明史演義第八十八回 党獄を興し緹騎傷つけらる/奸璫に媚び生祠相次いで建つ (興黨獄緹騎被傷 媚奸璫生祠迭建)
『光宗實録』改修と三案の断罪
- 楊維垣・霍維華らが光宗実録の改修を求め、忠賢は『三朝要典』を編纂させて挺撃・紅丸・移宮の三案を東林側の罪に仕立てた。挺撃は王之寀、紅丸は孫慎行、移宮は楊漣の罪と断定され、御製の序文まで付して天下に頒布された。
高攀龍・繆昌期の死
- 御史盧承欽の上言で東林党人の名が各地に貼り出され、崔呈秀の主導で残る高攀龍らの逮捕が図られた。攀龍は緹騎の到着前に遺疏を残し、夜半に自ら池に身を投げて自尽した。子の世儒は連座で徒罪に問われた。
- 繆昌期も忠賢を暗に諷刺した過去などを咎められ捕らえられ、拷問の末に獄死した。
周順昌の逮捕と蘇州民変
- 御史李応升・周宗建・黄尊素、前巡撫周起元、吏部員外郎周順昌が相次いで捕らえられた。周順昌は魏大中の孫と娘の縁組を約した義侠心から忠賢に憎まれ、蘇州で捕縛される際、義憤に燃えた市民数百人が緹騎に詰め寄り、乱闘の末に緹騎一人を殴殺する騒動(蘇州民変)が起きた。
- 顔佩韋・楊念如・周文元・馬傑・沈揚の五人が自首して処刑され、後に「五人墓」として顕彰された。
後七君子の獄死
- 周順昌・周宗建・李応升・黄尊素は許顯純の拷問により相次いで獄死し、周起元も過酷な追徴の末に落命した。彼らは先の六君子と併せ「後七君子」と呼ばれた。
- 王之寀も獄死し、孫慎行は辺地への流刑を科されたが忠賢の失脚により難を免れた。
魏忠賢生祠の乱立
- 蘇・杭の織造李寔と浙江巡撫潘汝楨が競って忠賢に取り入り、西湖畔に生祠を建立したのを皮切りに、各地の官僚が先を争って生祠を築き、忠賢を「九千歳」と称えるまでに至った。書院を取り壊してまで祠に転用する例もあり、本文には全国の生祠と建立者の一覧が列挙される。
- 祠の造営を拒んだ胡士容・耿如杞は逮捕・拷問された。監生陸萬齡は忠賢を孔子に配祀するよう上奏し、これに反対した司業林釪は削籍された。
評語
- 巻末の詩は、忠賢に媚びへつらう輩を蛆や蠅にたとえ、廉恥が消え失せた世相を嘆き、後世の史書に残るのは汚名のみだと痛烈に皮肉る内容。