明史演義第二十八回 南交を下し敵を殺し渠を擒う/北塞に出で功を銘し石に勒す (下南交殺敵擒渠 出北塞銘功勒石)
安南攻略
- 成国公朱能が征夷大将軍として南征に出発するが龍州で病没、副将の張輔が総司令を継ぐ。西平侯沐晟とともに二十五将・八十万の兵で広西・雲南の二方面から進軍。
- 胡氏(黎季犁父子)は宣江・洮江・沱江・富良江沿いに柵を築き九百里にわたって防衛線を張る。張輔は多邦隘の堅城を夜襲で攻略、蔡福らが先登し敵の象兵は張輔軍が作った偽の獅子(布に描いた獅子を馬にかぶせたもの)に驚いて敗走、大勝を収める。
- 張輔・沐晟は東都・西都を次々に攻略し三江の州県を降す。膠水県での退却を装う計略で敵艦隊をおびき出し富良江で撃破、さらに追撃して黎季犁父子を生け捕りにし、安南を平定した。
交趾布政使司の設置
- 張輔の上奏により安南を郡県化し交趾布政使司を設置(十七府・四十七州・百五十七県)。黎季犁父子は京へ檻送され、張輔は英国公、沐晟は黔国公に封じられた(永楽六年春)。
簡定・陳季擴の反乱
- 半年後、陳氏旧臣の簡定が日南王を称して蜂起、陳季擴・鄧景異らも呼応し交趾は再び動乱に陥る。沐晟の討伐軍は敗れ劉儁らが戦死。張輔が再び出征し鹹子関で敵艦隊を火攻めで撃破、簡定を捕らえて京師で処刑。
- なお抵抗を続ける陳季擴も、張輔・沐晟が合流して掃討し、象兵を偽装射撃で崩し、最終的に老撾(ラオス)まで追い詰めて生け捕りにし処刑した。張輔は三度安南に出征し三度偽王を捕らえ、その威は蛮地に轟いた。
北方情勢とモンゴル遠征
- モンゴルでは元の後裔が内紛を繰り返し、韃靼(本雅失里・阿嚕台)と瓦剌(瑪哈木)が対立。成祖は瓦剌の瑪哈木を順寧王に封じて韃靼を牽制しようとするが、韃靼汗本雅失里は服従せず使者の郭驥も殺害される。
- 成祖は淇国公邱福を征虜大将軍として十万の兵で北征させるが、邱福は部下の諫言を聞かず軽率に深追いし、伏兵に包囲されて邱福・火真・王忠・李遠・王聰らが全滅する大敗を喫した。
成祖の親征
- 邱福の失態に怒った成祖は永楽八年、自ら五十万の大軍を率いて北征。清水原での水不足を神泉の湧出で凌ぎ、斡難河で本雅失里を撃破(本雅失里は西へ敗走)。続いて阿嚕台も撃破し、退却時の伏兵策も成功させて大勝を収めた。
- 擒狐山・清流泉に戦功を刻んだ石碑を建て、永楽八年七月、北京に凱旋して大々的な論功行賞を行った。
権妃の死
- 凱旋の陰で、寧遠侯何福が陳瑛の讒言により自害。南帰の途上、山東臨城県で寵妃権氏が急死し、成祖は深く哀悼した。
評語
(本回に評語なし)