛
- 正月庚申、胡大海・李文忠が諸暨州を取った。張士誠の将・華元帥は逃げた。まもなく士誠は呂珍に兵を率いさせて諸暨を囲み、水を堰き止めて城に注いだ。大海は救援に赴き、堰を奪って水を呂珍の軍に注いだ。珍は窮して馬上で矢を折り、兵を退くと誓った。大海がこれを容れようとすると、都事の王愷は「賊は狡猾で信じがたい。撃つに越したことはない」と諫めた。大海は「彼が本当に来れば迎え撃つ用意がある。しかも言葉を出しておいて背くのは不信であり、放してから撃つのは不武だ」と言い、そのまま帰らせた。
- 二月、士誠の兵が江陰を侵し、艨艟が江を覆った。偽将の蘇同僉なる者が君山に大将旗を立て、指図して進攻の構えを見せた。守将の呉良は「彼は多勢、我は寡勢。計で破るべきだ。軽々しく動くな」と令した。しばらくして敵が江辺に陣を敷くと、良は弟の呉禎に兵を整えて北門でその西北面に当たらせ、十余騎で踏み込ませ、数人を捕らえた。敵はもう前に出られず、兵を分けて東門を攻めようとしたが、良は元帥の王子明を馳せ向かわせて撃ち、将士五百人を捕らえ、殺され溺れた者も甚だ多かった。敵は大敗して夜のうちに逃げた。
- 当時、賊はたびたび常州を侵したが、呉良と弟の呉禎の守備は方策があり、敵が来るたび破って追い払った。士誠は度重なる敗北で気力が尽き、以後は境を犯さなかった。太祖は良を召して労った。「呉院判は一方を保障し、私に東を顧みる憂いをなくしてくれた。その功は大きい」。車馬・珠玉を賜っても足りぬとして、諸儒臣に詩文を作って称えさせた。
- 先に士誠は北に淮海を有し、南は浙西に拠っていたが、長興と江陰はいずれもその要害だった。長興は太湖の口を扼し、陸路は広徳の諸郡に通じる。江陰は大江に枕して姑蘇・通州の渡河点を扼する。長興を得れば士誠の歩騎は広徳に出て宣州・歙州をうかがえず、江陰を得れば士誠の舟師は大江をさかのぼって金山・焦山に達しえない。かくて侵入の路は絶たれた。
- 平章の邵栄が臨安から湖州へ進攻したが不利で臨安に戻って屯した。李伯昇が攻めてくると、山下に伏兵を置き、「敵が来ても動くな。山上に旗が揚がったら一斉に撃て」と戒めた。伯昇は果たして急に押し寄せ、伏兵に遭って敗れた。我が師は帰還した。
- 三月、張士誠が建徳を侵したが、李文忠は東門で防ぎ、別将をひそかに小北門から出し、間道で鮑婆嶺を過ぎ碧鶏塢から敵陣の背後に回らせて大破した。士誠がさらに厳州を侵して大浪灘に至ると、文忠は部将の何世明に精鋭を率いさせて西の烏龍嶺に出、胥口で戦って敗走させた。士誠の兵が分水嶺に拠ると、世明が進撃して五百余級を斬った。
至正十九年(1359年)— 紹興、常州、分水
- 太祖が自ら紹興を取り、馮国用に守らせたが、国用は軍中で死に、士誠は再び兵を送って紹興を陥れた。
- 九月、張士誠が常州を侵したが、呉復が兵を督して忠節門から出て奮撃し大破した。呉良は間道から無錫の三山でその援兵を殲滅し、士誠の兵は狼狽して気力を失い引き揚げた。
- 十二月、士誠は分水の敗戦に憤り、再び兵を送って分水・新城の三渓に拠らせた。何世明が撃って陸元帥・花将軍ら千余人を斬り、その営を焼いた。以後、士誠は建徳・婺州をうかがえなくなった。まもなく建徳を厳州府と改めた。
至正二十年(1360年)
- 三月、常遇春が杭州を攻めたが克てなかった。
- 九月、張士誠の兵が諸全を侵し、守将の袁実が戦死した。呂珍と徐義が太湖から三路に分かれて長興を侵したが、耿炳文が撃破した。総管の湯全・張琪は殺された。
至正二十一年 秋八月〜冬十一月(1361年)— 長興の攻防
- 八月、胡大海が紹興を攻めたが、部将の張英が勇に頼って軽々と進んで城下で伏兵に遭い戦死した。大海は兵を引いて帰った。
- 十月、張士誠が将の李伯昇に長興を侵させた。衆は十余万、水陸から進んで勢いは甚だ鋭く、城中の守兵はわずか七千だった。耿炳文が迎え撃ち、諸将の陳徳・華高・費聚らが三路から救援に向かったが、伯昇が夜に営を襲って諸将はみな潰えた。炳文は城に籠って固守し、伯昇は全兵で囲み、九つの寨を結んで楼車を作って城中を見下ろし、土石を運んで濠を埋め、火船で水関を焼いて攻撃を強めた。炳文は昼夜敵に応じ、内外の連絡は絶えた。
- 一か月余りののち、十一月戊午、九江にいた太祖が報せを受け、急ぎ常遇春に兵を率いさせて救援に向かわせた。伯昇は遇春到着を聞いて営を棄てて逃げ、遇春が追撃して捕虜と斬首は五千余人となった。
至正二十二年 春二月〜冬十一月(1362年)— 諸全の防衛
- 二月、金華・処州の苗帥が叛き、張士誠はその隙に乗じて弟の士信と同僉の呂珍に兵十万を率いさせて諸全を囲んだ。守将の謝再興は二十九日にわたって激戦したが決せず、厳州へ走って李文忠に急を告げた。
- 文忠は厳州の兵が少なく、しかも桐廬の賊境に近接し、衢州・信州の兵は江西へ出ていて援軍を出せなかった。金華で「兵は虚声を貴ぶ」と議し、義烏の古朴嶺に高札を掲げ、「平章の邵栄が兵五万を率いて江右から、右丞の徐達が兵五万を率いて徽州から出、金華で会して期日に諸暨に至る」と触れさせた。賊は高札を見て互いに伝え合い、呂珍は五里退いて営を構え決戦を待とうとした。
- 折しも胡徳済が李文忠の檄を得て信州から救援に来た。降兵の話で賊情の虚実がすべて分かり、徳済は謝再興と門を分けて守り、夜半に軍士に食を十分とらせ、一つの鼓を合図に城を出た。鉦鼓と銃砲が天地を震わせ、賊は驚き乱れ、人馬が奔走して互いに踏み合った。徳済が兵を督して追撃し、士信は大潰して逃げた。
- 十一月、池州の帥・羅友貴が神山寨に拠って張士誠と通じようとし、杭州・歙州が動揺したが、常遇春・趙徳勝が撃って斬った。
至正二十三年 春二月〜三月(1363年)— 安豊の救援
- 二月戊寅、浙江行省を厳州に移した。当時、張士誠がたびたび諸全を侵し、李文忠は金華に駐屯していて救援が間に合わなかったため、省の治所を厳州に移し、徐司馬を残して金華を守らせた。
- 三月、張士誠の呂珍が十万を率いて安豊の劉福通を囲んだ。福通は間道から救援を求めたが、珍は安豊を破って福通を殺し、その城を占拠した。韓林児は滁州へ逃げた。
- 太祖は徐達・常遇春らを率いて討伐に赴いた。珍は城に拠って柵を並べ、汪元帥がその中央の塁を攻めて抜いた。折しも左右の軍が敗れ、堀に阻まれて出られなくなったが、遇春が横から撃って三戦三勝し、珍は大敗した。廬州の左君弼が出兵して珍を助けたが、これも破り、珍と君弼はともに逃げた。そこで達らに軍を移して廬州を囲ませた。元将のジュチェ・シドゥがその隙に安豊に入った。
至正二十三年 夏四月〜九月(1363年)— 謝再興の叛乱と新城の築城
- 四月乙丑、諸全守将の謝再興が叛いて張士誠に降った。再興が人を杭州へ遣わして私に交易させたので、太祖は軍中の事が漏れるのを怒り、再興を召して責め、参軍の李夢庚にその軍を節制させ、再興を帰して指図に従わせた。再興は恐れて知州の欒鳳を殺し、夢庚を捕らえ、諸全の軍馬を率いて紹興へ赴き左丞に降った。李文忠は乱を聞いて胡徳済に五指山下に屯させて備えさせた。
- 九月、謝再興が張氏の兵で東陽を侵した。李文忠は厳州から鋭卒を率いて百六十里を馳せて救援に赴き、壬午、義烏で賊に遭って撃破した。胡深も処州から救援に来て、文忠と議し、諸全を守れなければ衢州も持たぬとして、諸全から六十里の五指山の傍らに新城を築いた。十日足らずで城は完成した。太祖は胡徳済を行省参政として守らせた。まもなく士誠の将・李伯昇が大挙して侵入し城を囲んだが、城は堅くて抜けず引き揚げた。
至正二十三年(1363年)— 張士誠の呉王僭称
- このとき太祖は陳友諒討伐からまだ帰っていなかった。張士誠はかつてダシ・テムルを脅して王に封ずるよう求めたが返答がなかったので、自ら王を称し、国号を呉と改め、姑蘇に宮室を造営して官属を置いた。元が使者を送って糧を徴したが与えなかった。
至正二十四年 夏四月〜秋八月(1364年)— 元の官への圧迫と呉の内政腐敗
- 四月、俞通海・汪興祖が兵を率いて劉家港を掠め、通州に迫って張士誠の兵を破り、院判の朱瓊ら百余人を捕らえた。
- 八月、張士誠は弟の士信にダシ・テムルの罪を面と向かって数えさせ、老病を自ら申し立てて位を退くよう強い、将佐を脅して「江浙丞相は士信でなければならぬ」と上申させ、符印を奪って達実を嘉興に幽閉し、士信自ら丞相となった。さらにブハ・テムルを脅して元に上奏させ真の王にしてもらおうとしたが、ブハは従わなかった。士誠が使者を紹興へ送ってその印を奪おうとすると、ブハは印を封じて庫に納め、「我が首は斬れても印は渡さぬ」と言い、毒を仰いで死んだ。達実はこれを聞いて「大夫が死ぬのに私が生きて何になる」と言い、同じく毒を仰いで死んだ。
- 士誠が江浙を独占した当時、浙西は豊かで、士誠兄弟は驕り怠けて決断がなく、政は文吏に任せきりだった。ただ士誠は重厚寡黙で士を好み、景賢楼を築き、士人は賢愚を問わず車馬や住居を意に満ちるほど与えられたので、集まってくる者も多かった。
- 士誠の用兵は弟の士徳と部将の史椿を謀主として頼っていた。のち士徳が捕らえられ、史椿は讒言で淮安の守備に出された。数年後、椿は士誠に見込みがないと見て、使者に書を持たせて降伏を約したが、謀が漏れて士誠に殺された。
- そこで政を弟の士信に委ねたが、士信は荒淫で、出征にも博打道具や蹴鞠を持参し、婦女を侍らせて酒宴に耽った。将を任命しても寝たまま起きず、官爵や良田美宅を要求し、赴任しても土地を失い軍を喪うことが多かったが、多くは咎められず、また用いられた。
- 士信は何事も王敬夫・葉徳新・蔡彦夫の三人とだけ謀ったが、三人はいずれも諂佞邪悪で、ひたすら目を塞ぐことばかりしたので、国政は日々悪化した。
- 太祖はこれを聞いて言った。「私は一事も心を用いぬことがないのに、それでも人に欺かれる。張九四(士誠)は年中、門から出ずに政を処理している。敗れぬはずがない」。
- 当時、十七字の民謡があった。「丞相は事業をなす、もっぱら王・蔡・葉を用う、ひとたび西風起こらば、乾いて崩れん」。
- 崑山の郭翼が士誠に上書した。「明公は馬の鞭を杖として呉越の数十城を下し、風を望んで服属を請う者が多かったのは、人が元の政治に苦しみ、守吏が貪残で下を恤まなかったからです。今、その政を改め、疲れた民を休ませ、時に乗じて進取すれば覇業は成りましょう。もし安逸と享楽に浸れば、四方の豪傑が並び起こり、明公が城を閉じて自守しようとしても、いつまでもつでしょうか」。士誠は怒って殺そうとし、翼は逃げた。
- 冬十月、張士誠は弟の丞相・士信に長興を侵させた。耿炳文と費聚が撃破し、その将・宋興祖を捕らえた。士信は憤って兵を増やして城を囲んだが、湯和が常州から救援に来て炳文らと合撃して大破し、士信は逃げ帰った。
至正二十五年 春正月〜二月(1365年)— 長興の防衛と新城の戦い
- 正月、張士誠が再び長興を侵したが、耿炳文が城下で連破した。鎮撫の欧大智が戦死した。士誠は以後、長興を犯せなかった。炳文は長興を十年守り、孤城で血戦してついに無事を保った。湯和の常州、呉良の江陰と気勢を連ね、いずれも東南の屏障となった。
- 二月丙午、張士誠は司徒の李伯昇に、我が叛将の謝再興を伴わせ、馬歩・舟師二十万を率いて浦江を越え、諸全の新城を囲ませた。廬舎を造り倉庫を建て、あらかじめ州県の官属を置いて持久して必ず抜く構えを取り、精兵数万を城の北隅に分屯させて我が援軍を遮った。
- はじめ胡徳済が部将の繆美を遣わして斗巌の下で前鋒を破らせた。敵が西門を攻めると美が駆けつけ、二度戦っていずれも勝った。敵が城下に迫ると、徳済は将士に軽々しく出るなと戒め、厳重に備え、攻めてくれば矢石を集中して防ぎ、使者を李文忠に送って救いを求めた。
- 文忠は指揮の張斌を浦江に出して声援とし、自ら朱亮祖らを率いて日に六十里を馳せて救援に赴き、龍潭に至って敵から二十里の険に拠って営を構えた。胡徳済は文忠の到着を知り、ひそかに「賊兵は勢いが鋭い。しばらく避けてください」と伝えた。
- 文忠は言った。「衆をもってすれば我は彼に敵わぬが、謀をもってすれば彼は我に敵わぬ。謝玄は八千で苻堅の八十万を破った。何を避けるか。戦わずに退けば彼の勢いはますます張り、大軍が来ても攻めがたくなる。死中に生を求めるのは今日だ」。そして令した。「賊は多勢で驕り、我は少数だが鋭い。鋭をもって驕に当たれば一戦で擒にできる。輜重はみなお前たちのものだ」。
- 翌朝、軍が食事中に斥候が敵の接近を告げた。文忠は精鋭をすべて営外に布陣させ、左右の翼を張って待ち、自ら中軍を率いた。まもなく営の右手数里で煙と炎が上がり、賊かと疑って兵を分けて隘路を守らせ扼した。折しも処州参軍の胡深が送った耿天璧の援兵が到着し、文忠の軍はいよいよ奮い立った。
- 両軍が交わると、文忠は天を仰いで誓った。「朝廷の大事はこの一挙にある。どうして身を惜しんで三軍の後に立とうか」。そして槊を横たえ鞍に拠り、数十騎を率いて高みから馳せ下り、敵陣の背後に出て中堅を衝いた。敵は騎兵を並べて迎え撃ったが、文忠は自ら数人を撃ち倒し、向かうところみな靡いた。叛将の謝再興と苗軍はこれを見て震え上がり色を失い、大軍が乗じて敵は大潰乱した。
- 徳済も城中の将士を率いて鼓を鳴らして出、喚声は天地を動かし、皆が一人で十人に当たった。十余里追撃し、渓水はすべて赤く染まり、死者は万を数えた。
- 文忠は兵を収めて食事をとらせ、朱亮祖・張斌に勝ちに乗じて残敵を追い殲ぼさせ、その営数十を焼いた。偽の同僉・韓謙、元帥の周遇・蕭山ら六百人、軍士三千、馬八百を捕獲し、棄てられた輜重と鎧甲は山のようで、十日かけても運びきれなかった。偽の五太子と李伯昇はかろうじて身一つで逃れた。太祖は大いに喜び、文忠と徳済を都に召して名馬と御衣を賜り、徳済を右丞に抜擢した。
至正二十五年 冬十月〜十二月(1365年)— 淮東の攻略
- 十月戊戌、左相国の徐達、平章の常遇春らに淮東攻略を命じた。当時、士誠が拠る郡県は、南は紹興で方国珍と境を接し、北は通州・泰州・高郵・淮安・徐州・宿州・濠州・泗州を有し、済寧で山東と相対していた。太祖はまず通州・泰州の諸郡を取ってその肘腋を剪り、しかるのち浙西に専念しようと考え、達に総兵を命じた。
- 乙巳、達の兵は泰州へ向かい、河を浚って通州に至り、士誠の兵に遭って撃破し、海安壩に駐屯した。丁未、進んで泰州の新城を囲み、士誠の湖北からの援兵を破って元帥の王成を捕らえた。己酉、士誠の淮安の李院判が救援に来たが、遇春が撃破して万戸の呉聚らを捕らえた。
- 当時、江陰水寨の守将・康茂才が、士誠が舟師四百艘で大江に出て范蔡港に泊まり、別に小舟で江中の孤山を出没していると報じ、備えを請うた。太祖はその意図を見抜いて徐達らに諭した。「賊がはじめ范蔡港に駐兵したときから詐術と読んでいた。今なお躊躇して上流をさかのぼらぬのは、詐術がいよいよ明らかだ。彼には決戦の謀はなく、ただ我が兵力を分散させたいだけだ。廖永忠を水寨に戻し、大軍は軽々しく動くな。この賊は江上をさまよって自ら疲れる。その怠りに乗じれば必ず泰州を克てる。泰州を克てば江北は瓦解して戦わずして潰える。ただ慎重に備えよ」。
- 閏十月庚辰、諸将が泰州を克ち、士誠の将・厳再興、夏思誠らを捕らえた。兵を分けて興化を攻略し、その将・李清を降した。
- 十一月、高郵へ進攻した。太祖は敵地深くに入って策応できなくなるのを恐れ、馮国勝に部下を率いて高郵の軍を節制させ、徐達は泰州へ戻らせた。折しも士誠が宜興を侵したので、達は中軍の精卒を率いて江を渡って追い払い、士誠の兵三千余を破って捕らえ、宜興の囲みは解けた。
- 十二月、士誠が安吉を侵したが、守将の費子賢が撃退した。
至正二十六年 春正月〜三月(1366年)— 江陰の防衛と高郵の攻略
- 正月、張士誠の舟師数百艘が馬駄沙を出て流れをさかのぼり江陰を侵したが、守将の呉良・呉禎は厳重に備えて待った。太祖が自ら大軍を率いて水陸から討伐に向かい、鎮江に至ったときには敵は既に逃げていた。巫子門まで追うと賊は潮に乗じて逆襲したが、首尾が離れたところを良らが挟撃して大破し、士卒二千人を捕らえた。
- 太祖は江陰に行幸し、良らの防禦の巧みさを見て「お前は昔の呉起ではないか」と言い、久しく感嘆した。良は江陰にあること十年、終始戒厳を怠らず、夜は城楼に泊まって戈を枕に夜明けを待った。暇な日には経術の士を招いて経史と兵法を講じさせ、将校を訓戒し、胥吏を少しも甘やかさず、教化を敦くし学校を興し、屯田を修めて軍糧を足し、境内は安らかだった。太祖が江漢に事を構えても東の藩屏が騒がなかったのは、良らの防護によるものである。
- 馮国勝が高郵を囲むと、張士誠の将・兪同僉が偽って人を降伏に送り、女牆を押し倒すのを合図にすると約した。勝は信じて夜に康泰に兵を率いて城壁を越えて入らせたが、みな殺された。
- 三月、徐達が宜興から戻って高郵を攻めた。先に士誠は左丞の徐義を海路から淮に入れて高郵を援けさせたが、義は太倉に屯して様子見をして進まなかった。徐達は使者を送り、指揮の孫興祖に海安を守らせ、平章の常遇春に水軍を督させて高郵の声援とするよう請い、許された。
- 太祖は使者を遣わして達に諭した。「張士誠は高郵から蜂起して呉越を有した。高郵はその巣穴である。大軍が攻めれば必ず救援に来る。今、徐義の兵が海に入ったと聞くが、射陽湖からか、瓠子角からか、宝応から高郵へ出るか、備えぬわけにはいかぬ」。達は書を得て兵を合わせて進攻し、一気に克って将の兪同僉らを誅した。
- 孫興祖が海安を守っているところへ士誠の兵が侵入したが撃破し、将士二百余人を捕らえた。進んで通州を攻め、通州の守将が拒み戦ったが、興祖が将士を督して奮撃して大破した。以後、士誠は海安を犯せなかった。
至正二十六年 夏四月(1366年)— 淮安・興化・濠州の攻略
- 四月、徐達は軍を移して常遇春と合し淮安を攻めた。徐義の舟師が馬漯港に集まっていたので、夜に兵を率いて襲って破り、義は海に逃れ、戦艦百余艘を獲た。城下に迫ると、士誠の将・梅思祖が府庫を封じ甲兵の名簿を出して降り、あわせて統べていた四州を献じた。太祖はその命を知って民を保った態度を嘉し、都督府副使を授け、華雲龍に守らせた。
- 徐達は軍を返して興化を攻めた。先に達は泰州・興化・海安・通州・高郵の山川地形と要害の図を献じており、太祖はこれを見て瓠子角が興化の要地で賊兵の通路であると見抜き、達に兵でその隘路を絶たせた。戊午、興化を克ち、淮の地はすべて平定された。
- 韓政に濠州を取らせた。濠州は郭子興が棄てて以来、たびたび他人に占拠され、最後は張士誠の将・李済が守っていた。太祖は李善長に書を送って招かせたが返答がなかった。太祖は「濠州は我が郷里だ。今、張士誠に奪われているのでは、国はあっても家がないのと同じだ」と言い、韓政に顧時らを督して攻めさせた。濠州に至って水簾月城を攻め、また西門を攻めたが、城中の守りは甚だ堅かった。政は兵を督し、雲梯と砲石で四面から同時に攻め、城中は支えきれず、庚申、守将の李済は城を挙げて降った。太祖は濠州に行幸して陵墓を省み、父老を宴した。
至正二十六年 八月(1366年)— 呉討伐の発令
- 淮東の諸郡が平定されたので、太祖は張士誠討伐を議し、中書省と大都督府の臣を召して言った。「張士誠は姑蘇に拠ってたびたび我が近地を侵し、我が境内の賊である。討たぬわけにはいかぬ。よく計れ」。
- 李善長は「張氏を討つべきは久しい話ですが、臣の愚見では、勢いはたびたび挫かれても兵力は衰えておらず、土地は肥え民は富み蓄えも多い。にわかには抜けますまい。隙を待って動くべきです」と答えた。
- 徐達が進み出て言った。「張氏は驕横で暴虐、奢侈をきわめており、天が滅ぼす時です。任用している驕将の李伯昇や呂珍のような輩はみな小人物で数えるに足らず、ただ兵を擁して富貴の楽しみとしているだけです。中枢で事を執る黄・蔡・葉の三参軍らは迂遠な書生で大計を知りません。臣が主上の威徳を奉じ、精鋭の師を率いて罪を鳴らして討てば、三呉は日を数えて定まりましょう」。
- 太祖は大いに喜び、達を顧みて「他の者は見識に囚われている。お前だけが私の意に合う。事は必ず成る」と言い、諸将に士卒を点検させ、日を選んで出師させた。
- 八月辛亥、徐達を大将軍、常遇春を副将軍として師二十万を率いさせ、張士誠討伐に向かわせた。諸将佐を集めて諭した。「大乱以来、豪傑が並び起こって各地に割拠した。西に陳友諒、東に張士誠があり、いずれも千里の地を連ね数十万の衆を擁した。今、私は二人の間にあって十余年抗してきた。二人の所業を見るに、志は民になく、ただ富貴を貪り掠奪するだけだった。友諒は既に敗れ滅び、ただ士誠が浙西を有し、北は両淮に連なり、その強力を恃んでたびたび我が境を侵した。諸将が連年征討して両淮を克ち取り、ただ浙西の姑蘇の諸郡が下っていない。ゆえに卿らに討たせる。 卿らは士卒を戒め、掠奪をほしいままにするな、みだりに殺戮するな、墳墓を暴くな、家屋を焼くな。士誠の母は姑蘇城外に葬られていると聞く、慎んでその墓を侵し毀すな。我が言葉を忘れるな。諸将帥は互いに睦まじくし、側近が士卒を虐げるのを放置するな。将たる者は必ず士卒に依るのだから、よく撫恤せよ。おおよそ敵に克つ者は成功を効とし、徳を樹てる者は恩を広めることを務めとする。卿ら励め」。諸将はみな再拝して命を受けて出た。
- 太祖はさらに西苑に出て達と遇春を召し、「今回の出師はどこから始めるか」と問うた。遇春は「梟を逐う者は必ずその巣を覆し、鼠を除く者は必ずその穴を燻す。今回は平江を直撃すべきです。平江が破れれば他の諸郡は労せず下ります」と答えた。
- 太祖は言った。「そうではない。士誠は塩の密売から起こり、張天騏・潘原明らはみな強悍の徒で手足のように結びついている。士誠が窮すれば天騏らも共倒れを恐れ、必ず力を合わせて救う。今、その勢力を分散させずにいきなり姑蘇を攻め、天騏が湖州から、原明が杭州から出て援兵が四方から集まれば、勝ちがたい。まず湖州を攻めて奔命に疲れさせ、羽翼を剥いでから兵を姑蘇に移せば、必ず取れる」。
- 太祖はさらに左右を退けて達と遇春に言った。「私は熊天瑞を従軍させて我が間諜としたい。天瑞の降伏は本意ではなく、常に不満を抱いている。今の謀は諸将に知らせず、ただ姑蘇を直撃すると言え。天瑞は必ず叛いて張氏に走り、この言葉を伝える。そうなれば我が計にはまる」。
- 癸丑、大将軍徐達らが諸将を率いて龍江を発した。別に李文忠を杭州へ、華雲龍を嘉興へ向かわせて敵兵を分散させた。
至正二十六年 八月〜十一月(1366年)— 湖州の攻略
- 辛酉、師は太湖に至った。己巳、士誠の将・尹義、陳旺と遭遇して破って捕らえ、洞庭山に軍を進めた。癸酉、湖州の毘山に至り、また士誠の将・石清、汪海を破って捕らえた。張士信は湖山に駐屯していたが風を望んで逃げた。指揮の熊天瑞は果たして叛いて張士誠に降った。
- 甲戌、師は湖州の三里橋に至った。士誠の右丞・張天騏は兵を三路に分けて防ぎ、黄宝が南路、陶子宝が中路、天騏自ら北路に当たり、唐傑が後詰めとなった。達は兵を進めて迫り、遇春が黄宝を、王弼が天騏を攻め、達自ら中路の陶子宝を攻め、別に驍将の王国宝に長槍軍を率いさせて退路を扼した。遇春が進撃して宝を破り、宝は城へ逃げようとしたが橋に阻まれて渡れず、兵を返して力戦したがまた敗れて捕らえられた。天騏と子宝は戦わずに退いた。
- 士誠は李伯昇を救援に送り、荻港からひそかに入城させた。我が軍が四面から囲むと、伯昇と天騏は門を閉ざして拒み守った。士誠はさらに呂珍・朱暹らとその五太子に兵六万を率いさせて救援に来させ、城東の旧館に屯して五つの寨を築いて自守した。達・遇春らは兵を分けて東阡鎮の南、姑嫂橋に営を構え、十の塁を連ねて築いて旧館への援を絶った。
- 士誠の婿・潘元紹が烏鎮の東に駐兵して呂珍らの声援としたが、我が師が夜に乗じて撃つと元紹は逃げた。溝や港を埋め塞いでその糧道を絶った。士誠は事の急を知って親兵を救援に送ったが、達らは皁林で戦って破った。
- 九月、士誠は徐志堅に軽舟で東阡鎮へ出て我が師を偵察させ、姑嫂橋を攻めようとした。常遇春がこれに遭遇し、折しも大風雨で甚だ暗かったので、勇士に数百の小舟で突撃させ、志堅を捕らえ、衆二千余人を得た。別将の廖永忠・薛顕は遊軍を率いて徳清を攻めて克ち、院判の鍾正を捕らえた。
- 士誠は徐志堅の敗北以来ひどく恐れ、右丞の徐義を旧館に遣わして形勢を偵察させた。帰って報じようとしたところ、常遇春が退路を扼して出られなかった。そこでひそかに人を送って張士信に出兵を約し、旧館の兵と合力して戦おうとした。士誠が赤龍船の親兵を送って援けたのでようやく脱出し、潘元紹とともに赤龍船の兵を率いて平望に屯した。さらに小舟でひそかに烏鎮に至り旧館を援けようとしたが、遇春が別の港から追撃して平望に至り、王銘が戈を掲げて先登し、火を放って赤龍船を焼き、軍資と器械は一時にすべて失われた。以後、旧館の援は絶えた。
- 十月、遇春の兵が烏鎮を攻め、徐義・潘元紹はいずれも敗走した。昇山まで追い、平章の王晟の六寨を破った。残兵は旧館の東壁に逃げ込み、同僉の戴茂が降り、我が師が馳せて占拠し、王晟も降った。
- 徐達がさらに昇山の水寨を攻めた。顧時が数艘で敵船の外側に回り込むと、船上の者が見下ろして笑った。時はその油断を見て取り、壮士を率いて敵舟に躍り込み、大喝して奮撃し、他の舟も競って迫った。五太子が大軍で救援に来て常遇春がやや退いたが、薛顕が舟師を率いて直進奮撃し、その船を焼いて敵は大敗した。
- 五太子・朱暹・呂珍らは旧館を挙げて降り、兵六万を得た。遇春は薛顕に「今日の戦いはすべて将軍の力だ。私は及ばぬ」と言った。
- 五太子は士誠の養子で、小柄だが精悍、平地から一丈余りも跳び上がれた。呂珍と朱暹は士誠の親信する驍将でいずれも戦上手、士誠が頼りとし、とくに珍は敢闘した。かつて革の袋を広げて兵を夜のうちに渡らせ我が師を襲ったこともあり、戦うたび歌を作って帳下や城中の者に歌わせて士気を上げた。それが皆降ったので、士誠は気力を失った。
- 徐達は呂珍を湖州の城下で見せしめにし、城中は大いに動揺した。珍は遠くから李伯昇に降伏を勧めた。伯昇は「張太尉は私を厚く遇してくれた。背くに忍びない」と言い、刀を抜いて自殺しようとしたが、左右に抱き止められて死ななかった。
- 十一日甲申、左丞の張天騏らが城を挙げて降り、伯昇も降った。
至正二十六年(1366年)— 杭州・紹興・嘉興の帰順
- 李文忠が水陸の師を総べて浙江に下り、指揮の朱亮祖・耿天璧に桐廬を攻めさせてその将・戴元帥を降し、さらに指揮の袁洪・孫虎に富陽を克たせて同僉の李天禄を捕らえ、兵を合わせて余杭を囲んだ。守将の謝五は謝再興の弟である。文忠は人を送って言わせた。「お前たち兄弟が李夢庚との些細な諍いで張氏に走ったのはお前の謀ではあるまい。お前は私の縁者だ。降れば死を免れる」。謝五も降った。
- 杭州へ進軍し、到着前に士誠の平章・潘原明が恐れて員外郎の方彝を軍門に遣わし帰順を申し出た。文忠は「我が兵は遠来で勝負はまだ分からぬのに、急に降伏を約すとは、計略で我を緩めようというのではないか」と言った。彝は「天兵は雷霆のごとく、当たる者はたちまち敗れます。杭州は孤城とはいえ生民百万、将軍の来訪を聞いて皆『王者の師だ』と申しております。ゆえに降を乞うて生を求めるのです」と答えた。文忠はその誠を見て寝所に招き入れ、入城の手順を条陳させて帰した。
- 翌日己丑、原明は土地・銭穀・甲兵の数を名簿にし、あわせて叛将の蔣英・劉震を捕らえて降り、道の左に伏して謁し、女楽で文忠を導こうとしたが、文忠は叱って退けた。城上に宿営して秋毫も犯さず、一兵が民家に押し入ったのを磔にして見せしめとした。
- 太祖は原明が城を全うして帰順し、民が兵火を受けずに済んだので、そのまま平章に任じて旧城を守らせ、李文忠の節制を受けさせた。胡大海の像を掲げ、蔣英・劉震の心臓の血を取って祭らせた。
- 庚子、李文忠が紹興を攻め、守将の李思忠が降った。華雲龍が嘉興を攻め、守将の宋興が降った。
至正二十六年(1366年)— 平江(姑蘇)の包囲
- 徐達は湖州を下すと諸将と合流して平江へ進攻した。南潯に至って士誠の元帥・王勝が降った。辛卯、呉江を囲むと参政の李福と知州の楊彝が降った。
- 癸卯、達らの兵は平江城南の鮎魚口に至り、その将・竇義を撃って追い払った。康茂才が尹山橋で士誠の兵に遭ってこれも撃破し、その官船・戦船千余艘と多量の蓄積を焼いた。
- そのまま兵を進めて城を囲んだ。達は葑門、遇春は虎丘、郭子興は婁門、華雲龍は胥門、湯和は閶門、王弼は盤門、張温は西門、康茂才は北門、耿炳文は城の東北、仇成は城の西南、何文輝は城の西北に布陣し、四面に長い囲いを築いて閉じ込めた。
- さらに木の塔を城中の仏塔と同じ高さに組み、三層の敵楼を築いて城中を見下ろし、弓弩と火銃を据え、襄陽砲を設けて撃った。城中は震え上がった。
- 楊茂という者がいた。無錫の莫天祐の部将で潜水が得意で、天祐がひそかに姑蘇へ潜入させて士誠と連絡を取らせていた。巡邏の兵が閶門の水柵で捕らえて達の軍に縛り送ったが、達は釈放して用いた。
- 当時、平江城は堅固で破れず、天祐は無錫で兵を擁して士誠の声援となっていた。達は茂を自由に出入りさせ、そのため双方がやりとりする蠟丸の書を手に入れて士誠と天祐の虚実をすべて知り、攻囲の計をいよいよ整えた。指揮の茅成は婁門を攻めて流れ矢に当たり死んだ。
- 平章の俞通海が兵を分けて太倉州を取ると、民は争って牛と酒を献じ道端で迎えた。通海は献上を辞退して慰諭して帰らせ、軍士を厳しく取り締まって秋毫も犯さなかったので民は大いに喜んだ。偽帥の陳仁らが大船百余艘で降り、崑山・崇明・嘉定は風を望んで帰属し、松江路守将の王立中もこれを聞いて降った。
呉元年(元至正二十七年、1367年)春二月〜夏六月 — 平江の攻防
- 春二月、大軍が姑蘇を囲んで長く落ちず、徐達は軍中から人を送って指示を請うた。太祖は自ら書を認めて慰労した。「古の帝王が興るときは必ず命世の士がこれを輔ける。将軍は昔から従い、忠義は天性から出、沈毅で謀があり、乱をくじき悪を消し、前例のない功を建てた。古の豪傑もこれを越えぬ。今、請うてきた事はいずれも便宜に行ってよいものだが、考慮が周到で軽々しく違えようとしない。まことに社稷の慶び、国家の福である。だが将が外にあるとき君が制さぬのが古の道だ。今後、軍中の緩急は将軍が便宜に行え」。
- 達は書を得て叩頭して命を受け、俞通海の兵に檄して姑蘇攻めに合流させた。通海は滅渡橋に至って敵兵を破り、兵を率いて桃花塢に進んでその営を掃討したが、流れ矢に当たって重傷を負った。そこで将に兵を託して達に合流させ、自らは建康へ帰った。太祖はその邸を訪れて病を見舞い、危篤に際して「平章、私が見舞いに来たのが分かるか」と呼びかけた。通海は答えられず、太祖は涙をぬぐって出た。通海はそのまま死んだ。
- はじめ徐達が姑蘇を囲んだとき、太祖は兵を煩わせず困らせて服させるつもりだった。ここに至って長く落ちないので、書を士誠に送り、竇融や銭俶の先例(帰順して爵位を保つ)を許すと申し出たが、士誠は返答しなかった。
- 夏六月己酉、士誠は長い包囲に耐えかね、突破しようとして城の左手をうかがったが、陣が厳整で犯せず、盤門に転じて常遇春の営に向かおうとした。遇春はその接近を察して厳しく陣を敷いて待ち、兵を分けて北の濠でその背後を絶った。戦いは長く続いて決せず、士誠は千余の兵を増援し、自らも兵を出して山塘から援けようとしたが、山塘の路は狭くて塞がり進めず、やや退けと指図した。
- 遇春は王弼の背を撫でて言った。「軍中は皆お前を猛将と称する。私のためにこれを取ってくれるか」。弼は応じて鉄騎を馳せ、双刀を振るって撃ちかかり、敵はやや退いた。遇春が衆を率いて乗じ、その軍を大敗させた。沙盆潭に溺れた者は数えきれなかった。
- 士誠にはもともと勇勝軍という「十条龍」と号する部隊があり、常に銀の鎧と錦の衣で陣中を出入りしていたが、この日みな溺死した。士誠は馬が驚いて水に落ち、危うく助からぬところで、輿で城に入り、慌てふためいて策がなかった。
呉元年 夏六月(1367年)— 李伯昇の使者と士誠への説得
- 降将の李伯昇は士誠の勢いが切迫したのを知り、帰順を勧めようとして食客を士誠の門に遣わして急を告げた。士誠が招き入れて「何を言いたいのか」と問うと、客は「公のために興亡禍福の計を申します。心安く聞いてください」と答えた。
- 客は言った。「公は天数をご存じですか。昔、項羽は叱咤して百戦百勝しながらついに垓下で敗れ、天下は漢の高祖に帰しました。天数です。公ははじめ十八人で高郵に入り、元兵百万に囲まれ、虎が落とし穴に落ちたようで、死は朝夕に迫っていました。ところが元兵が潰乱し、公は孤軍を率いて勝ちに乗じて攻め、東は三呉に拠って千里の地と数十万の甲士を有し、南面して孤を称した。項羽の勢いです。 もしあのとき高郵の危難を忘れず、心を苦しめ志を励まして豪傑を集め、才能を量って職を任せ、人民を撫し兵旅を練り、将帥を御し、功ある者を賞し敗軍を誅して号令を厳明にし、百姓が喜んで附くようにしていたら、三呉を保つどころか天下も定められたでしょう」。
- 士誠は「足下はなぜあのとき言わなかったのか。今さら間に合うか」と言った。客は答えた。「あのとき申し上げても聞かれはしなかった。なぜなら、公の子弟・将帥・親戚が内外に並び、美衣玉食し、歌い手と舞姫を侍らせて朝から晩まで酒宴に耽り、兵を率いる者は自ら韓信・白起のつもり、謀を画す者は自ら蕭何・曹参のつもりで、傲然と天下に人なしと構えていた。その頃、公は奥に深く籠り、一軍が敗れても知らず、一地を失っても聞かず、知っても問わなかった。だから今日に至ったのです」。
- 士誠は溜め息をついて「私も悔いているが、もう及ばぬ」と言った。客は「私に一策がありますが、公は従えぬでしょう」と言った。士誠は「死ぬだけのことだ」と答えた。
- 客は言った。「死が国家に益し子孫に利するなら死ぬべきです。そうでなければ、ただ自ら苦しむだけ。それに公は陳友諒をご存じないのか。荊楚に跨り兵甲百万で、江左の兵と姑孰で戦い鄱陽で激闘した。友諒が火を放って江左の船を焼こうとしたら、天が風を逆に吹かせて彼の船を焼いた。友諒は敗れて身を喪った。天命の所在には人力は及びません。 今、攻撃はいよいよ急です。公は湖州の援けを頼みにしたが湖州は落ち、嘉興が援けたが嘉興も落ち、杭州が援けたが杭州も落ちた。今、この一角だけを守って死を誓って拒んでいますが、勢いが極まれば患いが生じ、突然、内から変が起こることを恐れます。そのとき公は死のうにも死ねず、生きようにも帰る所がない。 ゆえに私は、天命に順って自ら多福を求めるに越したことはないと思います。一人の使者を急ぎ金陵に走らせ、公が義に帰し民を救う意を述べさせ、公が城門を開き幅巾で命を待てば、なお万戸侯を失いません。まして竇融・銭俶の先例を許すと言われているのです。しかも公の土地は、博打で人の物を得てまた失うようなもの。何の損がありましょう」。
- 士誠は俯いて長く思案し、「足下はしばらく待て。私はよく考える」と言った。だが結局は疑い迷って決められなかった。
呉元年 六月〜九月(1367年)— 平江の陥落と張士誠の死
- 壬子、士誠は再び兵を率いて胥門から突出し、その鋒は甚だ鋭く、遇春が防いで兵はやや退いた。ところが城楼の上で督戦していた士信が突然「軍士は疲れた、やめよ」と大喝し、鉦を鳴らして兵を収めた。遇春が乗じて再び大敗させた。以後、士誠は出撃できなくなった。
- 士信は城上に幕を張り、銀の椅子に腰かけて参政の謝節らと食事をしていた。左右が桃を差し出し、まだ口にせぬうちに飛来した砲弾がその頭を砕いて死んだ。
- 当時、熊天瑞が城中に精巧な砲の造り方を教えて外の兵を撃たせ、多くの死傷を出した。城中の木石は尽き、祠廟や民家を壊して砲の材料とするに至った。徐達は軍中に、屋根のように木を組んで竹の笆で覆いその下に兵を伏せる装置を作らせ、これを載せて城を攻めたので矢石で傷つかなかった。
- 九月辛巳、達が将士を督して葑門を破り、常遇春も閶門の新寨を破り、衆を率いて橋を渡って城下に迫った。枢密の唐傑が城に登って拒み戦い、士誠は門内に駐屯して参政の謝節・周仁に柵を立てて外城を補わせた。唐傑は支えきれず武器を投げて降り、周仁・徐義・潘元紹・銭参政らもみな降った。
- 夕刻、士誠の軍は大潰し、諸将は蟻のように群がって城に登った。城が破れると士誠は残兵二、三万を集めて自ら率い、万寿寺の東街で戦ったがまた敗れた。士誠は慌てて帰り、従う者はわずか数騎だった。
- 士誠は敗戦を見て妻の劉氏に「私は敗れて死ぬだろう。お前たちはどうする」と言った。劉氏は「君よ憂えるな。妾は必ず君に背きません」と答え、乳母に金を与えて二人の幼子を抱いて出させ、斉雲楼の下に薪を積み、妾と侍女たちを楼に登らせ、養子の辰保に火を放って焼かせた。劉氏は自ら縊れて死んだ。
- 士誠は独り室に坐し、左右はみな散り去っていた。達は士誠の旧将・李伯昇を遣わして意を諭させた。日は既に暮れ、士誠は戸を閉ざして首を吊った。伯昇は戸を破り、降将の趙世雄に抱き降ろさせると息を吹き返した。「九四殿は英雄です。ただ身一つを憂えるだけのこと」と言い、達はさらに潘元紹に説かせ、四度繰り返したが、士誠は目を閉じて何も言わなかった。
- そこで古い盾に載せて葑門から運び出し、舟に乗せた。偽の将相・李素・徐義ら、および元の宗室九人を捕らえていずれも建康へ送った。城中で得た兵民は二十余万だった。
- 諸将は軍を返して通州を取り、士誠の守将・張右丞が降った。
- 丁亥、平章の胡廷美が師を率いて無錫を取った。先に士誠が莫天祐を元に上表して同僉枢密院事を授けさせ無錫を守らせていた。徐達がたびたび使者を送って諭したが、いずれも殺された。ここに至って廷美らがその城を攻めると、州人の張翼が事の急を知り、父老を率いて天祐に会いに行き、「我ら民は張氏のために十二年守ってきた。張氏は既に縛られ、これから誰のために固守するのか。生民の存亡は今夕にかかっている。よく考えてほしい」と言った。天祐は帽子を地に投げて「降ることを知らぬ者がいるか」と言い、降った。
- 士誠は舟中に横たわって食を絶ち、龍江に着いても頑として起きなかった。輿で中書省まで運ばれ、李善長が問うても答えず、やがて無礼な言葉を吐いたので善長は怒って罵った。士誠はついに自ら縊れて死んだ。棺を賜って葬った。
- 叛将の熊天瑞を誅し、三参軍を斬って旗竿の先に掛けて晒した。平江を蘇州府と改めた。太祖は書を添えて元の宗室・神保大王らを元に送り返した。
呉元年(1367年)— 論功行賞と太祖の戒め
- 浙西と呉会はみな平定され、諸将は軍を整えて帰還した。太祖は戟門に臨み、敕を下して褒め諭し、功を論じて賞を行った。李善長を宣国公、徐達を信国公、常遇春を鄂国公に封じ、その他も爵を進め金帛を差をつけて賜った。
- 諸将に諭した。「漢を滅ぼし呉を滅ぼしたのはみな公らの功だ。公らは古の名将に恥じない。今は北のかた中原を定めるべきだ。各々努めよ」。
- 翌日、諸将が入って謝すると、太祖は「公らは邸に帰って酒宴を張り楽しんだか」と問うた。「上の恩を蒙り、そうしました」と答えた。太祖は言った。「私とて公らを宴して一日の歓びを共にしたくないわけではない。だが中原が未だ平らがず、楽しむ時ではない。公らは張氏を見なかったか。終日、酒に耽っていた。深く戒めよ」。
史論(谷応泰曰)
- 張士誠はもと泰州の塩の仲買人で、至正十三年に十八人で高郵に入り、元兵百万に囲まれても屈しなかった。孤軍で転戦し、北は淮海に跨って山東と相対し、南は浙西に拠って方国珍と境を接し、その間に数十万の甲兵と数千里の沃野を有した。たとえその富強で天下を平らげられずとも、官山には鋳造の資があり、海を煮れば魚塩の利が尽きぬほどあった。もし心を苦しめ志を励まして豪傑を集め、晋(典午)が江南に王化を及ぼした先例に倣い、赤烏の瑞に拠って国を立てたなら、江南は小さくとも全うして王たりえた。
- 論者は、士誠の失敗は奥に深く籠って上下が欺き合ったこと、李伯昇・呂珍のような驕将は皆小物で数えるに足らず、黄・蔡・葉の三参軍もまた迂遠で大計に暗く、そのために謀主が讒言に遭い爪牙が縛につき、太祖に乗ずべき隙を与えたことにあるという。だが私は、士誠自身が内に懦弱を抱えて座して機を失ったことこそ、亡んだゆえんだと思う。
- 士誠の挙兵は太祖の挙兵からわずか一年後である。当時、太祖は濠州の囲みが解けたばかりで郷里に兵を募っており、まだ江の外を一歩もうかがえなかった。士誠がこの時に姑孰へ長駆して金陵を略定し、百里を疾走して利を取る謀、一気に先登する気概を奮わなかった。これが第一の失策。
- 次に、陳友諒が僭号して共同侵攻を約し、江州の兵が下って降伏論が起こり、明の師が単薄で危うかったとき、士誠は夫差が斉を伐った時機に乗じ、卞荘子が虎を刺す策を用いず、境を保って一時の安逸をむさぼり、その日暮らしをした。これが第二の失策。
- さらに、偽漢が度々挫かれ鄱陽で大戦し、車の輔と唇歯の間柄として寒心すべきときに、士誠は楽毅が韓・趙と結び、孔明が東呉を救った故事に倣わず、越人が秦人の肥痩を見るように無関心だった。これが第三の失策。
- 北は江楚が悉く平らぎ、藩籬が固まって全軍が力を合わせ甲を巻いて東下したとき、強弱の勢いは既に明らかで衆寡の形も敵し得なかった。孤独な豚が虎に噛みつき、髪の毛が大炉に燃えるようなもので、幸いはあり得ない。
- 士誠たる者、犠牲と玉帛を国境に用意して待つべきだった。河西三郡は竇融から献じられ、新都六城は汪氏によって保たれた。そうすれば血みどろの憂いなく、通侯の賞を失わなかっただろう。ところが逆に鼓を鳴らして兵を励まし、方々に分兵し、尹義と陳旺に太湖で迎え撃たせ、朱暹と五太子に東方に寨を結ばせ、また張天騏を北路、黄宝を南路、陶子宝を中路に当てた。挙句、晩年の収穫もなく、臍を噛んでも及ばず、斉雲楼の一炬で一族が自ら焼けた。太祖が士誠を滅ぼしたのではなく、士誠が自ら滅んだのである。
- しかし人はただ、友諒の失敗は軽々しく戦ったことにあり、士誠の失敗は自守にあるとしか知らない。軽戦の弊は驕った気に発し、自守の私は満ち足りた志から生ずることを知らない。急いで晋を攻めて苻秦は困窮し、魏を伐たずして蜀の業もまた亡んだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。魯と衛の政のようなもの(似たり寄ったり)である。
- のちに士誠が食を絶ち自ら縊れ、言葉に屈従がなかったとはいえ、隗囂が憤死し公孫述が胸を貫かれたのと同じで、あがく亡魂にすぎず、数えるに足らない。