明史演義万貞児権を怙み正后を傾く/紀淑妃子を誕み深宮に匿す(第四 十回 萬貞兒怙權傾正后 紀淑妃誕子匿深宮)
万貞児の生い立ちと憲宗との関係
- 万貞児は青州諸城の出身で、父の罪に連座して幼くして掖廷に入り、孫太后に仕えて衣飾を司った。憲宗が幼時に孫太后へ挨拶に来た際から親しみ、成長するにつれ二人の関係は深まっていった。
- 天順六年に孫太后が崩じ、憲宗が東宮にあった頃、年上の万貞児は憲宗の寵愛を一身に受けるようになった。
- 英宗は太子のために淑媛を選び、王・呉・柏の三氏を宮中に留めたが冊立はしなかった。英宗の崩御後、両宮太后は司礼監牛玉に選定を命じ、呉氏が皇后に立てられた。
呉皇后の廃立
- 皇后冊立後、万貞児は貴妃に、王・柏両氏は賢妃に封じられた。万貴妃は寵を恃んで呉后に無礼を働き、ついに呉后が万貴妃を杖で打つ事件が起きた。
- 万貴妃は憲宗の前で泣訴し、憲宗は激怒して呉后の廃立を決意。周太后は当初反対したが、憲宗が強く迫ったため折れ、詔をもって呉后を廃し西宮に退けさせた。牛玉も孝陵での菜作りに罰せられた。
- 万貴妃はなお后位を望んだが太后の許しを得られず、結局王氏が皇后に立てられた。王氏は温和な性格で万貴妃とも表面上は穏やかに過ごした。
万貴妃の専横と後宮の悲劇
- 成化二年、万貴妃は一子を産むが間もなく夭折。以後懐妊しなくなり、他の妃嬪の懐妊を妬んで密かに堕胎させるなど専横を極めた。憲宗は万貴妃に取り入る者を寵用し、逆らう者を退けた。
- 内侍の梁芳・韋興らは万貴妃に媚びて珍宝を貢ぎ、採辦の名目で民を苦しめた。翰林の章懋・黄仲昭・莊泉らは元夕の観灯遊覧を諫めて左遷され、「翰林四諫」と称された。大学士李賢も父の喪中の起復を巡って批判を浴び、まもなく没した。
慈懿皇太后の合葬論争
- 慈懿皇太后(銭氏)が崩じると、周太后は英宗との合葬を避けようとし、万貴妃もこれに同調した。彭時・商輅・劉定之らは合葬こそ古来の礼であると強く上奏し、廷臣百官が文華門前で跪いて哭訴するに至った。
- 結局、憲宗は群臣の意見に従い、合葬の議を通した。
紀妃と孝宗の誕生
- 成化五年に柏賢妃が一子(祐極)を、翌六年に紀淑妃が一子(後の孝宗)を産んだが、この子は当初憲宗に知らされなかった。
- 紀氏は賀県出身の土官の娘で、蛮乱平定の際に捕虜として掖廷に入り、王皇后に文字を学ばされ内蔵を守っていた。憲宗の寵を受けて懐妊するが、万貴妃に知られることを恐れ、出産後に門監の張敏へ「溺れさせよ」と命じた。張敏はこれを憐れみ密かに養育した。
- 廃后の呉氏が近くの安楽堂に住んでいたため、密かに世話をして子は生き延びた。だが憲宗が公認していた皇太子祐極は間もなく病死し、これも万貴妃の毒手と噂された。
- 成化十一年、憲宗が白髪を嘆いた際、張敏と司礼監懐恩が密かに真相を告白。憲宗は喜んで西内に赴き、六歳になっていた我が子(後の祐樘)と対面し、涙して抱きしめた。
- 紀氏は淑妃に封じられ永寿宮に移されたが、万貴妃は憎悪から紀妃を害し、太監張敏も後を追うように自ら命を絶った。
評語
末尾の詩は、幼い皇孫が母を失いながらも一人の宦官の助けで生き延びたことを悼む内容である。