明史演義第二十七回 梅駙馬冤を含み水府に沈む/鄭中官外洋に使いす (梅駙馬含冤水府 鄭中官出使外洋)
立太子と諸王の配置
- 成祖は解縉の諷諫に感じ入り、黄淮・尹昌隆らも嫡子立嗣を主張したことから世子高熾を皇太子に立て、高煦を漢王、高燧を趙王に封じた。高煦は雲南への赴任を不満とし、居座り続けた。
陳瑛による粛清の激化
- 成祖は旧臣の粛清を続ける一方、盛庸を歴城侯に、李景隆を太子太師に取り立てる。
- 副都御史陳瑛は苛烈な獄吏として恐れられ、無実の者まで陥れて忠臣義士を一掃した。盛庸も謀反の讒言により削爵され自殺。耿炳文も僭上の讒言をかけられ財産を没収され服毒死。李景隆も謀反を劾奏され失脚した。
梅殷の非業の死
- 陳瑛は駙馬梅殷を讒言し、成祖は梅殷の家人を遼東に流す。永楽三年、梅殷が入朝する途上、都督譚深・指揮趙曦により川に突き落とされ溺死させられた。
- 都督同知許成の告発で真相が発覚するが、成祖は明言を避けつつも寧国公主の強い訴えにより譚深・趙曦を処刑、公主の二子に官職を与えて償いとした。梅殷の忠実な部下瓦剌灰は二人の遺体を切り刻んで梅殷の墓前に供え、自らも殉死した。
道衍の栄達と孤独
- 皇太子高熾が入京し、道衍(僧)は資善大夫・太子少師に任じられ厚遇される。しかし故郷長洲を訪ねた際、実の姉にも旧友の王賓にも拒絶され、還俗の勧めにも応じず僧衣のまま永楽十七年に没した(追封栄国公)。
鄭和の南洋派遣
- 建文帝の行方を探るため、成祖は宦官鄭和に大船団を与え南洋諸国へ派遣する(三保太監下西洋の由来)。
- 占城・三仏斉(旧港)などを歴訪。旧港では海賊陳祖義が朝貢を拒み反抗したため鄭和はこれを撃破し捕縛、住民に新たな島主を選ばせて朝貢国とした。
- 各地を歴訪して朝貢関係を結び、セイロン(錫蘭)では酋長亜列苦柰児の暗殺の企みを察知して撃退、生け捕りにして連行。スマトラ(蘇門答剌)でも内紛に介入し王を捕らえて新王を立てさせた。ルソン(呂宋)も朝貢を約した。
- 鄭和は七度にわたり南洋へ赴き、建文帝の行方は掴めなかったものの南洋諸国の朝貢と通商の発展をもたらした。
安南(ベトナム)の内乱と出兵
- 安南(旧交趾)では陳氏の王統が黎季犁(胡一元)によって簒奪され、陳氏を皆殺しにして新王朝(大虞)を樹立していた。
- 成祖は陳氏の生存者・陳天平を安南に送り復位させようとするが、胡氏の計略により護送軍が伏兵に遭い天平と薛嵓が殺害される。
- 激怒した成祖は成国公朱能らに命じ八十万の大軍を発して南征させることとなった。
評語
(本回に評語なし)