明史演義第九十一回 徐光啓、客卿を薦用す/袁崇煥、畿輔に入援す (徐光啟薦用客卿 袁崇煥入援畿輔)
入閣人事の混乱
- 懐宗の枚卜(籤引き)で選ばれた銭龍錫・李標来・宗道・楊景辰・周道登・劉鴻訓ら六人のうち、来・楊の二人は魏閹の残党、景辰も『三朝要典』副総裁の経歴があり弾劾されて罷免された。
- 劉鴻訓は閹党を嫌い楊維垣・李恒茂・楊所修・孫之獬・阮大鋮らを次々退けたが、恵安伯張慶臻の京営総督の勅に「兼轄捕営」の語が紛れ込んでいたことを提督鄭其心に指摘され、御史呉玉から「劉鴻訓・兵部尚書王在晉・中書舎人田嘉璧の共謀」と告発され、鴻訓は罷職の上代州に流され、王在晉は除籍、田嘉璧は投獄された。
- 新たな閣臣の廷推では成基命・銭謙益ら十一人が候補に挙がったが、禮部尚書温体仁と侍郎周延儒が自分たちが選ばれなかったことに憤り、銭謙益をかつての浙江試験官時代の関節(不正)疑惑で弾劾した。懐宗は謙益と体仁を対質させ、体仁の弁が巧みだったこともあり謙益を罷免、廷推の十一人全員を退けて韓爌のみを首輔に任じた。周道登も奏対の失言で放逐された。
徐光啟と西洋暦法
- 崇禎二年五月朔、日食の予報が実際とずれ、懐宗は欽天監を叱責した。中国暦法は長らく元の郭守敬『授時暦』を踏襲するのみで誤差が蓄積していたことが背景にある。
- 吏部左侍郎徐光啟は「中暦は西法を参照すべき」と暦法修正を上奏し、李之藻や西洋人龍華民・鄧玉函の登用を提案。懐宗はこれを認め、光啟を礼部尚書に抜擢して暦局を監督させた。これが中国で客卿(外国人顧問)を用い西洋の学術を採用する始まりとなった。
- 徐光啟は上海出身で、澳門経由で来華したイタリア人宣教師マテオ・リッチと親交を結び西学を学んだ。リッチの推薦で龍華民・鄧玉函、また李之藻を暦局に加え、さらに湯若望・羅雅谷らも招いて天文・算術の翻訳や観測儀器の製作を進めた。光啟自身も『日躔暦指』『幾何原本』(翻訳)など多くの著作を残した。マテオ・リッチは崇禎三年に北京で没し阜城門外に葬られ、光啟も崇禎六年に没した(湯若望はのち清朝でも欽天監として仕えた)。
袁崇煥と毛文龍
- 遼東に赴いた袁崇煥は一年余りかけて城塞整備を進めたが、東江を守る毛文龍が勢威を恃んで節制に従わないことに手を焼いた。
- 崇煥は文龍を訪ね、営制改編を提案するも文龍は「東江は自分一人の力で築いた」と反発。崇煥は表向き穏やかに応対しつつ、翌朝の閲兵を口実に文龍を山上に誘い出し、その場で「抗命・不臣」等の罪状を告げて縛り上げ、尚方剣を用いて処刑した。
- 崇煥は「罪は文龍一人にあり、他は無罪」と部衆に告げ、文龍の子・承祚には「父の罪で処刑したが、お前自身に罪はない」と諭し、副将陳継盛に補佐させて東江の守りを継がせた。朝廷への報告を受けた懐宗は驚きつつも、既に文龍が死んだ以上崇煥に任せるほかなく、事後承認とした。
孔有德・耿仲明の離反と満洲の侵攻
- 文龍の義子であった孔有德・耿仲明は文龍への恩義から崇煥への復讐を誓い、満洲に降った。満洲太宗は二人を東江に留め表向き明に従わせつつ内応させ、自らは蒙古の嚮導を得て龍井関から侵入、洪山口・大安口の二路から遵化州へと進撃した。
- 明廷は山海関から援軍を出させ、崇煥配下の趙率教が先鋒として三屯営に至ったが、満洲軍に包囲され、味方の守将朱国彦が城門を閉じて入城を拒んだため孤軍のまま奮戦の末に自刎して果てた。朱国彦も陥落を悟り妻とともに自尽した。
遵化の陥落と孫承宗の再登用
- 三屯営陥落に続き遵化も包囲され、巡撫王元雅ら地方官が籠城したが援軍が至らず陥落した。
- 驚いた明廷は吏部侍郎成基命の建議により孫承宗を兵部尚書兼中極殿大学士として再登用し通州の督師とした。承宗はわずか二十七騎で通州入城し防備を固めた。
北京籠城戦と袁崇煥の入衛
- 満洲太宗は薊州・三河・順義を次々破り北京に迫った。総兵満桂が崇煥の命で徳勝門に入り満洲軍と激戦、五分の戦いとなったが味方の砲撃で自軍にも損害が出て負傷した。
- 袁崇煥は祖大壽・何可綱らを率いて入衛したが、懐宗は入城も外城駐屯も許さず、崇煥は沙河門外に布陣して満洲軍と対峙、伏兵で夜襲を退けた。
- 崇煥は都城東南の要害に営を構えて持久戦に徹し、満洲軍の挑発にも応じず守りを固めて数日を凌いだ。
袁崇煥の投獄
- ある日、崇煥は懐宗に召し入れられたが、懐宗は態度を一変させ「毛文龍を擅殺したこと」「援軍の遅延」を咎め、弁明を許さぬまま錦衣衛に命じて崇煥を捕らえ投獄させた。
(詩:忠義を貫いて入衛した将を、君主が誤って疑い、長城を自ら壊すに等しい過ちを犯した、との趣旨)
崇煥が下獄した詳しい経緯は、次回に語られる。