明史演義第八十二回 選侍宮を移し詔旧悪を宣す/庸医懸案輔臣に弾及ぶ (選侍移宮詔宣舊惡 庸醫懸案彈及輔臣)
移宮問題
- 李選侍が乾清宮に居座り皇長子と同居を続けたため、左光斗が「選侍は嫡母でも生母でもない」と移宮を強く求める上疏を提出した。
- 選侍側は魏進忠を使い皇長子を呼び出そうとしたが、楊漣が機転で阻止。
- 即位前日になっても選侍が移宮しないため楊漣が方従哲を強く督促し、劉一燝・韓爌も同調。慈慶宮門前で押し問答の末、皇長子の特旨により選侍はついに仁寿殿へ移り、李進忠らは盗窃の罪で拘束された。
- 皇長子由校が即位し熹宗となる。改元をめぐる議論の末、左光斗の提案で本年八月以前を万暦、以後を泰昌、翌年を天啓とすることで決着した。
選侍・皇妹をめぐる論争
- 御史賈継春が選侍への同情を訴える書を閣臣に送ったが、左光斗は「乾清宮への還御と移宮の徹底、進忠・田詔の処罰以外は寛大に」と提案。
- しかし諭旨は一転して選侍の罪状を暴露する内容となり、方従哲らは驚いて撤回を求めたが、熹宗は聞き入れず発布した。
- 選侍の居所(噦鸞宮)で火災が発生し、選侍母娘は無事に救出されたものの、選侍母子焼死・投井などの流言が広まった。熹宗は無事を布告したが、賈継春はなおも扇情的な言辞で論難し、周朝瑞と対立。
- 楊漣が移宮の経緯を詳細に上疏して弁明。光宗(原文ママ、実質熹宗)はこれを褒めつつも選侍の過去の非を改めて公表する諭を出した。後に賈継春は放逐され、楊漣も讒言を受けて一時辞意を示した。後年、魏忠賢専権時に李選侍は康妃に封じられている。
紅丸事件の追及
- 光宗急死時、方従哲は李可灼に銀五十両を賞したが、御史王安舜がこれを強く批判し処罰を求めた。方従哲は罰俸一年に減じた。
- 熹宗即位後、崔文升・李可灼の罪を問う声が高まり、給事中惠世揚は方従哲に「十罪三可誅」を挙げて弾劾した(梃撃案の庇護、選侍冊立への迎合、崔文升・李可灼の罪を軽んじたことなど)。
- 方従哲は六度の上疏で辞職を願い出て致仕が許された。禮部尚書孫慎行はなお方従哲を「弑逆」に等しいと追及したが、廷議では従哲の連座は見送られ、李可灼は遣戍、崔文升は南京へ左遷にとどまった。孫慎行は失意のうちに致仕。
- 後に魏忠賢が権勢を握ると、可灼・文升は彼にすり寄り赦免された。市中では「委鬼当頭立、茄花満地紅」という謎めいた童謡が流行し、魏忠賢の台頭を暗示する。