明史紀事本末東南を平定する(平定東南)

朱元璋が集慶を得たのち、東南一帯を平定して呉王となり、即位直前に至るまでの十二年を扱う。至正十六年(1356年)の鎮江攻略に始まり、徐達・常遇春・鄧愈・胡大海・李文忠らが寧国・徽州・揚州・婺州・衢州・処州を次々に下した。秦従龍・朱升・許瑗、さらに劉基・宋濂・章溢・葉琛の四先生を礼を尽くして招き、康茂才の営田使や民兵万戸府など農戦の制を整えた。至正二十二年(1362年)には苗帥の反乱で胡大海・耿再成・孫炎を失うが鎮圧し、至正二十四年(1364年)に呉王に即位。韓林児への拝礼を劉基とともに退け、その死後は呉元年を建てるが、即位の勧めはなお辞退したところで篇を終える。

年表(30件)

至正十六年 春三月(1356年)— 鎮江の攻略

  • 金陵を定めた太祖は鎮江を取ろうとしたが、諸将が士卒を統制せず民の害となることを恐れた。そこで諸将を召し、日ごろ軍士を放縦にしていた過失を数え上げて処罰しようとし、李善長の取りなしでようやく許した。
  • 徐達を大将として諸将を率いさせ、江を下らせるにあたって戒めた。「挙兵以来、私はみだりに人を殺したことがない。お前たちも我が心を体して士卒を戒めよ。落城の日に焼き討ち・略奪・殺戮をするな。犯した者は軍法で処し、放置した将も罰して赦さぬ」。諸将は叩頭して命を受けた。
  • 丙申、鎮江へ進攻。丁酉、これを克った。苗軍元帥のオンジャル・トは逃走し、守将の段武と平章の定定は戦死した。徐達らは仁和門から入城、号令は厳粛で城中は平穏だった。
  • 兵を分けて金壇・丹陽の諸県を下し、鎮江を江淮府と改め、徐達・湯和を統軍元帥として鎮守させた。のちに江淮府をまた鎮江府に戻した。

至正十六年 六月乙卯(1356年)

  • 鄧愈・邵成・華高・華雲龍に広徳路を攻めさせて克ち、広興府と改め、鄧愈に鎮守させた。

至正十六年 秋七月己卯(1356年)— 官制の整備

  • 江南等処行中書省を置き、諸将は太祖を呉国公・行丞相に推戴して省事を総べさせた。李善長・宋思賢を参議、李夢庚・陶安らを左右司の郎中・員外郎・都事などとした。
  • 江南行枢密院を置いて徐達・湯和を同僉枢密院事とし、帳前親軍を置いて馮国用を総制都指揮使とした。さらに左右前後中の五翼元帥府と五部都先鋒を置き、提刑按察司を設けて王習古・王徳を僉事とした。
  • 鎮江の秦従龍を使者を遣わして招いた。従龍は字を元之、洛陽の人で、元に仕えて校官から江南行台侍御史に累進したが、兵乱に際して老齢を理由に鎮江に隠棲していた。太祖は東下にあたり徐達に「鎮江に秦元之という才器老成の人物がいる。入城したら訪ねてくれ」と告げていた。徐達らが従龍を見つけて報告すると、太祖は喜んで朱文正に白金と文綺を持たせて招聘させた。到着すると太祖は自ら龍江まで出迎え、元の御史台跡を府とし、従龍を西華門外に住まわせた。事の大小を問わず必ず謀り、従龍も隠さず述べた。やりとりは漆の簡に筆で書き合うほど密で、左右の者にも知られなかった。太祖は「先生」と呼んで名を呼ばなかった。

至正十六年 九月〜十二月(1356年)

  • 九月、太祖は鎮江府に赴いて孔子廟に謁し、儒士を分遣して郷邑を諭し、農桑を勧めた。
  • 十二月、長槍賊の謝元帥が広徳を侵したが、鄧愈が撃破し、その総管の武世営と軍士千余人を捕らえた。まもなく裨将の費子賢を遣わして武康・安吉を攻め、いずれも下した。

至正十七年 夏四月(1357年)— 寧国の攻略と朱亮祖

  • 徐達・常遇春に寧国を攻めさせたが長く落ちず、太祖は自ら赴いて督戦した。長槍軍が救援に来たが、険に拠って撃退した。
  • 飛車を造り、竹を編んで幾重にも遮蔽を設け、数道から同時に進んだ。守将の楊仲英は支えきれず門を開いて降った。その百戸・張文貴は妻子を殺して自刎した。
  • 部将の朱亮祖を捕らえ、軍士十余万・馬二千匹を得た。亮祖は六合の人で、はじめ元の義兵元帥だったが、太祖が太平を克つと降り、まもなく叛いて去り、たびたび我が軍と戦って六十余人を捕虜にするなど、諸将で敵う者がなかった。徐達らが寧国で亮祖を囲んだ際、常遇春は槍を受けて退いたほどである。太祖が兵を督して破り、縛って引見し「今はどうだ」と問うと、亮祖は「やむを得ぬこと。生かされれば力を尽くし、殺されるなら死ぬだけだ」と答えた。太祖はその気概を壮として釈放し、宣城攻めに従わせ、宣城も下った。

至正十七年 秋七月(1357年)— 徽州の攻略

  • 鄧愈・胡大海に徽州を取らせた。まず績渓・休寧を下し、勢いに乗って徽州を攻めた。元の守将元帥バルス・ブハと万戸の呉納らが拒み戦ったが撃破した。
  • 庚辰、徽州路を克った。呉納はアルフム・李克膺らと遂安県に退いて守ったが、胡大海が追撃して白鶴嶺で破り、呉納らは自殺した。徽州路を興安府と改め、鄧愈に守らせた。

至正十七年 九月〜十一月(1357年)— 揚州の降伏と苗軍撃退

  • 九月、青軍元帥の張明鑑が元の鎮南王ボロ・ブハを追い出して揚州に拠り、日々居民を屠って食料としていた。元帥の繆大亨が攻めると明鑑らは支えきれず降り、衆数万・馬二千匹を得た。揚州路を淮海府と改め、耿再成・張徳林に守らせた。城中の居民を戸籍で調べるとわずか十八家しか残っておらず、徳林は旧城が広すぎるため城の西南隅だけを区切って築き直して守った。
  • 元の苗帥・楊オンジャルが杭州から数万の衆を率いて徽州を攻めた。徽州は帰属したばかりで防備の器具も整わず、胡大海は婺源攻めに出ていて城中の守兵はごく少なかった。苗軍が突然迫ると、鄧愈は将士を励まし、四門を大きく開いて待ち受けた。苗軍は疑って入れなかった。胡大海はこれを聞いて婺源から強行軍で戻り、大声を上げて突入、鄧愈と挟撃した。
  • 十一月朔、城下で苗軍を大破し、鎮撫の呂才を殺し、部将の呉辛・董旺・呂昇らを捕らえた。オンジャルは逃げ去った。鄧愈は裨将の王弼・孫虎を遣わして婺源を攻め、元将テムル・ブハを斬った。婺源元帥の汪同は降った。

至正十八年 春二月(1358年)— 康茂才を営田使とする

  • 康茂才を営田使とした。茂才は蘄州の人で、はじめ義勇軍を結成して元のために江上で寇を防いで功があり、宣慰使・都元帥に累進して裕渓・采石を守っていた。太祖の兵が渡江すると茂才はたびたび敗れ、常遇春の伏兵にその精鋭をほぼ殲滅された。茂才は敗残兵を集めて天寧州に寨を築いたが、太祖が襄陽砲でこれを破ると金陵へ奔り、金陵が破れると鎮江へ逃れようとして追いつかれた。茂才は天命の帰する所を悟り、残兵三千を率いて甲を解いて帰服し、「先日の戦いは各々の主のためのこと。今たびたび敗れたのは天意です。生死は仰せのままに」と叩頭した。太祖は笑って許し、部下の兵を統べて従軍させ、たびたび功があった。
  • 太祖は茂才に諭した。「兵乱で堤防が崩れ、民は耕作を廃した。ゆえに営田使を設けて堤防を修築し水利を専管させる。今、軍務は繁多で費用が急を要する。理財の道は農事に先立つものはない。この職を命ずるゆえ各地を分巡し、高地は水不足の患なく、低地は水害に病まぬよう、蓄水と排水を適切にせよ。役所を設けるのは民のためであって民を苦しめるためではない。もし役人に館舎を飾らせ、送迎に奔走させて行く先々を騒がせれば、民に益なくかえって害となり、任命の意に背く」。

至正十八年 二月〜三月(1358年)— 李文忠らの浙東進出

  • 李文忠らが青陽・石埭・太平・旌徳の諸県を取り、いずれも下した。同月、文忠はさらに進んで元の院判アルフムの兵を万年街で破り、昌化で苗獠を破って婦女と輜重を多数獲得した。文忠は士卒が富に驕って闘志を失うことを恐れ、あえて怒って獲物をすべて殺させ輜重を焼き、「これしきのもの惜しむに足るか。努めて敵を破れば富貴は望むところだ」と言った。衆はみな奮い立った。
  • 三月、文忠は鄧愈・胡大海の兵と合して建徳路を取った。太祖は大いに喜び、文忠を帳前総制親兵都指揮使に任じた。
  • 胡大海らは徽州の昱嶺関から建徳路に進攻し、遂安を通ったところで長槍元帥の余子貞が拒んだが撃破し、淳安まで追撃、敵は望んで潰えた。遂安の守将・洪元帥が五千を率いて淳安を救援に来たが、これも破って千余人を降した。
  • 丙辰、建徳路を克った。元の守将ブハらは城を棄てて逃げ、父老の何良輔らが衆を率いて降った。建徳路を厳州府と改めた。
  • 五月、苗帥の楊オンジャルが衆を率いて徽州の烏龍嶺に屯したが、李文忠と鄧愈が合力して撃退した。癸酉、浦江県を下した。文忠は浦江で、鄭氏が宋以来一族同居し、元が「義門」として旌表した家であると聞き、軍士に侵掠を禁じた。
  • 同月、提刑按察司僉事に郡県を分巡させて囚人を録した。

至正十八年 十一月辛丑(1358年)— 民兵万戸府の設置

  • 管領民兵万戸府を立て、行中書省の臣に諭した。「古は兵を農に寓し、事あれば戦い、無事なら耕し、暇には武を講じた。今は兵争の際ゆえ時に応じて宜しく制すべきである。平定した郡県の民間の武勇の材を精選して戸に編成し、民兵万戸府を立てて統べさせよ。農時には耕し、閑には練習し、事あれば用いる。事が平らげば功ある者は同様に昇進させ、功なき者は民に返す。こうすれば民に坐食の弊なく、国に未熟な兵なし。戦えば勝ち、守れば固い。兵を農に寓す意に近かろう」。

至正十八年 十二月(1358年)— 婺州の攻略

  • 胡大海は蘭渓を取って要害に兵を分け守らせ、婺州へ進攻したが、婺州は堅守して落ちなかった。太祖は李善長・徐達に建康を守らせ、甲子、自ら常遇春らの兵十万を率いて出征した。
  • 寧国から徽州への道中、儒士の唐仲実・姚連らを召して時務を諮り、治道を尋ね、民の苦しみを問うた。前学士の朱升の名を聞いて召して問うと、「城壁を高く築き、糧を広く蓄え、王を称するのは緩やかに(高築墻・広積糧・緩称王)」と答えた。太祖は喜んで帷幄に参画させた。
  • 十二月、軍は蘭渓に至った。まず和州の人・王宗顕を婺州へ偵察に遣わした。宗顕は若い頃から儒学を修め経史に広く通じ、乱を避けて厳州に寓居していたのを胡大海が推薦した人物である。宗顕は婺州の城外五里の旧知の呉世傑の家に至り、城中の守将が各々ばらばらであることを探り出して報告した。太祖は喜び「婺州を得たらお前を知府にする」と言った。
  • 元の参知政事シュムル・イスンは処州を守っており、大軍の婺州攻めを聞いて急ぎ恭謀の胡深、章溢と守備を議し、獅子戦車数百輛を造った。弟のシュムル・ホウスンに婺州を守らせ、胡深らに戦車部隊を率いて援けさせ、自らは万余の衆を率いて縉雲に出て呼応した。胡深は松渓に至って様子見をして進まなかった。
  • 太祖は諸将に言った。「婺州がシュムル・イスンを頼みにするからこそ、すぐには下らぬ。戦車で援軍に来ると聞くが、これは変に応じるすべを知らぬ者だ。松渓は山が多く道が狭く車は通れない。精兵で遮ればその勢いは崩れる。援兵が破れれば城は労せず下る」。
  • 翌日、胡徳済に命じてその兵を梅花門外に誘い出させ、一斉に撃って大破した。胡深らは逃げ去った。胡深が出発する際、朝起きると西北に黒気、東南に白気が天に長く連なり、やがて白気が黒気に払われるのを見た。不吉と知りながら軍心の動揺を恐れて「今日は殺気がある、戦えば必ず勝つ」と偽ったが、果たして敗れた。
  • 城中の勢いはいよいよ孤立し、台憲の官と将臣が区域を分けて守り、しかも互いに折り合わなかった。そこで同僉の甯安慶が夜、都事の李相を城壁から吊り下ろして降伏を請わせ、東門を開いて兵を入れると約した。太祖は許した。
  • 甲申、兵が入ると守将は狼狽して手が付かず、テムル・ラシ、シュムル・ホウスンらを捕らえた。侵暴を禁ずる令を下し、婺州路を寧越府と改め、分けて中書省を置いた。
  • 儒士の許元・葉瓉玉・胡翰・汪仲山ら十余人を召して省中で会食させ、日々二人ずつに経筵で進講させて治道を述べさせた。王宗顕を寧越府知府事とし、郡学を開かせ、儒士の葉儀・宋濂を五経の師、戴良を学正、呉沉・徐原を訓導とした。喪乱ののち学校は久しく廃れていたが、ここで初めて読書の声が聞かれ、人々は手を挙げて額に当てて喜んだ。同月、倉を開いて貧民を賑わした。
  • 寧越を撫定した太祖は浙東の未平定の諸郡を取ろうとし、諸将を集めて諭した。「城を克つのは武によるが、民を定めるのは必ず仁による。我が師は建康に入って秋毫も犯さなかったから一挙に定まった。今、婺州を克ったばかりだ。撫恤して民が帰属を喜ぶようにすれば、未だ下らぬ郡県も風を聞いて帰服しよう。私は諸将が一城一郡を下してみだりに人を殺さなかったと聞くたび、喜びに堪えない。将たる者が不殺を心とすれば、国家の利であるだけでなく、自身も福を蒙る。お前たちが我が言に従えば、事は成りやすく大功も成る」。

至正十九年 春正月(1359年)— 許瑗の来謁

  • 楽平の儒士・許瑗が謁見した。聡明に過ぎ、至正の初め、郷試に二度いずれも首席で挙げられたが会試に及第せず、呉越の間を放浪し、酔うたびに大言を吐いて自負していた。
  • 寧越で太祖に謁して言った。「今、元の命運は尽きかけ、四方は沸き立っている。雄略ある者だけが雄才を御し、奇識ある者だけが奇士を知る。閣下が僭乱を掃い天下を平らげようとするなら、英雄を集めずには成功できません」。太祖は「今、四方は乱れ民は塗炭に苦しむ。私が英雄を求めるのは飢渇のごとくだ。広く議を集め策を収めて康済の功を成したい」と答えた。瑗が「それなら天下は定まりましょう」と言うと、太祖は喜んで博士を授け、帷幄に留めた。まもなく太平が要地であるとして瑗を知府とした。

至正十九年 三月〜五月(1359年)

  • 三月甲午、獄囚を赦した。
  • 五月辛酉、太祖は寧越から建康に帰るにあたり、胡大海に諭した。「寧越は浙東の重地ゆえ、お前の才を見込んで守らせる。宋バヤン・ブハは衢州にあって智術に富み、シュムル・イスンは処州を守って士を用いるのが上手い。紹興は張士誠の将・呂珍が拠っており、いくつもの郡が寧越に隣接している。同僉の常遇春と心を合わせ、隙を見て取れ。この三人はいずれも強敵ゆえ侮ってはならぬ」。
  • 建康に帰った太祖は、無為州が肘元に迫っているとして兵を送って克った。

至正十九年 秋九月(1359年)— 衢州の攻略

  • 常遇春が衢州を攻めた。奉天の旗を立て、柵を築いて六門を囲み、呂公車・仙人橋・長木梯・懶龍爪を造って城下に押し寄せ、高さを城壁に揃えて登ろうとし、また大西門の城下に地道を掘って攻めた。
  • 宋バヤン・ブハは全力で防ぎ、葦の束に油を注いで呂公車を焼き、千斤秤で懶龍爪を引っ掛け、長斧で木梯を切り、夾城を築いて地道を防いだ。遇春は攻めあぐね、奇兵で不意を突いて南門の甕城に突入し、備え付けの砲を壊して包囲を強めた。院判の張斌は支えきれぬと見て使者を送って降伏を約し、夜に小西門から出て大軍を迎え入れた。衆は潰え、宋バヤン・ブハを捕らえた。
  • 遇春は寧越に帰り、まもなく寧越を金華府と改めた。

至正十九年 冬十一月(1359年)— 処州の攻略

  • 胡大海と耿再成が処州へ進攻した。先に再成は縉雲の黄龍山に駐屯して処州奪取を図っていた。黄龍山は四面が切り立っており、再成はその上に柵を設けて要衝を扼し、来る敵をことごとく撃破していた。
  • 元の処州守将・参政シュムル・イスンは元帥の葉琛を桃花嶺に、恭謀の林彬祖を葛渡に、鎮撫の陳仲真らを樊嶺に屯させ、元帥の胡深に龍泉を守らせて防いだが、士卒はみな弛んで闘志がなかった。胡深は軍を棄てて降り、処州の兵は弱く攻めやすいと告げた。
  • 大海は樊嶺に出て再成と合し、桃花嶺を攻めた。桃花嶺は山頂に拠って最も険阻だったが、再成が間道から背後に回り、桃花・葛渡の二寨を連抜して城下に迫った。
  • 壬寅、イスンは敗れて城を棄て建寧へ走り、七邑がすべて下った。再成に兵を統べて鎮守させた。まもなくイスンは散卒を集めて処州奪回を図り慶元を攻めたが、再成が再び破り、イスンは戦死した。

至正十九年 十二月(1359年)— 四先生を招く

  • 使者を遣わして青田の劉基、浦江の宋濂、龍泉の章溢、麗水の葉琛を徴した。胡大海がこの四人の賢を推薦したので、書と幣を持たせて招いた。同じころ李文忠も儒者の王褘・許元・黄天錫を推薦し、太祖はいずれも徴用した。

至正二十年 春正月〜三月(1360年)— 劉基らの参画

  • 正月、馮国勝を帳前総制親兵都指揮使とした。先に馮国用が死んだため、兄の職を継がせたのである。
  • 三月、劉基・宋濂・章溢・葉琛が建康に至り謁見した。太祖は大いに喜び「私は天下のために四先生に身を屈した」と言い、座を賜って経史を論じ時事を諮り、厚く礼遇した。役所に礼賢館を作らせてそこに住まわせた。
  • 劉基は幼時から聡明に過ぎ、天文・兵法・性理の諸書を一読して要点を見抜いた。至正の初め、春秋で進士に挙げられ高安県丞を授かり、江浙儒学副提挙に累官したが、元政の乱れに弾劾状を出して去った。かつて方国珍討伐を建議したが用いられず紹興に安置された。
  • 西湖に遊んだ折、異様な雲が西北に起こり、同遊の者は皆これを慶雲として韻を分けて詩を作ろうとした。劉基だけは酒を飲んで顧みず、「これは天子の気だ。十年後に金陵に応ずる。私が輔けよう」と大言した。当時杭州はなお全盛だったので、皆が驚いて狂人と見なした。ただ西蜀の趙天沢だけが異とし、諸葛孔明の類だと評した。
  • ある客が劉基に説いた。「今、天下は騒がしい。公の才略なら括蒼を下し金華・閩越を併せるのは手紙一本で定まる。江を境として守れば句践の業だ。これをせずにどうするのか」。劉基は「私は平生、方国珍・張士誠らの所業を憤ってきた。あなたの計を用いれば彼らと何が違うか。しかも天命には帰する所がある。まあ待つがよい」と答えた。
  • やがて太祖が金華を下し括蒼を定めると、劉基は天象を指して親しい者に「これは天授であって人力ではない」と言った。まもなく総制官の孫炎が太祖の命で使者を送って招くと、劉基は決意して金陵に赴き、時務十八策を陳べた。太祖はこれを嘉して納れた。
  • ある日、太祖が陶安に「劉基ら四人の才はどうか」と問うと、安は「臣は謀略で劉基に及ばず、学問で宋濂に及ばず、民を治める才で章溢・葉琛に及びません」と答えた。太祖は深く頷いた。まもなく宋濂を江西等処儒学提挙司提挙とし、世子を遣わして経を学ばせ、章溢・葉琛を営田司僉事とし、劉基は帷幄に留めて機密の謀議に与らせた。

至正二十一年 春正月〜三月(1361年)— 小明王への拝礼を拒む

  • 正月朔、中書省が御座を設けて小明王を奉じ慶賀の礼を行った。劉基は怒って「あれは牛飼いの小僧にすぎぬ。奉じて何になる」と言い、拝礼しなかった。太祖が劉基を召して問うと、基は天命の所在を陳べた。太祖は大いに感じ悟り、征伐の計を定めた。
  • 三月丁丑、枢密院を大都督府と改め、朱文正を大都督として中外の諸軍事を節制させた。

至正二十二年 春二月(1362年)— 苗帥の反乱、胡大海・耿再成の死

  • 金華の苗帥・蔣英、劉震らが反乱を起こし、恭将の胡大海を殺した。先に苗帥の楊オンジャルが張士誠に殺されると、劉震らは貝城に従って桐廬から降ってきた。大海はその驍勇を喜んで麾下に置き、疑わずに遇していた。
  • 劉震らが反乱を謀ったとき、大海の厚遇を思って踏み切れずにいたが、李福が「胡恭政は我らを厚く遇してくれた。しかし兵権は主将にある。主将を殺さねば事は成らぬ。大事を挙げるのに私恩を顧みる暇があろうか」と言い、衆はこれに従った。書を衢州・処州の苗帥・李祐之らに回して、二月七日に同時挙兵と約した。
  • 当日、蔣英らは偽って大海を八詠楼下に招き弩を見物させた。大海が出て馬に乗ろうとすると、英は仲間の鍾矮子を馬前に跪かせ、偽って「蔣英らが私を殺そうとしています」と訴えさせた。大海が答える前に振り返って英を見た瞬間、英は袖から鉄鎚を出し、矮子を打つと見せかけて大海の頭を打ち、大海は倒れた。英はその首を斬って馬上に掲げ、同僉の甯安慶と院判の張斌に示して脅し従わせた。ついで大海の子・関住を殺し、郎中の王愷を捕らえた。愷は賊を罵って屈しなかった。劉震は助命しようとしたが、賊党の呉得真が愷と怨恨があり「後患を残すな」と言い、愷とその子・寅を殺した。掾史の章誠も死んだ。典吏の李斌は省の印を懐にして城壁から下りて厳州に走り、変を告げた。
  • 李文忠は急ぎ何世明・郭彦仁らに兵を率いて討たせた。蘭渓に至ると蔣英らは恐れ、城中を大掠して子女を連れ張士誠のもとへ降った。世明の軍が入城すると、張斌と呉得真が改めて降ってきた。世明は王愷が得真に害されたと知り、縛って馬前に引き出して殺そうとしたが、張斌が「得真一人を殺せば降った者は皆恐れ、以後誰も来なくなる」と力説して助命させた。大海の養子・徳済は難を聞いて兵を率いて駆けつけ、文忠も将士を率いて金華に至って鎮撫し、民はようやく安定した。
  • 丁亥、処州の苗帥・李祐之と賀仁徳も、蔣英らが胡大海を殺したと聞いて反乱を起こした。院判の耿再成はちょうど客と飲んでいたが、変を聞いて馬に乗り、兵を集める間もなく迎え撃ち、「死に損ないの賊め、何の恨みがあって叛くか」と罵った。賊は直進して再成の首を刺し、再成は死んだ。
  • 分省部事の孫炎は捕らえられ、賊は取り囲んで守り、降伏を迫った。炎は屈せず大いに罵った。賊が刀を抜いて衣を脱げと叱ると、炎は「この紫の綺の裘は主君から賜ったもの。これを着て死ぬ」と言い、殺された。知府の王道同と朱文剛もいずれも屈せず死んだ。
  • 文忠は改めて兵を調えて縉雲に屯し、討伐を図った。二郡が乱を煽ったため、衢州でも城を翻して呼応しようと謀る者があり、守将の夏毅はひどく恐れた。折しも劉基が母の喪で帰郷していたので城に迎え入れ、一夜で鎮定した。基は各属県に書を発して固守を諭し、諸軍の合流を待って討伐にかかった。
  • 耿再成の子・天璧はちょうど命を受けて処州に苗軍の徴発に向かう途中で変を聞き、李文忠のもとへ馳せた。再成の旧部曲の朱絢らを得て各部の将士を集め、邵栄・王祐らとともに討伐に向かい、賀仁徳と遭遇して破った。
  • 癸酉、処州を回復した。李祐之は自殺し、賀仁徳は縉雲へ逃げたが農夫に縛られ、檻送されて誅に伏した。
  • 三月、同僉の李文忠を浙江行中書省左丞に昇進させ、厳州・衢州・信州・処州・諸全の軍馬を総制させた。

至正二十三年 春二月(1363年)

  • 将士に屯田の令を申し渡した。当時、康茂才の屯だけが備蓄が満ち、他の将はいずれも及ばなかったため、時節に応じた開墾を特に諭した。

至正二十四年 春正月(1364年)— 呉王に即位

  • 李善長・徐達らは太祖の功徳が日々高まるとしてたびたび即位を勧め、許されなかったが、ついに諸臣を率いて呉王の位に即かせた。百官の官司を建て、李善長を左相国、徐達を右相国、常遇春・俞通海を平章政事、汪広洋を右司郎中、張昶を左司都事とした。
  • 太祖は善長らに諭した。「卿らは生民のために私を推戴した。だが建国の初めはまず紀綱を正すべきだ。元氏は昏乱して威福が下に移り、法度が行われず人心が離散して天下騒動を招いた。今、将相大臣はその失敗を鑑とし、心を合わせて治を図れ。いい加減に旧習を踏襲して地位を埋めるだけであってはならぬ」。

至正二十四年 秋七月丁丑(1364年)— 廬州路を克つ

  • 徐達・常遇春が廬州を攻め、部将の呉復が先登して敵をくじき、驍将の樓児張を降した。左君弼は窮して城を棄て安豊へ走り、城を克った。君弼の母と妻を捕らえて建康へ送った。君弼の部将・許栄は舒城をもって降った。

至正二十五年 春正月(1365年)

  • 徐達は指揮の張彬を遣わして辰州を克ち、傅友徳が衡州を、胡海が宝慶路を克った。靖州軍民安撫司が降った。朱文正は恭政の何文昱と指揮の薛顕を遣わして新淦を討ち、鄧仲謙を斬った。薛顕を江西行省参政に抜擢した。陳友諒が平定されたことで、荊襄の南北も次第に下った。

至正二十五年 夏五月(1365年)— 安陸・襄陽の攻略

  • 平章の常遇春に湖広の湘漢諸郡を取らせた。太祖はかつて徐達・常遇春と襄漢の形勢を論じて言った。「安陸・襄陽は荊と蜀に跨って連なり、南北の襟喉であって英雄が必ず争う地だ。今取らねば後の憂いとなる。まして沔陽は帰属して間もなく、城中の人民には陳氏の旧兵が多く、土地も隣接して煽動されやすい。樹木に喩えれば安陸・襄陽が枝、沔陽が幹だ。幹が損なわれれば枝葉はどうなる。今は沔陽の守兵を増やし、師を出して安陸・襄陽を取るのが宜しかろう」。
  • そこで遇春に出兵を命じ、あわせて江西行省右丞の鄧愈を湖広平章政事に転じて諭した。「今、遇春に安陸・襄陽を取らせる。お前は兵を継いで行け。州郡を得たら駐兵して撫恤せよ。近ごろ王保保が汝寧にいると聞くが、その所業は堤を築いて水を塞き止め、漏れるのを恐れるようなものだ。お前が行って軍を愛し民を恤めば、人心の帰服はちょうど堤に穴を穿って水を低きに走らせるようなもので、力少なく功多い」。鄧愈は命を奉じて出発した。
  • 元の同僉・任亮が衆を擁して安陸に柵を築いて守っていた。遇春は呉復に先鋒を率いさせ、沔陽から強行軍で直撃させた。傅友徳が奮戦して身に九か所の傷を受け、任亮の兵は大潰し、亮を生け捕った。
  • 乙未、安陸を克った。遇春は任亮の壮毅ぶりを用いるに足ると上表して釈放し、指揮の職を授けた。遇春の兵が襄陽に至ると、己卯、守将は城を棄てて逃げた。

至正二十五年 秋七月丁巳(1365年)

  • 湯和が師を率いて江西の大盗・姚本所を撃って斬り、永新州を取り、左丞の周安らを誅した。湯和には常州の守備に戻るよう命じた。
  • 元の思州宣慰使・田仁厚が使者を送って鎮遠・吉州の二府、婺川など十県、龍泉など三十四州を献上した。

至正二十六年 春正月(1366年)— 秫の作付を禁ずる

  • 令を下した。「私が江右で創業して十二年、軍国の費用は民が順わって輸送してくれたもので、心から憐れんでいる。かつて民間の造酒が米麦を浪費するので禁酒令を行ったが、源を塞がずに流れを止めようとしても無理である。今年は農民が秫(もちきび)を植えることを禁ずる」。

至正二十六年 五月(1366年)— 安豊を克つ

  • 淮の地がすべて平定されると、徐達・韓政らが安豊を攻め、四門を扼して昼夜休みなく攻めた。城の東の龍壩でひそかに城壁の下二十余丈を掘り、城壁が崩れた。
  • 辛未、安豊を克った。元将のシドゥと左君弼はともに逃げ出したが、四十余里追撃してシドゥと君弼の裨将・賁元帥を捕らえて帰った。ジュチェは君弼とともに汴梁へ逃げた。まもなく元将のジュジャンが救援に来たが、これも戦って敗走させた。

至正二十六年 八月庚申(1366年)— 建康城の拡張

  • もともと建康城は西北が大江に臨み、東は白下門で尽き、外は鍾山まで遠く隔たっていた。旧来の宮城は元の南台を宮としたもので、やや手狭だった。
  • 太祖は劉基に土地を占わせ、鍾山の南、旧城の東・白下門の外二里の地に新宮を造営させた。新城を増築して東北は鍾山の麓まで及び、周囲は五十余里に及んで山川の勝を余すところなく取り込んだ。

至正二十六年 十二月(1366年)— 韓林児の死と呉元年の制定

  • 韓林児が瓜歩で死んだ。林児は劉福通に立てられ、亳に都し、安豊に遷り、安豊から汴梁に遷り、敗れて再び安豊に走った。安豊が張士誠に落ちると建康に入り、諸将は奉戴しようとしたが、劉基が反対して沙汰止みとなった。このとき林児は建康から瓜歩に向かう途中で死んだ。太祖はここに至って群臣と議を定め、翌年を呉元年とした。

呉元年(元至正二十七年、1367年)春正月〜二月

  • 正月、指揮の戴徳に兵を率いさせて沅州を取った。
  • 二月、応天・太平・鎮江の諸郡の租賦を差をつけて免除した。太祖は中書省の臣に言った。「私はかつて自ら田野を歩き、人民が疲弊し土地が荒れ、生業を失う者が多いのを見た。長く兵革に遭って生活の回復が進まぬためで、深く憂えている。太平・応天の諸郡は渡江して創業した地であり、真っ先に供給の労を負った民である。租税は加減して免じ、民力を少しでも回復させたい」。省臣の傅瓛は「民を恤むのは王者の善政、これこそ発政施仁の本です」と答えた。
  • 太祖は嘆じた。「私は昔、軍中で糧が尽き、空腹のまま出戦し、粗末な食でも甘く感じた。今は民の上に居て飲食は豊かだが、田野に住み生業に限りがあるのにさらに供出を求められる我が民を思うと、いよいよ苦しかろう」。太平の租賦を二年、応天・鎮江の租賦を一年免じ、さらに徐州・宿州・濠州・泗州・襄陽・安陸などの糧税を三年免じた。

呉元年 夏六月(1367年)— 旱と免租

  • 久しく雨が降らず、太祖は膳を減らして素食し、近臣に言った。「私は旱のため宮中を率いて素食している。以前は宮中で必要な野菜や酢・醤はみな大官(官庁)の供給によったが、今はすべて内官にやらせている。民を煩わすことを恐れるからだ」。
  • やがて大雨が降ると、太祖は「雨が降っても作物の害は多かろう。天災を防ぐには身を慎み、誠意をもって民を愛するほかない」と言い、今年の田租を免ずる令を下した。

呉元年(1367年)— 即位勧進を辞退

  • 相国の李善長が諸臣を率いて即位を勧めたが許さなかった。善長らは力説した。「殿下は濠梁に起こり、尺土の基もなく大業を成されました。四方の群雄はほぼ削り尽くされ、遠近の人で心を寄せぬ者はありません。天命の所在は明らかです。早く位号を正して臣民の望みを安んじてください」。
  • 太祖は答えた。「私は功がまだ天下を服せしめず、徳がまだ人心に行き渡らず、統一の勢いも成らず、四方はなお塞がっていると思う。大号を称しても輿情に適うまい。古来、帝王が天下を得るときは、天命の帰する所と人心の広がりを知っていてもなお謙譲して有徳者を待った。私は陳友諒が一隅を得ただけで妄りに尊大となり、志が驕り気が満ちてついに滅んだのを常々笑ってきた。どうして自らその轍を踏もうか。天命が我にあるなら自ずと時が来る。あくせくするには及ばぬ」。

史論(谷応泰曰)

  • 「事を始める者は東南に盛んで、功を収める者は西北に多い」と言い、秦は咸陽に拠って天下を統一し、漢は関中に都して六合を御した。それゆえ形勝を論ずる者は、三呉や於越の地はごく小さく貴ぶに足りぬとしてきた。
  • ところが高皇帝は金陵を略定するや兵を浙右に分け、江介の地の経営に一日も緩められぬかのように苦心した。これは勢いのやむを得ぬところである。当時、張士誠と方国珍が肘元をうかがい、元は統御を失っており、彼らは牙を研いで争っていた。こちらに取り残しがあれば彼らが乗じ、こちらが棄てた物資は彼らの資となる。あくせくせずにいられようか。
  • 当時、オンジャル・トが鎮江を、楊仲英が寧国を守り、張明鑑が維揚に拠り、バルス・ブハが徽州に駐屯し、シュムル・イスンが処州を、その弟ホウスンが婺州を、バヤン・ブハが衢州を守り、鄧仲謙は新淦で命に抗い、任亮は安陸で衆を擁した。十年のうちに諸将は忠を尽くし、天心も順に佑して、風雨をついて次々に平定していった。何と偉大なことか。しかしいずれも矢を折り糧を費やし、少しずつ積み重ねた成果であり、婺州・括蒼の間では反乱が再度起きた。乱を鎮めるのはこれほど難しい。
  • もし半ばの成功の段階で、虚名(小明王)を別に奉じよという諸将の議に惑わされ、韓林児を君位に据えていたなら、彼が遠隔から権柄を専らにし、与奪も愛憎も思いのままとなり、(後漢の劉盆子や更始帝の劉玄のように)大業は崩れていただろう。青田(劉基)がその謀を挫かなければ、江左すら我が有ではなかった。
  • 康茂才を営田使として蓄えを豊かにし、民兵万戸府を設けて農戦を古に復し、襄漢の諸郡を取って上流から瓴を建てる形勢を得、劉基・宋濂ら四先生に礼を尽くして忠益を広めた——これら良法美意はいずれも江南に始まっており、王者の大一統の業はまさにここに基を開いた。晋(典午)の短命な統治や、南宋建炎の末勢とは比べものにならない。