明史演義第七十九回 妖書を獲て沈一貫風を生ず/福王を遣り葉向高議を主る (獲妖書沈一貫生風 遣福王葉向高主議)
皇太子冊立と諸子の封爵
- 皇長子常洛が皇太子に立てられ、常洵は福王、常浩は瑞王に封じられた。李貴妃の子・常潤(惠王)、常瀛(桂王)も冊封された。
- 翌年正月、太子妃に郭氏が冊立された。婚礼直後、神宗が急病となり、大臣を召したのは沈一貫のみだった。
- 神宗は死を覚悟し、礦税の停止、江南織造・江西陶器の停止、内監の召還、冤罪囚の釈放、建言で罪を得た臣の復官を遺言した。
- しかし夜が明けると病がやや癒えたため、神宗は前夜の詔を撤回させた。司礼太監王義がこれを激しく責め、沈一貫は自らの弱腰を悔いた。
楚宗の獄
- 楚王英譣の遺腹子と噂される華奎・華璧の出自をめぐり、宗人華越が異姓の子で楚宗を乱すと訴えた。
- 沈一貫は訴訟を長らく棚上げしていたが、礼部侍郎郭正域が実否の勘明を主張し撫按に調査させたところ「証拠なし、誣告」との結果になった。
- 華越の妻が偽証を続けたが、最終的に華越が誣告罪で庶人に落とされ鳳陽に禁錮された。郭正域は御史錢夢皋の弾劾を受けて免官となり、沈一貫の勢力に押し切られた。
妖書事件
- 閣臣朱賡の門前に「續憂危竑議」なる匿名書が投げ込まれ、鄭福成(鄭貴妃・福王)を暗示する内容が神宗を怒らせ、大捜索が始まった。
- 沈一貫は郭正域や沈鯉への私怨から、錢夢皋に偽証を作らせ両人を首謀者に仕立てようとした。郭正域とその周辺人物が拘束・拷問されたが実証は得られなかった。
- 皇太子や都察院の温純らの助力で沈鯉・郭正域は難を逃れた。
- 最終的に生員皦生光が詐欺の常習で捕らえられ、拷問の末に自白を強いられ磔刑に処された。実際の犯人は中書舎人趙士楨だったとされ、後に病死時に自ら口走ったという逸話が残る。
王恭妃の薨去
- 皇太子生母の王恭妃は寵を失い、幽宮で盲目となるまで衰弱した。万暦三十四年、孫の由校(後の熹宗)誕生を機に貴妃に晋封されたが、実際の待遇は変わらなかった。
- 病篤の母を見舞った皇太子に、王貴妃は最後の言葉を残して息を引き取った。
福王の之国をめぐる駆け引き
- 沈一貫・沈鯉は不和により同時に致仕し、于慎行・李廷機・葉向高が入閣したが、于慎行は十日で病没、朱賡も病没、李廷機は弾劾で罷免され、葉向高が独り国政を担った。
- 王貴妃の諡号を巡る奏請の末、温肅端靖純懿皇貴妃と諡され天壽山に葬られた。
- 鄭貴妃は福王の之国(洛陽への赴任)を遅らせようと画策し、神宗もこれに従い続けた。福王の婚礼・邸宅造営には莫大な費用が投じられた。
- 福王が莊田四万頃を求めたのに対し、葉向高は先例(景王の乱脈な兼併)を挙げて強く諫止した。
- 李太后が鄭貴妃を呼び「福王だけなぜ之国しないのか」と詰問し、鄭貴妃の言い訳を一蹴した。
巫蠱の訐奏と福王の之国
- 錦衣衛百戸王曰乾が、鄭貴妃の内侍らが皇太子を呪詛したと訴え出て神宗は激怒したが、葉向高は事を荒立てず福王の之国を急ぐよう進言し、事態は鎮静化した。
- 万暦四十二年、福王はついに就藩した。翌年二月に李太后が崩御し、鄭貴妃は一度は之国延期を図ったが葉向高の抗議で撤回された。福王出発の際、神宗・鄭貴妃母子は名残を惜しみ、莊田二万頃や塩利などが与えられた。
慈慶宮乱入事件(伏線)
- 皇太子は慈慶宮に居ながら父帝との面会も稀だった。ある日、棗木棍を持った狂人風の男が慈慶宮に乱入し宮人を殴打したが、内官韓本用らに取り押さえられた。この人物の正体は次回に持ち越される。