明史演義第六十九回 奸謀を破り厳世蕃法に伏す/宿寇を剿し戚継光衝鋒す (破奸謀嚴世蕃伏法 剿宿寇戚繼光衝鋒)
郭諫臣の告発と林潤の弾劾
- 袁州推官の郭諫臣は嚴世蕃一党から辱めを受けた恨みから、嚴氏の罪状を書き記し、南京御史の林潤に訴えた。
- あわせて羅龍文が密かに刺客を養っている件も伝えた。
- 林潤は世宗に上疏し、羅龍文・嚴世蕃が江洋の盗賊を匿い、多数の人を集めて不穏な動きを見せていると訴え、厳罰を求めた。
- 世宗は激怒し、林潤に世蕃らの逮捕と京での取り調べを命じた。
嚴世蕃・羅龍文の逮捕
- 林潤は徽州府推官の栗祁に羅龍文の捕縛を命じ、自らは九江に赴いて郭諫臣と合流。
- 嚴府の工匠数千人を解散させたうえで邸宅を包囲した。
- 羅龍文は徽州から嚴府へ逃げ込んだが、すでに包囲されており捕らえられた。世蕃も抵抗する術なく捕縛された。
- 林潤はさらに嚴氏の罪状を集め、嚴嵩・世蕃父子を弾劾する上疏を重ねて提出した。内容は、嚴世蕃が国庫や民家を強奪し、豪奢な邸宅群を築き、私兵を養い、財貨を蓄え、家人が刺客を放って殺人・略奪を行っていたことなど。嚴嵩も子の悪事を知りながら黙認したと断じた。
世蕃の獄中工作と徐階の見破り
- 世蕃は投獄されても平然とし、旧党を通じて獄中で画策する。
- かつて処刑された楊継盛・沈鍊の冤罪事件を蒸し返させ、これを新たな弾劾の主眼に据えさせようとした。世蕃の狙いは、この二件が世宗自身の裁可によるものであるため、追及すれば皇帝の怒りが担当官に向かい、自分は釈放されるという計算だった。
- 刑部尚書黄光升らはこの誘導に乗り、楊・沈両案を嚴氏の罪に組み込んだ上疏の草稿を作成し、大学士徐階に見せた。
- 徐階は事情を察し、皇帝の怒りが逆に上疏者へ向かう危険を指摘。楊・沈の件を外し、代わりに羅龍文の汪直との内通、世蕃が王気ありとされる土地に邸宅を築いたこと、宗室の反乱分子や内外の賊と結んだことなど、確実な証拠に基づく新たな条項を自ら起草し直した。
- 世蕃は改訂を知らぬまま、龍文と共に近く釈放されると信じて楽観していたが、間もなく都察院・大理寺・錦衣衛の合同尋問に呼び出された。
世蕃・龍文の処刑と嚴嵩の末路
- 徐階は法廷で世蕃に新しい上疏を突きつけ、世蕃は色を失い弁明を試みたが取り合われなかった。
- 徐階はさらに謀反の証拠を添えた上疏を提出し、世蕃・龍文はまもなく処刑された。
- 嚴嵩は庶民に落とされ、家産は没収(黄金三万余両、白金三百余両などとされる莫大な財)。関係者数十名も処罰された。
- 嚴嵩は住まいを追われ、墓守小屋で二年後に困窮のうちに死去した。
徐階の施政と胡宗憲の栄達
- 徐階が政権を握り、新たな閣臣を登用して嚴党残党を辺境へ左遷するなど後始末を進めた。
- 総督胡宗憲はかつて嚴嵩に近かったため不安を覚え、白鹿・白亀などの瑞祥を献上して皇帝の歓心を買おうとした。文章は幕僚の徐文長が起草し、世宗はその華麗な文辞を喜んで宗憲を厚遇した。
- 徐文長(渭)の経歴を紹介:才気ある人物だが奔放な性格で科挙には恵まれず、宗憲の幕府に招かれ、倭寇平定の軍略を担った。後年、宗憲失脚後は放浪し、狂を装いながら生涯を終えた逸話が伝わる。
戚繼光の躍進と平海衛の戦い
- 胡宗憲は地位が上がるほど倭寇との戦いに実績を上げ、江北・江南で連勝したが、嚴党との繋がりを疑われ続けた。
- 嘉靖四十一年、給事中の弾劾により官職を奪われ、のちに再び弾劾されて逮捕、服毒自殺した。
- 宗憲の死後、倭寇は勢いを増し福建興化府を陥落させた。
- 朝廷は戚繼光を派遣、劉顕・兪大猷らと合流させて奪還を図る。戚繼光は石灰を噴射して倭寇の目をくらませ、自ら考案した長大な「狼筅」という武器で敵を打ち破り、平海衛・興化を奪還、多数を討ち取り捕虜となった民を救出した。
評語
末尾には戚繼光の武功を讃える詩が置かれ、優れた将がいなければ倭寇の跳梁は収まらなかったであろうと、その功績を称える趣旨が述べられている。