明史演義第四十一回 白圭、鄖陽の盗を討平す/韓雍、藤峡の猺を攻破す (白圭討平鄖陽盜  韓雍攻破藤峽猺)

荊襄流民の乱と劉千斤

  • 荊襄上流の鄖陽は秦・豫・楚三省の境にあり、山深く流賊が絶えなかった。成化元年、飢饉により流民が集まり、劉通(劉千斤)と石龍(石和尚)を頭目とする一党数万が梅溪寺に拠り、劉千斤は「漢王」を自称して反乱を起こした。
  • 明廷は撫寧伯朱永を討賊総兵官、兵部尚書白圭を提督軍務、太監唐慎・林貴を監軍として四路から進軍させた。白圭は誘敵の計で劉千斤を破り、劉千斤は各地を転戦するも田広らに追い詰められ、ついに古口山で捕らえられた。
  • 残党の石和尚と劉長子は四川へ逃れたが、指揮朱英の策により劉長子が石和尚を裏切って引き渡し、その後劉長子自身も捕らえられて処刑された。荊襄は平定され、朱永は伯に、白圭は太子少保に進んだ。

荊襄流民の再乱と鄖陽の設置

  • 成化六年、劉千斤の残党の李鬍子らが再び蜂起したが、都御史項忠が四方から包囲して鎮圧し、多くの流民を各地に強制移住させた。
  • その後、都御史原傑が鄖陽を経略して府を設け、開墾と戸籍整備を行い民生を安定させたが、傑は労苦のうちに病死した。

大藤峽猺の乱と韓雍の平定

  • 広西大藤峽の猺族も反乱を起こしていた。都督僉事顔彪が一時鎮圧したが、猺酋侯大狗は捕らえられず乱を続けた。兵部尚書王竑の推薦で僉都御史韓雍が起用され、征夷将軍趙輔とともに南征した。
  • 韓雍は諸将の慎重論を退け、大藤峽の巣穴を直撃する方針を立てた。まず修仁・荔浦を平定し、偽って帰順を装った猺の間者数百人を見破って処刑するなど、厳しい統率で軍を統べた。
  • 新会丞の陶魯は自ら三百人の精鋭「陶家軍」を組織することを申し出て許され、その活躍により官軍は大藤峽南面の防塁を突破。火攻めで猺衆を大混乱に陥れ、侯大狗を横石崖まで追い詰めた。
  • 最終的に侯大狗以下多数を捕らえ、大藤を断ち切って「断藤峽」と改名し、乱を完全に平定した。趙輔は武靖伯、韓雍は右副都御史・両広軍務提督、陶魯は僉事にそれぞれ昇進した。韓雍は後に讒言で罷免されるが、粤の人々は祠を建てて彼を偲んだ。

平涼の乱

  • 平涼では元の遺臣の子孫・満俊(満四)が地元の無頼を保護して勢力を蓄え、ついに石城に拠って反乱を起こし「招賢王」を称した。同志の李俊(順理王)は戦死したが満四は官軍を撃退し続け、都指揮の申澄も戦死するなど関中は震撼した。
  • 陳介・任壽・呉琮らの官軍は偽りの投降に欺かれ大敗し、捕らえられて処罰された。改めて都督劉玉、総督軍務の項忠、都御史の馬文升が派遣され、各路から進軍して連戦連勝。
  • 項忠が持久戦で圧力をかけ、賊将の楊虎狸を捕らえて内応させ、満四をおびき出す策を用意するところで本回は終わる。