明史紀事本末両広を平定する(平定兩廣)

明軍による両広平定を、呉元年(1367年)の発令から洪武二年(1369年)の詔諭までの約三年間にわたって扱う。太祖は楊璟・周徳興・張彬に湖広から広西を、廖永忠・朱亮祖に海路から広東を取らせ、さらに陸仲亨を贛州から発して三方から挟む策を立てた。広東では嶺南に威望のあった元の左丞・何真が印章と名簿を奉じて降り、竇融・李勣に比されて江西行省参知政事を授かる。広西では永州の鄧祖勝が毒を仰いで死に、靖江路も濠の水を落とす計で陥ち、エルギナが捕らえられた。南寧・象州・彬州が相次いで降って広西は平定され、慶遠安撫司と広西行省が置かれた。

年表(11件)

呉元年(元至正二十七年、1367年)十月甲子 — 広西攻略の発令

  • 湖広行省平章の楊璟、左丞の周徳興、張彬に武昌・荊州・潭州・岳州などの衛の軍を率いさせ、湖広から広西を取らせた。
  • 太祖は諭した。「南方の人はみな版図に入ったが、ただ淮北と山東がまだ安らかでなく、両広と八閩がまだ帰属していない。既に丞相の徐達、平章の常遇春らに北のかた中原を定めさせ、平章の胡廷美に道を分けて南征させて八閩を取らせている。八閩が定まればその師で海を渡って広東を取らせる。ゆえにお前たちに荊湘の衆を率いて広西を取らせる。両軍が勢いを合わせれば、征して克てぬものはない。乱を鎮め暴を止め、遠方の人を畏れ服させ、私の命に背くな」。璟らは叩頭して出発した。

洪武元年 正月乙亥(1368年)— 永州の攻防

  • 楊璟らが永州を攻めた。元の全州平章アルスランが救援の兵を送ってきたが迎え撃って破り、永州城に迫った。守将の鄧祖勝が南門から兵を出して拒み戦ったが、これも破ってその将・王鑑を捕らえた。祖勝は兵を収めて入城し固守した。
  • 元兵が再び広西から救援に来て東郷に駐屯し、湘水に沿って七つの営を並べ、軍容は甚だ盛んだった。璟は指揮の袁子明を遣わして撃破し、万戸の丁武ら千余人を捕らえた。

洪武元年 二月癸卯(1368年)— 広東攻略の発令

  • 平章の廖永忠を征南将軍、参政の朱亮祖を副将軍として海路から広東を取らせた。
  • 太祖は諭した。「王者の師は天に順い人に応じて暴乱を除く。朕は昔、武昌・荊湘の諸郡を平定したが、いずれも風を望んで帰服した。常遇春が贛州・南安を克つと嶺南の数郡も相次いで帰服した。他でもない、師が規律をもって出たので人心が悦服したのである。 今、両広の地は南方の遠方にあり、割拠が続いて民は長く苦しんでいる。彼らは八閩が守れず湖湘が既に平らいだと聞いて内心震え上がっていよう。まず人を送って威徳を宣布して招けば、必ず帰順し迎え降る者があろう。もし命を拒めば兵を挙げてその険要を扼し、声援を絶て。 聞けば広東の要地は広州にある。広州が下れば沿海の諸郡は檄を伝えるだけで定まる。海南・海北も順に招き、兵を留めて鎮守させ、平章の楊璟と兵を合わせて広西を取れ。南方を粛清するのはこの一挙にある」。

洪武元年 二月〜三月(1368年)— 宝慶・全州の攻略と何真の帰順

  • 癸丑、楊璟は千戸の王廷に兵を率いさせて宝慶を取らせた。先に宝慶を克ったが再び陳友諒の将・周文貴に陥れられていた。廷が茱萸灘に進むと賊千余が険に拠って拒み戦ったが、廷が撃破し、文貴は逃げ、宝慶を回復した。
  • 壬戌、贛州衛指揮使の陸仲亨らに師を率いて廖永忠の広東征討に合流するよう勅した。「近ごろ平章の楊璟らに湖南から広西を取らせ、廖永忠らに福建から広東を取らせている。今、特にお前たちに師を率いて韶州から徳慶を直撃させる。三方から進兵して犄角の勢をなせば、挙げて克てぬものはない。広東が下れば兵を合わせて広西を取れ。先声が振るえば勢いは破竹だ。ただ生民を撫し集め、殺掠をほしいままにするな」。
  • 三月、楊璟は左丞の周徳興、参政の張彬に兵を率いさせて全州を取らせた。壬申、全州を克ち、元の平章アルスランは逃げた。道州の莫友遜、寧遠州の李文卿、藍山県の黎元帥が相次いで降った。
  • 廖永忠らが舟師を率いて福州から海路で広東を取ると、元の左丞・何真が降った。
  • 先に嶺海が騒然としたとき、何真は郷里を固く守った。同郷の王成と陳仲玉が乱を起こすと、真は行省に請うて義兵を挙げて除き、仲玉を捕らえて帰った。成は寨を築いて自ら固め、久しく落とせなかった。真は成を縛った者に鈔十千を与えると募ると、成の下僕が成を縛って出てきた。真は笑って「公はなぜ虎を養って自ら患いを招いたのか」と言い、成は恥じた。
  • 下僕が賞を求めると、真は約束どおり与えた。そして人に湯釜を車上に用意させた。成は自分が煮られるのかと恐れたが、真は下僕を縛って上に載せ、煮るよう促し、数人に鉦を鳴らさせて下僕の妻に火を焚かせた。下僕が一声叫ぶと皆が唱和して「四方に下僕で主人を縛る者があれば、これを見よ」と言った。人々はみな心服し、光武帝が蒼頭の子密を扱ったのも及ばぬと評して、争って帰服した。
  • かくて循州・恵州の二州も併有し、恵州路通判を授かり、まもなく参政となって右丞に遷った。嶺表の民は彼のおかげで安んじた。符瑞を持ち出して尉佗(南越王趙佗)のように独立するよう勧める者があると、必ず斥け絶った。
  • はじめ廖永忠が福州に駐屯したとき、人に書を持たせて元の江西分省左丞・何真を諭した。その要旨。「元君が統御を失って天下は土崩し、豪傑の士が時に乗じて起こり、州郡を分割して疆土を占拠した。ある者は元の号令を借り、ある者は自ら兵威をほしいままにし、暴虐に徴収して一方を蚕食し、生民の塗炭は極まった。今、天子は天の明命を受けて中華を肇め造り、江漢は既に平定され、閩越も従い、中原も相次いで削平された。ただ両広だけが遠方に僻在して聖化に浴していない。私は南征の命を受け、順う者は撫し、逆らう者は誅する。足下がまだ悟らぬのを恐れ、まず一介の使者を走らせて告げる。留意されたい」。
  • ここに至って永忠らが潮州に至ると、真は都事の劉克佐を送って印章を差し出し、統べていた郡県の戸口・甲兵・銭穀を名簿にして、表を奉って帰服した。太祖はその境を保ち民を安んじた功を嘉し、漢・唐の竇融や李勣に比し、特に伝馬を用意して朝見させた。
  • 丙戌、楊璟が兵を送って武岡州を攻めると、元の守将・曽権が城を挙げて降った。

洪武元年 四月(1368年)— 広州・徳慶の攻略

  • 四月朔辛丑、廖永忠らの師が東莞に至り、何真が官属を率いて出迎えた。虎頭関に進むと、元将の盧左丞、張元帥がそれぞれ部下を率いて降り、そのまま広州に入った。
  • 陸仲亨は兵を率いて英徳・清遠・連江・連州・肇慶などの郡県を下した。辛丑、徳慶路を克ち、元の守将・張鵬程は城を棄てて逃げた。
  • 何真は東莞の人で、かつて淡水場の管勾となった。元末、嶺南に盗賊が蜂起して真の郷里を掠めたので、真は豪民をまとめて防いだ。乱兵が恵州に拠ると衆を率いて回復し、功によって恵州路通判を授かり、宣慰司都元帥に昇進した。南海の賊・邵宗愚が広州を陥れると、真がこれも撃退した。元は江西分省を広東に立て、真を参政、さらに右丞に昇進させ、かくて広東の諸州郡を有していたが、ここに至って降ったのである。
  • 乙卯、廖永忠が広州の偽参政・邵宗愚らを捕らえて誅した。宗愚は三山寨に拠り、人を送って降伏を申し出ながら遅らせて来なかった。永忠はその詐術を見抜き、攻撃を令し、夜の二更に兵を発して寨に至り、翌朝これを破って宗愚を捕らえ、市で斬った。
  • 新会の黄彬、河源の曹文昌、汲州の廖仁、南海の麦康祖らを分けて捕らえ、いずれも誅した。
  • 何真が入朝すると宴を賜り、あわせて白金千両、文綺・紗・羅・綾・段各百疋を賜り、将校にも差をつけて賜った。諭して言った。「天下が乱れる中、いわゆる豪傑には三種ある。乱を治に易える者が上、民を保ち変に通じて帰する所を知る者がこれに次ぐ。険阻に頼って一時の安を偸み、毒を生民に流して身が死んでも悔いぬ者は論ずるに足らぬ。このたび師が閩越に臨むと卿はすぐに誠を尽くして帰服し、一旅の力も煩わさずに民が安堵した。時を識り変に達したと言うべきである」。真に江西行中書省参知政事を授けた。

洪武元年 四月(1368年)— 永州の陥落

  • 楊璟は永州を囲んで久しく落とせず、指揮の胡海洋らに塁を築いて包囲させ、また西江の上に浮橋を造り、軍士を訓練して必ず克つ姿勢を示した。
  • やがて食が尽き力も窮まり、守将の鄧祖勝は毒を仰いで死んだ。参政の張子賢らはなお衆を率いて拒み守ったが、百戸の夏昇が城壁を伝って降り、祖勝の死を告げた。
  • 夜三更、璟は兵を督して四面から攻め、胡海洋らが城を越えて入った。子賢はさらに衆を率いて市街戦をしたが、夜明けに衆は潰え、子賢と元帥の鄧思誠らはともに捕らえられ、城内の士馬をすべて獲た。璟は衡州衛指揮同知の丁玉を守備に当て、耒陽などの州もみな人を送って降った。

洪武元年 五月〜六月(1368年)— 梧州・藤州・容州・貴州

  • 五月己卯、征南将軍の廖永忠と参政の朱亮祖らの兵が梧州に至り、元のダルガチ・バイムが官吏と父老を率いて出迎えて降った。
  • 当時、元の吏部尚書ブヤン・テムルと張翔が便宜行事の権をもって広西へ入り、藤州に至ったところへ永忠の兵が到着した。兵を募って迎え撃とうとしたが応じる民はなく、まもなく藤州守の呉鏞が出て降った。二人は部下百余人を率いて欝林へ逃げたが、亮祖が兵を整えて追い、ブヤン・テムルは戦死し、張翔は水に投じて死んだ。亮祖は藤州に駐屯した。
  • 甲午、朱亮祖が容州に至ると、同知のミンブハと普寧県ダルガチのマルらが出迎えて降った。亮祖が貴州に軍を進めると、元の欝林州知州・張那海が出迎えて降った。
  • 六月甲辰、元の海南海北道元帥・羅福らと海南分府元帥・陳乾富らがいずれも使者を送って降った。

洪武元年 六月壬戌(1368年)— 靖江路の攻略

  • 靖江路を克った。先に周徳興が全州を克つと兵を分けて柵を築き、靖江の要害を扼して声援を絶っていた。璟は永州を克つと兵を率いて靖江の城下に至り、北関に屯した。参政の張彬は西関に屯し、朱亮祖も広東から師を率いて合流し、東門の象鼻山下に屯した。城攻めは二十日に及んで克てなかった。
  • 璟は諸将校に言った。「彼が頼みとするのは西城の濠の水だ。まず閘口関を取ってその堤を切れば、必ず破れる」。諸将は同意した。
  • 翌日、指揮使の丘広に軽兵を率いさせて閘口関を攻め、堤を守る兵を殺して堤を切ると、濠の水は涸れた。そこで土の堤を築いて城に接するまで伸ばして士卒を通し、北門の月城を克ち、さらに北門の水の隘路を克って百余人を斬り捕らえた。西門も攻めたが不利で、対峙は二か月に及び、攻囲はいよいよ厳しくなった。
  • エルギナは勢い窮まって兵を南門から出して戦わせたが、指揮の胡海が撃破し、その万戸の皮彦高、楊天寿らを捕らえた。璟は彦高にひそかにその総制の張栄を誘わせ、栄の麾下の裴観が書を矢に結んで璟の営に射込み、その夜に降ると期した。
  • 二更、観が城壁を伝って出て璟に会い、城中の蓄えが空で人に闘志がなく、たちどころに取れると詳しく述べた。璟は白い皮帽子を百余与えて目印とし、四更に賓賢門から入ると約した。期日に璟は諸将に衆を率いて直進させ、エルギナは変を聞いて慌てて逃げたが、城東の伏波門で追いつかれて捕らえられた。
  • はじめ張彬が城攻めを始めたとき守兵に罵られ、憤って「城が破れたらすべて屠ってやる」と言っていた。城を克つと璟は殺戮を恐れて「人を殺す者は死罪」と令し、彬は思いとどまり、衆心は安んじた。

洪武元年 六月戊辰〜七月(1368年)— 南寧・象州・彬州の帰順、広西の平定

  • 戊辰、廖永忠が南寧へ進むと、元の土浪屯田千戸・宋真がその守将・平章の恩楚らを捕らえて使者を送って降った。永忠は諸司の印章をすべて収め、宋真に城を守らせ、恩楚らを京師へ送った。
  • 七月己巳、広西左江太平府の土官・黄英衍、右江田州府の土官・岑伯顔らが使者に印章を持たせて平章の楊璟のもとへ降った。
  • 元の平章アルスランは全州の敗戦後、残兵を率いて象州に退いて守っていた。廖永忠は指揮の耿天璧らを遣わして討たせた。師が賓州の境に至ると、アルスランは部将の李左丞を送って拒み戦わせたが、天璧が撃破した。アルスランは窮迫して子の僧保を送って帰順を申し出、戊子、自ら部下を率いて永忠のもとに降り、銀印三・銅印三十七・金牌五を献じた。
  • 丁酉、元の彬州守将・左丞の楊以誠が平章の楊璟の営に来て降った。広西はすべて平定され、楊璟らは軍を整えて帰還した。

洪武二年 二月〜三月(1369年)— 慶遠の安撫司と広西行省の設置

  • 二月、慶遠府を慶遠南丹軍民安撫司と改めた。湖広行省の臣が言った。「慶遠は八番の渓洞に接し、統べる南丹・宜山などは宋・元ともにその土着の首長を安撫使に用いてきました。大軍が広西を下すと、安撫使の莫天祐が真っ先に帰順しました。登用してその民を統べさせれば、蛮の心情は服しやすく、守備兵も減らせます」。太祖は従い、天祐を安撫司同知とした。
  • 三月癸亥、広西行省を置いた。もともと広西は湖広に属していたが、ここで行省を置いた。
  • 九月戊午、征南将軍の廖永忠と副将軍の朱亮祖が京師に帰った。

洪武二年 冬十一月丙午(1369年)— 左右両江への詔諭

  • 中書照磨の蘭以権に詔を持たせて広西の左右両江の渓洞の官民に諭させた。「朕は思う。武功で天下を定め、文教で遠人を化す。これは古の哲王が威と徳を並べ施し、遠近がみな服したゆえんである。 この両広は南の辺境に接し、風俗は質朴で、唐宋以来、黄・岑の二氏が代々その間に居り、世が乱れれば境土を保ち、世が治まれば職貢を修めてきた。まことに時を審らかにし機を知ったがゆえに、世を保って盛大となった。 このたび朕が将に命じて南征させ、八閩を克ち両広を清め平定したとき、お前たちは師旅を煩わせず印を奉じて帰服した。慕う誠意はまことに嘉すべきである。今、特に使者を遣わして諭す。心を慎み職務に励み、朕の意を宣布して居民を安んぜよ」。

史論(谷応泰曰)

  • 呉元年、太祖は平章の楊璟に湖広から広西を取らせ、また征南将軍の廖永忠に閩の海路から広東を取らせた。両路の進軍は期日を定めて同時に発し、猛獣や鷙鳥のように急いで駆けつけた。新たな勝利の威に乗じ、混迷を振り払う勢いに乗じたのである。
  • しかし当時を考えれば、淮北・山東はまだ経略されておらず、秦晋・関陝は度外に置かれ、ただ徐達の一軍が淮から河に入って北伐に長駆したにすぎない。
  • 咸陽は瓴を建てる形勢で百に対する二の険を持ち、珠崖や銅柱の険どころではない。中州は沃野千里で、桂林・象郡の豊かさに比べものにならない。三晋の兵馬は最強で、尉佗の夷風や番禺の敝俗の比ではない。それなのに太祖は中原に力を集中せず南の辺境に兵を分け、要地を急いで争わず先に蛮方に手をつけた。緩急の判断は下策ではなかったか。
  • 私はそうは思わない。当時、元人は地が大きく力も残っており、王を派遣しても虚実をうかがえず、衆を合わせて関に迫るには年月がかかると見込まれた。一方、江南の地では漢・呉・閩の三方が相次いで滅び、向かうところ敵なく、粤の地は先声を虎のごとく畏れており、一矢を放つだけで檄を伝えて定まる状態だった。兵法に「実を避けて虚を撃つ」といい、また「その瑕を攻めれば堅きも瑕となる」という。
  • そこで武岡から入る者はみな長髯の精騎、海路から入る者は楼船を下して師を渡し、さらに陸仲亨の一軍を贛から出して嶺を越えさせ、喉元を押さえて虚を衝いた。淮陰侯の奇兵、岳飛の敵情の読みもこれに過ぎない。
  • 結局、楊璟の戦功は全州・永州の二州にとどまり、廖永忠の戦績は三山の一寨にとどまり、靖江が落ちなかったので両軍が旬月ほど合囲した程度だった。その他の郡県はいずれも門を開いて降り、風を望んで迎え帰属し、兵は血を見ずに手を拱いて得られた。これこそ太祖の廟算の長けたところである。
  • 聞くところ、孔明は魏を伐つ前にまず南苗を定め、秦国は自強のためまず巴蜀を呑んだ。正面から天下を争う者は、背後で議されることを何より恐れるのである。まして南方が定まれば兵力に余裕ができ、海上で軍資を坐して収めることができて備えも厚くなる。
  • そこで師を返して転戦し、上流を掃討した。楊璟は唐州の功を著し、永忠は夔門の勝を鼓し、徐達の諸軍と犄角をなして平定を奏した。光武帝が江淮を平定してから隴・蜀に専念し、宋の主がまず両川を取ってから東南に専念したのと同じで、いわゆる「事の形が既に成れば刃を迎えて解ける」というものである。
  • 元の左丞・何真は自ら王たらんとする謀を拒み、帰命の義を全うした。太祖がその境を保ち民を安んじた功を嘉して竇融・李勣らと並べ称したのは、まことに偽りではなかった。