明史演義淫悪を懲らし闔家駢戮さる/招撫を受け渠帥功を立つ(第九 十回 懲淫惡闔家駢戮  受招撫渠帥立功)

魏忠賢弾劾の集中

  • 崇禎帝(懐宗)即位後、崔呈秀に続き魏忠賢も廷臣の弾劾を受けた。工部主事の陸澄源・錢元慤、員外の史躬盛が相次いで上奏し、嘉興の貢生・錢嘉徵は忠賢の十大罪(皇帝と並び立つ、皇后を蔑ろにする、兵権を弄ぶ、二祖列宗を軽んじる、藩封を削る、聖賢を無視する、爵位を濫発する、辺功を隠す、民財を傷つける、賄賂で取り計らう)を列挙して弾劾した。
  • 忠賢は入宮して泣訴したが、懐宗が奏文を朗読させると恐れおののき、平伏を繰り返すのみで叱り退けられた。信邸の太監徐應元を通じた賄賂での取り成しも失敗し、懐宗は忠賢を鳳陽への流罪とし祖陵の香を守らせる旨の厳旨を下した。

魏忠賢の自尽と客氏の処刑

  • 忠賢が数百人の護衛を連れて赴任の途につくと、さらなる弾劾を受け、朝廷は錦衣衛に逮捕を命じた。阜城に至った忠賢は、京からの密報でこれを知り、養子の李朝欽と共に泣き、二人して縊死した。
  • 懐宗は忠賢の家産を没収し、魏良卿を投獄。客氏の家からは身重の宮女八人が見つかった。これは熹宗に子がなかったため、客氏が宮女を実家の子弟と同衾させ、身籠らせた上で宮中に戻し「呂を以て嬴に易える」秘計を図っていたものであった。取り調べにより客氏の罪が露見し、浣衣局で杖刑により死に至らしめられた。成妃李氏、裕妃張氏、馮貴人らも同様に断罪された。

客氏・魏一族の粛清

  • 客氏の弟・客光先、子の侯国興、寧国公であった魏良卿は法場で斬首され、客・魏両家の家族は老幼男女を問わず皆殺しにされた。眠ったままの乳児まで殺害され、都の人々はこれを因果応報として誰も憐れまなかった。

崔呈秀の自尽と閹党の失脚

  • 客・魏誅殺後、給事中の許可徵が崔呈秀を「五虎の首領」として再弾劾、逮捕・家産没収の命が下った。呈秀は薊州で妾や財宝を並べ酒を煽り、杯を次々投げ砕いた末に自ら縊死した。
  • 山陰の監生・胡煥猷は閹党に阿った黄立極・施鳳来・張瑞図・李国潽らの罷免を求めたが、生員の上書禁止の旧例により杖罪・除名となった。黄立極は自ら辞職し、施鳳来らも懐宗の疑念を受けて退けられた。
  • 懐宗は金甌に候補者名を入れて籤引きする古式(枚卜)で新閣臣を選び、銭龍錫・李標・成基命・楊景辰、さらに周道登・劉鴻訓を加えて入閣させた。李国潽は自ら身を引く際に韓爌・孫承宗を推薦し、懐宗は韓爌を召し戻した。

三朝要典の破棄

  • 韓爌が着任する前、閹党残党の楊維垣らは東林党を非難し韓爌を崔・魏の同類と中傷した。編修の倪元潞はこれに反論し、梃撃・紅丸・移宮の三案を巡る議論と、魏閹が権力のために編纂させた『三朝要典』とは別物であるとして、その破棄を強く主張した。
  • 元潞の上疏を受け、閹党の獲得した褒賞・生祠はすべて撤回され、『三朝要典』も破棄された。天啓年間に被害を受けた六君子・七君子ら諸臣には官爵と諡号が贈られ、追徴の罪は免じられて家族も釈放された。

逆案の裁定

  • 首輔となった韓爌は魏閹の逆案を広く追及せず四十五人にとどめようとしたが、懐宗は不満とし、「内豎の忠賢が悪事を働けたのは内外の臣僚が助けたからだ」として全員の再調査を命じた。
  • 懐宗は自ら証拠の袋を示して韓爌・吏部尚書王永光・刑部喬允升・都御史曹于汴らに責任を負わせ、最終的に二百余人が列挙・裁定された。
  • 首逆の魏忠賢・客氏は謀反大逆律により梟首・磔刑(既に死亡のため屍を磔)、崔呈秀・魏良卿・侯国興ら六人は斬決、劉志選・梁夢環・倪文煥・許顯純ら十九人は斬首、魏廣微・周應秋ら十一人と魏志德ら三十五人は充軍、太監李寔ら十五人も充軍、顧秉謙・馮銓・王紹徽ら百二十八人は徒刑三年、黄立極ら四十四人は革職とされ、逆案は名を挙げて刊布された。

崇禎帝の宮廷体制

  • 懐宗の生母・劉賢妃は生前失寵し西山に葬られており、懐宗は五歳の頃には墓所を知らなかったが、成長後に知り密かに祭祀していた。即位後、生母を孝純皇后に追尊し、養育の恩ある東李(荘妃)にも妃号を贈り、その弟李成棟に田千頃を賜った。
  • 熹宗の廟号を定め、その后張氏を懿安皇后と尊称。周氏を皇后に立て、田氏・袁氏を妃とした。

袁崇煥の再登用

  • 懐宗は袁崇煥を兵部尚書に起用し薊遼の督師とした。崇煥は「陛下が便宜を許されるならば五年で遼東全土を回復できる」と奏上し懐宗を喜ばせたが、退出後に給事中の許譽卿から「五年の期限は本当に果たせるのか」と問われると、「陛下の焦りを慰めるための言葉に過ぎない」と本音を明かした。
  • 再度懐宗に対面した崇煥は、戸部の軍餉、工部の器械、吏部の人事、兵部の兵員調達など内外の連携が不可欠であること、また讒言を防ぐ手立てが十分でないことを訴え、懐宗は全面的に支持を約束し、大学士劉鴻訓らの請いにより尚方剣を授け全権を委ねて赴任させた。

鄭芝龍の来歴

  • 福建巡撫熊文燦から海賊鄭芝龍の招降を上奏する奏章が届いた。芝龍は泉州の庫吏・紹祖の子で、幼少時に太守蔡善繼への投石騒動で捕らえられたが、善繼に将来性を見込まれ放免された経緯がある。
  • 父の死後困窮した芝龍は弟の芝虎と共に海賊・顔振泉の配下となり、振泉の死後、籤(米に剣を立てて占う儀式)により盗魁に推された。
  • 善繼が泉州道に転じて招撫を持ちかけると芝龍は帰順を望んだが、弟の芝虎らが従わず、なお島に拠って略奪を続けた。福建巡撫朱一馮の討伐は水陸挟撃を試みたが陸軍が道を誤り失敗、都司洪先春も芝龍の夜襲で敗走した。

鄭芝龍の帰順と海賊掃討

  • 朱一馮に代わり熊文燦が着任し招撫を進めると、芝龍は配下ごと帰順し海防に転用されることとなった。給事中顏繼祖の建議により、懐宗は芝龍に功績を挙げさせて授職する方針とした。
  • 芝龍はまず李魁奇を撃破・追撃して滅ぼし、次いで鐘彬を破ってこれも滅ぼした。文燦の上奏により芝龍は遊撃に任じられた。
  • 続いて閩広沿海を荒らしていた大盗・劉香老と対峙。香老は芝龍を避けて広東へ転じ、熊文燦は両粤総督に転任してなお招撫を試みたが、香老は使者の樊雲蒸ら四人を拘束した。芝龍が広東へ急行し閩粤連合軍で攻めると、樊雲蒸は敵に殺されながらも味方を鼓舞し、参将夏之本・張一傑も奮戦、芝龍は敵船に躍り込んで一気に殲滅した。香老は逃げ場を失い自ら船に火を放って果てた。

(詩:海賊として長年横行した者も、命運尽きれば逃れられぬ。人を殺めた者はまた人に殺され、因果応報は天の定めである、との趣旨)

劉香老の滅亡で海の騒乱は収まり、鄭芝龍は副総兵に昇進した。後の話は次回に続く。