明史演義第二十六回 詔を草するを拒み忠臣惨戮さる/諷諫を善くし長子家を承く (拒草詔忠臣遭慘戮 善諷諫長子得承家)
燕王の即位
- 燕王棣は京入城後、抵抗した徐輝祖以外の文武百官の出迎えを受ける。周王・斉王と対面して涙を流し、群臣の勧進を再三固辞した末に受け入れ、奉天殿で皇帝に即位した。
建文帝の行方と論功
- 即位後、清宮三日を命じ多くの宮人・内侍を粛清。建文帝の所在を確かめられず、焼死した皇后馬氏の遺体を帝の遺体として天子の礼で葬った。
方孝孺の抗節と処刑
- 方孝孺は喪服のまま燕王の前に出て慟哭し、成王輔佐の周公に自らをなぞらえる燕王に対し「成王はどこにいるのか」「その子や弟を立てればよいではないか」と鋭く問い詰め、燕王を窮させる。
- 即位の詔の起草を求められた孝孺は筆を投げ捨て「燕賊篡位」の四字を書きつけて拒絶。燕王は激怒し、口を耳まで裂かせた上で獄に繋ぎ、九族と門人・友人(十族)合わせて八百七十三人を誅殺、最後に孝孺も聚宝門外で処刑された。孝孺は絶命の辞を残し、弟の孝友も同日処刑され、妻子も自害・入水した。
建文遺臣たちの粛清
- 齐泰・黄子澄は自白を拒み磔刑に処された。兵部尚書鉄鉉は耳鼻を削がれ抗弁を続けたまま凌遅に処され、遺体は油で煮られても抵抗の姿勢を崩さなかったという。
- 卓敬・練子寧・陳迪・暴昭・胡閏・姚善・茅大芳ら多数が拷問の末に処刑され三族を滅ぼされた。廖昇・王艮・王叔英ら自害した者も多い。左僉都御史景清は燕王暗殺を図って捕らえられ剥皮の刑に処され、九族を誅滅された(「瓜蔓抄」と呼ばれる連座の惨事)。
- 徐輝祖は燕王の義兄として誅殺を免れたが爵位を削られ私邸に幽閉。梅殷も京へ召還されたが冷遇された。
新体制の発足
- 燕王は建文の年号・政令を廃し旧制に復す。興宗(懿文太子)の子孫を庶人に落とし幽閉。建文帝の長子文奎は行方不明、次子文圭は幽閉された(建庶人)。建文四年を洪武三十五年と改め、翌年を永楽元年とする。
- 解縉・黄淮・胡広・楊栄・楊士奇・金幼孜らを内閣に入れる(内閣制度の始まり)。功臣に公・侯・伯の爵位を大量に授与。
- 周・斉・代・岷の四王を復位させ帰国させる。谷王橞は開門の功で長沙に封じられる。寧王権は約束された天下分割の恩賞を得られず不遇をかこつが、最終的に南昌に封じられ隠遁生活を送った。
徐皇后と立太子の駆け引き
- 皇后徐氏(徐達の娘)は賢明で成祖に助言を行い、政治の安定に寄与した。
- 世子高熾(后腹)と次子高煦の間で立太子の駆け引きが起こる。高煦は淇国公邱福・駙馬王寧を通じて成祖に立太子を働きかけるが、兵部尚書金忠は嫡子継承の原則を強く主張。
- 解縉は成祖に問われ「皇長子は仁孝であり天下の心を得ている」と述べ、さらに「好い聖孫(皇長孫瞻基)」を持ち出して成祖の心を動かす。瞻基誕生時の吉兆の逸話も語られる。
- 成祖が虎彪の絵に詩を求めた際、解縉は父子の情を詠んだ詩を献じ、成祖は感嘆した。
評語
(本回に評語なし)