明史紀事本末太祖、漢を平定する(太祖平漢)

朱元璋と陳友諒の抗争を、至正十七年(1357年)の池州攻略から至正二十五年(1365年)の熊天瑞降伏までの九年間にわたって描く。沔陽の漁家に生まれた陳友諒は倪文俊を殺し趙普勝を誅し、徐寿輝を弑して漢を建て、太平を陥れて花雲を死なせた。太祖は劉基の献策と康茂才の偽降で龍江に大勝し、江州を落として友諒を武昌へ追う。至正二十三年(1363年)、友諒は六十万で南昌を八十五日囲むが朱文正が守り抜き、鄱陽湖の決戦で火攻に敗れて流れ矢に当たり死ぬ。翌年に子の陳理が武昌を挙げて降り、漢は滅んだ。

年表(25件)

至正十七年 冬十月(1357年)— 池州の攻略と陳友諒の登場

  • 常遇春・廖永安・呉禎らが銅陵から池州へ進攻した。太祖は李文忠に兵を率いさせて策応させた。永安が城の十里手前まで進み、遇春・呉禎らが舟師で城下に迫って合攻し、北門を破って入城した。天完の洪元帥を捕らえて斬った(天完は徐寿輝の僭号である)。あわせて副将の魏寿・徐天雄らを捕らえた。
  • 天完の平章・陳友諒が戦艦百余艘で池州に来襲したが、遇春らが奮撃して大破した。
  • 友諒は沔陽の漁師の子で、本姓は謝。先代が陳家に入婿したので陳姓を名乗った。もとは獄の書記であり、鬱々として楽しまなかった。徐寿輝・倪文俊らの挙兵に際して奮って従い、はじめ文俊の簿書掾となったが、まもなく兵を率いて元帥となった。文俊が次第に専横になると友諒は不満を募らせ、文俊が寿輝殺害に失敗して黄州へ逃げると、友諒は襲って文俊を殺しその軍を併呑し、自ら平章と称した。寿輝はこれを抑えられなかった。当時、友諒は強盛で、これが戦争の始まりとなった。

至正十八年 夏四月(1358年)

  • 陳友諒が江南の隆興・瑞州を陥れた。己巳、党の趙普勝を樅陽から池州へ侵させた。太平の守将・劉友仁は救援に赴いて賊と遭い敗死し、池州守将の趙忠も戦死した。まもなく俞通海が池州を回復した。
  • 普勝は驍将で「双刀趙」と号し、はじめ巣湖に寨を結んでいたが友諒に帰していた。趙徳勝が石埭を攻略して友諒の将・銭清を捕らえた。

至正十九年 春三月〜夏四月(1359年)— 池州回復

  • 三月、陳友諒が趙普勝に寧国を侵させたが、太平県総制の胡惟賢が程允・汪炳らに命じて撃破し、糧一万余石を獲得した。普勝はさらに青陽・石埭などの県を侵したが、僉院の張徳勝が柵江口で戦って敗走させた。
  • 四月、徐達・俞通海・趙徳勝らが趙普勝の柵江の営を撃って大破した。賊は舟を棄てて逃げ、巨艦や艨艟を獲得した。癸酉、池州を回復し、偽帥の洪鈞らを捕らえた。太祖は浙東の経営中で普勝の掠奪を憂えていたので、勝報に大いに喜び、徐達を同知枢密事に昇進させ、諸将にも差をつけて賞を与えた。

至正十九年 秋八月〜九月(1359年)— 安慶攻めと趙普勝の離間

  • 八月、徐達に安慶を攻めさせた。達は張徳勝らを率いて無為から上陸し、夜に浮山寨に至って普勝の部将・胡総管の兵を破り、潜山の境まで追った。友諒の恭政・郭泰が沙河に兵を率いて迎え撃ったが、達はこれも大破して泰を斬り、数えきれぬ輜重を得て潜山を克った。
  • 九月、僉院の俞廷玉が安慶を攻めたが克てず陣中で戦死した。諸将が憂えると、太祖は言った。「普勝は勇だが謀に乏しい。友諒は主を挟んで衆に令している。間諜を用いて離せば、一人の力を除くだけで済む」。
  • 普勝には術数に通じた食客がおり、かつて普勝のために策を画したことがあった。太祖は人を遣わしてその客と表向き交わらせ、裏では離間を図り、書を送って故意に普勝の耳に入るようにした。客は恐れて帰服し、普勝の平素の行状をすべて明かした。そこで金幣を厚く与えて客をひそかに友諒のもとへ送り、その側近を通じて普勝を讒言させた。普勝はこれに気づかず、友諒の使者に会うたび自分の功を誇って得意げにしたので、友諒はいよいよ忌み嫌った。
  • 潜山の敗戦に憤った友諒は、偽って軍議の期日を告げて自ら安慶に来た。普勝が出迎え、雁汊で舟に登ったところを友諒は殺し、その軍を併合した。

至正十九年 冬十二月(1359年)— 徐寿輝の幽閉

  • 徐寿輝は友諒が隆興を破ったので都をそこに移そうとした。友諒は寿輝の到来が自分に不利になるのを嫌って阻んだが、寿輝は聞かず、兵を率いて漢陽を発し南下して江州に向かった。
  • 友諒は偽って出迎え、城内に伏兵を置き、寿輝が入るや城門を閉ざして伏兵を発し、その左右の将士をことごとく殺し、寿輝を江州に幽閉した。友諒は自ら漢王と称し、官属を置いた。

至正二十年 夏四月(1360年)— 九華山の伏兵、捕虜三千の扱い

  • 徐達・常遇春が趙普勝の水寨を抜くと、友諒は大軍で救援に来て安慶から出ると触れた。遇春は必ず池州を攻めると読み、鋭兵を九華山に伏せて待ち、弱兵に城を守らせた。翌日、友諒は果たして城下に迫り、鋒鋭は甚だ盛んだった。城上が旗を揚げ鼓を鳴らすと伏兵が一斉に起こり、山伝いに出て江沿いに下って退路を断ち、城中からも兵が出て挟撃して大破した。斬首一万余級、生け捕り三千人。
  • 常遇春は捕虜を皆殺しにしようとし、徐達に「みな強敵だ。殺さねば後患となる。上に報せれば必ず殺すなと言われる」と言った。達は従わず報告した。太祖は使者に「急ぎ帰って諸将に伝えよ。戦いはまだ始まったばかりで、殺戮を放任して人望を絶ってはならぬ。三千の精鋭は釈放して後日用いよ」と諭した。使者が戻ったときには遇春が既に殺しており、生き残りは三百人だけだった。太祖はこれを聞いて不快とし、残りをすべて放免させた。

至正二十年 閏五月(1360年)— 太平の陥落と花雲の死

  • 友諒が舟師で太平に迫り城を囲んだ。守将の花雲は麾下三千を率いて陣を組んで迎え撃ち、三日間、友諒は入れなかった。そこで巨舟を増水に乗せて城の西南隅に泊めると、舟の後尾が城壁と同じ高さになり、士卒はそこから登った。城中は食糧が尽き、兵は疲弊して戦えなかった。
  • 丙辰、城は陥落した。賊が花雲を厳しく縛ると、雲は怒って罵った。「賊奴め、私を縛っても我が主君が必ずお前たちを滅ぼし、膾に斬るぞ」。躍り上がって大喝すると縄がすべて切れ、番兵の刀を奪って五、六人を殺し、さらに「賊よ、我が主君の敵ではない。なぜ早く降らぬ」と罵った。賊は怒って雲を舟の帆柱に縛り、矢を集中させた。死ぬまで賊を罵り続けた。
  • 院判の王鼎、知府の許瑗もともに節を守って屈せず死んだ。
  • 花雲が賊と戦って形勢が切迫したとき、妻の郜氏は生後まもない子の煒(三歳)を抱いて泣きながら家人に言った。「城は破れ、夫は必ず死ぬ。夫が死ねば私も生きてはいない。だが花氏の後を絶やしてはならぬ。この子をよく育ててほしい」。雲が捕らえられたと聞くと、郜氏は水に身を投げて死んだ。
  • 侍女の孫氏が郜氏を葬り、子を抱いて逃げたが漢軍に掠われた。軍中では小児が泣くのを嫌ったので、孫氏は害されるのを恐れ、簪と耳飾りを漁師に預けて子を育てさせた。偽漢が敗れると孫氏は脱け出して漁師の家に行き、子を連れ出した。夜は陶穴に宿り、夜明けに舟で江を渡ろうとしたが、漢の敗残兵に舟を奪われ、孫氏と子は江に投げ込まれた。江中で折れた木につかまり葦の中州に流れ着いた。中州に蓮の実があり、孫氏はそれを取って子に食べさせ、七日間、二人とも死ななかった。ある夜半、人声がして呼びかけられ、雷老と名乗る老父に出会い、事情を告げて同行して太祖のもとに至った。孫氏が子を抱いて拝み泣くと太祖も泣き、子を膝に置いて「これは将の種だ」と言い、雷老に衣を賜わろうとしたが、雷老は忽然と姿を消していた。

至正二十年 閏五月(1360年)— 陳友諒の帝位僭称

  • 友諒は太平侵攻の際に徐寿輝を伴っていた。太平を得ると急ぎ僭号を謀り、采石の舟中で人に事務の報告をさせて寿輝の前に出させ、壮士に鉄撾を持たせて背後から打たせ、頭を砕いて殺し、急病死と軍中に触れた。
  • 采石の五通廟を行殿として皇帝を称し、国号を漢、大義と改元した。臣下は江岸の草むらに立って略式の礼を行い、折しも大雨で儀節らしいものは何もなかった。鄒普勝を太師、張必先を丞相、張定辺を太尉とし、衆を率いて江州へ帰った。

至正二十年(1360年)— 建康の防衛策と康茂才の偽降

  • 友諒は僭号ののち、使者を送って張士誠に共同侵攻を約したが、士誠は小心に自守して応じなかった。友諒が江州から兵を東下させると建康は大いに震えた。献策する者は、城を挙げて降ろうと言い、鍾山に王気があるからそこへ逃げて拠ろうと言い、あるいは決死の一戦をして勝てなければ逃げても遅くないと言った。太祖は内心これらの議に賛同しなかった。
  • 劉基だけは目を見開いて何も言わなかった。太祖が召して計を問うと、基は「まず降伏や鍾山への逃走を唱える者を斬れば、賊を破れます」と言った。太祖が策を尋ねると、「天道は後から動く者が勝つ。逸をもって労を待てば克てぬ道理がない。府庫を傾け城を開いて士心を固め、伏兵を置いて隙を見て撃つ。威を取り勝を制して王業を成すのはこの一挙にあります」と答えた。太祖の意はいよいよ定まった。
  • ある者が、まず太平を回復して牽制せよと言った。太祖は「いけない。太平は私が新たに塁を築き濠も深く固い。もし陸から攻めてくれば破れなかったはずだ。彼は巨艦で城に乗り上げたから陥ちたのだ。今攻めても急には抜けまい。賊の舟師は我らの十倍。堅城の下に兵を留めれば、進んで取れず退いて救援も間に合わず、拠り所を失う」と答えた。
  • また太祖自ら出撃すべしと勧める者もあった。太祖は「それもいけない。彼は我が出撃を知れば偏師で我を釘付けにし、こちらが戦おうとしても鋒を交えず、舟師で流れに乗って下れば建康まで半日で着く。我が歩騎は百里を急ぎ戻って戦うことになり、兵法の忌むところだ。いずれも良策ではない」と言った。
  • そこで胡大海に兵を率いさせて広信を直撃させ、背後を制した。さらに指揮の康茂才を召して言った。「仕事がある、できるか」。茂才は「仰せのままに」と答えた。太祖は「お前は友諒と旧知の間柄だ。今、友諒が侵入してきた。私は彼の到来を早めたいが、お前でなければできぬ。書を作って使者を送り、偽って降伏し内応すると約して速やかに来させ、虚実を偽って告げ、兵を三道に分けさせてその勢いを弱めよ」と言った。茂才は「承知しました。家に昔、友諒に仕えていた老いた門番がおります。彼に書を持たせれば必ず信じて疑いません」と答えた。
  • 太祖がこの謀を李善長に話すと、善長は「敵の来襲を憂えているのに、なぜ誘い寄せるのですか」と言った。太祖は「遅れれば二賊の謀が合して害はさらに大きい。どう支えるのか。今この賊を先に破れば東の賊(張士誠)は胆をつぶす」と答え、善長も納得した。
  • 茂才は門番に小舟で友諒の軍へ行かせた。友諒は書を得て大いに喜び、「康公は今どこにいる」と問うた。「江東橋を守っています」。「橋はどんなものか」。「木の橋です」。友諒は酒食を与えて帰し、「康公に伝えよ、私が着いたら『老康』と呼ぶのを合図とする」と言った。門番は承諾して帰り、報告した。太祖は喜んで「賊は我が術中に入った」と言い、李善長に急ぎ江東橋を撤去して鉄と石に架け替えさせ、夜明けまでに完成させた。
  • 友諒の軍から逃げ帰った者が、友諒が新河口への道を尋ねていたと告げた。急ぎ趙徳勝に新河をまたいで虎口城を築いて守らせ、常遇春・馮勝・華高らに帳前五翼軍三万を率いさせて石灰山の側に伏せ、徐達らを南門外に布陣させ、楊璟を大勝港に駐屯させ、張徳勝・朱虎の舟師を龍江関の外に出した。太祖自ら大軍を盧龍山に総べ、旗手に黄旗を山の左に、赤旗を山の右に伏せさせ、「賊が来たら赤旗を挙げよ。黄旗を挙げれば伏兵は皆起こる」と戒め、各々厳戒して待った。
  • 乙丑、友諒は果たして舟師を東下させ、大勝港に至った。楊璟が兵を整えて防いだ。港は狭く舟三艘しか入れず、友諒は並進できないので急ぎ引き返して大江に出、江東橋へ直進した。ところが橋はすべて大石造りで木橋ではない。驚き疑って「老康、老康」と連呼したが応える者はない。茂才に謀られたと悟った。
  • 友諒は弟の「五王」と称する者とともに舟師を龍江へ向け、先に一万を上陸させて柵を立てさせ、勢いは鋭かった。折しも酷暑で、太祖は紫の茸の甲を着て蓋を張って督戦していたが、士卒が汗を拭うのを見て蓋を取り払わせた。衆が戦おうとすると、太祖は「まもなく雨が降る。諸軍はまず食事をし、雨に乗じて撃つべし」と言った。当時、空に雲はなく衆は信じなかったが、にわかに西北から風が起こり、たちまち大雨が注いだ。
  • 赤旗が挙がり、太祖は柵を抜けと令した。諸軍は競って前進して柵を抜いた。友諒が衆を指揮して争い、戦いが噛み合ったところで雨が止んだ。太祖が鼓を鳴らさせると鼓声は大いに轟き、黄旗が挙がった。常遇春らの伏兵が起こり、徐達の兵も到着し、張徳勝・朱虎の舟師も合流して内外から挟撃した。友諒の兵は大潰し、舟へ逃げたが折しも潮が引いて舟が浅瀬に乗り上げ、殺され溺れた者は数知れず、七千余人を生け捕り、巨艦百余艘・戦舸数百を得た。
  • 友諒は別の舟で逃れた。その乗っていた舟から茂才の書が見つかり、太祖は笑って「これほど愚かとは、笑うべきだ」と言った。
  • 諸将に追撃を命じ、慈湖で火を放って舟を焼いた。賊は潰えて采石まで追い、再び大戦となった。廖永忠は部下を率いて大喝して陣に突入し、華雲龍は馬を躍らせて中堅を突き崩した。王銘という者は単騎で敵陣に馳せ入り、賊が槊を揃えて刺して額を傷つけたが、いよいよ力戦し、血を流しながら三度めぐって独りで多数を殺傷した。賊は大敗した。張徳勝が戦死した。周顕も観渡橋で賊を破った。
  • 諸軍が勝ちに乗じて追撃すると、太平を守る賊は守る気を失い、辛酉、太平を回復した。もともと太平城の西南は姑渓を見下ろす低さで、それゆえ友諒の舟師に陥とされた。そこで常遇春は姑渓から二十余歩離して城を築き直させ、楼と城壁を増築して守備を固めた。

至正二十年 六月〜七月(1360年)— 信州・饒州の帰属

  • 六月戊寅、胡大海が信州を取った。霊渓に至ると城中から歩騎数千が迎え撃ったが撃破し、兵を督して城を攻めた。守兵は支えきれず潰え、これを克った。信州を広信府と改め、大海の子・徳済を同僉として守らせた。
  • 七月、徐寿輝の旧将で浮梁院判の于光と左丞の余椿が偽漢の将・辛同知を撃退して饒州を取り、城を挙げて降った。太祖は鄧愈を遣わして鎮守させた。饒州は鄱陽湖に臨み、友諒はたびたび舟師を送って攻めたが、鄧愈は于光らと営を連ねて拒み、しばしばその衆を殲滅した。のち漢将の侯邦佐が浮梁を陥れ、于光は単騎で帰服した。

至正二十年(1360年)— 安慶の攻略と趙伯仲の処断

  • 安慶は長江上流の要地で、趙普勝が守っていた頃は攻めにくかった。友諒が普勝を殺してからは別の将に安慶を守らせ、普勝の部将・張志雄に兵を率いさせて建康侵攻に従わせた。志雄は友諒を怨んでいたので龍江の戦いで闘志なく、降ってきて安慶奪取の策を献じた。我が師は進んで安慶を克った。
  • 太祖は巣湖の将・僉院の趙伯仲に守らせたが、まもなく張定辺に破られ、伯仲は逃げ帰った。太祖は怒って「主将たる者が城を堅守できず、城が陥ちて遠く逃げた。誅すべきだ」と言った。常遇春が「伯仲は渡江以来の勲旧です。曲げて赦してください」と諫めたが、太祖は「軍法によらねば後の戒めにならぬ」と言い、弓弦を賜って自尽させ、その弟の庸に行枢密院事の官を与えた。
  • 九月、徐寿輝の旧将・欧普祥が袁州をもって降った。陳友諒は弟の友仁を送って普祥を攻めさせたが、普祥は撃破して友仁を捕らえた。友仁は恐れて普祥と和を約し、普祥は友仁を釈放して帰した。

至正二十一年 春三月〜六月(1361年)— 広信の攻防

  • 三月、陳友諒は将の李明道を広信に侵入させ、草平鎮に拠って浙東の援兵を遮った。胡徳済が夏徳潤に兵を出させてその墩を奪わせたが、徳潤は戦死した。賊はさらに玉山に拠った。胡大海の部将・繆美がこれを聞いて救援に来て、東津橋で賊と戦って玉山を回復し、広信に達して明道の帰路を断った。
  • 六月、明道が広信を急襲して囲んだが、徳済は兵が少なく城に籠るのみで、父の大海に救援を求めた。大海は師を率いて霊渓から進み、李文忠も援兵を送った。徳済は援軍の到着を聞いて城を出、大海と挟撃して明道を大破し、明道とその宣慰の王漢二、士卒千余人を捕らえ、戦馬と器械は数知れなかった。
  • 大海は明道と漢二を李文忠に送った。文忠は漢二に、友諒の建昌守将・王溥を招かせた。溥は漢二の兄で、そのまま帰服した。いずれも建康へ送られ、太祖は釈放して用い、江州・南昌征討の際に道案内とした。

至正二十一年 秋八月(1361年)— 江州の攻略

  • 太祖は陳友諒討伐を決意した。折しも李明道が、友諒は徐寿輝を弑して以来、将士の心が離れ、政令が統一されず、趙普勝のような驍勇の将も忌んで殺しており、衆は多くとも頼みにならぬ、と詳しく述べた。
  • 太祖は諸将を召して諭した。「友諒は主を殺して僭号し、我が近境を犯し、我が名将を殞した。その所業を見れば、滅ぼされるまでやめまい。各々士卒を励まして従え」。
  • 庚寅、太祖は龍驤の巨艦に乗って舟師を率い、風に乗って流れをさかのぼった。数万の鳥が艦を挟んで飛んだ。
  • 戊戌、安慶に至った。敵は固守して戦わなかったので、陸兵で惑わせると敵兵が動いた。そこで廖永忠・張志雄に舟師でその水寨を攻めさせて大破した。城攻めは朝から暮れまで続いたが抜けなかった。劉基は安慶を棄てて直ちに江州を抜き、その巣穴を覆すよう請い、太祖は従った。
  • 西へ長駆して小孤を過ぎると、友諒の将・丁普郎と傅友徳が部下を率いて帰服した。友徳は宿州の人でのち碭山に移り、勇略は当時随一だった。はじめ山東の李喜喜に従って掠奪しつつ蜀に入り、常に軍の先鋒を務め、明玉珍に帰したが用いられず、部下を率いて武昌へ走り陳友諒に従ったが、鬱々として力を発揮できなかった。明の軍が江州を攻めると聞いて「これぞ我が主君だ」と嘆じ、部下を率いて小孤山で謁見した。太祖は異とし、将に抜擢して使者を送り江西の諸郡を招諭させた。
  • 壬寅、湖口に軍を進めた。友諒の舟が江に出て偵察していたが撃破し、勝ちに乗じて江州に至った。友諒はそこで初めて気づき、神兵が天から降ったと思い、慌てて軍を編成できず、妻子を連れて夜のうちに武昌へ奔った。
  • 癸卯、軍は江州に入り、勝ちに乗じて蘄州・黄州・興国・黄梅・広済などを抜いた。

至正二十一年(1361年)— 胡廷瑞の帰順と太祖の書

  • 偽漢の江西行省丞相・胡廷瑞が南昌を守っていたが、部将の鄭仁傑を軍門に遣わして帰順を申し出、あわせて数条の要求として自分の部下の兵を解散させないよう請うた。太祖は難色を示したが、劉基が後ろから座っていた胡牀を蹴ったので太祖は悟って許し、書を賜って慰諭した。
  • その書の要旨。「鄭仁傑が来て、足下に帰順の意ありと言った。これは足下の明達である。だが部下を分散させて他将に属させられると恐れているのは、足下の考えすぎである。私は挙兵して十年、奇才英士を四方から得てきた。天時を審らかにし事機を計り、決然と身を委ねて来る者は、当世に功を立て後裔に名を垂れようとする志があるのだ。大丈夫が相まみえれば、磊落に一笑して意気投合し、肺腑まで見通す。だから私は常に赤心をもって遇し、才に応じて任じ、兵が少なければ兵を増し、位が低ければ爵を高くし、財が乏しければ賞を厚くしてきた。これが私の将士に対する心だ。どうしてその部属を散らし、帰順しようとする人の心に背こうか。 陳氏の諸将は、趙普勝のように驍勇善戦の者でさえ疑われて殺された。これほど猜疑深くて何が成るか。近ごろ龍江の戦いで長張・梁鉉・彭指揮ら数人が降ったが、我が諸将と恩義に隔てなく扱っている。長張は安慶を破り、梁鉉らは江北を攻めていずれも功績が顕著だ。彼らは自分でも生き延びられまいと思っていたのに、この扱いである。まして足下は一兵も労せず城を完全なまま帰順しようというのだ。得失の機微は髪一筋の隙もない。早く計を立てられよ」。
  • 廷瑞は書を得て、康泰を九江へ遣わして降った。廷瑞はのちに廷美と改名した。

至正二十一年 十月(1361年)— 江西諸郡の平定

  • 漢将で余干の呉宏、龍泉の彭時中、吉安の曽万中・孫本立らがみな使者を送って帰順を申し出た。趙徳勝・廖永忠らに兵を分けて瑞州・臨江の諸郡を攻めさせ、鄧愈に浮梁を襲わせた。友諒の恭政・侯邦佐は城を棄てて逃げた。于光は進んで楽平を抜き、偽の蕭総管を破って万戸の彭寿ら六十八人を捕らえ、饒州はすべて平定された。
  • 十月、鄧愈は臨川の平塘に駐屯した。当時、友諒の将・鄧克明が撫州に拠り、偽って使者を送って帰順を通じたが降る意はなかった。愈はその実情を知り、甲を巻いて夜行し、夜明けに入城した。克明は単騎で逃げたがまもなく捕らえられた。諸将は転じて安慶を攻めてこれを下した。

至正二十二年 春正月〜二月(1362年)— 祝宗・康泰の反乱

  • 正月、太祖は南昌に行幸した。胡廷瑞が祝宗・康泰らを率いて出迎えた。鄧愈を江西行中書省参知政事として南昌を鎮めさせた。祝宗・康泰の降伏は本意でなく、すぐにも叛こうとしていた。廷瑞がひそかにこれを報せると、太祖は宗・泰に部下を率いて徐達の武昌攻めに従わせた。
  • 二月、太祖は胡廷瑞らを率いて建康に帰った。祝宗らは女児港まで行くと叛き、途中で布商の船を掠めてその布を旗とし、兵を返して南昌を襲った。知府の葉琛は迎え撃って戦死した。鄧愈は突然のことで数十騎とともに逃げたが、たびたび賊に遭って従者の多くが害された。愈はひどく窮し、続けざまに三頭の馬に飛び乗ったがいずれも倒れ、危うく免れないところだった。最後に養子の馬を得て建康へ逃げ帰った。
  • 徐達の兵は湖広の沌口に至っていたが、変を聞いて軍を返して駆けつけた。祝宗は新淦で鄧志明に殺され、康泰は広信へ逃げたが胡廷瑞の甥であったため特に赦された。南昌は再び安定した。
  • 太祖は喜んで言った。「南昌は荊越を控え、西南の藩屏である。南昌を得たのは陳氏の片腕をもいだに等しい。骨肉の重臣でなければ守れぬ」。五月丙午、大都督の朱文正に元帥の趙徳勝・薛顕、同恭政の鄧愈を統べさせて鎮守させた。
  • 八月、陳指揮なる者が衆を集めて南昌の西山に寨を結んだが、趙徳勝・孫興祖が攻め破り、捕虜と斬首は三千余人だった。
  • 冬十二月、漢将の熊天瑞が吉安を侵して陥れ、守将の孫本立を殺した。友諒は知院の饒鼎臣に吉安を守らせた。鼎臣は剽悍で胆略があり、行く先々で人を害したので「饒大胆」と呼ばれた。丁亥、朱文正が兵を送って吉安を回復し、鼎臣は逃げた。

至正二十三年 春二月〜夏四月(1363年)— 南昌の攻防戦

  • 二月、漢の太尉・張定辺が饒州を陥れ、于光は逃げ帰った。
  • 四月、陳友諒は領土が日々縮むのに憤り、高さ数丈の大艦を建造した。丹漆で飾り、上下三層に分け、各層に走馬棚を設け、下に板房を設けて遮蔽とし、櫓数十をその中に置いたので、上下の人声も互いに聞こえなかった。櫓の箱はすべて鉄で包み、自ら必勝を称した。家族と百官を載せ、国を空にして来襲し、兵は六十万と号して南昌を攻めた。
  • 壬戌、城下に迫った。諸将は門を分けて拒み守った。鄧愈が撫州門、趙徳勝が宮歩・士歩・橋歩の三門、薛顕が章江・新城の二門、牛海龍らが琉璃・澹台の二門を守り、朱文正が中央で節制し、自ら精鋭二千を率いて往来して策応した。
  • 丙寅、友諒は自ら兵を督して撫州門を攻めた。兵は箕のような竹の盾を担いで矢石を防ぎ、力を尽くして攻め、城壁が二十余丈崩れた。鄧愈が火銃で敵兵を撃退し、すかさず木柵を立てた。賊が柵を争うと、文正は諸将を督して死闘し、戦いながら築いて一夜で修復した。この戦いで李継先・牛海龍・趙国旺・許珪・朱潜・程国勝らがみな戦死した。
  • 五月丙子、友諒は再び新城門を攻めた。薛顕は鋭卒を率いて門を開いて突撃し、平章の劉震昭を斬った。敵兵は退いたが、百戸の徐明は捕らえられて死んだ。
  • 六月辛亥、友諒は攻城具を増強し、柵を破って水関から入ろうとした。文正は壮士に長槊で柵の内側から刺させた。敵が槊を奪ってさらに進むと、文正は鉄戟と鉄鈎を鍛えさせ、柵に通して刺した。敵は再び奪おうとしたが手が焼けただれて進めなかった。友諒は攻撃のあらゆる術を尽くしたが、城中も万全に防いで敵の死傷は甚だ多かった。
  • 友諒は饒鼎臣らを分遣して吉安を陥れた。李明道が叛き、守将の曽万中は死に、劉斉・朱叔華は捕らえられた。臨江も陥れて趙天麟を捕らえ、三人を城下で見せしめにしたが、文正らは動じなかった。
  • 賊は再び宮歩・士歩の二門を攻めた。趙徳勝が城を巡って宮歩門に至ったとき、賊の伏兵が足で張る強弩を放って腰の脊柱に命中させ、矢は六寸も深く入った。徳勝は抜き出して腿を叩き、嘆じた。「壮年から従軍して矢石に傷つくことは度々あったが、これほどの傷はない。運命だ。ただ主上に従って中原を掃き清められぬのが恨みだ」。そして死んだ。
  • 南昌の包囲が長引いて内外が絶たれると、文正は千戸の張子明を建康へ急を告げに遣わした。また「捨命王」と号する兵を偽って友諒のもとへ送り、期日を定めて降伏すると約させた。友諒は信じて攻撃を緩めた。当日、城上の旗幟は一新されていた。友諒は暮れまで待ったが降る気配がなく、降兵を縛って城下で殺した。
  • 張子明は漁舟を手に入れて水関から出、石頭城を越え、昼は進み夜は止まって半月で建康に達した。当時、太祖は自ら安豊で張士誠の将・呂珍を破って安豊の囲みを解き、徐達らに廬州を囲ませて建康に帰ったところだった。
  • 太祖が友諒の兵勢を問うと、子明は「友諒の兵は盛んですが戦死も少なくありません。今、江水は日々減って巨艦は不利になり、また長陣で糧が乏しい。援兵が至れば必ず破れます」と答えた。太祖は「帰って文正に伝えよ。ただ一か月堅守せよ。私が自ら討ちに行く」と言った。
  • 子明は先に帰る途中、湖口で友諒の兵に捕らえられた。友諒は「降伏を誘えば、死なぬだけでなく富貴にしてやる」と言った。子明は表向き承諾したが、城下に至ると「主上は諸公に堅守を命ぜられた。大軍がまもなく到着する」と叫んだ。友諒は怒って殺した。文正らはこれを聞いていよいよ堅く守った。
  • 当時、徐達・常遇春が廬州で左君弼を囲んでいたが、太祖は使者を送って囲みを解かせ、「一つの廬州のために南昌を失うのは計ではない」と言った。

至正二十三年 七月〜八月(1363年)— 鄱陽湖の決戦

  • 七月癸酉、太祖は自ら洪都(南昌)救援に出た。徐達・常遇春も廬州から戻った。太祖は諸将を督して龍江で軍旗を祭って会し、舟師は総勢二十万。
  • 癸未、湖口に進んだ。まず指揮の戴徳に一軍を涇江口に、もう一軍を南湖嘴に屯させて友諒の帰路を遮り、また信州の兵を調えて武陽渡を守らせて逃走を防いだ。
  • 丙戌、友諒は八十五日にわたる南昌包囲を解いて東へ出、鄱陽で迎え撃った。太祖は諸将を率いて松門から鄱陽湖に入った。
  • 丁亥、康郎山で遭遇した。友諒は巨舟を並べて我が師に当てた。太祖はこれを見て諸将に言った。「彼の巨舟は首尾が連なって進退に不利だ。破れる」。舟師を二十隊に分け、火器と弓弩を順に配し、諸将に「敵舟に近づいたらまず火器、次に弓弩、舟に達したら短兵で撃て」と戒めた。
  • 戊子、徐達・常遇春・廖永忠らが進んで戦った。達は諸将に先んじて前鋒を破り、千五百人を殺し、巨舟一艘を獲て帰り、軍声は大いに振るった。俞通海は風に乗じて火砲を放ち、敵舟二十余艘を焼き、殺され溺れた者は甚だ多かった。元帥の宋貴・陳兆先も死力を尽くして戦った。
  • 徐達らが搏戦を続けるうち、火が達の舟に燃え移り、敵がこれに乗じた。達は火を消して戦い続け、太祖が急ぎ舟を送って援け、達が力戦して敵は退いた。
  • 友諒の驍将・張定辺が奮って太祖の舟に迫った。舟は砂に乗り上げ、漢兵が取り囲んだ。程国勝が剣で叱咤し、陳兆先とともに大いに奮戦した。牙将の韓成が進み出て「古人は身を殺して仁を成した。臣も死を惜しみません」と言い、太祖の冠と袍を着けて敵に向かい、自ら水に身を投げた。敵はこれを信じて攻撃をやや緩めた。宋貴・陳兆先はともに戦死した。常遇春が傍から射て定辺に命中させ、定辺の舟がようやく退いた。俞通海が救援に来て舟が勢いよく進み、水が湧いて太祖の舟はようやく脱した。通海と廖永忠は快速艇で定辺を追い、定辺は身に百余の矢を受けて退いた。
  • 日暮れ、太祖は鉦を鳴らして諸将を集めて軍約を申し渡し、張士誠が虚に乗じて来襲するのを恐れて徐達に建康の守備に戻るよう命じた。
  • 己丑、太祖は自ら陣を布いて友諒と戦った。友諒は巨舟をすべて鎖で連ねて陣とし、旌旗と楼櫓は望めば山のようだった。我が舟は小さく、仰いで攻めるので退くことが多かった。太祖が自ら指揮しても進まず、右翼がやや退いたので、直ちに隊長十余人を斬らせたが、それでも止まらなかった。
  • 郭興が進言した。「人が命に従わぬのではなく、舟の大小が釣り合わぬのです。火攻でなければなりません」。太祖はもっともとし、常遇春らに漁舟を調えて荻葦を積み火薬を仕込ませた。
  • 夕刻、東北の風が起こった。太祖は七艘の舟に草人を束ねて甲冑を着せ、武器を持たせて戦う姿に仕立てさせ、決死の兵に操らせ、後方に脱出用の快速艇を備えさせた。敵舟に迫ると風に乗って火を放った。風は激しく火は烈しく、たちまち敵舟に達し、水寨の数百艘を焼いた。炎は天を焦がし、湖水はすべて赤く染まり、死者は大半に及んだ。
  • 友諒の弟の友仁・友貴、平章の陳普略らはみな焼け死んだ。我が師は乗じてさらに二千余級を斬った。友仁はいわゆる「五王」で、片目が潰れていたが智略があり、梟勇で戦上手だったので、これで友諒は気を落とした。普略は「新開陳」と呼ばれた者である。
  • この日、張志雄の舟は帆柱が折れて敵に気づかれ、数艘で兵を集めて鈎で引き寄せられ、志雄は窮して自ら首を刎ねた。丁普郎・余昶・陳弼・徐公輔もみな戦死した。普郎は身に十余の傷を受け、首が落ちてもなお舟中に立って倒れず、武器を持って戦う姿のままだった。
  • このとき太祖の乗る舟は帆柱が白かった。友諒が気づいて全力で攻めようとしたので、太祖は察して庚寅の夜、全船の帆柱を白く塗らせた。夜明けには区別がつかず、敵はいよいよ驚いた。
  • 辛卯、再び衆を率いて大戦し、辰の刻から巳の刻まで戦いは解けなかった。侍していた劉基が突然跳び上がって大声を上げた。太祖も驚いて立ち上がり振り返ると、基が両手を振って「難星が過ぎる、急ぎ舟を移せ」と言った。太祖は言われるままに他の舟に移り、座る間もなく、それまで乗っていた舟が砲で砕かれた。友諒は高みから舟が砕けるのを見て大いに喜んだが、まもなく太祖が舟を指揮して進み出たので皆が色を失った。
  • 廖永忠・俞通海・汪興祖・趙庸が六艘で敵中深く突入した。敵は大艦を連ねて拒み戦い、六艘を覆い隠して沈んだかと見えたが、しばらくして六艘は漢軍を巡って出てきた。その勢いは遊龍のようで、諸将はこれを見て勇気百倍、喚声は天地を動かし、波濤が立ち上がって日も暗くなった。
  • 当時、漢の舟は大きく、我が師が取り囲んで攻めた。その兵をほぼ殺し尽くしても、舟を操る者は気づかず、なお号令をかけて櫓を漕いでいた。やがて舟が焼かれてみな死んだ。
  • 午の刻、敵兵は大敗し、棄てた旗鼓や武器が湖面を覆って浮かんだ。通海らが戻ると太祖は労って「今日の勝利は諸君の力だ」と言った。
  • 友諒は戦い利あらず、鞋山に退いて守ろうとしたが、我が師が先に潅子口に至って湖面を横切って遮り、出られなかった。そこで舟を収めて自守し、あえて戦わなかった。
  • この日、舟を柴棚に移し、敵から五里ほどの距離に泊めた。諸将は退いて士卒を休ませたいと言ったが、太祖は「両軍が相対しているときに先に退くのは計ではない」と言った。俞通海が湖水が浅いので舟を移して長江の上流を扼すよう請い、劉基もひそかに湖口へ軍を移し、金と木が相犯す日を期して決戦すべしと述べた。太祖は従った。
  • 当時、水路は狭く舟が並進できず、敵に乗じられるのを恐れて、夜に船ごとに灯を一つ置いて相従って浅瀬を渡らせ、夜明けにはすべて渡り終えて左蠡に泊まった。友諒も舟を移して瀦磯に泊まり、三日間対峙した。

至正二十三年 七月〜八月(1363年)— 友諒の孤立と書簡のやりとり

  • 友諒の左右二人の金吾将軍が部下を率いて降ってきた。先に友諒が戦い利あらぬとき、右金吾は「今、戦いが不利で湖を出るのは難しい。舟を焼いて上陸し、直ちに湖南へ向かい再挙を図るべきだ」と言い、左金吾は「不利とはいえ我が兵はまだ多い。力を尽くして一戦すれば勝負は分からぬ。なぜ自ら焼いて弱みを見せるのか。万一、舟を捨てて陸に上がれば、彼が歩騎で後を追い、進んでも及ばず退いても拠り所がない」と言った。友諒は決めかね、損失が増えてから「右金吾が正しい」と言った。左金吾はこれを聞いて恐れて降り、右金吾もその降伏を見て部下を率いて帰服した。友諒の兵はいよいよ衰えた。
  • 彭蠡に駐屯した太祖は友諒に書を送った。「公は尾が大きくて振れぬ舟に乗り、兵を損じ甲を破って私と対峙している。公の平素の強暴さなら、自ら決死の一戦を挑むべきだ。なぜぐずぐずと後に従い、私の指揮を聞くかのようにしているのか。丈夫らしくないではないか」。友諒は怒って使者を留めて返さず、捕らえていた我が兵士をすべて殺した。太祖はこれを聞くと、捕らえた友諒の兵をすべて出し、傷ついた者には薬を与えて治療し、みな帰らせた。そして「敵兵を捕らえてもすべて殺すな」と令し、また友諒の弟や甥、戦死した将士を祭らせた。
  • 師が湖口を出ると、遇春・永忠ら諸将に舟師で横に遮らせ、また一軍に岸に柵を立てさせて湖口を扼した。十五日間、友諒はあえて出なかった。
  • 太祖は再び書を送った。「先日、我が船が瀦磯に対して泊まっていたとき、使者に書を持たせたが返事の使者は戻らなかった。公の度量は何と浅いことか。丈夫が天下を謀るのに深い仇など何があろう。辛卯の年以来、天下の豪傑が入り乱れて起こり、近ごろ中原に問罪の師が興り、天子を挟んで諸侯に令している。かくして淫虐の輩は一掃されて滅び、公の湘陰の劉某も恐れて去った。彼は公の腹心だった。部下の将もこれから去っていくだろう。江淮の英雄は私と公だけだ。なぜ互いに呑み合うのか。公は今、弟や甥、主だった将を戦で失ったが、誰を怒るのか。公の土地は既に私が得た。残兵を駆り立てて城下で死んでも取り返せはしない。仮に公が幸運にも逃げ帰ったなら、徳を修めて人を欺く振る舞いをやめ、帝の名を棄てて真の主を待つがよい。さもなくば家を喪い姓を滅ぼして悔いても遅い」。
  • 友諒は憤って答えなかった。太祖は博士の夏煜らと日々檄を草し詩を賦して、意気はいよいよ盛んだった。兵を分けて蘄州・興国を克った。
  • 友諒は食が尽きて南昌で糧を掠めようとしたが、朱文正が人を送って舟を焼き、いよいよ困窮した。当時、我が師は水陸に営を結んで長江の南北両岸に柵を並べ、中流に火舟・火筏を置いて厳戒して待った。

至正二十三年 八月壬戌(1363年)— 陳友諒の死

  • 友諒は計尽きて死を賭して突出し、長江の下流を回って禁江から逃げ帰ろうとした。太祖は諸軍を指揮して追撃し、火舟・火筏で衝いた。敵舟は散り散りに逃げ、数十里追撃した。辰の刻から酉の刻まで戦いは解けず、涇江口に至ると涇江の兵がさらに撃った。
  • 張鉄冠が大笑して「友諒は死にました」と祝った。太祖は「みだりに言うな」と言い、さらに「お前を水辺に縛って待つ」と言った。そして人を遣わし、犠牲と酒を備えて友諒を祭らせ、生死を探らせた。「もし生きているなら使者は必ず帰る。帰らねば死んだと決まる」。行った者はみな殺された。
  • まもなく降兵が来て、友諒は別の舟にいて流れ矢が目から頭蓋を貫いて死んだと告げた。諸軍はこれを聞いて大声を上げて喜び躍り、いよいよ奮って争い、その太子・善児を捕らえた。
  • 翌日、平章の陳栄らが舟師を挙げて降り、士卒五万余人を得た。張定辺は夜に乗じて小舟に友諒の屍とその子・理を載せて武昌へ逃げ帰り、理を立てて帝とし徳寿と改元した。諸将の多くは勝ちに乗じて武昌を直撃し漢を滅ぼすよう勧めたが、太祖は従わなかった。
  • 先に劉基が青田から建康に戻ったとき、呉(張士誠)と漢(陳友諒)のどちらを先に討つべきかを論じた。ある者は張士誠が近くて富み、かつ弱いので先にすべきだと言った。基は「そうではない。士誠は自守の賊にすぎない。陳友諒は上流に居て、しかも名号が正しくない。先に伐つべきだ。陳氏が滅べば張氏は袋の中の物です」と述べた。太祖は「そうだ。友諒は剽悍で軽率、士誠は狡猾で臆病。もし先に士誠を攻めれば、友諒は必ず国を空にして救援に来る。二つの敵に疲れることになる」と言い、陳氏討伐を決めた。
  • 折しも士誠が呂珍に安豊の韓林児を攻めさせ、太祖は自ら諸将を率いて救援に赴いた。劉基は諫めたが聞かれなかった。安豊の囲みを解くと諸将に廬州を囲ませ、友諒が南昌を急攻して張子明が救援を請うに及んで、ようやく廬州の囲みを解いて自ら出征した。
  • ここに至って太祖は劉基に言った。「私は安豊へ行くべきではなかった。もし友諒が我が出撃と建康の空虚に乗じて流れを下っていたら、進んで成すところなく、退いて帰る所なく、大事は去っていた。今、友諒は建康を攻めず南昌を囲んだ。下策である。滅びぬはずがない。天命の帰する所があると分かった」。
  • 当時、四方の割拠勢力の中で友諒だけが猛悍で群雄の筆頭だった。挙兵の初め、父の普才は「お前は漁師の子にすぎぬのに大事を図るのか」と戒めた。友諒は「墓相を見る者が我が家は富貴になると言った。今がその時だ」と答えた。貴くなって父を迎えると、父は「お前が家業を守らぬので、私は災いが及ぶのを恐れる」と言った。敗死したときは四十四歳、帝を称してわずか四年だった。
  • 友諒が敗れると、太祖は喜んで諸将に「この賊が滅んだ以上、天下は定めるに足らぬ」と言った。

至正二十三年 九月〜十二月(1363年)— 武昌の包囲

  • 九月壬申、凱旋して廟に告げ、飲至の礼を行って功を論じ賞を行い、常遇春・廖永忠・俞通海らに田を賜り、その他に金帛を差をつけて賜った。
  • 太祖は建康の守備を整え終え、徐達らを留めて呉(張士誠)に備えさせた。壬午、再び諸将を率いて陳理を親征した。
  • 十月、武昌に至り、兵を分けて柵を立てて四門を囲み、また江中に舟を連ねて長い寨とし、出入の路を絶った。兵を分けて漢陽・徳安の州郡を攻略し、湖北の諸郡はみな降った。
  • 十二月甲寅、太祖は建康に帰り、常遇春に諸将を率いて包囲させた。

至正二十四年 春二月(1364年)— 武昌の陥落と陳理の降伏

  • 二月乙未、太祖は武昌の包囲が長引いて落ちないので自ら視察に赴いた。辛亥、武昌に至って兵を督して城を攻めた。
  • 城東に高冠山があり、城中を見下ろせるので漢兵が屯していた。太祖が「誰がここを奪えるか」と問うと、傅友徳が先登を願い出て、一気に奪った。顔面に矢を受けて鏃が後頭部に突き出し、脇の下にも一矢を受けたが、友徳はひるまず、人々はその勇に服した。
  • 敵将の陳同僉なる者は敏捷で槊の名手で、中軍の帳下まで馳せ入った。太祖は胡牀に坐したまま「郭四、私のために賊を殺せ」と急ぎ叫んだ。郭英は槍を持ち、腕をふるって一喝すると、賊はその手にかかって落命した。太祖は「尉遅敬徳もお前には及ばぬ」と言い、着ていた紅錦の袍を解いて与えた。
  • 漢の岳州守将・張必先が潭州・岳州の兵を率いて救援に来て夜婆山に至った。太祖は常遇春に命じ、その衆が集まらぬうちに撃たせて破り、必先を捕らえた。必先は驍勇善戦で「潑張」と呼ばれ、城中は彼を頼みとしていた。縛って城下に引き出して示し、「お前たちの頼みの潑張は既に我が手にある。何を頼んで降らぬのか」と言った。必先も張定辺に「私はこの有様だ、事は成らぬ。兄は速やかに降るがよい」と呼びかけた。定辺は気力が萎えて言葉も出なかった。
  • 数日後、太祖は友諒の旧臣・羅復仁を城に入れて陳理を諭させた。「理が降れば富貴は失わせぬ」。復仁は強く請うた。「主上が好生の徳を推してこの一方に恵み、陳氏の孤児が首領を保てるようにしてくだされば、臣も食言せずに済みます。臣は死んでも恨みません」。太祖は「私の兵力が足りぬのではない。長く留まっているのは彼が自ら帰服して生霊を傷つけずに済むのを待つためだ。行け、必ずお前を欺かぬ」と答えた。
  • 復仁が城下に至って号泣すると、理は驚いて招き入れ、向かい合って泣いた。泣き止むと復仁は太祖の意を諭し、言葉は懇切だった。当時、陳氏の将で張定辺に勝る者はなく、定辺も支えきれぬと知っていた。
  • 癸丑、陳理は璧を口にくわえ肌脱ぎして定辺らを率い、軍門に至って降った。理は軍門で伏して震え、顔を上げられなかった。太祖はその幼弱を見て立ち上がって手を取り、「私はお前を罪としない。恐れるな」と言った。
  • 宦者に宮中へ入って友諒の父母に伝令させ、府庫の蓄えはすべて理に自ら取らせ、その文武の官僚を順に門から出し、妻子と荷物もみな連れて行かせた。
  • 明の軍が武昌を囲んで六か月で降伏したが、士卒であえて城中に入る者はなく、市は平穏で兵がいることさえ分からぬほどだった。城中の民が飢えていたので米を給して賑わせ、父老を召して撫慰すると、民は大いに喜んだ。
  • かくて漢陽・沔陽・利州・岳州の郡県が相次いで降った。湖広行中書省を立て、枢密院判の楊璟を参政として守らせ、陳理を帰徳侯に封じた。
  • 江西行省が友諒の金の彫刻を施した寝台を献じた。太祖はこれを見て侍臣に「これは孟昶の七宝の便器と何が違うか。寝台一つがこれほど精巧なら、他は推して知るべし。奢侈を極めて滅びぬはずがない」と言い、壊させた。

至正二十四年 夏四月(1364年)— 忠臣祠の建立

  • 四月丙申、鄱陽湖の康郎山に忠臣祠を建て、丁普郎・張志雄・韓成・宋貴・陳兆先・余旭・昌文貴・王勝・李信・陳弼・劉義・徐公輔・李志高・王咬住・姜潤・石明・王徳・朱鼎・王清・常徳勝・王鳳顕・丁宇・王仁・汪沢・王理・陳冲・裴幹・王喜仙・袁華・史徳勝・常推徳・曹信・逯徳山・鄭興・羅世栄ら三十五人を祀った。
  • 乙巳、南昌府に忠臣祠を建て、趙徳勝・李継先・劉斉・朱叔華・許圭・朱潜・牛海龍・張子明・張徳山・徐明・夏茂成・万思誠・葉琛・趙天麟ら十四人を祀った。

至正二十四年 八月〜十二月(1364年)— 贛州攻めと江陵・辰州の攻略

  • 漢は平定されたが、熊天瑞がなお贛州を占拠して下らなかった。八月壬辰、常遇春・鄧愈に討伐を命じた。愈は遇春と合流して臨江の沙坑・麻嶺・牛陂の諸寨を平らげ、偽の知州・鄧志明を捕らえて建康に送り、兄の克明とともに誅に伏させた。李明道は武寧山に隠れていたが捕らえられ、太祖はその反覆を咎めて誅した。
  • 遇春の兵が吉安に至ると、人を送って饒鼎臣に「私は今から贛州を取りに行く。城を出て一言交わして行きたい」と伝えた。鼎臣は恐れて出ず、幼い子を出して会わせた。遇春は座らせて酒を飲ませ、「帰って父に、よく自ら計るがよいと伝えよ」と言った。鼎臣はその夜に城を棄てて安福へ逃げた。遇春は吉安を回復し、兵を率いて贛州へ向かった。のち鼎臣が再び掠奪をほしいままにしたので、王国宝が撃って斬った。
  • 九月乙未、徐達・楊璟らに江陵を取らせた。旧偽漢の知院・姜珏らが城を挙げて降った。江陵を荊州府と改めた。達は唐勝宗に兵を分けて長沙を取らせ、沅陵・醴陵を下し、傅友徳が夷陵を取った。
  • 常遇春らが贛州を囲んだが落ちなかった。太祖は諭した。「熊天瑞は孤城に困り、籠の鳥・落とし穴の獣も同然、逃げられるものではない。ただ落城の日に殺傷が多すぎるのを恐れる。生民を保全することを心とせよ。一つには国家のため、二つには帰服する者への勧めとなる。漢の鄧禹はみだりに誅殺せず子孫が栄えた。これを法とすべきである。先の鄱陽湖の戦いで友諒が敗れ、その兵を生かして降したが、今も我が用となっている。たとえ逃げ帰った者がいても、それも我が百姓だ。土地を得ても民がいなければ何の役に立つか」。
  • 天瑞は守りをいよいよ固めたので、遇春は濠を深くし柵を立てて囲んだ。天瑞の子・元震がひそかに出て軍を偵察したところ、遇春が数騎で不意に遭遇した。元震が襲ってくると遇春は壮士に刀を振るわせたが、元震は鉄撾を振るって拒み、戦いながら退いた。遇春は「壮士である。追うな」と言った。
  • 十二月、徐達が辰州・衡州を克った。
  • 句容の儒士・戎簡が謁見して陳氏討伐の話に及び、「先に九江で陳氏を破ったとき、なぜ勝ちに乗じて武昌に直行せず引き返したのですか。今克ったとはいえ、余計な力を費やしました」と言った。太祖は答えた。「お前は儒者だ。『覆る巣の下に完き卵なし』を知らぬか。陳氏が敗れたとき、勝ちに乗じて踏み潰すことを知らなかったわけではない。だが兵法に『窮寇は追うなかれ』とある。勝ちに乗じて急追すれば彼らは必死に戦い、殺傷は実に多くなる。だから逃がしてやり、偏師を後に付けて逃走を防いだ。彼らは破れた後で各々が生き延びるので精一杯、再び戦う余裕はない。そこへ大軍で臨んだから城を全うしたまま降服した。一つには兵が傷つかず、二つには生霊が保たれた。得るところは多かったではないか」。戎簡は大いに感服した。

至正二十五年 春正月(1365年)— 熊天瑞の降伏

  • 己巳、熊天瑞は長い包囲に耐えきれず降った。統べていた南安・雄州・韶州の諸郡もみな下った。
  • 太祖は遇春が贛州を克って殺戮しなかったと聞いて大いに喜び、使者を送って褒め諭した。「私は『仁者の師は無敵』と聞くが、仁者の将でなければできぬこと。今、将軍が敵を破って殺さず、勝報が届いた。私は将軍のために大いに喜ぶ。曹彬の江南平定とてこれ以上ではない」。
  • 先に天瑞が横暴に民財を取り立てていたのを、太祖はすべて廃止させた。
  • 甲戌、常遇春は南安へ進み、麾下を遣わして韶州の未平定の諸郡を招諭した。友諒の韶州守将・張秉彝、南雄守将・孫栄祖らはそれぞれ兵と糧の名簿を携えて降り、遇春は軍を整えて帰還した。

史論(谷応泰曰)

  • 元が統御を失うと群雄が蜂起し、鹿を逐う者は至るところにいた。太祖が濠梁に起こったのと同時に、張士誠が呉に、徐貞一(徐寿輝)が蘄に、明玉珍が蜀に、方国珍が江東に拠ったが、いずれも門を閉ざして勢力を保つだけで、天下を図る志はなかった。
  • ただ陳友諒だけが猛悍な資質で江楚を併呑し、上流を扼した。地は険しく兵は強く、才は剽悍で勢いは盛んで、まさに至近にあって我が寸土を争った。漢の公孫述(文伯子陽)、唐の王世充・竇建徳の比ではない。
  • しかし太祖の用兵は、まず偽漢を図り、のちに偽呉を取るという成算が胸中にあり、順序に狂いがなかった。龍江で柵を抜いて戦艦を大量に奪い、柴桑(江州)へ天から降ったように兵を進めた。康郎山の勝報を待つまでもなく、湖口へ軍を移した段階で敵は既に眼中にあり、意気は小敵を呑んでいた。
  • その間、康茂才の間諜、韓成の入水と、危うい局面を踏みつつ経営に苦心もした。だが太祖は度々挫かれても気は折れず、友諒は小勝で志が驕った。これが明の興り、漢の亡んだゆえんである。
  • 友諒はもと沔陽の漁家出の刀筆の小吏で、凶残なだけで功徳がなかった。趙普勝という干城を頼りながらすぐに殺し、徐寿輝に臣として仕えながらすぐに弑した。名も実も失い、忠も勇も失った。まさに「蠅の声、紫の色」(正統ならぬ僭主)で、聖王のための露払いにすぎない。
  • 論者は、周顛が天を仰いだ話、張鉄冠の大笑、劉基が難星を手で払った話、雷老が忽然と消えた話を挙げて、王者の行く先には諸神が霊験を示すという。だが友諒には順逆を犯す劉黒闥のような気風が多く、命に帰する竇融のような智恵が乏しく、空名を盗んで進退の拠り所がなかった。人の謀がまずかったのであって、天が滅ぼしただけではない。
  • 江夏(武昌)が平定されると、次第に北の襄陽・鄧州をうかがい、荊・揚を混一し、そのまま中原に下ることができた。以後は枯れ木を折るように帝業が成った。太祖が「この賊が滅んだ以上、天下は定めるに足らぬ」と言ったのももっともである。
  • とりわけ注目すべきは、友諒がはじめ太平を破って僭号し、鋭い勢いで攻め寄せたとき、議論する者は降伏を唱えたのに、劉基ひとりが「威を取り覇を定めるのはこの一挙」としたことである。これは周瑜が孫権に曹操へ降るなと決断させたのに劣らず、実に随何が使者を絶って漢がついに楚を覆したのに等しい。安危の分かれ目は、やはり謀にあるのではないか。