明史演義第三十九回 逆謀を発し曹石宗を覆す/徽号を上るに李彭議を抗す (發逆謀曹石覆宗 上徽號李彭抗議)
陳汝言の暴利と英宗の怒り
- 兵部尚書の陳汝言は曹吉祥・石亨と結び、二人に取り入って郎中から尚書へ出世した。だが権勢を得ると次第に二人を軽んじ、密かに曹・石の不行状を帝に訴えるようになった。
- 曹・石は自分たちが引き立てた陳汝言に裏切られ激怒し、言官を使って汝言の貪欲・危険な行状を弾劾させた。汝言は投獄され、抄家の結果、数十万に及ぶ財産が発覚した。
- 英宗はその財を見て、于謙は死後になんの余財も無かったのに、汝言はわずか一年で巨富を築いたと嘆じ、「好于謙、好于謙」と繰り返した。石亨らは心中穏やかでなく、冷や汗をかいて退出した。
石彪の増長と失脚
- 韃靼の孛来が安邊營に侵入した際、大同總兵の石彪(石亨の甥)がこれを撃退し、侯に進封された。石亨が公、石彪が侯となり一族は栄華を極めたが、驕り高ぶって密告される身となった。
- 英宗は石彪を召還しようとしたが、彪は千戸の王斌らに留任嘆願をさせた。英宗は詐りを見抜いて王斌らを捕らえ厳しく尋問し、実情を得て石彪を急ぎ帰京させた。
- 廷訊の結果、石彪の不法(龍衣蟒服の所持、規格外の寝台など)が次々に露見した。さらに、也先が英宗帰国の際に妹を大同経由で献上しようとしたのを、石彪が横取りして自分のものにしていた事実も王斌らの証言で判明し、英宗は激怒して石彪を投獄した。
石亨の失脚と李賢の諫言
- 石亨は弟・甥の官爵剥奪と隠退を願い出たが許されず、法司による石彪への追及は石亨にも及んだ。群臣は石亨の専横を弾劾し、朝参を止められた。
- 英宗が李賢に石亨の「奪門の功」への処遇を問うと、李賢は「帝位はもとより陛下のものであり、迎駕とは言えても奪門とは言えない。もし成功しなければ亨らは死んでも当然だったはず」と諫め、英宗はこれに納得した。
- 以後、奏章に「奪門」の語を用いることを禁じ、冒功で官を得た者四千余名を一斉に黜革し、朝廷を粛正した。
石亨・石彪の滅亡
- 石亨は売官鬻爵を行い、「朱三千龍八百」の噂が立つほどだった。逯杲も石亨に取り入って地位を得ていたが、石彪が罪を得たのを機に転じて石亨を弾劾した。
- 天順四年正月、彗星が現れると逯杲は石亨が怨望し謀反を企てていると上奏し、英宗はこれを重く見て石亨を投獄。石亨は獄中で苦しみのうちに憤死し、石彪も斬首、両家の財産は没収された。
曹欽の反乱
- 曹吉祥は石氏の末路を見て自衛のため私兵を蓄え、養子の曹欽も武人を集めていた。千戸馮益に唆され、曹欽は帝位簒奪の野心を抱くようになる。
- 御史の弾劾で曹欽が家人を私刑で殺したことが問題となり、身の危険を感じた曹欽は馮益らと謀反を計画。七月朔日の夜、曹吉祥が禁中で内応し、曹欽が外から攻め入る手筈を立てた。
- しかし共謀者の馬亮が土壇場で恭順侯呉瑾に密告、呉瑾は懐寧伯孫鏜に伝え、英宗にも急報が届いた。曹吉祥は即座に捕らえられ、九門は固く閉ざされた。
- 事が露見したと悟った曹欽は逯杲を斬殺し、御史寇深も斬った。吏部尚書李賢は家将に耳を傷つけられたが、曹欽に「逯杲が事を激発させたのだ」と弁明を頼まれ、王翱も一時捕らえられたが解放された。曹欽は上奏文を得ようとしたが長安左門は固く閉ざされ突破できず、孫鏜・趙栄らが軍勢を集めて挟撃、恭順侯呉瑾は力戦して戦死した。
- 大雨の中、曹欽は敗走して井戸に身を投げ溺死。官軍は曹欽一家を皆殺しにし、遺骸は市中に晒された。曹吉祥・曹欽兄弟は凌遅に処せられ、一味も次々に誅殺された。功臣には侯・太子少保などの加封が行われ、呉瑾・寇深にも追贈があった。曹・石両家はここに滅んだ。
北辺の平定と英宗の崩御
- その後、馮宗・白圭らが西征を続け勝利を重ね、韃靼の孛来はついに講和を求め、貢物を納めることとなった。広西の苗猺の乱も顔彪により鎮圧された。
- 天下が安定すると英宗は西苑の造営など土木事業に耽り、南宮の旧居にも殿宇を増築して遊楽にふけった。しかし天順六年に太后孫氏が崩じ、天順八年正月には英宗自身も病に倒れた。
- 病床で内侍が太子を讒言したが、李賢の諫めにより英宗は太子見深への譲位を決意。まもなく英宗は三十八歳で崩御し、遺詔で宮妃殉葬を廃止した。太子が即位し憲宗となり、翌年を成化元年とした。
両宮太后の尊号をめぐる論争
- 英宗の皇后・銭氏には子がなく、太子見深は周貴妃の子であった。だが英宗は銭后を深く敬愛しており、北狩中の艱難や南宮幽居中の慰めを共にした経緯から、臨終に「銭后とは同葬とせよ」と李賢に遺言していた。
- 憲宗即位後、周貴妃は太監の夏時を使い、生母の自分だけを皇太后とするよう画策した。李賢・彭時らはこれに強く反対し、「両宮並尊」を主張して譲らなかった。
- 最終的に彭時の提案により、銭后を「慈懿皇太后(正宮)」、周氏を「皇太后」として両宮並尊とする詔が定まった。
評語
末尾の詩は、嫡后と庶母の尊号を並び立てることになった経緯を、当時の名臣たちの諫争があったからこそ綱常が保たれたと讃える内容である。