明史演義第三十八回 于少保、冤を沈め東市に死す/徐有貞、南方に充戍さる (于少保沈冤東市  徐有貞充戍南方)

景帝の病没と復辟の後始末

病床の景帝は復辟を告げる鐘鼓の音を聞いて崩れ落ちる。徐有貞は入閣して詔を起草し、英宗が正式に復位。ほどなく于謙・王文・陳循・蕭鎡・商輅・尚書俞士悦・江淵、都督范広、太監王誠・舒良・王勤・張永ら景泰朝の重臣が一斉に投獄された。

于謙・王文の獄死

石亨は于謙の推薦にもかかわらず自分だけが厚遇されたことに恥じ入り、我が子の推挙を于謙が固辞したことを恨みに思っていた。徐有貞もまた自分の任官運動を于謙が積極的に助けなかったことを恨んでいた。両名は英宗復辟の功臣となったのを機に、于謙・王文が襄王擁立を謀ったと誣告する。王文は証拠の不備を強く抗弁するが聞き入れられず、于謙も無益と悟って抗弁をやめ、ついに棄市に処された。刑場では民衆が涙を流し、太后も嘆き悲しんだという。抄没された于謙の家には御下賜の品以外に財産らしいものがなく、その清廉ぶりに役人たちも涙したと伝えられる。都督同知陳逵が遺骸を収めて西湖に改葬し、後に「于少保墓」と呼ばれ参拝が絶えなかった。

論功行賞と景泰帝の廃位

太監舒良・王誠・張永・王勤らも処刑され、陳循・俞士悦・江淵は左遷、蕭鎡・商輅は罷免された。石亨は忠国公、張軏の弟輗は文安侯、楊善は興済伯、徐有貞は兵部尚書に、曹吉祥らも次々恩賞に与った。年号は景泰から天順に改められ、景帝は郕王に格下げされて間もなく病没、簡略な葬儀に処された。寵妃唐妃は殉死し、廃后汪氏は侍郎李賢の諫言により殉死を免れる。玉玲瓏の宝物を巡る英宗と汪妃の確執も語られ、のちに景帝・汪妃はそれぞれ帝号・后号を回復されたことが後日談として触れられる。

襄王瞻墡の忠誠

長沙に封じられていた襄王瞻墡は、終始朝廷への忠節を尽くし太子擁立や監国の助言を行っていたことが、英宗の手元に残る上書によって明らかになる。英宗は襄王を厚遇し、その諫言を受けて于謙・王文誅殺を悔い始め、徐有貞・石亨を次第に遠ざけるようになる。

曹吉祥・石亨の専横とその崩壊

石亨・曹吉祥は次第に英宗の信任を失いつつあった徐有貞と対立を深める。御史楊瑄・張鵬らが曹吉祥・石亨の不正(民田の強奪など)を弾劾すると、両名は英宗に讒訴して先手を打ち、弾劾者を投獄させる。取り調べの過程で徐有貞・李賢も一時的に連座して投獄されるが、暴風雨や雹害などの天変を機に赦免され、地方官へ左遷される。以後も曹吉祥・石亨と学士岳正・徐有貞らの間で讒言合戦が続き、岳正・薛瑄・呉与弼らも専権を嫌って次々に朝廷を去った。 末尾では、建文帝の幼い遺児(建庶人文奎)が幼くして囚われの身となり、半世紀を経てようやく解放された逸話が語られる。

評語

末尾の詩は、幼くして囚われた建庶人が半世紀を経てようやく釈放された不条理を詠み、王道を掲げる王朝の下でも罪なき者が長く苦しめられてきた現実を批判している。