明史演義第三十七回 忠諫を拒み詔獄刑を濫す/密謀を定め奪門し復辟す (拒忠諫詔獄濫刑  定密謀奪門復辟)

廃后と易儲を巡る余波

皇后汪氏は見済の立太子に反対して景帝の怒りを買い、自ら后位を退く上表を出し、杭妃が皇后に立てられた。

阮浪・王瑤の疑獄

南宮の上皇が近侍阮浪に賜った鍍金の刀と繍袋が内使王瑤を経て流出し、これを知った錦衣指揮盧忠が上皇復辟の陰謀と讒言する。景帝は激怒して阮浪・王瑤を投獄し拷問するが両者は誣供を拒む。不安になった盧忠は占い師仝寅に卦を占わせ、凶兆と警告されたため、病を装って訴えを撤回し、事件は沙汰止みとなった。阮浪は久しく禁錮され、王瑤は磔死する。

瓦剌情勢の変転

也先はかねて対立していた脱脱不花を攻め滅ぼして監国を称し、のちに自ら大元田盛可汗と僭称するが、太師の地位を巡ってアラ知院と対立、酒色に溺れていたところを討たれて命を落とす。アラもまた韃靼の孛来に討たれ、瓦剌は急速に衰え、脱脱不花の子麻児可児を擁立した韃靼が勢力を盛り返した。

東宮再建を求める諫言と弾圧

皇太子見済が早世すると、礼部郎中章綸・御史鍾同らが沂王の復立を上奏するが景帝の怒りを買い、下獄・拷問の末、鍾同は杖刑で落命し、章綸も瀕死の重傷を負う。南京大理寺少卿廖莊も上皇への朝謁を勧めて杖刑・左遷に処され、迎合して沂王を封地へ移すよう上言した徐正もかえって辺境へ左遷されるなど、諫言も追従もいずれも報われぬ有様が描かれる。

景帝の病と復辟の陰謀

景泰七年末、皇后杭氏が病没し、寵妃李惜児も宮を追われるなど景帝の私生活が乱れる中、景泰八年の正月、景帝は重病に倒れて朝見もままならなくなる。後継が定まらぬまま病状が悪化し、南郊の祭祀も武清侯石亨に代行させるに至る。 石亨は都督張軏・太監曹吉祥と密議し、太常卿許彬の紹介で徐有貞(旧名徐珵)を引き込み、南宮の上皇擁立の計画を練る。天文の兆しを口実に決行の夜を定め、南宮の門を打ち破って上皇を輿に乗せ、奉天殿にて英宗の復位を実現させる。百官は驚愕しつつも次々に整列し、万歳を三唱して従った。