明史演義丹鉛を誤服し病みて冥籍に帰す/羈紲を脱し悵んで鼎湖に断つ(第七 十回 誤服丹鉛病歸冥籙 脫身羈紲悵斷鼎湖)
倭寇の平定
- 戚繼光らは興化を奪還し、福州以南は概ね平定された。なお仙游に集結していた残党を戚繼光が急襲し、王倉坪などで撃破。逃げた残党も俞大猷に迎撃され、二十余年続いた倭寇の禍はほぼ終息した。
世宗の道教への傾倒と方士たち
- 世宗は太平を得たと考え、いよいよ道教修行に没頭。王金・陶倣・劉文彬・申世文・高守中ら方士が次々に召し出された。
- 世宗は瑞祥(桃・霊亀・霊芝など)が現れたと信じ込み、方士たちを厚遇し官職まで与えた。
- 道士陶仲文の弟子胡大順は罰を受けて退けられていたが、偽の秘伝書「万寿全書」を作り、名を変えて再び宮中に接近しようと画策。世宗は不審を抱きつつも一時は取り込まれかけた。
藍田玉・胡大順らの誅殺
- 世宗は服用した「仙薬」の副作用で心身に異常をきたし、鬼を見るなどの症状に悩まされた。
- 方士の藍田玉らに祈禳を行わせたが効果なく、大学士徐階に相談。徐階は胡大順・藍田玉らの欺瞞を指摘し、厳罰を進言。世宗はついに藍田玉・胡大順・趙楹の三人を処刑させた。ただし道教儀礼そのものはやめなかった。
海瑞の上疏
- 戸部主事の海瑞は、世宗が長年道教にのめり込み政務を怠っていることを厳しく批判する上疏を、死を覚悟のうえで提出した。内容は、二十余年朝政を顧みず、父子・君臣・夫婦の道もないがしろにし、官吏は貪り民は苦しみ、盗賊が横行していると痛烈に諫めるもの。
- 世宗は激怒したが、海瑞が既に棺を用意し家族に別れを告げていたと知り、処刑せず投獄に留めた。海瑞の言葉が心に残り、自らを比干に諫められた紂王に例えるほどであった。
世宗の崩御と穆宗の即位
- 世宗の病はその後重くなり、承天への行幸や太子への譲位も考えたが、徐階に諫められ思いとどまる。
- ほどなく世宗は崩御(享年六十)。徐階が起草した遺詔では、道教にまつわる過ちを認め、言論で罪を得た臣を復職させることが述べられた。
- 郭樸・高拱は遺詔の起草に加わらなかったことに不満を抱き、徐階との間に亀裂が生じた。
- 裕王載垕(穆宗)が即位、翌年を隆慶元年とする。世宗の生母杜氏を皇太后に追尊し、陳氏を皇后に立てるなど諸整理が行われた。
- 海瑞は釈放され、のちに大理寺丞、さらに巡撫応天等府に抜擢された。
海瑞の善政とその後
- 海瑞は着任地で貪官汚吏を厳しく取り締まり、豪族も畏れて悪事を控えるようになった。呉淞・白茆河の治水も行い民の信望を集めた。
- しかし厳格すぎる姿勢は同僚や権臣の反感を買い、言官の弾劾により転任させられる。民衆は引き止めようとしたが、海瑞は夜のうちに密かに城を出た。
- のちに南京右都御史となり、神宗十六年に任地で没した。清廉で私財を残さず、葬儀は同僚の醵金で行われた。諡は忠介。
評語
末尾に海瑞の清廉さを讃える詩が置かれ、栄達を求めず孤高を貫いたためにかえって世に疎まれた生涯を惜しむ趣旨が述べられている。